第4話
  一級取ったら辞めるんだ



次は一級建築士だ



 建築パースの勉強をひと通り終えた私は、次に一級建築士の資格をめざした。二級建築士の免許は1976年に交付されていたから、実務四年で受験資格が生ずる。つまり1980年、私が三十一歳になるときだ。
 当り前だが、建築パースの仕事に一級建築士など必要ない。「建築の専門知識」ということだけなら、二級で充分だ。だが、私はぜひとも一級の資格をとろうと思った。なぜそんなことにこだわったのか?その理由は三つある。
 ひとつは、合格率が非常に低い資格にあえてチャレンジすることで、自分の不屈な精神を再確認したかったこと。ふたつめは、たとえ必要がなくとも独立して仕事をするうえで、一級建築士の資格は取り引き先に大きな信用となるだろうということ。そして三つめは、万が一事業に失敗したとき、再就職により有利な資格を得ておきたいという、いわば「脱サラ保険」のような考えだった。
 一級建築士を持っていれば四十歳くらいまでは比較的楽に再就職出来る、という状況はすでに下調べしてあったし、妻子を抱えて自分の好きなことをやり始めるわけだから、やはりこれくらいの準備はしておきたかった。

 建築パースの通信教育が終わったのが1978年。翌年から本格的な勉強を始めた。基本的なやり方は二級を取ったときにすでに身についているので、あとは受験内容にあわせて学習期間を少し長めにとればいい。
 1980年夏、受験の年がやってきた。ほほ予定通り勉強は進み、まあこんなものかな、という感じでまず学科試験に臨んだ。ごう慢と思われるかもしれないが、合格する自信はあった。そして予期した通り、学科合格の通知が届いた。
 建築士の試験はふたつの山がある。最初の山は四科目にわたる学科試験で、この合格率が15〜20%。ふたつめの山は学科試験合格者だけに許される製図試験で、こちらがおおむね50%前後の合格率だった。(両方通しての合格率は当時で10%弱)
 つまり、学科さえ合格してしまえば、大きな山を越えたことになる。その関門をあっさりクリアしてしまったことで、(あとは何とかなるさ)という緩みが自分の中にちらつき始めていた。その甘さが、結果的に自らの足元を思いきりすくうことになろうとは…。



まさかの製図不合格



 学科試験合格後、製図試験までは一ケ月くらいしかない。つまり、この時点で相当の勉強をしておかないと、合格はおぼつかないのである。いま振り返ってみると、気持ちの中に奢りと緩みがあったために、私はこの製図試験の傾向と対策が充分でなかった。二級のときだって製図は一ケ月そこそこの勉強で合格出来たじゃないか、という過信が意識のどこかにあった。
 さて、製図試験の蓋を開けてみると、私の甘い期待は見事に裏切られた。二級のときには通用した「ヤマ」が、あっさり外れてしまったのである。
 以前にも書いたように、私の父はかって大工だった。私も幼い頃から木造建築の現場を見る機会が多く、感覚的に理解していたのだと思う。二級の製図試験は木造住宅である。だから私は短い準備期間でも合格出来たのだ。だが、一級の課題はコンクリート構造の大型建築、しかもその年の課題は「スポーツ施設を持つ地域コミュニティーセンター」という、実に的の絞りにくいものだった。

 発表を見るまでもなく、結果は不合格だった。その昔、大学受験を失敗したときに匹敵する挫折感に私は打ちのめされていた。このままだと脱サラもおぼつかない…。そんな弱気の虫が湧いてくる。
 だが、神はまだ私を見捨ててはいなかった。一回に限ってだが、学科試験免除で翌年の製図試験を受けられる、という特例があった。

(よし、来年こそ必ず合格する。一級を取って、そうしたら会社を辞めるんだ…)

 私はそう自分に言い聞かせ、くじけそうになる気持ちを必死で支えようとした。



辞めるための環境作り



 一級の勉強をしつつも、会社での私は少しずつ辞めるための準備を始めていた。すでに触れたように、当時私は上に課長のいない係長職にいて、非常に多忙な毎日を送っていた。
 どんな理由にせよ、いざ辞表を出してみて、「ああ、そうですか。それじゃどうもご苦労様」と会社があっさり辞めさせてくれるとはとても思えなかった。辞めるにはそれ相応の環境作りが必要だった。

