第13話
  狂乱バブルがやってきた



奇妙な胎動



 1988年、私の仕事は開業七年目に差し掛かっていた。年によって多少のばらつきはあったが、それまでの事業収入は、おおむね公務員の平均給与程度で安定していた。当初は大きな不安の種だったマンションのローンも支払いが滞ることはなく、私たちの生活がもともと堅実だったせいもあって、毎年いくばくかの蓄えを残すことも出来た。
 ところがその年の春あたりから、何となく仕事の動きがおかしくなった。仕事が入らないのではなく、入り過ぎるのである。特に大規模マンションの依頼が目立つようになった。
 私の仕事の形態は家内工業そのものであり、手間のかかる大型マンションの仕事は、そう数多く受けられるものではない。だが、そんな私の都合など無視するように、仕事は次々と舞い込んだ。

 例年仕事が一段落するはずの四月を過ぎても、一向に仕事は途切れない。仕事が切れないこと自体は、本来喜ぶべきことなのだろう。だが、私のように骨身を削るように仕事の山を集中的に片付けていくタイプの者にとって、数ケ月も休みなしで働き続けるのは、身体にも精神にも決して良いことではない。
 身体は休暇を欲しがっているが、仕事は波のように押し寄せ、まともな休暇がとれたのは、結局夏も終わりに近づいた旧盆の頃という有様である。街は活気づき、道には車が溢れていた。新聞の経済欄を眺めると、上場企業の株価は高騰を続けている。どうやら日本はいま、好景気に差しかかっているらしい…。
 街には「愛が止まらない」の歌声が鳴り響いていた。歌は時代を反映するという。まさにこのときがそうで、一度動き出した大きなうねりは、簡単には止まりそうになかった。



必ず一度はあるいいとき



 夏が過ぎ、秋がやってきても仕事の波は治まらなかった。開業の年も嵐のように過ぎ去ったものだったが、全く別の意味で、この年も嵐のようにあわただしく過ぎ去った一年だった。
 結局その年の総収入は過去の最高記録をあっさり100万円以上も更新。必要経費を差し引いた所得も過去最高額で、ついこの前辞めたばかりと思っていたサラリーマン時代の年収の倍近くにまで、一気に駆け昇っていた。
 そんなとき、会社勤めの頃に聞いたある上司の言葉を、ふと思い出した。彼はサラリーマンから独立自営、その後失敗してサラリーマンに逆戻り、という苦い経歴を持っていた。

「菊地君、自分で仕事をやってるとね、必ず一度はいいときがくるよ。『こんなに貰っていいのか?』って思えるほどね。でもね、なぜだかそういう時は長続きしないものなんだよ。なぜだろうね…」

 なぜ事業をやめてしまったのですか、とそのとき上司に尋ねたと思う。当時私はすでに独立退社を密かに決意しており、いいときが続かなかった訳よりはむしろ、この上司が事業をやめた訳が無性に知りたかった。上司の言葉尻に彼が挫折し、再び宮仕えに戻った鍵が隠されているように思えた。
 だが上司は、「たぶん酒が飲めなかったからだろう…」と寂しく笑って言葉を濁した。私はその言葉にいまひとつ納得が出来なかった。酒が飲めないことだけが事業失敗の理由というのは、どう考えてもおかしい。その場しのぎのごまかしのように感じた。ひょっとすると、彼自身も失敗の原因を分析しきれていなかったのかもしれない。本当はもっと別の理由があるのではないか?たとえば、その「いいとき」をうまく事業運営に活かせなかったとか…。
 しかし、それ以上の詮索は相手に対して失礼だった。以来、時は遥かに流れたが、そのときの会話だけは深く胸に刻み込まれていた。もしかして、これがあのとき上司の言っていた、「一度は必ずやってくるいいとき」なのだろうか…。

 独立自営に限らず、「人生にはいいときが必ず一度はある」とよく言われる。長く大工の棟梁を務めていた私の父にも、ご多分にもれずそうした時期があった。確か私が七、八歳のころで、「面白いようにもうかる」と眼を細めていたものだった。半世紀近くが過ぎたいまでも、時折当時のことを語ることがあるくらいだから、余程いい時期だったのだろう。
 だが、かっての上司と同じように、父のいい時期も数年続いただけで、決して長続きはしなかった。すると、いまの私の好調も、ひょっとすると束の間の夢なのか?



