一九九九・秋冬乃章

   つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
   なにせ『徒然雑記』なのだから。


燃 費/'99.9

 どうやら私は燃費がいいらしい。ガリガリにやせていて、あまり食費がかからない(食わない)割には、結構稼ぐ(働く)らしいのだ。
 車の燃費は1リットルで何キロ走るかが問題になるが、人間の燃費ならば、おそらく以下のような式で算出出来るだろう。

●燃費=その人の年収(または年収換算費)÷その人の体重(単位:万円/Kg)

 たとえば体重65Kgのお父さんが、年収500万を稼ぎ出すとすると、500÷65=7.69となり、体重50Kgのお母さんがパートで年間100万円稼ぎ、主婦としての収入換算をたとえば年間240万とすると、340÷50 =6.8となる。つまり、数値が大きいほど燃費がいいことになる。
 日本の平均的な勤労世帯の収入と成人の平均体重などから推測すると、男性でおおよそ7〜8、女性でおおよそ6〜7くらいの値になるはずである。もしこれよりも大きく数値が下がる場合、食う割には、稼がないということになる。ズバリ数字が5以下の場合、もしかするとあなたは「無駄飯ぐらいの大食漢」かもしれない。

 たわむれに、我が家の各人の燃費を試算してみた。

●父(つまり、私)=6〜12
 体重は55〜56Kgとほぼ一定だが、年によって収入が激しく変動するため、これだけの幅がある。しかし、どんなに不況でも、5を下回ったことはない。
 私は家事を結構こなすため、年間60万円を収入に換算している。

●母(つまり、妻)=5.2前後
 きわどいが、なんとか5以上を確保している。家事の収入換算を年間240万円として試算。もしパート収入がなければ、あるいは体重があと3Kg増えると、完全に5を下回る。結構危ない状態なのである。

●長男(大学生)=0.9前後
 学生の場合は基本的にすねかじりの身が多いので、あまり数字は参考にならないが、同じ条件の学生同志で比べてみると、その差ははっきりと出る。長男の場合、1近い数値は立派。週4回のコンビニでのバイトがきいている。

●次男(大学生)=0.1前後
 問題なのはこの男だ。体重はたいしてないが、とにかく働かない。たとえ学生でも、0.1以下の数値は論外だろう。通学に少し慣れてきた秋以降に期待するか。

 食ったその分、稼げる人は多少太っていても許されるかもしれないが、 過食は老化を促進するという有力な説がある。「働かざるもの、食うべからず」という古いことわざもある。人口激増で、やがて地球には食糧難時代がやってくる。人間、燃費は低いにこしたことはない。いやいや、それでは生ぬるい。各自切磋琢磨して、低燃費の維持に努める。それは現代人の急務なのである。




現場再び/'99.9



 久々に現場に燃えている。前々回に書いた自宅「TOM-CUBE」が、いよいよ着工となったのだ。ついこの前まで久方振りの住宅設計でウンウン唸っていた人口保育器のような環境の机上から、ときには炎天下、ときには激しい風雨が吹きつける過酷な現場仕事へ180度の華麗な転身だ。
 数えてみると、現場仕事は22年ぶりである。机上の仕事はこれまで建築パースとして営々とやってきたから、それが設計に変わったとしても、それほどのとまどいはない。だが、現場仕事となるとそうは行かぬ。

 業者から「明日、位置決めの測量をやるので、立ち会って欲しい」と連絡のあった日、古き昔を思い出しつつ、動きやすいシャツとズボン、歩きやすい靴、現場ノートと鉛筆、スケール、電卓、携帯電話、軍手、帽子、雨ガッパ、工程写真用カメラ一式、そして設計図面ファイル一式などなど、家中からかき集めた雑多な「現場グッズ」を専用の鞄に整然と詰め込む。準備おさおさ怠りなし、というやつだ。
 あわただしく動き回りながらも、気分は結構浮き浮きと高ぶっていたりする。これじゃまるで遠足前の小学生じゃないか。

 前の会社にいたとき、現場と内勤(設計)の仕事比は、ほぼ半々だった。設計にちょうど飽きてきたころ現場の辞令が、現場に飽きてきたころには程よく設計の辞令が、という具合に、実に都合のいいバランスで配属されていた。
 当時の現場勤務のときにも、同じようにさまざまな自分なりの現場備品を詰め込んだ専用の鞄を用意し、備えていた。当時鞄の中になかったのが携帯電話、当時あっていまはないのがヘルメットである。
 どっちにしても、今回のような長い現場のブランクは初めての経験だ。果たして事がうまく運ぶのか、一抹の不安があった。

