第5話/鹿児島〜福岡  西九州巨大台風で九死に一生



第18日 鹿児島〜出水 /1970.8.13(木)曇りのち雨



《白いワンピースの人》

 7時40分に鹿児島大学の寮を出る。鹿児島は街並みが碁盤目で、どこか札幌に似ている。そして、旅行中のどの街よりも美人が多かった。美人というのは、バカ寒いかバカ暑いところにしか育たないのだろうか。

 ちょうど朝の8時ころ、城山公園の近くを通りかかった僕は、ひとりの車椅子の老人がお掘りにかかるアーチ型に湾曲した橋を、ひとりで懸命に上ろうとしている場面に出くわした。
 でも、老人の力は弱くて、何度やっても途中で引き戻されてしまう。通りがかりの大勢の人たちは出勤前で忙しいのか、誰ひとり手を貸そうとはしない。明日の行き先も定かではない僕。自転車を止め、広い通りを横切って老人に近づいた。

 あっと思った。僕が老人の車椅子に手をかけるより一瞬早く、ひとりの女性がその車椅子を押し始めていた。僕は一瞬立ち止まった。引き返そうか…。でも、僕はもう車椅子に半分手をかけている。結局、彼女と並んで車椅子を押し、橋を渡り切った。老人の「ありがとう」の声も聞き終えぬうち、彼女は車椅子から手を離し、足早に立ち去った。出勤時刻が迫っていたのだろうか…。
 しかし、数メートル行ってから彼女は不意に振り返り、微かに微笑んで僕に小さく黙礼した。裾と襟元にブルーのフリルがついた真っ白なワンピースと、彼女の小麦色の肌と、黒く大きな瞳とが焼けつくような印象で僕に迫った。
 そして彼女は次第にその場から遠ざかった。僕はただ立ちつくし、彼女を見送るだけだった。

 長い孤独な旅。最南端の街に着いた感慨。僕は充分センチメンタルな状態にあった。だから、些細なことにも感じやすくなっていた。しかし、ただそれだけのことだったのだろうか。あれはただのおセンチだったのか?違う、違うんだ。
 ほんの一瞬の出来事。そのわずかな時間に、僕はあの日向のおばあさんに似た心のふれ合いを彼女との間に感じた。僕は彼女の、振り返った彼女の白いワンピースを、その澄んだ黒い瞳を、そして彼女の持つ限りない優しさを、生涯忘れないだろうと思った。

 僕は飢えていた。確かに飢えていた。乾いた日常の中では見過ごされていたのだろうか。しかし、僕はいま、はっきりとその飢えの正体をつかんだ気がした。
 僕は苦痛の中で考えた。この飢えを一生背負っていたくはない。少なくとも僕は…。
 僕はどうしょうもない寂しがりやだった。


《雨中のキャンプ》

 九州西海岸の道を黙々とペダルを踏む。台風の影響で東よりの風が強い。行く予定になっている人吉に住む親戚に「アスゴゴツク」(明日午後着く)と電報を打つ。

 あまりあちこちで「どこから来た」と聞かれるので、九州に入ってから、雨具の入った黄色いサイドバッグにマジックインキで黒々と「北海道」と書いた。それを見つけた道行く人は、皆一様に目を丸くする。本当に随分遠くに来てしまった。
 水俣の少し前の出水にあるキャンプ場に野営。旅行資金が不足してきた。今日から一日500円のハンデをつけることにする。予定通りゆけば、あと11日で旅も終わる。
 夕方からとうとう雨になる。かなり勢いが強い。テント、大丈夫だろうか…?

●本日走行距離/105.6Km  ●走行距離合計/1690.4Km


「白いワンピースの人」については、本文で充分書き込まれているので、あまり多くを語る必要はない。この女性との遭遇はこの旅行記に登場する数少ない艶っぽい話のひとつなのだが、あの日あの時あの場所で、よくぞ出会えたものと神に感謝したい。
 残念ながら名前を聞くことは出来なかったが、思い出すたび、いつも心に暖かいものがこみあげてくる。その後の僕の女性観を決定づけた、といっても過言ではないかもしれない。まさに僕にとっての宝のような存在なのだ。

 食費が思いのほかかかり、旅行資金不足が気になり始めた。当時の資料を調べてみると、この時点での貯金通帳の残高は11000円である。
 北陸の敦賀から小樽までの長距離フェリー代が5500円だったから、これを差し引くと残金はわずか5500円で、残りの予定日程の11日で割ると、一日500円となるのである。参考までに当時のユースホステルの一泊二食付の宿泊代は、550〜600円。自炊と野宿を多めにして、なんとか乗り切れそうなぎりぎりの予算だった。




