二〇〇〇・秋冬乃章

   つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
   なにせ『徒然雑記』なのだから。


メモリ増設/'00.9

 ひさびさにパソコンに金をつぎ込んだ。と言っても、4万弱でメモリを買い足しただけの話だ。それでも最近の私にすれば結構な買い物だった。前回がいつだったかはっきり記憶にないが、確か1年以上前に交換したマザーボード「G3ドーターカード」(高速プロセッサ)以来だと思う。
 欲望のおもむくまま、パソコンに湯水のように金を注ぎ込む趣味は私にはない。おかげでこれまで買ったパソコン関連品に「外れ」はあまりないが、唯一の例外はデジカメである。
「リアルタイムでホームページに画像を掲載」の誘惑にかられて数年前に3万くらいの安物を買ったが、画質の悪さと電池の消耗の激しさに嫌気がさし、たいして使わぬまま、引き出しの奥に眠っている。そもそも、私のホームページにリアルタイムの画像などたいして必要ではなく、画質の良さと保存整理のしやすさから考え、画像はその後一眼レフカメラ+スキャナーで一切をまかなっている。

 話を戻す。メモリは都合272Mに増強されたのだが、どの容量のメモリを買うかで、結構迷った。私のマシンには計8ケ所のメモリスロットがあり、最大64M×8=512Mまで増設可能、と説明書にはある。最近ちまたに出回っている128Mのメモリに関しては、「動作の保障はいたしません」とつれない。ならば素直に64Mを2枚買うとしよう。

 ところが、インターネットでいろいろ調べてみると、64Mのメモリはどの店も高い。理由は不明だが、ここ数カ月で急に値上がりしたらしい。それに比べて128Mは1万近くも安い。さて、どうしたものか…。
 困ったときのPさん頼み。パソコン通信で知り合い、10年来のつき合いのある大先輩のPさんに教えを請うた。すると、「128MはWindowsではもう当たり前だよ。Macでも問題ないでしょ」との返事。説明書自体が古いのかもしれず、この一言で買うふんぎりはついた。
 買った先はまたしてもインターネットサイト。春先に買った最新一眼レフカメラのときもそうだったけれど、市内にあるポイント還元の量販店と比較しても、インターネットショップのほうがはるかに安い。もちろん、送料手数料を含めてもだ。インターネットおそるべし。「やってて得したインターネット!」である。

 こうしてクロネコヤマトの代金引き換え便と共に、メモリは我が家にめでたくやってきた。マシンの蓋を開けてメモリをシャカシャカ装填し、さっそく試してみる。そもそもメモリを増やした理由は、大きな3D-CGの仕事が立て続けに入り、何時間ものんびりとマシンに計算させておく余裕がなくなったせいである。
 前述のPさんから以前、「パソコンに金を使うなら、マザーボード、メモリ、ハードディスク、周辺機器の順番だよ。それが一番マシンの理にかなってる」と聞いていた。メモリを増やせば計算時のデータやり取りに要する時間が格段に短くなり、同じお金なら、最も効果が出るという。

 さっそく以前に作ったデータで試してみる。こんなこともあろうかと、3D-CGの計算時間はその都度記録してあった。すると、以前は50分だったデータが、なんとたったの20分で終了してしまったではないか。60%もの時間短縮だ。こいつは大きい!
 マザーボードを交換したときは約40%前後の短縮だったから、こと3D-CGの計算に関すれば、メモリ増設の効果は絶大と言える。このほか、 画像ソフトでさまざまな処理をする時間も目に見えて短くなった。マザーボード交換のときは、ファイルを開く時間、コピーの時間などのOS全般に関する速度が一段と速くなった気がしたが、メモリ増設にはまた違った効果があるのだ。

 おかげで仕事はてきぱきと片づいた。私の3D-CGには、「ドングル」(どんぐりじゃないよ)というハードプロテクトキーがついていて、コピーはおろか、たとえ自前のパソコンでも2台同時には使えない仕組みになっている。メモリ増設がもたらした計算時間の短縮は、そんな私の強力な助っ人になったのだ。




