一九九七・冬乃章

   つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
   なにせ『徒然雑記』なのだから。


十年ひと区切り/'97.12


 いつしか身についた生き方である。これと同じような主旨のことが以前、新聞に載っていて驚いた。でも、決してパクリではない。
 なぜ十年なのかと言えば、十年あれば結果はどうあれ、何かひとつのことをやりとげられると思うからである。
 私の場合、23歳に社会に出たので、そこから「十年区切り」が始まっている。
(もちろん、それまでの23年が無意味というわけではない)

■23〜32歳=「充電期」
 社会人として生きぬくための力をためよう、と思った。企業社会で生きる道は、あっさり閉ざされてしまったので、途中から「ひとりで事業を起こす」という道に方向転換した。
 その目的は当初より1年早く、32歳で達成された。25歳で結婚したが、これは当初の目標を修正するファクターにはならなかった。

■33〜42歳=「疾走期」
 事業を軌道に乗せるために、無我夢中で働いた十年だった。43歳までは、3人の子供も全員義務教育なので、あまり教育費はかからなかった。途中、家を買ったり、バブル不況などあったが、とりあえず自己破産もせず、家族5人がなんとか食べてゆける道だけは確保した。

■43〜52歳=「転換期」
 今がこのサイクルの真っ只中だ。3人の子供が、高校〜大学と進むので、経済的には一番しんどい。教育費を念頭に入れつつ、自分達の老後にそなえ、経済的、精神的な準備をしなくてはいけない。
 小説は、このサイクルの中で、大きな比重を占めるに違いない。精神的な部分(趣味を中心とする個人世界の充実)は、サッカーやインターネット、小説を中心に動いてゆくだろう。小説は53歳までに(つまり、書き始めて十年)なんとか格好をつけたいと思っているが、どうなるか?

■53歳〜 =「悠々期」?
 そんな先のことは分からない。(^-^; 仮に50歳まで生きながらえていたら、真面目に考えるとしようか。ホームページ作りは、たぶんどこかでやっているだろう。はっきりしているのは、子供達はおそらく誰も家におらず、経済的には随分楽になっているだろうな、ということだ。
 ひとつだけぼんやりと考えてるのは、レンタカーを借りて、キャンプしながらカナダを女房と二人で旅行出来たらいいな、ということ。バンクーバーに友人がいるし、カナダは昔から好きだから。
 そのためには、せいぜい長生きしなくては。 南無阿弥陀仏。




右向け左!/'97.12



 日本人はおしなべて横並び意識を好む。誰かがピアノを習い始めると、我が子だけが遅れてなるまじ、と母親はパート勤務で身銭をきってまでも我が子をピアノの前へと駆り立てるし、子供は子供で誰かがたまごっちやポケモンで得意気な顔を見せれば 、負けじとおもちゃ屋へ走る。
 若い男女がケータイ電話と無節操なセックスに走るのも「みんながやっているから」だし、おじさんだって仕事という口実で地球にやさしくないゴルフ場通いに余念がなく、パソコンブームとなれば、本当に俺にもあんなことが簡単に出来るのか、とテレビCMの竹中直人を信じ込み、大枚はたいて買い込んだ高級機をゲームとワープロをちょこちょこいじったくらいで満足に使いこなせず、あげくの果てには放り出す。

 思い起こせば、この日本人の奇妙な横並び意識は、300年に渡る長い徳川幕府の時代に、他人と違う行動をするものはことごとく排除され、謙譲や自己卑下ばかりが尊ばれ、組織に対して従順なものだけが生き延びられるという、選択の余地ない人為的な淘汰によって培われたものではなかろうか。
 だが、いつの世にもひねくれ者は密かに生き延びている。みんなが右むきゃ、左を見てみたい。いや、私はみんなの行かない左に歩くのだ。そんな逆転の発想を持った人が得をすることもたまにはあるらしい。

 映画にもなった陸軍の八甲田山死の彷徨で、場当たり的な上部の命令に従わず、自分の判断で隊列から離れ、人家にたどり着いて死を免れた兵士がわずかだがいたというし、太平洋戦争のまっただなか、鬼畜米英、一億総玉砕を信じて疑わなかった国民の中で、真実をしっかりと見抜き、家族を戦災から事前に守った勇気ある父親もいたという。
 世間がバブルに浮かれていたとき、こんな景気はまともじゃない、すぐに大不況の時代がやってくる、ときたり来る不況に備えて知恵と体力を粛々と蓄えた者だってちゃんといるのだ。

