増殖コウカ



             1997.9  菊地 友則


 蓋を開けたままのペーパーセメントが固まり始めている。作業机に広げられたレイアウト用紙の上に、切り損じた写植文字が散らばっていた。足元に置いた温風ヒーターの調子が悪く、壊れかけた換気ファンの音が途切れ途切れに部屋の中に響いている。
 作業は一向にはかどらない。納品日が明日に迫っている。決して難しい仕事ではなかった。単色刷りのスーパーのチラシである。だが、単調である分、逆に気乗りがしないのだ。
 得意先のプロダクションとの付き合いを切らさないために、無理をして引き受けた仕事だった。材料費と手間賃を差し引くと、儲けはほとんどない。彼は深い息をひとつつき、ズボンのポケットに乱暴に手を差し入れた。
 爪先にカチリと触れる小さな異物がある。薄く丸いひんやりとした金属の感触。どうやら硬貨らしい。が、そんなものを入れた覚えがない。
 彼はわずかの時間、とまどいの底に漂った。だが、ほどなくしてそれが昨日、仕事帰りに国道沿いのスーパーで買い物をしたときのつり銭であることを思い出す。たった一枚の一円玉を財布に戻すのが面倒だった。
 かさばる生活雑貨品を買って帰るのはいつも彼の役目だった。年子で生まれた息子と娘の子育てに妻が追われ始めてから、それはいつしか彼の家事分担になっていた。
 四十男が平日の日の高いうちに、むき出しのトイレットペーパーなどぶら下げて車から降り立つ。おそらくそれは、傍から見ればあまり格好の良い眺めではなかっただろう。だが、それは彼が望んだことだ。そうした世間 体の悪さを、敢えて引き受けようとするところが彼にはあった。
 十年近く勤めた地元の広告代理店を辞め、人生を賭ける意気で始めたはずのデザイン事務所の経営は思わしくなかった。会社とは名ばかりで、従業員は税金対策で仕立てた妻ひとりきり。実態は彼ひとりの個人経営に過ぎなかった。
 仕事が軌道に乗ったら、すぐに他に事務所を借りるつもりだ。しばらくの辛抱だから。
 そう家族に言いくるめ、自宅を兼ねた狭い賃貸マンションの一室で始めた事業だった。だが、何年たっても外に事務所を構えるほど仕事の量が増える気配はなかった。
 それでも不安定な景気の波を乗り越え、曲がりなりにもここまで続けてこれたのだ。大きく仕事を構えた挙句、一、二年で脱落していく連中とは違う。
 電話が幾日も鳴らず、かといって仕事を貰いに取引先に頭を下げて回ることは、元来の気位の高さが邪魔をしてどうしても出来ず、ただ気分だけが滅入ってしまうとき、彼はいつもそう言い聞かせて自分を慰めようとした。

 夕方から雨になった。早い夕食が済んだあと、彼は窓辺に立ってカーテンの隙間から外の様子をうかがった。駐車場の雪はすでに消えかけていた。舗装路に出来た黒い水たまりの上に雨の粒が間断なく当たり、街灯の下で無数の小さな波紋を造っている。
 雨は一向に衰える気配を見せない。彼は自分の中にくすぶっているものにけりをつけるように、音をたててカーテンを閉じた。
 誰もいない居間にテレビの音だけが響いている。子供たちはそれぞれ部屋に閉じこもったまま、姿を見せない。台所で妻が食器を洗う後ろ姿が、青白い蛍光灯の光を背に頼りなく浮かんでいた。先刻の子供たちとの口論が頭を過ぎる。