60億の宇宙/'00.9



 ブタは自分がブタであることをきっと知らない。動物の中ではかしこいと言われているイルカだって、自分がイルカだとはおそらく認識していないだろうし、チンパンジーもしかり。 自分が人間であることを知っているのは、たぶん人間だけなのだろう。これって結構すごいことだと思う。
「自我のめざめ」とか、「物心がつく」とかいう言い回しがあるけれど、これって結局「自分が自分であること」を認識することなんだと思う。グズグズの赤ん坊や駄々っ子が、ある日突然「自分は人間なんだ」と理解する。そのときやっとヒトは人間になれるんだろう。

 宇宙の話が大好きな娘が家にいたころ、家族が寝静まった夜ふけによくこんなことを話した。

「地球に人間がもし存在しなかったら、地球は存在しないと同じだ。なぜなら、誰もこの世界を認識出来ないんだからね」

 なんだか話が禅問答じみてくるけど、そういうこと。つまり、この地球に生を受けた人間ひとりひとりに自分だけの宇宙があり、物理的な意味でのひとつの宇宙を共有してるってことを言いたいのだ。それを壊す権利は誰にもなく、互いに尊重しなくちゃいけない。実はそこんところがよく分かっていない輩が世界中にはびこっていて、世の中がどんどん生きにくくなっている。
「なぜ人を殺しちゃいけなんですか?」と真顔で尋ねる若者と、それに即答出来ない大人が世間を賑わし、テレビで特集を組んだり、挙げ句には本まで出したりしている摩訶不思議な世の中だ。

 こうしてキーボードを叩いている私にも、もちろん私だけのかけがいのない宇宙がある。これを読んでくださっている幾人かの人にもそれぞれの宇宙があり、こんな文章を読んで「うん、そうそう」とひどく共感してくれたり、「何だか訳わかんないこと書いてんの」と読み飛ばしてみたり、「な〜にをエラそうに」と反発を覚えたりしている。
 まあ、それぞれに受け取りかたは違ってきて当然なわけで、それはその人それぞれが固有の宇宙を保有している証しに他ならない。

 寺山修司という詩人がむかしいて、芝居の演出をやったり、映画を作ったり、多彩な活動をしていた。その人の作った映画でタイトルは忘れたが、街を歩くごく普通の日本人に20種類くらいの同じ質問を次々と浴びせかけるという、不思議な内容のものがあった。それを答える人々の表情やしぐさをカメラが淡々ととらえる。ただそれだけの映画なんだけれど、なかなか面白く観た。
 途中の質問の内容は、実はあまり記憶にない。鮮明に記憶に残っているのは、最後の質問だ。

「あなたは誰ですか?」

 それまで比較的よどみなく質問に答えていた人も、一様にここでつまる。答えられないのか、気のきいた答えを探していてそれが考えつかないのか、はたまた予想もつかぬカウンター攻撃に、ただただ狼狽えているだけなのか…?
 う〜ん、と考え込んだままの人、へらへら笑ってなんとかごまかそうとする人、「誰って聞かれたって」と憤慨する人…、日本人のアイデンテティのなさを象徴するような場面で、30年くらい前に作られた映画ではあるけれど、いまのさまよえる日本の姿を見事に暗示している光景のように私には思える。

 そんななか、ある一人の少女が「私は……です」と、まっすぐな眼できっぱりと言い切ったシーンが、これまた鮮明に記憶に残っている。あくまで映画なので、どこまでが演出でどこまでが真実なのかは分からない。だがもし仮に若き日の私が、街で不意にこの質問を浴びせかけられたとしたら、どうしただろう。他の大多数の人と同じ様に、答えに窮して立ちつくしていただけなのではないか。
 おそらく彼女(あくまで劇中の彼女)は若くして自分の宇宙を認識していたはずで、それはとりも直さず他の宇宙の存在をも認めていたことにもつながる。