第19日 出水〜人吉 /1970.8.14(金)暴風雨



《雨でびしょ濡れのテント》

 朝4時半ころ、雨がひどくてテントの中では寝ていられなくなる。テントをたたんで庇のついた売店の中で寝かせてもらう。テントも身体も雨でびしょ濡れ。台風がかなり近づいているらしい。

 濡れた服とテント類の始末に手間取り、7時45分出発。雨は降り続いている。今日の目的地の人吉まで、あと80キロ。台風の上陸せぬうちに、とがんばる。
 薄暗い空の下、公害病の水俣病で有名になった水俣を通過。台風の接近で町には人影が見えず、そのせいか町全体が暗く、沈んだイメージだった。

 11時30分、芦北町に入る。八代まで行かず、ここから近道して人吉に向かうことにする。この判断がまずく、球磨村までの県道はひどい道だった。雨でドロドロにぬかるんだ山道は、すぐに泥除けに泥が詰まって車輪が動かなくなる。そのたびに降りて車輪を蹴飛ばして。
 雨と風はますます強く、時間だけが過ぎて行く。球磨川の鉄橋を渡るとき、ポンチョが風に吹っとばされる。危ない。急がなければ…。

 鉄橋を渡ってから人吉までの道は完全舗装。だが、人吉まではまだ20キロある。無事に行けるだろうか…?
 あたりは山また山で人家は見あたらない。右手には球磨川の濁流が渦を巻き、左手には険しい絶壁が立ちふさがる。道はどこまでも険しく、気はあせるばかりで、自転車に乗ることもままならずにひたすら押すばかり。ラジオは台風が九州へ上陸したことを叫び続けている。雨も風も一向に衰える気配がない。これが本当の台風というやつなのか。


《「死ぬ」のかな…》

 坂が少しなだらかになった。えいっとサドルにまたがり、ペダルを踏む。押してばかりいてはらちが明かない。
 瞬間、激しい風圧を感じた。突風というやつか…。バランスを大きく失う。自転車が、僕の体重を入れると100キロは越えているはずの重い自転車が、重心を失ってふわっと、信じられない、実にふわっと、右手のガードレールに吸い寄せられる。僕の身体が自転車から浮かび上がって、ガードレールから上半身が飛び出す。数十メートルの断崖絶壁と、真っ赤に濁って渦を巻く濁流とが、眼下にかっと口を開けて広がって…。
 僕はそのとき生まれて初めて「死」に直面した。

(ああ、僕はもう死ぬんだろうか。拾った数珠やおまじないも役にたたなかったのか。短い人生だったな…。
 僕の変わり果てた姿を見て、オヤジは、お袋は、姉貴は涙を流すだろうか。夏になるたび思い出し、この川に花でも投げてくれるかな…。でも、みんなそれぞれ生きていかなきゃならないんだ。死んだ者に、そんなに構ってもいられないだろうな…。
 友達は…、あの悪友どもめ。やっぱり泣いてくれるかな。あいつもいいヤツだったと悲しんで、それで終わりかな。
 ひとりで生きるってことは辛いことだな、本当に…。なんだか僕は、いままでずっとひとりだったみたいな気がする…。僕は寂しかった。寂しかったよ…)

 どれだけの時間が過ぎたのか。とても長い時間だったような気がする。気がつくと、僕はガードレールに必死でしがみついていた。自転車は横転し、かろうじてガードレールに引っかかっている。僕は助かった。死ななかった。
 極度の緊張から、まさに死の淵からの恐怖に解放され、僕はしばらく身動きが出来なかった。ボロボロの魂とボロボロの身体をひきずって、僕は近くの屋根のついたバス停まで行き、そこに長いこと座り込んでいた。
 車は一台も通らない。雨も風も一向に収まらなかった。堀切峠で拾った数珠がベルにぶつかり、「リーン」ときれいな音をたてた。

(頼もしいやつだ、こいつは。僕はこんなになってるっていうのに…)
 いまはこの小さな数珠だけが頼りだった。


《ようやくたどり着く》

 午後4時。親戚のおじさんが監理している国民宿舎「くまがわ荘」にようやくころがりこむ。午後4時半、「ただいま台風9号は熊本県下を通過中」とラジオニュースが告げる。助かった…らしい。助かった、助かった。