 センター試験に失敗した息子の去就が決まっていなかった。
 入れるところでいい。今の時代、無理をして大学に入ったからといって、それほどいいことはないのだ。
 日頃から彼は子供たちにそう言い続けてきた。もちろんそれは彼の本意だったが、家計に浪人などさせる余裕がない、というのも動かぬ現実だった。
 息子が実力よりもかなりランクが上の大学を目指しているらしいことを知ったのは、すでに息子がセンター試験の受験票を出してしまったあとのことである。数日前、彼はそのことを妻の口から初めて聞かされたのだった。
 受験が差し迫って以来、息子とは会話らしい会話もない。精神的な重圧から、息子が内に閉じこもってしまうのは彼にもある程度理解出来た。だが、それだけではない。息子は彼を避けていた。いや、おそらく彼のほうもそんな息子を疎んじていた。
「そりゃ、たぶん落ちるぞ。まったく身の程を知らない奴だ」
「その覚悟みたいなの。落ちたら東京に出て、自力で新聞奨学生をやるなんて言ってるわ。大丈夫かしら。あなたからも何か言ってあげてよ」
 そう言って、妻は短いため息をついた。そういうことか。俺には何の相談もなしに…。ならば勝手にやってみるがいい。
 息子が固い意地を張り、自分の言い分を聞き入れなかったことには不思議と腹が立たなかったが、家を出るという、おそらく息子にとっては人生の一大事に違いないことを、こそこそと妻にだけ打ち明けて押し進めようとしていることに、彼は言葉にならない憤りを覚えた。
 息子の決心がどれほどのものかは分からないが、ここはひとつ親として何か言っておくべきだ…。
「新聞奨学生のことだけどな」
 前置きなしにいきなりそう切り出してみたが、あとが続かない。彼は思わず小皿の上の干物にかじりつき、勢いよくビールを喉に流しこむ。テーブルの脇にあるテレビで、何かの芸が出来たら百万円がもらえるという番組が騒々しく始まっている。いつもの夕食の風景だった。
 主菜をすでに食べ終えた息子は、彼の言葉にわずかに視線を揺るがせただけで、残された飯だけをおかずもなしにただ黙々とかきこんでいる。
 さあ、これからどう言葉を継ぐ。「予備校の金はみんな俺が出してやるから、東京なんかに行くな」と格好よく言ってみるか。「世の中、お前の考えている程甘くはないんだぞ」と月並みな説教をたれてみるのもいい。それとも…。
「新聞奨学生って、何よ。何のこと?」
 すでに食べ終えて食後のリンゴを剥きにかかっていた高二になる娘が、母親似の丸い眼を忙しく動かせて話に割り込んでくる。視線は切り出した彼にではなく、妻に向けられている。
「お兄ちゃんよ。東京で働きながら浪人するんだって」
 心得て、妻がまるで他人事のような口調で受け答えた。これが本当に他人事だったなら、と思わず情けなさが込み上げる。
「ええ、うそぉ。こっちの予備校に通うんじゃなかったの?働きながらなんて、それじゃお兄ちゃんが可愛そうよ」
 娘はたちまち金切声をあげた。
「ウチにそんな余裕があるわけがない」
 有無を言わせぬ口調で彼は言った。妻からならともかく、金のことで娘などにぐずぐず言われてはたまらない。
 可愛そうなどと無責任なことを言うな。だいたい、そうまでして大学に行く価値などあるか、と追い打ちをかける。だが、娘は少しもひるまなかった。
「何よ、またお金のこと?いつも最後はそれじゃない。家って、どうしてこうみじめなの。予備校くらいどうにかならないの」
「うるさい。俺だって精一杯やってるんだ」
 思わず口調を荒げた。不況になればあっさりと首を切られるサラリーマンの家のほうが良かったとでも言うのか、と続けようとしたが、そんな比較はまるで意味がないことに気付き、思い留まる。妻が無言で立ち上がり、汚れ物を台所に片付け始める。
「父さんはいつもそうよ。自分の世界をただ私たちに押し付けるだけ。私たちは黙って言いなりになるしかないっていうの?少しは子供の身にもなってよ」
 ここぞとばかり、娘は蛭のように責めたてる。妻は片付けを続ける。彼の加勢に加わる気配はなかった。
「いいんだ。これは僕が決めたことなんだから。僕ひとりの問題だ。父さんにも母さんにも、お前にも関係ない」
 それまで沈黙していた息子が、低いが強い調子でぼそりとつぶやいた。視線は食卓に向けられたままだ。それを潮に、娘は激しい勢いで席を立つ。
「ごちそうさま」誰に言うともなしにそう言うと、息子も居間から消える。誰もいなくなった食卓に、ひとり彼だけが取り残された。
(息子が家計と進路の狭間で苦渋の末に選んだであろう道を、俺はこれ幸いと都合よく受け入れようとしている)
 これでいいのか、本当にこれでいいのか、とどこからかつぶやく声が聞こえてくる。だが、それに呼応する声はない。
 乾いた風が彼の胸を吹き抜けた。意味もなく腿をこすり上げると、昼間の一円玉がズボンの中で小さなしこりとなって掌に触れる。
 またこいつか、といまいましい思いがこみあげる。こいつをまずなんとかしなくちゃな、とぼんやりした頭の隅で思う。