 映画のなかの彼女のイメージは長く私の心に留まっていて、その後書いたいくつかの小説の中で、人物描写に使わせていただいた。
 どんなにひどい世の中になっても、物事の道理を分かっている人はあるパーセンテイジで必ずいるわけで、おそらくいまの若い人のなかにも、固有の宇宙を認識している人はちゃんといる。だからこの世はまだまだ捨てたものじゃなく、そう思い続けている間は、私はこうして宇宙の闇に向かって言葉をなげかけることをきっとやめないだろう。




DIY出版/'00.10



 例によって事は降って湧いたように持ち上がった。
 以前にも書いたように、このホームページに掲載し、ちょっとした賞をいただいた「親馬鹿サッカー奮戦記」の雑誌での連載が十月で終わり、「連載が終わったら雑誌のコピーを送ってね」という何人かの親戚縁者の声に、いよいよ応えなくてはいけなくなった。

 毎号出版社から送られてきた掲載雑誌計8冊分をめくり、数えてみると、これが結構馬鹿にならないページ数。優に80ページは下らない。そりゃそうだ、何せ原稿用紙換算、360枚余の力作なのである。
 スキャナーとプリンターを駆使した安価なコピーを生み出す術を会得したせいで、単価の高い仕事用のコピーは処分したばかり。コンビニのコピーを独占してコピーしまくったとしても、ひとりに対して1000円近い出費と、それに要する時間と労力がいかにも惜しい。何とかもっと合理的に片づける方法はないか…。
「いっそ自費出版してはいかがですか?」という友人知人の声は今回に限らず、かねてから数多くあった。100枚の小説でハードカバー500冊で30万強、と頼みもしないのに見積までしてくれた人もいる。試しにインターネットで検索してみると、350枚の原稿量なら、100万は下らないことが判明。以前に何通か送られてきた印刷会社のDMを再度調べ直してみても、同じ様な数字だった。貧乏自由業者にとっては、途方もない数字である。自費で本を出すということは、しょせん金持ちの道楽なのか?

 出版に関しては、過去に幾度も話があり、その都度喜んだり、悲しんだりさせられた。金儲け第一主義の商業出版は私の文章にはそぐわないことを、すでに思い知らされている。インターネットでは多くの反響と実績を積み重ねてはいたが、やはり自分の文章を一冊の本にして世に出すということは、積年の夢である。くやしいが、本という形にして初めて世間から相手にされる場合があるということも、厳しい現実なのだった。
 自費出版には金の問題以外に、最低500部発行という重い足かせがある。友人知人、インターネットなどの広報活動を駆使してみたところで、自分の本がそこまで売れるとはとても思えない。売れない大量の在庫を、枕代わりに抱えて寝るのはまっぴらだ。
 考えあぐねているうち、二男が関係しているアニメ同人誌のことが閃いた。部数は少なくとも、安価でそれなりのアニメ冊子を作ってくれる業者があるという。確かめると、50部くらいでも請け負ってくれるらしい。サンプルを見せてもらうと、製本自体はしっかりしている。これを何とか小説にも応用出来ないだろうか…?

 文章はすでにテキスト化されているわけだから、仮に校正、レイアウト、印刷までを自分でやってしまい、製本だけを外注するシステムなら、かなり安く出来上がることは間違いない。以前に名刺を何度か頼んだことのある印刷屋に相談してみると、製本だけなら少部数でも1冊200円前後で請け負ってくれるという。願ってもない話だ。
 この時点で、レイアウトは手持ちのパソコンソフトでやり、印刷は数年前に買った版下作成にも耐え得る、高解像度の自前プリンタで賄うことを決意。作業の大半を自力でやるわけだから、自費出版ならぬいわば「DIY出版」である。「やれることは何でも自分でやってしまう」といういまの自分の生き方にも叶う選択だった。話はここからトントン進み出す。