 どうやら世の中もこの「横並び意識」の問題点にようやく気づき始めたらしく、近ごろ巷では、やれ個の時代だの、家族の時代だのという声がかまびすしいが、これまでさんざ「右向け右!」の号令に飼い慣らされてきた人々が、はたしてそう付け焼き刃の号令で個だ、家族だと簡単に意識を切り替えられるものなのか、はなはだ疑わしい。
 何より、こうした動きそのものが、またぞろ「横並び意識」としてはびころうとしていることにこそ、問題の本質が隠されているというのに、いまのところ誰もそのことに気づく気配はない。




 
最終候補の候補/'98.1



 暮れから年明けにかけて、久々に胃の痛むような経験を味わった。秋に投稿してあった北陸の北日本新聞社が主催する北日本文学賞からの封書が突然届いたのが、暮れも押しつまった昨年12月28日。「応募622編の激戦の中から、四次選考通過作品23編の中にあなたの作品が残りました」という私にとっては、目もくらむような言葉がそこには並んでいた。
 手紙には通過者と簡単な経過報告を告知する新聞の切り抜きが同封されており、「この後、最終候補数編に絞りこんで、元日付の本紙にて最終結果を発表」とある。
 実は数年前にも、同じ賞の二次選考までは通った経緯があり、そのときは応募800編強の中の160編どまりだったので、それほどの興奮ではなかったのだが、今度は明らかにそのときより近い場所だ。なにせ622分の23で、まだ審査中というのだから。

 さて、それからの数日間は、かって味わったことのないような落ち着かぬ日々を過ごすことになった。賞そのものは、出版社の主催するものとは違って、それほど華々しいものではない。だが、通算32回という伝統を誇り、30枚という短編に限定された全国レベルの文学賞としては異色のものだったし、「公募ガイド」にもちゃんと応募要項が載っている。上位ベストスリーに入れば地元紙に全文が掲載されるし、万一正賞でも取れば、賞金は50万だ…。
 大掃除などしながらも、郵便配達の来る午後になると、どうにも外が気になってならない。まかり間違って正賞だったら、知らせは速達か?それとも、電話がかかってきて記者が直接取材に来るものなのか…?
 ポストを前にして頭を駆け巡るのは、そんな「取らぬ文学賞の皮算用」ばかり。
 さて、結論から言えば、待てど暮らせどポストには何も届かず、電話が鳴ることはなかった。私は落選を認めざるを得なかったが、どうしても知りたかったのは、 「自分の作品は最終候補に残ったのか?」の一点だった。なぜなら、最終候補は受賞と実質的に変わらないほどの価値がある、とかねてから聞いていたからだ。

 一月上旬に正賞受賞者とその経歴が全国紙に掲載された。もちろん正賞は私ではないし、最終候補までは発表されていない。一月半ばを過ぎたころ、私は思い余って封筒に書いてあった担当者に、直接電話を入れてみた。普通はこの種の問い合わせには、一切応じてくれないものだ。だが、この新聞社は対応が違っていた。
 名を告げた私に対し、電話に出た担当者は「ああ 、『増殖コウカ』(投稿した小説のタイトル)を書かれた方ですね」と心得た様子だった。聞けば、四次通過23編から最終候補は6編に一気に絞られたのだという。私は半ば自嘲的な口調で尋ねた。
「私の作品はもちろん入ってませんよね?」
 すると担当者は、ええまあ入ってはいませんが…、と含みのある口調。箸にも棒にもかからなかったのですね、とだめを押すようにさらに問うと、実は最終候補には残らなかったが、印象に残った作品として、講評にはあなたの名前と作品名が新聞に載っている、と言う。私の心は浮きたった。そして、ぜひともそれが読みたいと思った。

 着払いで送ってもらった新聞を読むと、最終候補の次点のような形で二つの作品が講評されており、その中に確かに私の作品があった。
(ただし、新聞そのものには「次点」という言葉は書かれていない)
 さらに細かく読むと、最終候補を絞り込むのに、選考委員の間で票が割れた、厳しい選考だった、とある。ちなみに、私の作品には、