 次の日、電話の音で目覚めた。古くから付き合いのある印刷会社からの仕事だった。雨はみぞれから雪に変っていた。まとわりつくような湿った雪だった。彼は窓の外をながめてうんざりした。春でも冬でもない中途半端な季節だった。
 明け方までかかってようやく仕上げた仕事をプロダクションへ届け、その足で印刷会社へと向かう。金額はさほどではないが、利益率の高いカラーの一枚チラシの仕事だった。仕事が切れずに入ってくれたことが有難く、彼は担当者に手を合わせたい気持ちだった。
 街は鉛色の空で覆われていた。傘をさした人々が足早に歩いてゆく。どの足も誰かに追い立てられ、どこかに急がされているように思える。
「おたくもそろそろパソコンを入れたらどうだい。そうしたら、もっといい仕事を回せるんだけどね」
 十年来の付き合いのある担当者が帰り際に言った言葉が頭を巡っていた。独立当時は将来有望と言われていた版下作成の仕事も、急速に電算化が進んでいた。
 業界ではマックと呼ばれる米国製のパソコンと編集ソフトによる版下作成作業が主流になり始めていた。出来上がった版下は、デジタル化されて磁気ディスクに収められ、印刷会社に直接納入されるという。そのために、納期が大幅に短縮出来るのが最大の利点だった。この業界に付き物の修正作業も、手作業のそれと比べて数段楽になる。
 電気とか電子とかいうものに元来うとく、難しい解説書と首っ引きでようやくワープロを叩いている程度の彼にとって、それはまるで雲をつかむような話だった。
 レイアウト用紙のグリッドに従って写植の文字をコツコツと貼りつけてゆく、そんな古いやり方での版下作業に彼はこだわっていた。だが、そんな手仕事がいつまで続けられるのか、まるで予測がつかなかった。電算化の足音がひたひたと足元まで迫っている気がし、彼は内心焦りを覚えていた。
 パソコンの購入資金は、不意の出費に備えて蓄えたわずかな定期預金を取り崩せばなんとかなる。仕事もそれなりに増え、事がうまく運べば、投入した資金を回収するのはそう難しくもなさそうに思えた。
 だが、ワンセット百万円近くもするというそのシステムを買うふんぎりが、どうしてもつかない。うまく使いこなす自信がないのだ。しょせん機械は機械、長年積み上げてきた手仕事を越えられるものか、という自負や反発心もまだ残っている。
 高い金を払って揃えた設備が埃をかぶり、つぎ込んだ金と労力が無駄になってしまう恐れと、自分の技術に対する気負いとが彼の決断を鈍らせていた。