 現場に行ってみて驚いた。一昔まえとは比べ物にならないほど工程管理は合理化されていた。さまざまな測量機械、重機類など、22年の間に工事現場にもOA化の波は押し寄せていたのだ。
 たとえば水平を出す「レベル」という機械は、私が使っていたのは望遠鏡の親類のようなアナログ機だった。スケール棒を抱えた助手と、常に二人一組で作業しなくてはならなかった。ところが、いまやレーザー光線とセンサーを使った超デジタル機器が現場を席巻している。センサーをキャッチする棒を持っていれば、水平が出た時点で機械が「ピピピー」と教えてくれるので、作業も一人で簡単に出来る。
 コンクリートを打ち込む「ポンプ車」という機械も、アームはすべてオペレーターの持つ無線リモコンで操作されていた。これまた作業員は一人である。一時が万事この調子で、デジタルには明るいつもりでいた私でも、相当のとまどいがあった。
 しかし、案ずるより生むが易し。機器類は限りなく合理化されていても、現場特有の空気、息遣いのようなものは昔と同じ。全く変わっていなかったのだ。私はすぐに昔の勘を取り戻した。

 私は昔から監督然としてふんぞりかえっているのが大嫌いだった。工事に何か不都合があった場合、「ここをこう直してよ」と業者に指示を出し、それをあとでチェックするのが本来の現場監督の仕事である。監督が直接手を出すことはない。
 ところが私の場合、やり方が全然違っていて、業者に指示を出すのは余程手に負えない場合だけ。小さな修正はほとんど自分でやってしまう。そうした作業を自分でやるのがとても好きなのである。そのため、現場事務所には鉄筋をしばる道具だとか、釘やハンマー、それらを入れる道具袋に至るまで、様々な道具を常に用意してあった。
 当時、腰に道具袋をしばりつけ、作業服を着て足場を駆け上る私の姿を見て職人たちは、
「ここの監督さんは職人みたいだな」と、半分呆れ顔で言った。

 このことで私が損をしたことは一度もない。むしろその逆だった。
「自らの手で工事の不備を直してまわる責任感の強い監督さん」と施主からは感謝され、現場の職人たちは「俺たちをあごで使うんじゃなく、自分で何でもやってしまう変な監督さん」と、ある種の親しみと信頼とで接してくれた。
 結果として現場は手抜き工事などには無縁だったし、この世界でよくある「職人からの意地悪」をされた経験もない。

 こうした私の現場監理のやり方を、批判的に言う意見もときにはあった。だが、私は会社を辞めるまで自分流で通した。
 三つ子の魂なんとやら。22年たってもこのやり方は健在だ。自宅はいま基礎コンクリートを打ち終わったところだが、あるときは鉄筋工、あるときには左官工になり、相変わらず設計者らしくない格好で、喜々として現場を走り回っている。




ホームページの寿命/'99.9



 これまた久々にホームページを改変した。といっても、タイトルやメインページの体裁はそのままだ。やったことはただひとつ、「LIFE-BOX」を新設したのである。
 直訳すると、「生活箱」「人生箱」ということになるだろうか。人生、暮らし、生きがい、そんな雑多なものをもう一度原点から考え直してみたい。そんな思いで始めたコーナーである。

 最近、ホームページを閉鎖したり、1年以上もリニューアルしていない「開店休業」状態に陥っている友人知人が私の身の回りで相次いでいる。リンクコーナーなども、たまにチェックしてみると「リンク先不明」のエラー続出。大半が連絡なしだったりするので、対応に追われる。これらのホームページの大半が、かってはラジカルに運営されていたものだったから、事態は深刻である。
 ホームページブームに最初に火がついた本家アメリカでも、すでにこうした傾向が顕著と聞く。どうやら個人のホームページには「寿命」のようなものがあるようで、私の調べた限りでは2〜3年でそれはやってくる。当初の燃え方(熱中度)が強いほど、燃え尽き度(反動)も強いように思われる。