「現代社会のはらむ精神的不安を映した作品」「切実な現代人の心理を突き、今風のさっぱりした息子や娘とのやり取りにもリアリティーがあった」
(以上、北日本新聞1998年1月1日号より引用)

とあり、特に悪いことは書かれていない。だとすれば「最終候補」から漏れた理由はいったい何か?単なる力量不足か、それとも一カ所だけあった誤字のせいか、あるいは数カ所あった表現上のまずさか…。
 そんなこんなは今となっては知る術もない。だが、小説らしきものを書き始めてちょうど5年。資質のなさと年齢的なハンデを、修練の積み重ねと試行錯誤で補ってきた日々だったが、「書くこと」に対して、ようやく一筋の光を見つけたような今回の「事件」だった。

(「ではその作品とやらを読んでやろう」という心優しく、好奇心旺盛な方は、こちらへどうぞ 。ちなみに、数カ所あったと思われる作品の疵 は、修正してあります)




買う本借りる本/'98.1



 年に50冊前後の本を読む。現代人の平均からすれば多いほうかもしれないが、およそ文学など志す者としては、この数字は甚だ心もとない。
 プロの作家や批評家、その予備軍などは、日に何冊も読む人はザラであり、年間1000冊を越える人も少なくないだろう。こうなれば、もはや読むこと自体が仕事のようなものである。
 私はもちろん、読むことが仕事でもないし、生きがいでもない。数多くある「好奇心」のうちのひとつであるから、興味を引かれた物しか読まないし、「いい小説を書きたいから」というある種の義務感に追い立てられて読むこともない。
 だから壁を突き抜けるような小説が書けないのだ、と言われても仕方ないが、小説は私のすべてではないので、これでいいと思っている。

 ところで私には、「買って読む本」と「借りて読む本」のふたつがある。その分かれ目は「折ったり、線を引きたくなる本かどうか」の一点である。当然ながら借りた本を折ったり、線を引いたりなど出来ない。
 これは私の長年の癖なのだが、ピンと琴線に響いたフレーズがあると、まずページの右上、あるいは左上を小さく内側に折る。そして、やわらかめの鉛筆、カラーマーカーなどで線を引く。時には色とりどりの付箋をつけたりする。そのうえ、折り目や付箋に小さくメモを書き込んだりもする。
 こうして見るも無残な姿に変身してしまった本は、仮に別の人が読んだとき、嫌でもその数々のマークに目がいくことになり、どうやらそれが予め筋書を聞かされた推理小説を読まされるような気分になるようで、家族などにはすこぶる評判が悪い習癖である。
 だが、独自のルールで作りあげるこの「自分印の本」は、あとから読み返して内容をチェックするときなどに非常に能率がよくて便利このうえなく、やめられそうにない。

 ではいったい、「線を引きたくなる本」の基準は何かと言えば、サッカーやらパソコンやら建築やらの主に「解説本」「教則本」のたぐいがその部類である。以前は小説も買って同じように折ったり、線を引いたりしていたのだが、最近はそこまでして手元に置いておきたくなるほどのすごい小説にはめったにお目にかかれず、従って小説はもっぱら図書館から借りて読む日々である。




彷徨える現代人/'98.1



 矢沢が出ている缶コーヒーのCMで、最近おもしろいのがある。寝ている矢沢を起こす目覚ましアラーム音。突然現われた、妙にヒューマナイズされたロボット。いきなりその目覚まし時計をひねりつぶしてしまう。慌てる矢沢。そこへ携帯電話のベル。待ってましたとこちらも叩き壊すロボット。
「そういうのお前の仲間だろ〜が」ととがめる矢沢に「い〜じゃナイデスカ、こんな物にあくせく追い立てられなくたって」と涼しい顔のロボット…、とまあ、おおよそこんなシナリオである。
 もっと人間らしくゆったりやりなよ、コーヒーでも飲んでさ、という現代社会への忠告を、他ならぬ近代文明の申し子であるロボットから受けるというアイロニーがなんともおかしい。
 まるで「電脳社会は幸せをもたらさない!」などという意見をインターネットで堂々と発表してみたり、「私はマスコミがきらいだ!」とテレビでタレントがわめいてみたりするのと同じで、彷徨える現代人にとっては、笑い事ではないかもしれない。