 夜、おじさんの車で親戚の家へ行き、姉の義母にあたる人と会う。「盆だんご」というお盆料理をごちそうになる。そう言えばきょうは旧盆だった。僕にはさっぱり意味が通じなかったけれど、人吉弁で「よく遠い所からひとりでやってきた。元気の良いことよ」という意味のことを涙声で何度も話され、僕は困ってしまった。
 おじさんの家にも挨拶に行く。「まるでトラックみたいに荷物を積んだ自転車で来たんだよ」と、おじさんがややオーバー気味に僕のことを話す。お袋からの手紙と姉からの餞別をここで受け取る。資金不足のなか、とても助かる。心配かけてすみません。

 夜はひどい停電。懐中電灯の光でたまっていた葉書を書く。明日の出発は台風が収まってから、熊本まで走る。

●本日走行距離/77.1Km  ●走行距離合計/1767.5Km


 連日のドラマが僕を襲った。これまた多くを語る必要はないだろう。前日の白いワンピースの女性との関わりが熱い「生のドラマ」なら、一転して翌日は抜き差しならぬ「死のドラマ」である。まるで人生がひとときに凝縮されたような忙しい話だが、これすべて作意なしの事実なのだから自分でも驚く。
 このときの不思議な逸話は「お助けの数珠」というタイトルで、すでにこのページで一部発表済みである。もしかすると僕は本当に「不思議な数珠」に救われたのかもしれない。

 この夜、停電のなか、何かにせっつかれるように多くの友人に葉書を書いた。人と人とのつながりは大切にしなくてはならない、そんな強い思いが僕を追い立てたのである。




第20日 人吉〜熊本 /1970.8.15(土)晴れ



《あふれる涙…》


嵐のあとの球磨川。転落しかけたのはちょうどこんな場所だった。

 今朝は台風も去り、昨日の嵐が嘘のようにカラリと晴れ上がった。おじさんには本当にお世話になってしまった。国道まで自転車を追ってゆっくりついてきてくれ、別れ際「がんばるんだよ、これは何かのときに役立てて」と、餞別を握らせてくれる。
 そしておじさんはクラクションを短く鳴らし、僕はまたいつものように大きく手を振って別れを告げた。

 おじさんの車が小さくなって見えなくなったとき、僕の中から不意にこみ上げてくるものがあった。おじさんを始めとする人吉のみなさんの暖かい心、日向のおばあさん、白いワンピース、そして昨日の嵐。いろんなものがごちゃ混ぜになり、どっと押し寄せてきて、たまらなくなり、僕は激しく嗚咽した。

(誰も僕をいくじなしと攻めることは出来ないぞ。僕は人に負けない勇気と強い意志を持ち合わせているけれど、涙を持たない人間にはなりたくはない。意識して涙をこらえるよりは、無意識に涙を流したいんだ…)

 僕は旅に出て初めて泣いた。「大人」になって初めて泣いた。


《熊本到着》

 人吉から八代までの道はずっと下りが続き、昨日の苦労が嘘のよう。八代から熊本までは平坦な道。両側には田んぼがいっぱいに広がり、いかにも九州らしいのどかな風景。
 4時過ぎ、早くも熊本に到着。熊本城、水前寺公園とぶらつくが、どこも人がいっぱい。6時に熊本大工友寮に着く。今夜はここに泊めてもらう。木造のボロ寮は自分の住む寮のようで親しみが湧く。

 夜、大学の話になり、僕が室蘭から来たというと、「室蘭なんて街、日本にあったっけ?」と、九州出身の学生に軽くあしらわれ、少しむっとくる。まあいいか。
 ここでヒッチハイクの北大生に会い、しばし話す。北海道と聞くだけでやけに懐かしい。あすは福岡だ。

●本日走行距離/108.9Km  ●走行距離合計/1876.4Km


 連日のドラマと過酷な旅に、僕の脳はすっかりパニック状態に陥ってしまったようだ。心と身体に元の機能を回復させるには、「涙」という名の最良の癒し剤が、どうしても必要だったらしい。




第21日 熊本〜福岡 /1970.8.16(日)晴れ



《おお、懐かしき札幌ラーメン》

 8時出発。大牟田で「サッポロラーメン」の看板を見つけ、懐かしくなって食べに入る。店主がやってきて、「君、北海道の人かね?」と聞く。表で自転車のバッグの文字を見たという。札幌だ、と答えると、
「私は若いころ、ススキノで修行してきたんだ。よく来てくれた」と札幌の話が弾む。
「よく店に寄ってくれた。帰ったら僕のいた店にぜひラーメンを食べに行ってくれ」と、千円札をポケットに押し込まれる。
 僕は人情は北海道が一番と自負していたが、これは改めなければならない。人情も女性も、北海道と九州は五分と五分です。

