第12話
  回収不能金



北国の小さな家



 ひょんなきっかけで、マンションという生涯初めてといっていい大きな買い物をした私たちだったが、幸いなことに、家を買ってからの仕事は順調そのものだった。クライアントも次第に固定され、開業四年目を過ぎたあたりからは、毎年安定した収入を維持出来るようになっていた。
 これは日頃から妻ともよく話すことだが、お金は使うと不思議に一回りして自分に戻ってくるものだとつくづく思う。ひたすら貯めていてばかりでは、何も起こりはしない。使い古された言い回しだが、やはり「金は天下の回りもの」なのである。

 しばらく中断していた趣味の分野に手を広げる余裕が出てきたのもこの頃だった。転居を機に大がかりな家具作りに手を染めたし、家族キャンプや外国人のホームステイ受け入れを始めたりもした。子供たちとのサッカー遊びにもいっそう熱が入った。
 当時大人気だったNHKのテレビ番組で、「大草原の小さな家」という連続ドラマがあった。愛し合う家族が、開拓当時の西部で時には傷つきながらもつましく、たくましく、助け合って生きていく物語である。
 私たち一家は、毎週欠かさずこのドラマを見ていたが、とりわけ父親であるチャールズの生き方に、私は強い影響を受けた。貧しいが、人生に対して決してひたむきなものを見失わない彼に、いつしか自分の姿を重ねあわせていたのかもしれない。自分や自分の家族もあんなふうに生きて行けたらいい。ドラマを見ながら妻と共に涙を流し、いつもそんなふうに考えていた。



事業専従者という名の鎖



 しっかりとした生活の基盤が出来、子供の手が徐々に離れ始めたこの頃から、妻は時折外に働きに出たいと口にするようになった。
 ちゃんとここで働いて給料も貰っているじゃないか、やり繰りして残った分は全部君のものだよ、と私が諭すと、でもほとんど生活費で消えちゃうし、ちっとも自分のお金って感じがしないわ、と口をとがらせる。
 妻には私に負けず劣らずの意固地な部分があり、おそらくは私のテリトリーの下での仕事や金というものに、強い抵抗があったのだろう。
 個としての自分に強いこだわりを持つそんな妻の生き方をすでに充分察知していた私は、「末の子が中学生になるまでは家にいたほうがいい」などと子供をだしにし、なんとか彼女を思いとどまらせようとした。本音はもちろん別にある。

 開業当初から妻は、事業専従者という一種の従業員のような立場にあった。あくまで帳簿上のことだが、私が毎月ちゃんと給料も支払い、その旨を税務署に届けてもいた。それに見合うだけの働きを妻がしていたのは言うまでもないが、そんな形を望んだのはあくまで私のほうであり、妻は言われるままにそれに従っただけである。
 私が事業専従者という立場にこだわったのは、税務上有利であることのほか、二人共同で事業を営みたいという強い願いがあったからである。自分が展開する事業を妻が助手として助ける。長い目で見ればそれは彼女自身の生きがいにもつながる。そう信じて疑わなかった。運命共同体としてのつながりを、実務面でも意識面でも妻に要求したのだ。
 妻には元来、自分の生きがいや居場所作りにこだわる部分があった。わずか五年の間に三人の子供の出産、そしてそれに続く子育てという女としての大仕事は、一時的には妻の居場所として大きな位置を占めたことは間違いない。だが、子供はいずれ手を離れる。子育ては結局、女にとってのついの生きがいには成り得ないのだ。
 夫である私と四六時中対峙し、助手として仕事を手伝う生活に妻が息詰まりを感じていることは充分に承知していた。だから自分が外に働きに出る。つまりはかって私たちを悩ませ、引越しという大イベントによって沈静化していた「夫在宅症候群」の再発というわけである。

 妻は新婚のときも一度パートに出たことがあった。根底にある理由はそのときも同じだったはずである。だが、それも結局長続きはしなかった。外に勤めに出ることが新たなる妻の生きがいに成り得るかどうかは、はなはだ疑問だった。
 それでも妻の気が済むなら勤めに出ることを許そうか…、一時はそんなふうに心が揺れた。勤務時間をうまくやり繰りすれば、助手としての手伝いとの両立も可能かもしれない。
 だが、結局私は妻の事業専従者にこだわった。夫に依存しない自立した女性の理想像を、妻に求め続けた。そのためには私の助手としてばりばり働き、社会の第一線に出て職業女性として君臨するのが一番の近道だ。そんな自分のエゴを強引に押しつけようとした。問題はそれを妻自身が望まなかったことにあり、この行き違いの火種はいつまでも私たちの間で燻り続け、やがては決定的な波乱を私たちの間に巻き起こすことになる。