そんな値段でいいの?



 年が明けても、仕事の量は相変わらずだった。同じ不動産会社から、一度に三棟も同時にマンションの依頼がきたこともあった。仕事が集中すると、(もし明日また別の仕事の依頼がきたら、どうやって断ろうか…)という、馬鹿げた恐怖心にとらわれた。
(仕事はもうこれくらいでいいから、もっと休みが欲しい…)そんなぜいたくな悩みをいつも抱えていた。
「地上げ」という、おかしな言葉が毎日のようにマスコミを賑わした。どうやら好景気の原動力は、桁外れの不動産需要によるものらしかった。六十三年続いた元号が昭和から平成へと変わり、新しい時代への期待と予感が、人々の浮きたつ気持ちに拍車をかけた。

「パースの描き手がいない!」という悲鳴が、あちこちから聞こえ始めた。同じ広告代理店やプロダクションで、描き手の奪い合いになった。
「お金は言うだけ出すから、とにかく描いて欲しい」そんな依頼主まで現れた。地方都市ということもあり、描き手の数は知れている。急に仕事が増えたからといって、そう簡単に対応出来るものではない。
 建築パースという仕事自体が、もともと促成栽培のきかない仕事である。苦肉の策として、パースには全く縁のないイラストレーターまでが駆り出された。需要に供給が追いつかないのだ。作品の質は相対的に下がっていったが、それでも需要は減らなかった。

 こうした経済の論理で、パースの価格がじりじり上がっていった。開業当初は1万5千円で請け負っていた戸建て住宅のパースが、1万8千円から2万円、そしてすぐに2万5千円まではね上がった。わずか一年足らずで、1.7倍の高騰である。
 だが、さすがに私は2万5千円の伝票を切る気にはなれなかった。それまで、それなりにキャリアを積んではいたので、2万円くらいまでの価値はあるだろうと自負はしていた。だが、いくらなんでも2万5千円はない。自分の作品に、そこまでの価値があるとはとても思えなかった。
 他の業者が価格をどんどん吊上げているのを尻目に、私は2万円の伝票を切り続けた。その価格でも十分に利益は出た。分不相応の金はいらない。そんな私に対し、「あまり相場を崩さないで欲しいな」と、やんわり諭す同業者もいた。「そんな値段でいいの?」と価格の安さをクライアントから指摘されたことさえある。
 格好つけずに、貰えるものは貰ってしまえばいいじゃないか。そういう考えもあっただろう。だが、私があえて意地を通したのは、そうした一連の急な動き自体に、どこか嘘臭いもの、うさん臭いものを感じとっていたからだった。



真夜中の打合せ



 この時期の騒動を象徴するような出来事がある。ある「億ション」(一戸の売出し価格が1億以上のマンションを当時こう呼んでいた。すでに死語に近いが、当時の狂乱ぶりを象徴する言葉である)の仕事で、依頼主の不動産会社の社長が、建物のコンセプトをじかに説明したいので、パースの描き手に直接会いたいという。
 その億ションは、札幌近郊の緑に囲まれた小高い丘の中腹という素晴らしい展望の地に建てられる予定だったが、ただ豪華な材料を使うばかりで、全体のバランスが悪く、外装はピンクの総タイル張という悪趣味なもの。「超豪華」という要求が元来が貧乏性の私に合わなかったこともあり、何となく気は進まなかったが、普段世話になっている会社からの依頼だったので、忙しい中時間を割いた。