 実は私も開設3年目にあたるこの春ごろに、そうした兆候はあった。月に一度のノルマを自分に課しているこのコーナーと投稿メール以外、数カ月何も更新しなかった時期もある。まさに2〜3年の寿命時期に、ぴたり一致する。
 思うに、これは人間のある物に対する熱がさめる時期と一致しているのではあるまいか?読んではいないが、「愛は4年で終わる」という本がベストセラーになった記憶がある。どんなものにでも飽きはくる。燃え方が激しいほど、冷えるのもまた急速なのかもしれない。

 もしも愛とかホームページの寿命を少しでも長くしたいのなら、(このふたつを同列に扱うことには異論があるかもしれないが、それはいま論じない)燃えあがった残り火を細々とつなぐか、あるいは残った灰に価値を見いだすような知恵と工夫が必要なのかもしれない。
 たとえばホームページなら、以下のようなコンセプトで作っていくことになろうか。

●細く長く続くネタを使う
 リニューアルされないページは、やがて朽ち果ててゆく。なるべく長く続けられるネタがあれば、作るほうも見るほうも飽きない。だが、これもネタ自体が新鮮で面白ければこそで、無用の長物になってしまった物をダラダラ続けてもかえって足を引っ張るだけ。経験から言って、ひとつのネタはどう引っ張っても2年が限度である。

●自分にノルマを課す
 長い連載でも、中断があれば結局は忘れられる。週に一回なり、月に一回なり、強制的に更新するコーナーを作ってしまう。そのコーナーを目当てに、ある程度の人は集まってくる。ノルマがあることで、自分自身にも否応なしにムチが入る。日記だけのページに意外に根強いファンがおり、長続きしているのはまさにこの理由からである。

●画像に頼らない
 画像はインパクトが強く、一時的には人を引きつけるが、最大の弱点は手間がかかること。苦労した分報われるとは限らず、報われなければ作る側の気持ちは萎えてしまう。画像だけで何かを訴え続けるのも、至難の技である。

●写真に頼らない
 画像に比べると、写真は楽である。デジカメかスキャナーで一瞬のうちにハイ出来上がりだ。だが、楽な物で感動を与えるのは、これまた至難の技。テキストを加味して工夫をこらすならまだしも、ただやみくもに機材に依存した写真を並べてみても、長続きはしない。

●人に頼らない
 見ていて面白く、自分の興味も長続きしやすいのは、たとえつたなくとも自分で汗を流して書いた文章であり、描いた画像、作った素材である。それらは仮に他人に感動を与えなくても、確実に自分自身に創造する楽しみを与えてくれる。投稿やフリー画像に頼りっぱなしのページも長続きはしない。

 こう書き並べると、結局は愛と同じで、いかに自分が楽しみ続けるか、そしていかに他人に感動を与え続けられるかが持続性の鍵のようだ。両方そろっていれば申し分ないが、片方だけでもなんとか続けることだけは出来る。
 先に書いた「人生」「暮らし」に私がスポットを当てようとしているのも、こうした考えからなのだが、果たして事が思惑通りに運ぶか否か、私にもまるで見当がつかない。




現代の神器/'99.10



 むかし、「三種の神器」というものがあった。いや、たぶんいまもどこかにひっそりと眠っているはずだ。もう随分前に習ったことなので記憶も定かではないけれど、たしか「勾玉」「鏡」「剣」の3つだったと思う。
 その歴史的な位置づけもすでに忘却の彼方である。「天皇が天皇であることの証しの品々」みたいな意味あいだっただろうか。

 時は流れて高度成長期の1960年代の終わりころ。家庭電化製品の「3C」と称して、「クーラー(Cooler)」「カラーテレビ(Calor TV)」「車(Car)」の3つが「新三種の神器」ともてはやされた一時期があった。 倹約家の貧乏所帯に生まれ育った私にはそのどれもが無縁だったし、たいして欲しいとも思わなかったのだが。
 ではもうじき世紀の変わり目を迎えんとする、いまの「三種の神器」とはいったいなんぞや?例によって私の独断と偏見で解析を試みる。

 私が提唱する現代の三種の神器を、仮に「新3C」と呼んでみよう。

●その1/Computer(コンピューター)
 いまさら説明は不要だろう。インターネットもこれに含めていいと思う。Computerの急速な普及で、私たちは多くのものを手に入れた。もちろん失ったものもあるが、得たものに比べると微々たるものだ。
 肝心なのはComputerはあくまで手段、道具のたぐいであり、大半の人々にとって目的ではないことである。ここを履き違えると、とんでもないドツボにはまってしまうかもしれない。