 途中の道はコンクリートの電柱が何本も倒れていて、昨日の台風のものすごさを物語っている。だが、道は平坦ですいすい調子よくペダルを踏む。
 久留米で公園の大きな木の下にマットを敷いて眠る。あまりじろじろ見ないでください。僕はただ眠いだけの男です。

 福岡は大き過ぎてきらいだ。九大の田島寮を探すのに、1時間半もかかってしまった。市内で走行距離がついに2000キロを突破。今夜は九州最後の夜。

●本日走行距離/136.0Km  ●走行距離合計/2012.4Km



第22日 福岡〜下関 /1970.8.17(月)晴れ



《あっけなかった九州との別れ》

 1時間かかってようやく福岡を脱出。途中、また眠くなって寺の境内に寝かせていただく。
 昼は九州名物、長崎チャンポンを食べる。長崎にも行ってみたかったけれど、日程の都合であきらめざるを得ない。せめてチャンポンを食べて気分だけでも味わう。これがまた実にうまい。はっきりいって、ラーメンより上だった。


 若戸大橋をエレベーターでヒョイと上り、高い部分だけちょこちょこと走って、またまたエレベーターでヒョイと降りる。実にあっけない。

 関門トンネルもやはりエレベーターを使っていた。それでも海底部分だけは道路になっている。
 トンネルの一番低い海水の溜っている場所で思った。

(これで九州とはお別れだな。たくさん思い出があるな。いい思い出ばかりだ。僕の第二の故郷だな…。
 そうだ、僕はこれから、どんどん故郷を増やしてゆこう。僕はもう、どこに行ってもそこを故郷に出来るだろうな…)


《青い目の美人に話しかけられて》

 また雨になりそうなので、下関の火の山ユースに泊まる。ここのメシはひどい。まるで学食のB定食なみだ。それでも全部食べたけれど。

 ミーティング後、食堂で雑誌を読んでいると、オランダからやってきたという若い女性がツカツカ僕に近寄ってきて、「………」といきなり外国語をバラまいた。うん?おかしいぞ、意味が分かる。オランダ語が理解出来るはずはないのに。
 落ち着いて考えてみると、何のことはない。
"Excuse me. Would you exchange this coin?"
(すみません、このコインを両替していただけないかしら?)

 きれいな英語だ。見ると、右手で50円玉を差し出し、左手でコーラの自動販売機を指さしている。はあはあ、分かりました。コーラが飲みたいんですね。(註:当時の販売機は10円玉のみ使用可)
"OK. Wait a moment."(ちょっと待っておくんなせえ)

 ポケットをゴソゴソ。残念ながら10円玉は2枚しかない。
"No, I have not. Now, let's go to the front."
(持ってないみたい。あそこの受付まで行ってみようよ)

 あまり考えず、適当な単語を並べてみると、どうやら通じているようだ。
 受付に行って事情を話し、50円玉を10円玉に交換してあげると、彼女、うれしそうに「アリガトウ」と日本語でお礼を言い、またまた僕を驚かせた。


火の山ユースホステル前にて

●本日走行距離/95.4Km  ●走行距離合計/2107.8Km


 下関でのオランダ美人との会話は、僕にとって初めて外国人と話した貴重な体験だった。磐田でのボーリング初体験といい、人吉での涙といい、この旅には何かと初物がついて回る。
 会話の中で、受付のことを僕が "front" と直接的に言ったのは、厳密に言えば誤り。ここはやはり"information"と言うべきだった。
 しかし、やはり英語は度胸。臆せずにガンガン話せば、何とか通じるものなのだ。のちに僕が英会話や国際交流に深く関わることになったのは、意外にこのときのささやかな経験が伏線になっていたのかもしれない。

 それにしても、彼女がなぜ最初から受付に行かず、混雑する中で座っている僕にわざわざ頼みにきたのか、いまもって謎である。もしかして彼女は、単に僕と話すきっかけが欲しかっただけなのかもしれない。だとすれば、ちょっと惜しかった気もする。もっとも、まだまだ奥手で日本の女の子とさえ満足に口もきけない、当時の僕だったのだけれど…。

 数々のドラマを生み出した九州を延べ8日間で制覇し、旅は終盤の山陰道へと差しかかる。