ナシのつぶて



 妻との間の出口の見えない行き違いが続く一方で、事業では代金回収に伴う様々なトラブルが頻発した。
 もともとが技術屋で職人かたぎの私は、技術に関しては「何とかなるだろう」という楽観的な見通しを持っていた。しかし、こと営業とか代金回収ということになると、ずぶの素人と言っていい。一生懸命やった仕事の報酬が、もしかすると空手形で終わってしまうのではないか?という懸念は常に私につきまとい、不安に陥れた。
 仕事が増えると、相対的にそうした危険も増すことになる。私が最初に代金未回収の危機に遭遇したのは、たぶん家を買った次の年あたりだったと思う。

 創業時にDMを大量にバラまいたとき、一度だけ使ってくれた広告プロダクションの担当者から、数年ぶりにひょっこり電話があった。聞けば、今度独立して仕事をやることになったので、ぜひ私のパースを使いたいとのこと。初対面のときの印象は悪くなかったので、スケジュールを調整して受けた。
 仕事は地元では大手の観光ホテルのものだった。北海道南部の景勝地に新しいホテルを建て、大々的にキャンペーンを張るという。外観、室内などあわせ、パースの量は相当なものだった。仕事が面白くてたまらない時期だったこともあり、精力的にノルマをこなした。

 担当のN氏は事務所を一切構えず、独りで営業回りをしながら仕事をやり繰りしていた。組織はなく、私と同様の一匹狼である。いや、自宅兼用ながらも事務所を構え、設計事務所登録などしていた私のほうが、むしろ世間的には信用があったのかもしれない。私の当初からの微かな不安は、実はそのあたりにあった。
 最初の納品はわずかだったので、予定通りお金は支払われた。何が気に入ったのか、私と同年代のN氏は頻繁に家に出入りするようになり、昼時には昼食を出すことも度重なった。やがて彼女を連れてきて私たち夫婦に紹介し、明け方まで飲み明かすまでの間柄になった。
 いま思い返せば、仮にも取引先の担当者とここまで深入りしてしまったことに、私たち夫婦のほうにも隙があったのかもしれない。

 売掛金がかなりの量になったころ、彼からの連絡がぷっつりと途絶えた。こちらからかける電話にも全く応答がない。自宅の住所宛に請求書を毎月欠かさず出したが、なしのつぶてである。困り果てた私は、住所を頼りに彼の自宅まで押しかけたが、所在はどうしてもつかめなかった。

(だまされたか…)

 そう疑わざるを得なかった。同業者に聞いてみると、四年近くも商売をやっていて、一度もそんな目にあっていないこと自体が奇跡に近い、とあっさり言われ、そんなものなのか、と妙に感心させられる。
 重い足で税務署に出向き、こうした未回収になりそうな売掛金の税務上の処理について尋ねてみた。すると、一年間請求書を送り続けても回収出来なければ、「売掛金債務免除通知」なるものを相手に内容証明郵便で出し、その時点でようやく「貸倒金」として認められて全額が経費扱いになるという。出来ればそうした事態だけは避けたかったが、納品してからすでに半年以上が過ぎ、街には師走の風が吹き始めている。回収は極めて困難な状況と思われた。



お金はいりません



 暮れも押し詰まった十二月三十一日。大掃除も終わり、ほっと一息ついて風呂に入っていたころ、突然けたたましくインタホンが鳴った。応対した妻が、玄関口で何やら押し問答している。

(N氏だ…)

 湯船につかりながら、直感的に私はそう思った。浴室のドアを開けた妻が、「Nさんがお金を払いたいって来てるけど…」と困惑げに告げる。

「お金はいらないから、帰ってもらってくれ」

 即座に私はそう告げた。はったりや強がりではなかった。あと数時間で新年を迎えようというこの時期に、私との信頼関係を一方的にぶちこわしてくれたN氏の顔など、見たくもない。忘れた頃に突然金を持って現れた彼に、どことなくうさん臭さも感じた。30万近い金は自分にとっては大金だったが、この際いい勉強代と考えようと思った。
 私も妻も決して玄関の鍵は開けなかったが、N氏はドア越しに「すみません」を連発し、「とにかくお金は置いていきます」と言い残し、ポストに何やら押し込むと、足早に立ち去っていった。

 年が明けて数日たち、再びN氏が現れた。さすがに今度は私も中に入れたが、それからのことは思い出したくもない不愉快な時間である。
 私とN氏は封筒に入ったままの金を間ににらみ合った。N氏は新しい仕事の図面の束を小脇に抱えている。案の定、新しい仕事と引き換えに、金を支払おうという魂胆である。もしかすると、ホテルの責任者あたりが以前の私のパースを気に入ってくれて、再度指定でもしてきたのだろうか…。だが、もうそんなことはどうでもいいことだ。