●その2/Communication(交流)
 母国語はもちろん、外国語を使った会話や交流、言葉の垣根を越えた心の交流まで、広い意味での会話、対話、交流を意味する。資源枯渇、地域紛争、地球環境保護、これらのやっかいな地球的規模の問題は、今後否応なしに私たちを巻き込んでゆくだろう。こうした問題に対処するための必須条件が、このCommunicationである。
 語学力が多少落ちても、仮に言葉は通じずとも、「相手と交流する」という気持ちだけは前向きに持っていたい。

●その3/Creativity(創造力)
 生物のなかで、おそらく人間だけが持っているであろう無限な力、それがCreativity(創造力)だ。私はこの力のおかげで、いままで多くの物を得、多くの苦難を乗り切ってきた。
 これからの社会で個人や集団を支えてゆくうえで最も大切な力は、おそらくこのCreativity(創造力)ではあるまいか。いま、世のすべての針がそこに向かっているような気がしてならない。戦後の輪切り教育、管理教育、横並び意識にすっかり洗脳されてしまった日本人には、少しばかりきつい課題ではあるのだが。

 こうして書き並べると、どれもあなたまかせ、お上まかせでは決して身につかない事柄ばかりである。もちろん大金を積んだとて簡単に手に入る代物でもない。このあたりが単なる「モノ」の象徴でしかなかった1960年代の「3C」との大きな違いか。
 だがその分、金や力のない貧乏人でも、工夫次第でなんとか会得できる魅力を秘めている。来たるべき21世紀を制するのは、案外これらの「新3C」を自由に操る人々なのかもしれない。




そして50歳/'99.10



「とうとう」と言うべきか、「やっと」と言ったらいいのか、あるいは「もう」とでも言おうか、ともかくこの10月で50歳になってしまった。
 妻は私よりもたったの4日だけ年下だから、ほとんど時期を同じくして、がん首並べて50歳の区切りを迎えたことになる。二人合わせればきっちり百歳。こりゃめでたい。

 むかし、真田十勇士を描いた映画を見たことがある。細かいストーリーはすっかり忘れてしまっているのに、「人生わずか50年、やりたいことをやりてぇな〜」と劇中で侍たちがやかましく踊り歌っていたシーンだけは、メロディーや映像のひとつひとつまで鮮明に覚えている。

(ソーカ、人生はたったの50年しかないのか。こりゃボヤボヤしちゃおれんゾ…)

 暗い映画館の片隅で、結構深刻な気分でそんなことを大真面目に考えていたものだ。幼い私にとって、その歌はある種のカルチャーショックだったのだ。
 以来、私にとって50歳は人生の大きな節目となった。そのときの歌のように、50歳までにはやりたいことを全部やり、思い残すことなく「お迎え」を待とうではいないか。そんなことをいつも意識の奥底にぼんやりと抱えて生きてきたように思う。

 で、その50歳である。10歳くらいのころ、50歳というとエラく年老いた人間だと思っていた。その年齢まで無事にたどり着くのは、きっと大変なことなのだろうとも。
 だが、長寿社会のもたらした恩恵。いざ自分がその年になってみても、眼と歯と髪の衰えが多少気になるくらいで、自分がそれほど年老いたという感じはしない。「人生わずか50年〜」どころか、まだまだ2、30年はいけるかな〜、といった気分である。
 幸いなことに人並みに結婚も出来、人並みに子供ももうけた。長女はすでに自立し、二人の息子も何とか自分の頭の埃を払ってゆける程度の見通しはついた。親の義務はもう果たしたと言っていい。
 夫婦併せて百歳に合わせるかのように、来年は切りのいい2000年のミレニアムである。おまけに私たちは来年4月に銀婚式まで迎える。まさにめでたさのトリプルだ。やがて完成する新居を拠点に、余祿の人生をせいぜい謳歌するとしよう。