 ただいま、とドアを開けたが、返事は返ってこない。玄関の脇に荷物の山が出来ている。息子が東京に立つ準備が始まっていた。
 赤いランプのついた留守番電話を解除し、接客用の小さな肘掛け椅子の上に身を投げ出す。たいした仕事もしていないのに、疲れがどっと押し寄せてくる気分だった。
 彼は気が落ち着かないときのいつもの癖で、左のポケットに手を入れた。昨日の一円玉が冷たい感触で指先を刺す。
 そうだ、こいつだ…。
 彼はそのとき、それまで過ごした時間がすべて束の間の夢であり、冷たい硬貨に触れたことで不意に我に返ったかのような、奇妙な不安に捕らわれた。
 気を取り直して綿埃にまみれているそれをポケットの奥から取り出そうとする。だが、それは何だかとても無益で面倒なことのように思われた。
 こんなものをいったいどうする気だ。空き缶にでも入れて、つもり貯金でもしてみるか。それが息子や娘の学費の足しにでもなるというのか?どのみち、チリが積もっても山などになりはしない。
 彼は再び投げやりな気分に陥ってポケットから手を抜き、居間のこたつに移動して新聞を広げた。
 景気が緩やかに上向いている、と見出しが踊っている。うそだろう、と思わず小声でつぶやく。自分の銀行口座の貧しい残高が頭の上を通り過ぎる。息子の次は娘の番だ。むこう四、五年は少しも気が抜けない。国立大学の入学金くらいは何とかしなくては…。
 ベランダ越しに外に目をやると、まだ芽を吹く気配すら見せないナナカマドの細い枝の隙間から、くすんだ空がどんよりと広がっている。
 相変わらず仕事をやる気力は起きなかった。彼はこたつにもぐりこんで眼を閉じた。眠る気などないのに、ゆらゆらと薄い睡魔が襲ってくる。彼はわずかの間、白く霞んだ空の狭間に身を漂わせた。

 父さん、と呼ぶ太い声で、不意に地上に呼び戻される。眼を開けると、髪を伸び放題にさせた息子が、巨人のように彼の真上に立ち塞がっている。
「これ、ちょっと見てくれないかな」
「なんだ」
 彼は起き上がって息子が差し出した書類に眼をやった。何かの申請書のような難しい文字がやたらと並んでいる。
「新聞社との契約書…」
 視線を落としたまま、息子が言葉を濁す。
「それで?」
 思わず警戒心が先に立つ。彼は書類を持たせたままにして、息子に次の言葉を促した。
「保証人の欄にサインと実印が要るんだ」
 そう言われて彼はようやく書類を受け取り、注意深く目を通した。
 予備校の入学金、授業料は販売店が立て替えるが、万が一、年度の途中で新聞配達をやめた場合、保証人がそれまでにかかった費用の一切を弁済するという内容だった。さらに書類には、「保証人は原則として親がなること」と但し書きがある。
 息子が妻を介してではなく、珍しく直に物を頼みにきた訳を、彼はようやく理解した。
「ところで、なんで東京なんだ?」
 契約書の中身にはあえて触れず、彼はかねてから引っかかっていたことを口にした。新聞奨学生は地元だって出来るはずだ。息子がわざわざ遠方の地を選んだ理由を、彼は薄々察してはいたのだが、それを意地悪く息子の口から言わせたい気分になっていた。
「………」
 息子は押し黙ったまま、固い表情を崩さない。彼と息子との間には、娘とのそれとは異質のぎくしゃくしたものがある。例えて言うなら、娘は陽で息子は陰だ。娘には正面から障害に立ち向かおうとする潔さのようなものを感ずるが、息子のそれは陰湿である分、不可解で分かりづらく、始末に負えない。
「この書類、もし俺がハンコを押さなかったらどうなるのかな」
 ぎこちなく苦笑いを浮かべながら、追い打ちをかけるように彼は言った。もちろん本心からではない。固い殻を作って押し黙る息子の中に自分と同じ影を見る気がして、やり切れなかったのだ。
 気まずい沈黙が流れた。彼はいま吐いたばかりの自分の言葉をたちまち後悔した。
 まあいい、あとで書いておくよ。彼はそれだけ言い残すと、重い腰を上げた。
 書類を握り締めて仕事部屋へ入ろうとしたとき、玄関のドアが開き、ただいま、という声とともに妻が帰ってきた。
「なあに、その紙」
 彼の手にある契約書を、めざとく妻が見つける。
「ああ…、新聞奨学生の書類だ。保証人の判がいるらしい」
「そう」
 妻はそれ以上何も問いただそうとはせず、台所へ入るとスーパーの袋から品物を取り出し、黙々とカウンターに並べ始めた。彼は通路に立ったまま、所在なくそれを眺めている。
「私さ…」
 妻はそう言うと、いかにもバーゲン品らしいサンマの缶詰を音をたてて重ねた。
「パートに出ようかなって思うの」
「パート?」
「そう。仕事のほう、私がいなくてもなんとかなりそうだし、少しでも現金のあったほうがいろいろと助かるでしょ?」
 何も返答出来なかった。妻がいつかこうした話を持ち出すのを彼は恐れていた。従業員という名前で長い間妻を縛ってきたのは彼自身だった。仕事さえ充分にあれば、それは税金対策として充分に意味をなす。だが、ここ数年の赤字続きで、それはもはや有名無実のものとなっていた。妻の手伝う仕事など、ほとんどないと言っていい。
 独立なんかするんじゃなかったかな、と後悔が走る。あのときもう少し辛抱していればよかったのか。そうすれば、いまごろは首尾よくどこかの部署の課長くらいには収まっていたかもしれない。ささやかな己の充足と自負心とを引き替えに、自分は家族を苦しみの淵に追い詰めている。
 だがまて、本当に悪いことばかりだったのか。会社勤めを止め、ずっと自宅で仕事をしてきたことで、結果的に彼は家族との長く、濃密な時間を共有してきた。その積み重ねがすべて無駄だったとは思いたくなかった。勝負はまだついちゃいない。
「リストラ」とか「単身赴任」とかの言葉がマスコミを賑わすたび、彼はいつも胸の内でこうつぶやくことで、ささやかに溜飲を下げてきた。
(ふん、ざまあみろ。金じゃ買えないものが世の中にはあるんだ)
 だが、そのあと決まってこうつぶやき返す声に、彼は打ちのめされてしまうのだ。
(何をほざいているんだ。金でしか買えないものがあるじゃないか…)
「考えておいて」
 ふっと表情を緩めて妻が言う。その声には彼の決断を促す、強い響きがにじんでいる。
(俺がいくら考えたって同じだ。いつまでたっても結論など出やしない)
 彼は思わずポケットに手を差し入れる。ざくり、とした感触がある。
 冷たいアルミ硬貨は、いつの間にかその数を増していた。ぼやぼやするな、はやく手をうて。彼はそう諭す内部からの声を聞く。だがその声は、蝉のように唸る耳鳴りの音に、たちまちかき消された。