「もうあなたと一緒に仕事をする気はありません。次の仕事を受けるという条件でのお金なら、受け取りませんよ」

 私ははっきりそう言った。N氏と取り引きする気は二度となかった。格好良すぎるかもしれないが、世の中にはやはりお金よりも大切なものがあると思う。30万のお金より、私は人と人との信頼を大切にしたかった。
 押し問答のすえ、N氏はお金だけを置き、次の仕事の図面と持参した手土産は持ち帰った。私はクライアントをひとつ無くした形になったが、それでよかったのだと思う。



紹介仕事の覚悟



 長い間仕事を続けていると、いつの間にか知人の輪が広がるもので、ときには「今度私の友人を紹介するから、ぜひ仕事をやってあげてよ」と、新しいクライアントを紹介されたりすることは、一度や二度ではない。
 紹介してくれる側は、私の仕事ぶりを見て善意で仕事を回してくれるわけだし、仕事の少ないときにはこうした好意は、大変ありがたいものである。だが、この種の紹介仕事には大きな落とし穴があるから、よくよく覚悟のうえ受けなければならない。私の場合、こんな苦い経験がある。

 あるとき、日頃から世話になっている人から仕事を紹介された。「広告プロダクションを経営している知人の友人」という話に、ちょっと嫌な予感が走ったが、ともかくも打合せにおもむいた。
 仕事は若い女性向けマンションの室内パースで、備品や部屋の雰囲気などの要求が細かく、かなり面倒な内容である。事前に見積をだし、OKが出たのできちんと仕上げて約束通りに納品した。ところが、納めにいったその日に、担当の社長(といっても、ここも実態は個人経営だった)が不思議なセリフを吐いた。

「作品はこれでいいんだけど、お金のほうをもっと安くしてくれないかな?」

 私は思わずむっとして言い返した。

「お金の件でしたら、当初の見積で話がついているはずですし、この仕事は予想より手がかかりましたので、これ以上とても安くはできません」

 取り引きの最初から値切ってくる相手こそ要注意なのだが、私も悪徳商人や守銭奴ではないから、「この仕事は予算がないんで、これこれで出来るだけのことをやって欲しい」と最初から言ってくれれば、手を抜かずにそれなりの仕事はする。いや、逆に最初からそう言ってくれたほうが、意気に感じて価格以上に一生懸命やる「浪花節タイプ」なのである。
 そうした手順を踏まず、 見積を出させていったんはOKを出しておきながら、いざ品物を握るやいなや、何の説明もなしに、ただ闇雲に「安くしろ」では筋が通らない。納品前に値切ると手を抜かれるとでも考えたのだろうが、その考え自体にすでにさもしさがちらついている。紹介仕事とはいえ、相手の理不尽な態度が、どうにも許し難かった。

 不愉快な気分のまま仕事は終わったが、案の定ここでの売掛金八万円也が、待てど暮らせど入ってこない。
 半年近くが過ぎたころ、困り果てた私は、仕事を紹介してくれた人に相談に行った。驚いたその人は、その場で相手に電話で掛け合ってくれたが、けんもほろろに応対され、打つ手なし。直接の知り合いではなく、「知り合いのまた友人」という遠い関係が結局あだとなった。
 紆余曲折のすえ、数ケ月後に五万円だけが入金となったが、残金はとうとう入ってこなかった。なぜ五万円だったのか、理由はいまだに不明である。たぶん差額の三万は値切ったつもりなのだろう。
 私も半分意地になり、差額の三万の請求書を一年間延々と出し続けたあと、税務署の指導通りに内容証明郵便で「債権放棄通知書」なるものを送りつけ、とにもかくにも一件落着となった。しかし、このときの未回収金三万円也は、思い出すといまだに腹の虫が治まらない悔しい汚点である。



紹介仕事の責任



 さて、今度は紹介された話ではなく、反対に自分が仕事を紹介したときの失敗談である。

 忙しいときに同業者に仕事を回し、互いにやりくりするのはどの業界でもよくある話である。この業界もその例外ではなく、私の場合はちょっとしたいきさつで知り合った、若いがその堅実な仕事振りが信頼出来る同業者のSさんと、かなり密接な関係を長い間保っている。
 このSさんにまだ充分なキャリアがなかった頃のことだった。図面が充分に整っていないレストランのイメージパースの仕事の依頼がきた。相手はまだ取り引きの浅い広告プロダクションである。
 あいにくそのときの私は大量の注文を抱えており、とても受けられる状態ではない。いったんは断ろうとしたが、先方のたっての頼みに、ふとSさんのことを思い出した。図面が充分でない、という点が気にはなったが、彼女に仕事を回した。