引越し/'00.1



 15年ぶりに引越しをした。正直いってものすごく疲れた。どうやら引越しを少々甘く見ていたようだ。

 引越し自体は新居の完成に伴う予定の行動でもあり、元来が片づけ好きの私にとっては、朝飯前の片手間仕事。かねてからの計画通り、事は滞りなくスイスイと運ぶはずだった。ところが…。
 新居の建築に伴う種々の雑事。とりわけ、初めての設計と監理作業による精神と肉体への疲労の蓄積は、予想を遥かに越えるものだったらしい。加えて、建築費を安くあげるために工事の多くを自家施工、すなわち、自分でやろうとした暴挙。完成目前にひかえた新居を前に、あるときは大工、あるときは塗装工、そしてまたあるときはブロック工と八面六臂の活躍は、50歳を迎えた肉体には少しばかり過酷過ぎた。

 時は1999年12月5日。新居は前日完成したばかりで、車庫も収納家具も未完成。床のペンキも前夜2時までかかって塗り上げたばかり。だが、おちおちしていては厳しい冬将軍が容赦なくやってくる。年末年始にもまだ間があるいまが移り時だ。そんな勇気ある決断のもとに、引越しは決行されたのだった。
 外はあいにく2日前に降った40cmの深い雪。だが、高めの気温がせめてもの救いである。直前になって助っ人でやってくるはずの息子の友人二人が、二日酔いでキャンセル。
(おいおい、そりゃないだろう)と文句をつけたくなるのをぐっとこらえ、急きょ前夜に連絡をくれていた20年来の友人夫婦にヘルプ電話。すると持つべきものは友。別のスケジュールを繰り上げて手伝いに来てくれることになった。助かった…。

 それからの12時間は思い出すだけでも虫ずが走る。慣れぬハンドルさばきでレンタカーの2tトラックを操り、マンションに横付けしたのが予定より30分遅れの9時半。積み込みに手間取るうち、友人夫婦が現れ、結局トラックの運転は慣れたその友人に頼むことに。
 雪道に時間をくい、一回目の積みおろしを終えて戻ってきたのは、はや昼12時。数日間の寝不足と疲労がたたり、昼食もほとんど喉を通らぬまま、再び積み込み開始。
 予定では2度の積み込みで大半の荷物は片がつくはずだった。だから、レンタカーも午後3時までしか借りていない。少なくとも前回の引越しはそれで済んでいたのだ。ところが、15年という月日は、常日頃から無駄を省いて質素に暮してきたはずの私たちでも、知らず知らず多くの「生活の垢」を抱え込んでいたらしい。荷物の多くに積み残しがでてしまったのである。

 レンタカー会社に時間延長の電話を入れ、3度目の積み込みをしてもマンションの部屋には、まだ積み残しのゴミ芥のたぐいが山積み。早い冬の夕暮れが迫り、突然の助っ人をお願いした友人夫婦にあまり無理も言えず、午後6時をもってとりあえず引越し作業は打ち切りとした。
 上の息子と二人で出せるだけのゴミを収集所に出し、疲労の限界を越えた身体を引きずってスーパーで寿司とビールを買い、妻と二男が待ち受ける新居に這うようにしてたどり着いたとき、時計は既に夜8時を過ぎていた。

 地獄のようなあの日から、はや一カ月が過ぎた。実は引っ越しの翌日から大きく体調を崩してしまい、数日間はほとんど食事も喉を通らぬ最悪の状態。全身の激しい倦怠感と吐き気がしばらくとれず、折悪しくといおうか、いやいや本当は有り難くもと言うべきなのだが、引越し直後に仕事が殺到し、栄養剤を飲みながらなんとかこなす日々。55キロだった体重も、52キロにまで減った。骨と皮だけだと思っていたこの身体に、まだやせる余地があったとは…。
 ふと気づくと2000年のミレニアムを迎え、養生の甲斐あって、最悪だった体調もようやく回復しつつある。家の中からは未だに段ボール箱が消えないが、体調と仕事の山と相談しながら細々続けてきた自宅の家具作りも、なんとか格好がついてきた。それにしても疲れた…。




仮想と現実/'00.1



 そんなわけでこのページも3カ月近く休んでしまった。やる気力体力、そして時間がなかったのだから、仕方がない。おかげで、開局以来ずっと続けてきたこの雑記帳も、とうとう穴を開けてしまった。作るほうだけでなく、見るほうもほとんどやっていない。つまり、この数カ月間というもの、限りなくネット社会から遠ざかっていたわけである。
 パソコン通信の開始から数えてみて10年近く、これほどの空白は記憶がない。意識的にではなく、自然にそうなってしまったのだ。でも、そのおかげでいろいろ新しい発見もさせてもらった。