 積雪量が平年より三日早くゼロになったと新聞の気象欄が告げている。消費税率アップで五円玉が不足するかもしれない、硬貨の主役が交代だ、とテレビのレポーターが盛んにあおりたてる。街全体が北国特有の雪解けの埃にまみれている。息子の出発が迫っていた。
 冬でも春でもなかった。すべてが閉塞してしまって、行き場がない。彼はそんなどっちつかずの季節が好きではなかった。だからそんなとき、彼はいつだって家の中に閉じこもり、息を潜めて時をやり過ごしてきたのだ。だが、いまはその彼自身が、そんな季節の狭間に、さらしものになって漂っている。
 彼の中には、相変わらず冷たい硬貨の群れが居座っている。はき替えたばかりのジーパンの隅にも、仕事机の引き出しの奥にも、埃にまみれたペン立ての底にさえも、それはいつの間にか寄生虫みたいにひっそりと住み着き、彼が彼であることを忘れそうになると、決まってチリチリとぶしつけな音をたててくる。
 彼の仕事の能率は少しも上がっていない。売れ残ったマンションの完売を目指す折り込み広告のアイディアに詰まっていた。見出しのうまい文章がどうしても思いつかない。それでも何か手を動かしていないと気持ちが落ち着かず、資料棚から目についた本を抜き取っては意味もなくページを繰ってみる。
 妻が外出する気配がする。夕方の買い物に行く時間だった。彼は反射的に仕事部屋のドアを閉めた。何も仕事をしていない姿を妻に見られたくないのだ。
 彼ひとりになった家の中に、静寂が満ちた。
 数日前に妻が何気なく口にしたパートのことが胸に引っかかっている。あの日以来、妻は密かにアルバイト情報誌を買ってきて、時おり眺めている様子だった。彼はそのことに、内心穏やかならぬものを感じつつも、あくまで気づかぬ素振りをしている。
 彼は勢いよく本を閉じ、留守番電話をセットするとジャンパーをはおった。スピーカーから彼自身の応答メッセージが、誰もいない部屋の中に虚ろに流れ出る。
 何も用事などなかったが、外出するつもりだった。一日中家に閉じこもっていると気が滅入った。いい仕事をするには、気分転換も必要だ。彼は運動靴に足を突っ込みながら、そう自分に言い訳をした。