 約束の夕方五時に先方に着いたが、社長とやらは不在で、待てども待てども一向に面談がかなわない。

「地方での打合せが長引いて、到着が少し遅れます」

 担当者はそう言ってひたすらわびるばかりで、退屈な時間がむなしく過ぎた。八時を回ったころに夕食が出され、ほっと一息つくが、その食事こそがさらなる長期戦への前触れだったのである。
 時折入る社長の車からの自動車電話(当時、携帯電話はまだ普及しておらず、自動車電話がひとつのスティタスだった)からの連絡は、到着の遅延を告げるものばかり。忍耐の時間がひたひたと流れ、ようやく社長が現れたのは、時計が零時近くになってからだった。
 七時間遅れの深夜の打合せがようやく始まった。会議室の中央に腰を下ろした四十代前半のいかにもやり手そうな社長がまず口にしたのは、その億ションにかける自分の意気込みだった。ところが、その話がまさに立て板に水。自分がスコップ一丁からその会社を興し、年商何十億という大企業に仕立て上げるまでの苦労話にまで及び、留まるところを知らない。何のことはない、打合せとは名ばかりで、実態は社長の独演会である。
(この社長がのちに北海道、いや日本を揺るがすほどの大事件の渦中の人物になろうとは、まだ誰一人知る由もない)
 さんざ待たされたあとは、ひたすら聞かされるだけの忍耐が続き、すべてが終わったのは、夜中の二時近く。あとに残ったのは、独演に酔いしれた社長の満足顔と、疲れ果てた私たちのあきらめ顔だった。

 明け方近くに自宅に戻った私を、妻は心配顔で出迎えた。

「あの社長は下請け、孫受けを人と思っていない。だから真夜中に何時間も人を待たせて平気なんだ。いまは威勢がいいが、そのうち会社は必ず左前になるな」

 私は半分やけ気味で、そんな言葉を吐いた。
(このときの私の予言が、のちに見事に的中する)



家を出る迷いと怖れ



 仕事の活況に伴って、助手としての妻の仕事も急増した。時には食事をする暇もないほどの忙しさが、否応なしに私たちを追い立てた。金が充分にあれば生活は安定し、夫婦仲も円満になる。世間一般の価値判断からすればそういうことなのだろうが、私たち夫婦の場合は必ずしもそうはならないことは、開業時にすでに実証済みである。
 仕事の多さに反比例するように、日常での妻の塞ぎ込む場面が目立って増えていた。妻を追い込んでいるのは仕事であり、ひいては金である。こと私たちに限っては、金と不幸は背中合わせなのである。事態をそんなふうにさせた張本人はこの私だった。
 夫婦はまさに危機的状況だった。困り果てた私は、仕事仲間から紹介されたイラストレーターの卵や近所の奥さんを第二の助手に仕立て上げ、それまで妻が担当していた作業の一部を外注に出したりした。留守番電話やファクスを活用し、電話番としての妻の仕事もなるべく少なくした。妻の負担を少しでも減らせば、夫婦の間は改善に向かうのではないかと、いちるの望みを託した。

 ところが、夫婦関係は一向に改善しなかった。私たちは事あるごとにいがみ合い、ぶつかり合った。事業を始める以前には決してなかった大声を出しての口論が頻繁に起きたのもこの頃からである。「日々の問題は置き去りにしない」が、かねてからの私のモットーであり、夫婦間の絶対ルールでもあったので、私も妻も正面からぶつかり合い、傷つくことを怖れなかった。
 口論のきっかけは取るに足りないことばかりだった。うまくいっていない男女にとっては、どんな些細なことでも争いの種になる。
 この頃、口論の最後に妻は決まってある言葉を発し、そして飲み込んだ。

「それでも駄目ならもう…」

 それが諍いの打切りを告げる合図だった。それ以上言うな…、と私は強く心で願った。そのあとに続く言葉を私は怖れた。もしもそれを口にしたなら、二人の破局は決定的なものとなる。そんな強い予感があった。私にはまだ妻が必要だった。

 私には打つ手がもうほとんど残されていなかった。要は私が家を出、独りで事業を切り盛りすればすべて解決する、そうぼんやりと考えた。仕事は余るほどあり、金だけは充分にあった。都心でもワンルームマンションならば借りられないことはない。簡易ベットを持ち込み、忙しいときはそこに寝泊まりしてしまえばいい。近所に安いアパートを借り、そこへ毎日歩いて通うことも考えた。交通費がかからず、職住が完全に分離される。リスクの少ない現実的な手段だった。
 ところが夫婦の関係が比較的穏やかな時期を見計らって私が持ち出すこれらの案に、なぜか妻はいい返事をしなかった。明確な理由はいまもはっきりとは思い出せない。好景気の先行きを心のどこかで案じていたのか、あるいは私の子育てへの関わりが希薄になることを危ぶんだのか…。とにかく、妻の口から出たのは、「やめたほうがいいと思うわ」といった曖昧な言葉だったように思う。
 もしかすると妻は、私が家を出て仕事場を外に構えること自体が事実上の夫婦別居につながり、二人の関係が決定的に壊れてしまうきっかけになることを本能的に予知し、怖れていたのかもしれない。もしそうだとしたら、私と同様に妻もまだ私を必要としていたことになる。