 結論からいってしまえば、この空白は私にとって決して不快なものではなかったことだ。20年近く前の禁煙のときのような辛い禁断症状があったわけでもなく、「そういえばここんとこしばらくパソコンのスイッチを入れてないな〜」といった程度なのである。いや、もっといえば電脳から限りなく遠ざかったこの数十日間は、まるで憑き物が落ちたかのようなある種の壮快感に満ちていたことだ。
 おそらくは引越しによって、まるで都会とは無縁の別天地のような世界にワープしてしまったことが心と身体に大きく作用しているのだろう。

 朝は7時を過ぎると強い朝日がブラインド越しに寝室に差し込み、容赦なくたたき起こされる。午前中は仕事机にむかい、午後は家の中の片づけと家具作り。食事は朝昼夜とキッチリ同じ時間にとり、10時と3時のおやつも欠かさない。片づけその他に追われて疲れた身体はとても夜遅くまで起きていられず、12時にはとっとと布団にもぐりこんでしまう。こんな日常が、まる3カ月も続いている。こりゃ奇跡だ…。
 おかげで仕事は午前中に大半が片づき、家族、とりわけ妻との会話も一段と増えた。働きづめで体重はなかなか元に戻らないが、体調はすこぶるいい。昼夜の逆転したヤクザな暮しには欠かせなかった深夜テレビと夜食からも、すっかり縁遠くなってしまった。自分がいままでどれほど不健康な生活を送っていたか、数年ぶりに思い知らされたというわけだ。

 いまさらいうまでもなく、インターネットやホームページは仮想社会の象徴のような存在である。それに比べ、朝日とともに起きて雑事に追われ、日が暮れると寝てしまう今の暮しは、人間本来の原始に近い生活そのものである。
 生活が180度変わったからといって、即座にインターネットやホームページから卒業する気はないが、引越しがもたらした「現実」という素晴らしい恩恵に、ここしばらくは浸っていようと思う。




 
受賞の知らせ/'00.2



 例によって新居の家具作りに精を出していたある日の午後、その電話は鳴った。

「もしもし、菊地さんのお宅でしょうか?」
 いんぎんな響きの聞き覚えのない声に、一瞬戸惑った。仕事の電話ではない。「……と申しますが」と、その声はある出版社の名を告げた。その社の名前を聞いて、即座に合点がいった。あの作品のことだ。
 電話の声は私が書いたノンフィクション小説が大賞に選ばれたことを告げている。はい、はい、とぎこちなく受け応えながら、受話器を持つ手が小刻みに震えた。とうとうやった…。

 話は昨年11月末にさかのぼる。引越しの準備と新居の仕上げに火を吹いていた頃のこと。押入れの奥から、分厚い原稿の束が出てきた。すでに読み終えた方もいるかもしれない。このページですでに発表済みのノンフィクション作品、『親馬鹿サッカー奮戦記』の400枚近い労作である。
 実はこの作品の連載中、あるいは脱稿直後、「本にしてはいかが?」という趣旨の話がいくつかあった。といっても、具体的な出版社からの話ではなく、あくまで読者からの提言、忠告、要望のたぐいである。

 当初は単なる外交辞令と思った。いくら評判が良かったからとはいえ、すぐに出版だ、本だとは少しばかり虫が良すぎる。世の中そんなに甘くはない。うっちゃっておいたところ、やがて話のうちのいくつかが具体的になった。差障りがあるのであまり詳しいことは書けないが、作品を数社の出版社の方に目を通していただいたのである。
 だが、やはり結果は厳しかった。曰く、

「作品は良いが、売れない」

 だから本には出来ない。どうやらそういうことらしい。しょせん商業ベースには乗らない作品なのである。ホームページ経由での全国からの反応で、私はすでに作品の内容に自信を持ってはいたが、面白いことと売れることとは別である。ホームページでの多大なる評価だけで満足すべきなのだと私は考えた。分厚い原稿の束は、虚しく押入れの奥深くにしまい込まれた。