 国道沿いにぶらぶらと歩く。ついこの前まで、道端にうず高く積み上げられていた雪の山もすでになく、砂埃をあげてせわしなく車が行き交っている。
 やがて地下鉄駅近くで道を深くえぐるように流れている川の淵にたどり着く。彼は橋の欄干にもたれ、黒い川面に眼をやった。
 雪解け水を集めた川の流れは速かった。そのせいか冬の間、川のよどみで眼を楽しませてくれていたマガモの姿も、今日は見当たらない。彼はなすこともなく川面を見続けた。
 何気なく視線を土手に移すと、誰かが前年に球根でも植え込んだのか、黒い土を突き破るように小さな芽がいくつも顔を覗かせている。平らな芽の形から、それがクロッカスか水仙らしいことが推し量れた。
 そのひと群れの微かな春の兆しは、しばしの間彼の心を和ませた。しかし、同時にそれは彼の胸の奥で、かさぶたのように固まっていた古い記憶をも呼び覚ました。
 独立したてのやはり雪解けのころ、妻が三人目の子供を身ごもったことがあった。
 一向に軌道に乗らない仕事への苛立ちと将来への不安から、彼はそれを素直に喜ぶことが出来ず、かといって、「堕ろして欲しい」と妻に懇願することも出来ず、ただぐずぐずと結論を先送りしていた。
 そんな夫の心情を察してか、ほどなくして妻が用意してきた堕胎承諾書に、待ちかねていたように彼はあっさりと判を押してしまったのだ。
 あるいは妻は、生むことを望んでいたのかもしれない。やっと楽になり始めた子育てをもう一度やり直す気力はない、と妻は言い張り、あくまで堕胎は自分ひとりの意思であるかのように振る舞った。
 彼はそんな妻の思いにただ甘えるしか術がなく、マンションの一階に借りている猫の額ほどの庭先に、毎年春になると家族の数だけ律儀に花を咲かせるチューリップの中に、その年に限って一本だけ余分の小さな蕾を見つけたとき、彼はそれがまるで生を受けることなく闇に葬られた我が子の天からの無言のメッセージであるかのように感じて、しばしの間、子供じみた自虐と罪悪感に苛まれたのだった。
 苦いものが胸をこみあげてくる。俺はいつもこういう男だった…。
 救いを求めるように、彼は再び左のポケットをまさぐった。数を増した彼等は、ますますポケットの中で膨らみ始めている。彼等はいまや彼自身だった。このまま放っておけば、そのうち歩くことすら難しくなる。はやく何とかするんだ。はやく。