自分でDTP/'00.10



 DIY出版に関しての難問はいろいろとあったが、最大の問題はページだてをどうするかだった。話が専門的になるが、普通の出版界では新聞紙のように1枚の紙に片面2ページ、両側で4ページ分印刷する。それを二つ折りにして断裁し、製本するのだ。(B6サイズの本の場合、B5版の紙の両面を使う)
 ところがこのやり方だと、片面の左側に1ページ、右隣には4ページ。裏面の左側に3ページ、左隣には2ページという具合に変則的にレイアウトしなくてはならず、作業が非常に複雑になる。手持ちのDTPソフトには単純な片面印刷のほか、見開きと袋綴じのレイアウトがあるだけで、こうした特殊なもの(専門用語で「折丁」というらしい)は存在しなかった。
 さて困った。いろいろな資料を調べた結果、本はB6サイズで作ろうと決めていたから、B5版の紙に印刷出来れば、作業効率は確かにいい。だが、新たに高価な専用ソフトを買う気にはなれない。ならば手間は食っても、B6版の紙に一枚一枚根気よく両面印刷するしかない。
 こう決めると、さっそく手持ちのDTPソフト(ちなみに、MACを買ったときにバンドルされていたもので、タダである)でのレイアウトに、さっそく取りかかった。

 片面のレイアウトで裏表の区別なく使うには、上下左右の空きマージン、ページ番号の割り付けなど、すべてを左右均等にレイアウトする必要がある。活字をごく一般的な本明朝、9ポイント(1ポイントは0.35ミリなので、3.15ミリ)とし、縦40文字×17行=680文字を1ページとした。原稿量360枚×400文字÷680文字=212ページ、これが理論上の総ページ数だが、見出しやカット写真、イラストなどを考慮し、10ページ増やして222ページを取り合えずの総ページ数と決める。
 あれこれ設定し終え、試しに何枚か印刷してみると、実にうまく収まる。手持ちのプリンタは「熱転写方式」という特殊なもので、(アルプス社製)インクジェット式よりはるかに鮮明で水にも強い。上質紙を使えば、市販の本と遜色ない出来映えだ。予想を越える出来映えに、たちまち私は有頂天になった。

 カット写真はアルバムを繰って適当なものをいくつかピックアップ。スキャナーで取り込み、解像度を印刷用に設定し、(ちなみに360dpiである)章の変わり目などに貼りつける。手持ちのソフトは無料の割には機能が優れていて、文章のレイアウトとは全く独立して、写真やカットの貼り込みが出来た。
 同時に、文章の校正にとりかかる。受賞時に審査委員の諸先生方に指摘されていた問題点の多くを、ここで一気に修正することにした。具体的に言えば、「筆者の仕事を具体的に」「筆者の住まいとチームの所在を明確に」「体言どめを多用しない」「ストーリーにあまり関係のない部分を取る」など、言われてみればノンフィクション小説として、いちいち最もなことばかりである。
 誤字脱字のたぐいのチェック、文頭に「。」や「っ」がきてはいけない、などの基本的なことのほか、本としての体裁を保つため、表現の統一を計る。これが結構大変で、ある箇所で「第一試合」と書いておいて、別の場所で「第1試合」と書いてはまずいのである。もちろん、「じょじょに」と「徐々に」を混在させてもいけない。こうしたことを勘だけに頼って進めることは、360枚もの原稿量だと不可能に近い。私の場合、ひとつ引っかかり項目が見つかると、全文を検索ソフトにかけ、漏れがないように厳重チェックした。
 出版を外注した場合、この種のことはすべて責任を持ってやってくれるのかどうか分からないが、どっちにしても本を作るということは、並大抵の作業ではないことを、身に染みて思い知らされた。

 度重なる校正作業の合間に、紙の調達にかかる。紙は直接紙屋で買うのが格安と印刷屋教えられていたので、ハローページを繰ってそれらしき紙屋を探す。
 めざす紙屋に電話を入れ、事情を話すと、書籍用紙という本専門の用紙があるという。厚さは70Kg(約0.1ミリ)、色は単なる上質紙と異なり、目にやさしいクリーム色である。B5版で最低販売枚数が4000枚、半分に断裁すればB6版になり、断裁は無料。紙代はすべてこみで、5000円弱と格安だった。書籍用紙は上質紙を上回る紙質だから、手持ちのプリンタでの両面印刷にも、もちろん耐え得る。
 第1刷の発行部数は、上記書籍用紙の最少販売数から逆算して、50部前後と決めていた。結局これを4000枚(B6版で8000枚)買うことに決め、ついでに表紙用の厚い紙(プリンタの関係で、150Kg、約0.2ミリ)を70枚買う。家に持ち帰り、さっそくテスト印刷してみると、期待通りの素晴らしい仕上がりだった。