 忘れていたその原稿が再び目の前に現れたのである。時を同じくして、道でばったり出会ったかってのサッカー少年団の父母会の方々から、「インターネットで作品を読みました。とても感動しました。いま、プリントアウトして父母会の中で回覧しています」と熱い声をかけられる。
(やはりあの作品をあのまま眠らせるのは惜しい…)
 そんな思いが、再びむくむくと頭をもたげた。普及が進んだとはいえ、インターネット上の発表だけでは、まだまだ読者はごく一部の人に限られてしまう。ただの自己顕示、名誉心、そうとられてもいい。 なんとかもっと多くの人に読んでもらいたい。多くの評価を得たい。そう思った私は、締切が近いとあるノンフィクション文学賞に、自分の作品を投稿する決意をした。

 ホームページ上での多くの方々の熱い支持と応援は大変有り難く、私が連載を続けてゆく大きな原動力になった。だが、欲深い私は、その道のプロの評価がどうしても欲しかった。作品は良いが売れない、というプロのひとつの評価は、私にとっては物足りないものだった。売れないのは分かった。だが、読み物としてどの程度の物なのか、ただ売れないことだけが悪い部分なのか、はっきりしなかったからである。
 実績と歴史のある全国公募のノンフィクションの文学賞に応募すれば、プロの客観的評価が得られる。仮に没を食らったとしたなら、読み物としての評価は低かったということだ。反対に、もしも結果が良ければ、活字となるチャンスもある。(大賞受賞作は雑誌で連載される)私を投稿へと追い立てた背景には、そんな複雑な思惑が絡んでいた。




チャンス/'00.2



 カレンダーを見ると締切は目前である。郵便で出している暇はない。幸い、作品を公募している出版社の本社は札幌市内にある。私は原稿を出版社に直接持ち込む覚悟を決めた。引越し作業に疲れた身体にムチを入れ、連日夜半までかかって作品に若干の手を入れる。そして締切当日、新築現場に向かう途中で原稿を直接届けた。間に合った…。

 選考は審査員の圧倒的な支持だった、と電話の声は告げていた。そして、インターネットで連載をしていたことが、受賞の大きなプラス要素になったとも。
 この種の文学賞の投稿では、何らかの媒体で発表済みの作品は受け付けてもらえないのが普通である。ところがこの出版社は既発表、未発表の如何を問わない、と応募要項にある。 非常におうようなのである。いいものはいい、という考え方で、極めて欧米的と言っていい。
 一週間後に発売される雑誌上(「月刊クオリティ」3月号)で受賞の経緯が詳しく掲載されるので、ぜひ見て欲しいと締めくくって電話は切れた。

 ぱちんと指を鳴らして階段を降りた。階下には家族がいる。「やったぞ」と、今度は声に出してみた。すると、受賞がずしんと現実味を帯びた気がした。
 居間のドアを開けると、「賞をとったのね」とすべてを心得た顔で妻が言う。吹抜けから漏れてくる電話のやり取りで、すべてを悟ったようだ。「おめでとう」と言う妻の笑顔で胸がじんと鳴った。やはり持つべきものは妻だ。

 一週間後、掲載雑誌と身に余るような賞金、そしてずしりと重い名前入りの懐中時計などがばたばたと続けて届けられた。
 掲載紙に載せられた審査員の講評は、「軽快な文章」「文句なしの大賞」「ぶっちぎりのトップ」とべたほめに近い。「作者と作中人物の視点が近すぎる」などの一部厳しい指摘もあるにはあったが、これは投稿前からある程度予想していたもの。全体としては「こんなにほめられていいのですか?」と恐縮てしまうほどだった。
 特にそのうちのひとつは私たち夫婦をいたく感激させた。

「次を読めばまた次が読みたくなる群を抜いた面白さ。プロではない人の作品でこれほどの物は極めて珍しい…」

 こつこつ書き続けてきた甲斐があったな、としみじみ思った。インターネットでの評価に、やはり間違いはなかったのだ。

 翌日、審査員のひとりであるノンフィクション作家のG氏から電話があった。まだ海の物とも山の物ともわからないが、ひょっとして書くことが糧の一部となる日が近いかもしれない。G氏の電話はそうしたことを暗示する内容だった。
 どんな人でも一生に何回かチャンスが訪れるという。もしかしてこれが私にとって人生幾度目かのチャンスなのだろうか?だとしたらこれを活かさない手はない。いや、ぜひとも活かしたいと思う。私にとって書くこと、表現すること、創作することは、すなわち生きることなのだから。