 このCMの最後に登場する携帯電話に関して、感ずることがある。いまや老若男女の必需品と化しつつある様相の携帯電話だが、実は私はいまだにケータイなるものを所有していないし、使ったこともない。
 インターネットにすぐに飛びついたように、私自身は決してこうした電脳機器のたぐいにアレルギーがあるわけではない。私がいまだに携帯電話を持っていないのは、とりあえずせっぱつまった必要性に迫られていないこともあるが、なにより、先のCMのロボットが指摘するように、どうしても「あくせく追い立てられる」印象が拭い切れないからである。
 仕事上どうしても必要なときが来れば、FAXを初めて買ったときのようにあっさり買ってしまうのだろうが、それほど必要でないものを単なる好奇心だけで買ってしまうには、維持経費が少しかかり過ぎる。

 だが、先日読んだ携帯電話に関する新聞記事に、信じられないことが書いてあった。なんと、携帯を所有する人々の多くは、年齢を問わず、誰かと常に繋がっていたいから持っているのだ、という。それほどまでして「繋がっていたい」相手とは、いったいどれほどの間柄なのか、口をはさむのはここでは慎みたいが、考えてみれば、月々1万円程度で精神の充足が本当に得られているのだとすれば、案外安い投資なのだろうか。




不整脈/'98.2



 昨年の秋口から不整脈に悩まされている。何の予告もなしに、脈がつまづくような感じになったり、間隔が異様に速くなったりする。ひどいときは胸が息苦しく、眠ることさえ出来ない。
 忙しさと煩わしさに横着して、ここ10年ほど定期検診など受けたことがない。もうすぐ50の峠に差し掛かることだし、ここはひとつ久しぶりに健康診断でも受けてみるか…。軽い冷やかしのつもりで、市が40歳以上の成人を対象に行っている「すこやか検診」なるものにおもむいた。
 ここ10年、歯科と皮膚科以外の病院の門をくぐっていない。開業当初に極度の運動不足が原因で発病した腎臓結石は、その後の摂生で完治したし、多少の風邪はひいても常備薬ですぐに治ってしまう。少しばかりの心臓のざわめきなど、たいしたことはあるまい…。そう見くびっていた。
 ところが、二日後の診断結果の書類を見て、私は思わず血が逆流するのを感じた。そこには医者の書いたこんな文字が並んでいた。

「右室(右心室)肥大の疑い有。要、精密検査」

 医者はクールな顔でさらりと言った。
「実は心電図に異常が出ましてね、自覚症状もあるようだし、この際、大きな病院で一度見てもらったほうがいいと思うのです」

 昨秋にやはり心臓の異常が見つかり、8時間に及ぶ大手術を経て一命をとりとめ、未だ入院中の妻の義兄のことが頭をかすめる。一匹狼の私がもしも入院、手術となれば、たちまち収入は跡絶え、治療費は国民健康保険の重い3割負担。わずかな蓄えはすぐに底をつき、一家は路頭に迷ってしまう。
 運よく命をとりとめたとて、その後の日常生活に制限が加わることは必至だし、そうでなくても仕事が少ないこのご時勢、半病人に任される仕事は限られてくる。自分の生命保険の死亡保証額はいくらだったか、入院保証費は…?
 紹介された総合医院への凍てついた道のりで、頭を通りすぎるのはそんな最悪のシナリオばかり。

 さて、それからの一週間余は、かって一度も経験のないまさに検査漬けの日々だった。問診、聴診、触診はもとより、前や横からのレントゲン、安静心電図、運動負荷心電図、エコー検査、24時間心電図…。
 最悪だったのは「運動負荷心電図」だった。身体中にセンサーのチップを張り付けられ、腕にはゴムバンドを幾重にも巻つけられ、上半身裸のままでアスレチッククラブのランニングマシンさながらにすさまじいスピードで回転するゴム板の上を、延々と走らされるのだ。
 日頃の運動不足からか、足は引きつり、汗は飛び散り、目はうつろ。要注意で検査にきたはずの我が心臓はもはや爆発寸前。そしてそのとき、またしてもあの忌まわしき不整脈が続けざまに起こった。