 一方、校正作業では困った問題が起きていた。数字に関しては縦書きの文なので基本的に漢数字を使うつもりでいたが、ストーリーの展開上、どうしても算用数字を使いたい箇所があった。ゴールの数、試合の経過時間、背番号などがそれである。一けたの数字ならば縦書きでもぴたりとはまる。問題は二けたの数字だった。「15分」を強引に1と5に上下分離させて書いてしまってもいいが、やはり半角文字で横に小さく並べたい。ところが、手持ちのソフトでは半角文字は横向きに90度回転して表示されてしまうのだ。
 いろいろ試してみても、どうにもうまくいかない。市販の本の場合、もちろん横にぴたりと2文字収まっている。困り果てているとき、文字を画像として扱ってやればいいのではないか?と思いついた。
 さっそく試してみると、これまた見事に収まる。本来の文章のところには空白を埋めておき、画像に変換した半角2文字をそこに置けばいいのだ。やった!調子に乗って、同じ要領で難しい漢字に、ルビまでふってしまう。




家庭内印刷所/'00.10



 校正の目途がついたので、今度は1冊あたりの価格の詰めに入る。試算によれば、価格に最も大きな比重を占めるのは、プリンタリボンになりそうだった。過去の大量印刷の経験から、手持ちのプリンタのインクリボンでは、おおおよそ1本強で1冊の印刷が出来るはずだった。
 製本は外注と決めていたので、本文と表紙のサンプルを持ち、再度なじみの印刷屋に相談に行く。ここで本文と表紙の具体的な納め方を打ち合わせる。並べ替えはこちらで完全に済ませておくこと、納める数はロスを見込み、最終部数の1割増しとすること、(つまり、50部なら55部納める)製本は予算の関係でソフトカバーの並製本とすることなどを決める。見積は60部として、総額9000円(つまり、1冊150円)と出た。

 校正作業がほぼ終わり、本文では唯一残っていたカットは娘に描いてもらうことにし、いよいよ本文の印刷にかかった。すると、思っていたよりインクリボンの消耗が激しい。1ページあたりのテキスト量にもよるが、1本でおおよそ130ページ前後しか印刷出来ないことが分かった。
 この時点で発行部数は60部に最終決定していたので、ロス分をみて65部印刷。最終ページ数は中表紙と奥付を含めて、226ページになっていたから、65×226÷130=113本ものインクリボンが必要だった。総額4万を軽く越えてしまう。これは計算外だ!
 インクジェットプリンタはインクが4割ほど安いが品質が明らかに落ちるし、レーザープリンタはインクが安くて品質もいいが、プリンタ本体を新たに買い直さなくてはならない。結局、価格アップには目をつぶり、高品質を維持出来る手持ちのプリンタで作業を進めることにした。

 同時に、表紙カバーのデザインに取りかかる。(11月中の発行を目指しているので、複数の作業が同時進行している)ホームページで連載が始まったのだし、レイアウトもパソコンでやるのだから、それにふさわしい新しいデザインのものにしたい。だからといって味気ないものでも嫌なので、色紙を手でちぎってイラストにし、(いわゆるちぎり絵)スキャナーで取り込んで貼りつける。
 全体の装丁はホームページのデザインのいくつかを応用し、色づかいなども明るくて楽しいものにした。こうして出来上がったサンプルを、仕事用に買ったフォト専用のプリンタでテスト印刷してみると、これまた予想を超える出来映え。喜んで見せて回ると、家族にも大好評だった。

 そしていま私のかたわらでは、朝8時から深夜まで延々とプリンタが動き続けている。印刷を開始してからはや6日目になるが、ようやく全体の4割が終わったばかり。私の家庭内印刷機では、1日延べ1000ページを印刷するのが限界のようである。プリンタにパソコンを独占されては仕事にならないので、「バックグランド印刷」という設定をオンにし、プリンタを働かせつつ、テキストを打ったり、インターネットに接続したりしている。どうやらこの調子では、発行は11月末ぎりぎりまでずれこみそうな気配だ。
 注目の価格は、いまのところ以下のような状況である。(税込み)