高率ローンの一括返済



 1989年の事業収入は前年度をさらに上回り、それに比例して納税額もうなぎ登りに増大した。
 扶養家族の数、確定申告の形態などで差がでるので一概には言えないが、一般的に所得が増えれば増えるほど、納める税金の割合も増える。いわゆる「累進課税」というやつで、たとえば所得330万までなら税率は10%で済むが、330万を越えるといきなり20%にはね上がる。稼げば稼ぐほど、もっていかれる勘定だ。
 当時の私の場合、「程よい稼ぎ」つまり、それほど税金をとられずにすむ粗収入(経費や扶養控除などを差し引く前の収入)は、500万前後だった。このラインを越えると、もろもろの税金が飛躍的に増えてしまうのである。
 現実には所得税のほかに、個人事業税、住民税、国民健康保険料のはてまでが、前年の所得を基準に算出される。おおざっぱな言い方をすると、それまで100万の所得に対して10万の税金で済んでいたのが、30万くらい払うような勘定になるのだ。

 一生懸命働き、納税という形で国に貢献するという考えも悪くはないかもしれない。だが私はそれほどの愛国者でもなく、それなりに食えて行ければ満足、というマイペースの生き方を選択している。
 そんな私たちでもこれだけ仕事があると、100万を軽く越えるもろもろの税金を支払ったあとに、まだかなりの余剰金が手元に残った。何やかや言っても、私たちはそれなりに「狂乱」の恩恵に授かったのである。
「狂乱」の恩恵を受けた人々は身の回りにもたくさんおり、高価なぜいたく品や海外旅行にその多くを費やす人々も少なくなかった。では私たちはその「恩恵」をどうしたのか?
 ここで私たちは実に私たちらしい、つましい行動に出たのだ。余剰金を住宅ローンのまとめ返しにあてたのである。

 以前にも書いたように、かなりの無理をして組んだ住宅ローンの一部には、利率が8.82%という目の飛び出るような高率のものが含まれていた。利率の低い住宅金融公庫はさておき、この高率のローンを早く返済しておかないと、のちのち痛い目に会うのは目に見えている。教育費のあまりかからないいまこそが、この高率ローンを返すときだ…。
 そう考えた私たちは、踊る世間の人々には惑わされず、ひたすらそれまでの生活ペースを守り通した。結局借りてから五年目にあたる1989年に、この350万円の高率ローンのすべてを返済し終えた。このときの英断が、のちに訪れる大不況で、私たちを窮地から救うことになるのだ。



事業拡大の甘い触手



 世の不動産をめぐる一連の動きは、次第にエスカレートしていった。

「俺の建てるホテルは、こんなに小さくない!」

 ある観光ホテルの仕事で、図面通りに描いたパースに対し、そんな理不尽なことを言われたこともある。こう言われれば、泣く泣くスケールをデフォルメして描き直す破目になる。注文主のわがままと言ってしまえばそれまでだが、金さえ払えばどんな要求でも許される、言い方を変えれば、「札束で横っ面をひっぱたく」そんな依頼が横行したのもこの頃だ。
 外観のラフスケッチを描いただけの計画段階で、マンションが丸ごと売れてしまったことも、一度だけではない。買い手の大半は本州の土地成金だった。首都圏の土地を売って得た膨大な資金の税金対策として地方都市のマンションを買い、不動産業を営むという仕掛けだ。だが、高価なマンションにそうやすやすと借り手が見つかるはずもなく、多くのマンションは空き家のまま放置されていた。そんな実態のない空商売が公然と横行していた。