「苦しいですか?」と涼しい顔で傍らの医者。「くくく…」言葉にならずに完全に口パク状態。そのとき、脈拍計の数値は160をはるかに超えていた。
「ああ、やっぱり不整脈が出てますね」あくまでクールな医者。こちらは器械が止まってようやく一息つくことが出来たが、今度は噴き出した汗のせいで、どっと寒気が襲ってきた。
 その後、24時間連続の心電図をとるためにチップを張ったまま記録テープをかついで丸一日を過ごし、すべての検査が終わったあとには、マシンによる腰痛、長時間の裸と汗による39度の高熱で、丸二日も寝込む羽目に。
 何のことはない、精密検査などに出向き、わざわざ病院から二つも病気を背負込んできた間抜けはこの私なのだった。

 そして検査の結果発表の日。まるで合格発表を見る受験生の境地で、私はこわばった顔でまたまた医者の前に座っていた。

「心因性期外収縮ってやつですね」
「心因性ですか?」
「そう、構造的な異常ではなく、ストレスなどの要因で心拍に異常が出るのです」

 手術や入院の必要はとりあえずないが、ストレスの元になることは極力避けるように、と医者は言い、薬局で手渡されたのはなんと一袋の精神安定剤だった。それにしてもストレスが原因の不整脈とは…
「好きなように生きていて、どんなストレスがあるの?」と問われそうだが、もちろん心当たりはちゃんとある。なんとか排除しなくてはいけない。寿命ならばあきらめもつくが、すき好んで命を縮める必要は何もないのだから。




職 業/'98.2



「お仕事は何を?」と問われると、答えに窮する。 「建築パースを描いてます」と正直に答えてしまうと、ほとんどの人が「建築パースって?」と怪訝そうな顔を見せるので、「建物の完成予想図ですよ、ほら、マンションの広告チラシとかによく描いてあるでしょ…」などと、うだうだと説明を加えてやっと納得してもらう。時間がある場合はまだいい。問題は口頭で説明する時間がないときだ。
 育ち盛りの子供が3人もいると、書類などに何かと父親の仕事を書き込む機会が多い。こんな場合は面倒を避けて、単に「自由業」と書いて逃げる。
「自由」という響きはとても好きだし、一見正体不明で実態がよくつかめず、受け取り側に「おや?」と思わせて煙に巻く効果もあるようなので、とても重宝している。辞書によれば、「時間に縛られないで、独立していとなむ職業」という広い意味があるので、ずばりこれである。

 ところが、この方法にも欠点がある。相手を煙に巻けるうちはいいのだが、敵もさる者、「具体的に」と断り書きが添えられていて、こちらの思惑を見事に外してくれる書類にもまれに遭遇する。
 実際、「自由業」と書くと一見響きはいいが、実際の仕事は何をしているのか分からず、相手を不安に陥れることも多々あるらしい。ヤクザやポン引きのお兄さんだって立派な自由業のような気もするし、 あやしげな連中は、たいてい自由業にあてはまりそうだ。
(ちなみに、辞書には「弁護士、医者、著述業など」と但し書きがある)
 で、こうした書類にはどう対処するかといえば、仕方なく「建築デザイナー」という分かったような名前を書き込む。本当は「建築設計士」と書ければいいのだが、それほど設計らしき作業はしていないし、誰かの書いた図面をもとにあれこれと構成し、より格好よく建物を描くわけなので、これがいまのところ実態に一番近いのじゃないか、と自分では思っている。

 ところで、世の中には私以上に正体不明の仕事に従事していて、呼び方に苦慮している人々が大勢いるらしい。
 昔は単に「パートタイマー」と呼んでいたのが、いつのまにか「フリーター」などという自由業よりももっと怪しげな呼び方に化けた例もあるし、山に入って自給自足の生活をして本を出したり、マスコミに出たりしている人が「ナチュラリスト」というこれまたよく分からない名前の職業だったりする。
 もっと分からないのは、一冊本を出しただけで、または一冊も本を出していないのに延々と「作家」であり続ける人もいるし、何ひとつ実用新案や特許を獲得してなく、ただ芥ガラクタの山に囲まれて暮らしているだけなのに、平気で「発明家」になってしまう人もいる。
 また、かっては社会的地位の高かった人によく見られるものに、「元……長」などと昔の肩書きを堂々と職業欄に書き込む例がある。これなどは「元はエラかったけど、いまは無職なの〜」と公に宣言しているようなもので、不可思議さを通り越してむしろ微笑ましいものさえ感じてしまう。

 こう考えると、職業などというものは結局、自己申告の「趣味」の領域に限りなく近づいていて、私の好んで書く「自由業」とやらも、どうやらこれにぴたりとあてはまりそうだ。