●紙代:11,500円(本文、表紙、表紙カバー)
●インク代:45,000円(本文、カバー分)
●製本代:9,500円

 総額では66,000円となり、発行部数の60冊で割ると、1冊1,100円が原価となる。こうして考えると、ずいぶん高くなったと思っていた市販の本の単価は、まあ妥当なところなのだな、と作業をしてみてつくづく思い知らされた。
 すったもんだのすえ、ともかくもこうして念願の本は出来上がる。こつこつ自分でやれば、それほどの投資をせずとも、なんとか本を出版出来ることが分かったことは大きな収穫だ。今回の行動で、「出版社が相手にしてくれない」「金がない」などの理由で出版を断念せざるを得ないいまの日本の現状に、ひとつの風穴を開けることが出来れば、と強く願っている。この調子で、年に1冊ずつでも本を出すことが出来れば最高だ。
 それにしても気がかりなのは、月末まで我がプリンタが壊れずに働き続けてくれるかどうかである…。




縁の切れ目/'01.1



 不意に年賀状のやり取りが途絶えてしまう相手がいる。こちらが出した賀状に返事がこなくなる場合が多いが、相手の賀状に返事を出しそびれてそのままになってしまうこともある。ごくまれには、同時に出さなくなってしまうこともあったりする。
 私の出す、あるいは受け取る年賀状の数はそれほど多くない。年によってこうした出入りはあるにしても、おおよそ年令プラス20枚前後だろうか。受け取る賀状や名刺の数で貸す金の額を決めるというサラ金があるという話をどこかで聞いた。IT社会などといっても、現代人にとって受け取る年賀状の数は、まだまだある種のステイタスでもあるらしい。

 話を戻すが、年賀状の途絶える相手には、いくつかの予兆らしきものがある。おおよそ、以下の順にそれはやってくる。

1)年賀状が外注印刷になる。
2)宛名書きがワープロ印刷のたぐいになる。
3)年賀状に添え書きがなくなる。
4)年賀状の宛名書きが本人ではなくなる。(信じがたいが、顔も知らない奥さんなどの字)

 そして、途絶えるきっかけは、喪中欠礼や転居などのことが多い。これは前年度の賀状だけを頼りに賀状を出しているツケ、そして賀状整理における住所録の更新を怠っているツケである。
 先の予兆にも言えることだが、要は賀状に対するズボラさがそうさせるのであり、とりもなおさずそれは、人間関係における怠慢さにもつながる。縁の切れ目は決して偶然ではなく、実は必然でもあるのだ。

 大学を卒業して28年にもなると、少しずつこんなふうに縁の切れてゆく友人、知人がいる。人も人生も決して一所には留まらず、絶えず流れてゆくものだ、というのがかねてからの私の持論であるから、不意に関係が途絶えたとしてもそれほど驚いたり、慌てふためいたりはしない。
 結局人はそのときそのとき、いろいろな意味での「縁」のある人たちと関わりを持って生きてゆくのだろう。以前にも書いたが、それは「血縁」だったり、「地縁」だったり、「知縁」だったりする。かっては意気投合し、深いつながりがあった友といえども、すでにこうした縁のすべてが切れてしまったなら、良好な関係を継続することはもはや困難である。

 ところで、30年以上前に知り合った仲でも、いまだに細々と関係が続いている貴重な間柄も少なくない。いろいろ思い返してみると、人生における価値観、生活感がどこか似通っていて、同志的な友情、心情で深く結ばれている相手とは、容易に関係が切れない。こういう相手を、「生涯の友」というのだろう。
 対して、価値観や生活感がどこかずれている相手、そして何らかの利害関係や打算で結びついている相手、有り体に言えば、「この人とつきあっていると得をする」とどちらか片方、あるいは両方が思っている相手との関係は、いつしか必ず縁が切れる。人生は思いのほか、正直なものなのだ。