 世間が騒がしくなるにつれ、いろいろな方面からあの手この手の甘い誘惑が、一介の個人事業主に過ぎない私にまでむけられた。

「どうです、この際、人を使って事業拡大してみる気はありませんか?仕事ならいくらでもあるし、応援しますよ」

 複数の取引先からそんな話がきたこともある。いつまでも個人経営でもあるまい。いい機会だからこの際人を雇って法人化し、事業の拠点を都心に移さないか、という甘い誘いである。マンション購入のときには見向きもしなかった大銀行の支店長が直接我が家を訪れ、手のひらを返したような態度で事業への融資を申し出たりした。

 こうした数々の甘い誘いに対して、一時は心を動かされたことも正直いってあった。同業者もこぞって人を増やし、事業拡大へと走っていた。関東地区から建築パース会社の札幌進出があったのもこのころだ。事業に対し、誰もが攻めの姿勢だった。
 だが、最終的に私は攻めではなく、守りの戦術を選択した。理由は簡単だった。一連の世間の動きが、私にはどう考えても本物とは思えなかったからである。マンションを一棟丸ごと買い、空き家のまま放置するような商売は、まともじゃない。そんなものはただの幻想に過ぎない。人々はただ実態のないものに酔っているだけだ。それに惑わされてなるものか。幻はやがて消える。私は私のペースを守っていこう…。
 手を広げれば収入はもっと増えるに違いないが、それと引き換えに失うものもきっと多いだろう。自宅を拠点に事業を繰り広げることに対する利点と欠点は、すでに充分知り尽くしていた。私にとっては様々な煩わしさを差し引いても、利点のほうが遥かに多いように思えた。
 結局私は目先の金より、一人でやっていく気楽さ、そして時には甘く、時にはせつなくてやっかいな家族との濃密な関係のほうを選んだのである。



踊る人々



 尋常とは思えない好景気は、いつ果てるともなく続いていた。多くの企業が好景気で得た富で、海外の不動産、絵画、骨董品のたぐいを買い漁っていた。

「グアム島なんか丸ごと買っちゃえばいいんだ」

 そんな思い上がったコメントが、テレビの番組で飛び出したりもした。必要に迫られて、あるいは知的好奇心にかられて等々の理由でなく、単に利殖や税金対策が目的で買い漁るわけだから、まともな神経の持ち主からは、当然批判を浴びる。数十億で購入したゴッホの名画を、自分の棺桶の中に入れて燃やして欲しいと公言し、世界中からひんしゅくを買った日本の企業経営者をご記憶の方も多いだろう。
 容易には取り返せない、多くの大切なものを日本人はこの時期に失ったのだと思う。

 この時期の好景気を、経済学者は過去の好景気になぞらえていろいろと名前をつけたがっていた。いわく、神武景気、イザナギ景気を上回る好景気なのだから、やはり日本神話にちなんだ天皇の名がふさわしい。過去の好景気に比べて持続性があるから、女神の名がふさわしいのではないか、等々。
(最終的に「バブル景気」という学者の意に反した情けない名前がつけられたのは、もちろんすべての宴が終わったあとのことである)
 誰もが好景気に酔っていた。経済の専門家である大学者までが誰一人警鐘を鳴らそうとはせず、世間の人々と同様にはしゃぎ回っていたのだから、あきれる。

 そもそも、経済学者の景気予想など、あまりあてにしないほうがいい。不景気のときに「もうすぐ景気は回復する」と予測して期待をもたせるより、「まだまだ不景気は続く」と言ったほうが無難で、学者としての地位は安泰だからである。現状維持の予測ならば、たとえ外れたとしても、世間の非難は小さい。同じ理由で、好景気のときに「この景気はもうすぐ終わるよ」などとは、仮に思っていたとしてもなかなか言えないというわけだ。
 結局、自己の保身を第一に考える者の言うことなど、真に受けるとこちらが泣きをみる。たとえどんなに弱小であっても、自ら事業を興し、維持していこうとする者にとっては、あくまで真実をかぎわける自分自身の嗅覚だけが頼りなのである。

 月日はめぐって1990年の年が明けた。三年目に突入した好景気の波は、相変わらず持続しているように表面的には見受けられた。だが、その流れにわずかな陰りがさそうとしていた。