 日はすでに落ち、夕闇の気配が迫っていた。行き交う車にスモールライトの光が目立ち始める。
 緩い登り坂になっている歩道の向こうから、丸みのある見慣れた身体つきの女が近づいてくる。妻だった。スーパーの袋を下げたほうに、心もち身体がかしいでいる。
「何をしているの、そんなところで」
 立ち尽くす彼の姿に気づき、妻は訝しげに立ち止まる。残光に照らされた頬が朱く光っている。
「別に……、いっしょに帰ろうか」
(俺は妻を迎えにここにやって来たのかもしれない)
 そんな唐突な思いが不意に彼の中を駆け抜けた。
「変なの」
 妻の髪には近ごろ、白いものが目立ち始めていたが、黒く、丸い瞳だけは少しも昔の輝きを失っていなかった。ふたりはかって恋人同志だったころのように、肩を並べて歩き始めた。
 坂を下りて左に曲がると、住み慣れたマンションの白い壁が遠くに見えた。
「持とうか、それ」
 彼は妻の持つスーパーの袋に手をかける。
「いいわ、たいして重くないもの。それより例のパートのことなんだけど…」
「え?」
 本当はちゃんと聞こえていた。
「この前話したパートのことよ。自転車で通える場所に、手頃なのを見つけたの。食品工場で仕事は単調そうだけど、その分気を遣わなくて済みそう」
「もう決めたのか」
 彼はポケットの中にあるものを、再びきつく握り締める。
「まだよ。明日にでも電話して、とりあえず面接に行ってみようかと思うの」
 やめろよ、そんなつまらない仕事。本当は即座にそう言いたい。だが、どうしても口に出来ない。
 彼は妻に家にいて欲しいと願っていた。男の沽券とか体面とかではなく、たまにくる電話や客の応対をしてもらったり、得意先に届け物を頼んだりとかの、ちょっとした雑用をこれまでのようにして欲しいだけだった。
 そうして、仕事部屋で商売の先行きについて愚痴をこぼし合ったり、ときには取引先の連中のうわさ話をしてみたりもするのだ。そうすることで、彼はこれからも妻と同じ時を過ごしてゆける。いまのままじゃ駄目だ…。
「マックを買ってみようかと思うんだ」
 取引先の担当者の言う通りだ。パソコンを入れれば、仕事は確実に増える。そうすれば妻はパートに出ずに済む。彼は本気でそう思い始めている。
「ハンバーガーじゃないぞ。版下が出来るパソコンのことだ」
 子供たちの学費もこれで心配ない。父親としての面目も立つ。万事めでたしじゃないか。
「分かってる。この前話していたあのことね。でも、使いこなす自信はあるの?」
 妻は濃い眉をわずかに曇らせる。
「講習会に通うさ。だから…」
「だから…?」
 暮れ残る街の中で、彼はじっと眼をこらす。形はないが、熱い空気の塊のようなものが群れをなして足元から押し寄せてくる。蒼ざめた妻の顔が、薄闇の中でくっきりと浮かび上がる。
 さあ、いつまでもお前たちの言いなりになるものか。今度こそ本当にけりをつけてやる。今度こそ。
 彼はズボンのポケットに手を入れ、無節操に増え続けていまにも溢れ出しそうになった彼等をぐいとわしづかみにする。
 夕闇が色を変えてゆく。彼の周囲で音をたてて崩れてゆくものがある。妻の蒼白い顔が何か叫んでいる。
(ソレデイイノ?ソレデイイノ?)
 彼の身体が静かに沈んでゆく。妻の叫び声や、その周囲の何もかもを巻き込んで。
 崩れながら、ゆらゆら地の底へと落ちてゆく…。
                              (了)


(この作品は、第32回北日本文学賞第四次選考を通過しました)



あとがき

 小説らしきものを書き初めて5年。全国公募の文学賞で、最終候補寸前という、私にとってはこれまでで最も高い評価を得た作品です。「小説の中で現代を切る」というかねてからのテーマに正面から取り組み、自分としてもある程度満足のいく作品でした。
 タイトルにも象徴されるように、小説の中で初めて寓話的手法を取り入れてみましたが、これに関しては、効果的だったのかどうか、いまひとつ自信がありません。
 裏話をひとつしますと、この作品は一度地元の小さな文芸賞に投稿し、まるで相手にさ れなかった代物。どうしても納得がいかず、一部加筆修正して再投稿したところ、遥かに高い評価を得たという、曰くつきの作品です。
 文学の評価などというものは、人によってまるで正反対のものになるのだ、という典型ですね。

「増殖コウカ」裏話