 数日後、プロダクションの社長から立腹した様子の電話が入った。

「あのパースは使えないよ。家具がスケールアウトなんだよ。あれじゃ店が狭く見えるって、客がすっかり怒っている」

 社長は一方的にSさんを責める。紹介した私にも当然非があると言わんばかりだ。まずはいったん電話を切り、すぐにSさんに電話を入れた。すると、そもそも打合せ時点から建物のスケールがあいまいで、平面図のドアを目安にだいたいの家具の寸法を決めたという。時間がないという理由から、先方もそれは承知だったとのこと。私はこれを聞いて頭を抱えた。
 事件の発端はスケールがはっきりしない図面で仕事を発注した社長にあり、それを受けたSさんは、とんだ災難のような気がした。要するにSさんはその若さのせいで、海千山千の社長になめられているのだ。私の紹介ということで、やりにくい面もあっただろう。
 最初の打合せに私が出向けば、こんなふうなあいまいな指示のまま、仕事を始めることはなかったかもしれない。だが、いまそれを持ち出しても事態は少しも進展しない。

 重い気持ちで再度プロダクションに電話を入れた。仕上がったパースのコピーをFAXで送ってもらうと、細かい家具を入れ込んだ部分の修正は難しく、描き直すしか手はなさそうだ。納期を尋ねると、明日までだと社長はせっつく。

「それでは私が描き直しましょう」

 即座にそう答えた。自分も多くの仕事を抱えてはいたが、そんなことを言ってはいられない。私にはSさんに仕事を回した責任があった。
 徹夜で仕上げた仕事を翌日届けた。
(ちなみに、こういうときの私の仕事は、自分でも異常と思えるほど早い)

「私の分のお金はいりません。二枚分の予算はとてもないでしょう。ただし、最初の仕事の分だけは、約束通りSさんに払ってあげてください」

 今後、こういうあいまいな指示での仕事は、私にもSさんにも出さないで欲しい、と釘をさした。納得ずくで仕事を発注したのなら、非を一方的に下請け孫請けに押しつけられては困る、とつけ加えるのも忘れなかった。
 仮にも仕事をくれるクライアントに対し、少し態度が横柄過ぎないか?とおしかりを受けそうだ。人によっては、たぶんもっとうまいやり方があるのだろう。だが、このあたりは長い間に染みついた私の世渡り下手、生き下手な部分であって、いまさらどうしようもない。
「理不尽な相手には、はっきり物を言う」これが無骨で頑なな私のやり方だった。
 結局このプロダクションとはこのことがきっかけで縁が切れた。未収入金とは全く違った形だが、この件は結果的に報酬の得られなかった私の数少ない仕事のひとつである。



約束の意味



 長年やっている中で遭遇したいろいろなトラブルの大半はお金がらみである。結果的に払ってくれたとしても、約束の期日を守ってくれない相手は本当に困る。何しろこちらはしがない個人事務所だから、予定していたお金が滞ると、たちまち家族が路頭に迷ってしまう。

 私がこれまで何らかの形で金銭トラブルに巻き込まれた相手を分類してみると、組織的では法人が三で、個人が三である。相手が法人であっても個人であっても、約束を守らないことに変わりはないことが分かるが、取引先全体の比率から言えば、断然個人の割合が多い。やはり法的責任が薄いという理由なのだろうか?いや、私自身が個人経営である経験から言えば、やはり行き着くところはその人の人間性なのだと思う。

 私が先に書いたSさんに直接仕事を発注する場合、そのお金が元請から入金にならなくとも、三十七日後にはきっちり現金で支払う。
「都合のいいときでいいですよ」と、長年の信頼関係があるSさんは優しく言ってくれるが、その言葉に甘えたことは一度もない。当座の金がないときは、定期預金を取り崩してでも払う。
 人との約束を守ることは、結局は自分を守ることだ。たとえだまされたとしても、だます側には決してなりたくない。

 座興のようになってしまうが、私なりに培った「信用出来る会社(人)」の見分け方を記してみる。内容が多少独善的かもしれないが、私自身が常日頃心がけていることでもある。

●最初に行ったときに、会社の概要や支払い条件をきちんと説明してくれる。
●支払いに嘘をつかない。(遅れる場合は、その旨ちゃんと連絡をくれる)
●仕事前におおよその予算を教えてくれる。
●仕事の予定がずれたときは、きちんと連絡をくれる。
●都合で作業途中でキャンセルになった場合でも、何らかの形で埋め合わせをしてくれる。
●金銭や物、接待での見返りを要求しない。(こちらから進んでお礼をする場合は別)

 さて、こうして滑ったり転んだりしながらも、ゆるやかに時は流れた。年によって多少の波はあったが、平均的なサラリーマン並みの収入はどうにか確保出来ていた。そんなころ、堅実な生活を歩んでいた私たちに、予想もしない大波が襲いかかろうとしていた…。