爆弾マック/'01.1



 我が愛機、マックがいきなり爆発した。「縁の切れ目」とは違い、何の前触れもなしにそれはいきなりやってきた。
 正月も開けてぼちぼち確定申告の準備でも…、などと考えていたある日のこと。いつものようにパソコンのスイッチを入れたところ、一向に起動しない。モニタを見ると、何やら見なれない爆弾マークが出ている。
「メモリが足りないので起動出来ない」などと、意味不明のメッセージがそこには書かれていた。
 何だよ、メモリならつい半年前に増強したばかりじゃないか。そもそも、何もソフトを動かしてないのに、メモリ不足とはふとどきな…。そんな軽い気持ちで再起動をかけた。いつもなら、たいていのトラブルはこれで解決する。少なくとも起動しないなんてことはないはずだった。ところが…。
 この日に限って、待てど暮らせどマックの画面はスタート時点で凍りついたまま、動こうとしない。何度再起動をかけても、それは同じだった。こいつは一大事だ!

 待っていてもらちが明かないので、仕方なく凍ったままのマックのCDケースのボタンを押してみた。すると、なんとか作動する。しめた、と思ってシステム用のCDを入れ、CDからの強制起動を試みた。これもなんとか成功した。次に、システムCDに入っていた修復ツールでハードディスクを検証してみた。やはりどこかがおかしいらしい。
(これは最悪、ハードディスクの初期化かな…)
 過去のさまざまな経験から、この時点でそう覚悟した。虫が知らせたのか、幸い多くのファイルは暮れにバックアップがとってあった。だが、メールや仕事の台帳などのいくつかはそのままだった。システムCDからの起動ではMOは使えないので、やむを得ずバックアップ媒体として唯一作動するFD(フロッピー)にそれらを移す。

 こうして準備は整った。万事これで解決である。私はそう信じて疑わなかった。これまで初期化して解決しなかったハードディスクのトラブルはない。ところが初期化を終え、夕方近くまでかかってすべてのファイルを元に戻し、溜っていたメールをチェックし、通常の業務にようやく戻りかけたころ、またまた愛機の状態がおかしくなってきた。10ポイントの活字の一部が、なぜか文字化けして読めないのである。
 この時点ではまだマックはフリーズしていないので、修復ツールで直接ハードディスクを検証してみた。特に異常は認められない。ふに落ちないので、再びシステムCDから起動をかけてみる。すると、とんでもないメッセージがそこに現れた。

「このハードディスクは読み込めません。初期化しますか?」

 たったいま初期化したばかりのハードディスクが、またまた初期化である。すべてのファイルはMOにバックアップしてあったから、特に支障はなかったが、どうにも嫌な予感がした。
(もしかすると、ついにハードディスクの寿命とやらがきたのではないか…?)
 ここから約一週間にわたる苦闘が始まった。あるときは内蔵バッテリーの寿命を疑い、あるときは増設したばかりのメモリを疑ってみたりして、考えられるありとあらゆる対策を試みた。しかし、愛機の寿命はもっても二日までだった。初期化が私の日課になり、書き換えが必要なすべてのファイルは、ハードディスクに依存しないMOからの直接起動を余儀なくされた。

 追い込まれた私は、なじみのパソコンショップに相談をもちかけた。すると、やはりハードディスクの寿命が疑わしいという。さもなければロジックボードがやられている可能性もあるとか。悪いことに、使っているマックのハードディスクの汎用品はすでに生産が打ち切りで、純正のものだと診断だけで7000円、交換になると6〜7万、ロジックボード交換になると10万近くという、とんでもない話になった。
 ここからさらに数日間、私は悩みに悩んだ。パソコンがなければ仕事も小説も何も始まらない。しかし、いざ買い替えとなると、先立つものがない。家は建てたばかりだし、息子二人はまだ大学生である。
 困り果てて、友人のPさんに相談した。すると、壊れたマックでも下取りしてくれはずだよ、とPさんは言う。だいいち、マックがなきゃTOMさん困るでしょ、とPさんは私の心を見透かすように言った。その通りである。この一言で私はマックの買い替えを決意した。 




愛CUBE登場/'01.1



 新たなるターゲットは「Power Mac G4 Cube」である。450MHz、G4高速プロセッサを持つ最新のその性能もさることながら、いままでのパソコンの概念を打ち砕いた立方体の斬新なデザインに、以前から魅せられていた。「Cube」という名も、私がデザインして建てたばかりの家、「TOM-CUBE」と偶然だが同じである。
 まるでこんなことを予期していたかのように、所属しているパソコン同人誌の新年号特集、「いま一番欲しいもの」の回答に、「必要ないんだけど、デザインだけでMac G4 Cubeが単純に欲しい!」なんて書いてしまっている。ひょっとすると、これで我が愛しのマック君がへそを曲げてしまったのか?仕事やら小説やらで連日コキ使い、都合百万以上もの金を稼ぎだしてくれたマックに、冷たい仕打ちをした罰が当たってしまったのだろうか?

 パソコンに限らず、車や耐久消費材などでも、こうした「機械がへそを曲げてしまう」たぐいの話はよく聞く。おそらくは買い替えの時期と寿命とが、たまたま一致しただけなのだろうが、人間の愛着心や感傷がそんなふうに思わせるのだろう。しかし、いまの私に感傷に浸る暇などない。一円でも安く、合理的に新しいマックを手に入れなくてはならぬ。
 Pさんの忠告に従い、なじみのパソコンショップに再び電話を入れ、本当に壊れたパソコンでも下取りしてくれるのかを確認してみた。すると、本体は8000円だが、増設したメモリは品薄のせいで、かなり高く引き取ってくれるという。128Mのメモリは買った価格の約半分で1万5千円、3年前に買った64Mのメモリにいたっては、買った値段よりも値段が上がっているではないか!
 それやこれやで、下取り価格の合計は予想をはるかに超えて約5万円。対する「Power Mac G4 Cube」の価格は16万8千円である。これに128Mのメモリを約1万円で増設し、SCSI接続でしか使えない古い周辺機器を活かすべく、変換ケーブルを2本購入。差引きの負担額は約15万円となった。3年前のパソコン買い替え時の総投資額約25万円に比べると、かなり割安感はある。これを24回の分割払いにして、月々の支払いが7100円。こうしてようやく「愛CUBE」は、我が物となった。
 家計の窮地を察した妻から、「来月から生活費(毎月妻に渡す金)を5千円減らしていいわよ」とうれしい申し出。ありがたく好意に甘えることにする。つましい話だが、これが我が家の現状なのだ。私大に通う長男が卒業する来年まで、あと一年の辛抱である。

 ところで、新しいマシン「愛CUBE」の性能だが、とにかく「すごい!」の一言につきる。起動時間、ソフトの立ち上がりなど、どれをとっても以前とは格段の速さ。動画や音楽の再生にも、全くストレスを感じさせない。3年もたつとパソコンの性能もこれほど進化するものなのかと、ただ驚くばかりである。
「愛CUBE」には、他にもいくつかの驚きがあった。まず、省エネを第一に考えて設計されているため、ハードディスク用の冷却ファンがなく、そのせいでほとんど音がしない。消費電力も極端に少ない。ちなみに、熱は上部全体に大きく設けられたガラリから、自然対流で外に放出される。「パッシブ換気」という自然の温度差で家全体を換気させている我がエコロジーハウス「TOM-CUBE」と、これまた全く同じコンセプトなのである。
 次に驚かされたのは、そのサイバーな造りである。それまでのような起動ボタンがどこにもない。起動は本体上部にプリントされたマークに、ただ軽く「触れる」だけなのだ。すると内部にほんのりと白いライトが点り、即座に起動する仕掛けになっている。スケルトンなマウスがまたすごい。ただ透けているだけなら驚かないが、起動するとこれまた中にほんのり赤いライトが点灯する。そしてこのライトの明るさが、マウスの操作に応じて微妙に変化するのだ。
 闇の中で脈づく、近未来を予感させる赤と白の怪しい光り。その性能の素晴らしさと相まって、当分はこの「愛CUBE」に魅せられそうである。