 そこでまず、暇を見ては自分のやっている業務のマニュアル作りを少しずつやった。いまでいうファーストフードチェーンの「標準作業マニュアル」のようなものである。
 汚水処理プラントの設計作業のすべてを網羅するつもりだったので、作業は非常に複雑だった。参考になるものもほとんどなく、すべて各種資料を元に独りでやらざるを得なかった。各機器の標準図作成や選択基準はもとより、コンクリート構造物の構造計算基準、電気系統の標準化にいたるまで、設計業務の大半を数量化、マニュアル化した。完成するまで、一年近くかかったはずだ。 (余談だが、このとき作った基礎資料が、近年の業務電算化の折に大いに役だったと風の便りに聞いた)
 次にこれを課内に配布し、男女別に徹底的に教えこんだ。作業時間や仕上がり面での能力差はあったが、一年ほどで設計指示書に簡単なメモを記入してやるだけで、全員がほぼ私と同じレベルの図面を仕上げられるようになった。
 さらに私は、能力のある社員に目星をつけ、個別指導で徹底的に鍛えこんだ。つまり、密かに自分の「後継者」を育てようと企てたのである。

「仕事をやる人間、やれる人間のところに仕事は集まってくる」という奇妙な論理に、当時の私は気づいていた。(この野郎、鼻をあかしてやるぞ)と意気込んで仕事をすればするほど、まるで関係のない部署や下請け会社からまでも、湧き出すように次々と仕事が集まってくる。
 あるときは営業の女子社員から頼まれて難しい技術的な問い合わせの電話を代わったり、あるときは地方の営業所長から特殊プラントの概算見積りを頼まれたり、あるときは管理課から完成プラントを管理するコンピュータープログラムの解析を頼まれたり、といった具合だった。
 自分の業務に直接関係のない仕事は断わってしまえばいいようなものだが、そこが規模の中途半端な会社の悲しさ。業務の拡大に社員教育が追いつかず、いろいろな専門知識を幅広く身につけた、いわゆる「つぶし」の効く社員が社内にほとんどいない、という惨状だったのだ。



約束手形って何?



 こうして管轄外の仕事をやって、私が損ばかりしていたかと言えば、そんなことは決してない。確かに時間的には非常に厳しく、辞めるまでの数年間は、朝九時に出社してから午前中はほとんどがこうした社内外の問い合わせに忙殺される日々だった。信じられないことだが、電話じゃラチがあかぬ、と私の机の前に問い合わせの順番待ちの列が出来ることもしばしばだった。
 だが、こうした業務をこなすことで、結果的に私は自分を自然に高めることが出来たし、社内外に幅広い人脈(実体は「お友達」に限りなく近い)を得ることも出来た。こうした人脈を利用して私は、独立にあたって必要と思われるさまざまな知識を吸収していった。
 社外の業者からは「下請けの悲哀」のようなものを肌身で感じることができたし、社内の別部署の社員からは自分の苦手な分野の知識を得た。
 あくまで私は技術屋だったので、税金とか伝票だとかの経理、工務関係のことに非常にうとかった。いざ個人で事業となれば、必ず金がからんでくるのは目にみえている。どんなに技術的に優れたものを持っていても、お金のことでだまされては、それこそ元も子もなくなってしまう。
 そこで暇をみてはこうした「お友達」のところに出向き、さまざまな質問をぶつけて自分の血肉にしていった。

「約束手形ってよくいうけど、あれは小切手とはどう違うの?」
「売掛金ってのは、つまりは自分のお金なんですか?」
「源泉徴収って、やっぱり税務署に収めるもの?」

 昼休みに囲碁など打ちながら、さり気なくそんな質問を浴びせかける。問われるほうはその道のプロなので、懇切丁寧に教えてくれるのだが、あまりに私の質問が専門的なので、「なんでそんなことまで聞くの?」としまいにはいぶかられる始末。
 そんなとき私は「いや〜、そのうち地方の出張所にでも飛ばされたときのための準備にね」と笑いとばしてごまかしたものだが、もしかすると問われたほうは私の本意を薄々察していたかもしれない。



独立のための資金作り



 建築士の資格取得や建築パースの技術習得など、独立という夢にむけての具体的な準備にまい進しつつも、一方ではより現実的である独立資金の準備もまた怠りなかった。来るべき日のために、最低限の資金だけは確保しておかねばならない。
 すでに触れたように、私の貰う給料は働きの割には少なかった。「残業はしないさせない」が係長としての私のモットーだったので、手取額は知れたものである。だが、妻も私も堅実で倹約家だった。子供は次々と生まれたが、銀行預金の残高もまた着実に増えていった。独立への第一条件は、まず満たしていた。

 私が当時描いていた独立にむけての大まかな資金調達計画は、以下の通りである。

●事業資金:100万円
●当面の生活費:250万円
●非常用資金:100万円

 まずはアパートの一室で絵筆一本からスタートをきろうと腹を決めていたので、引越し資金やアパートの敷金、足りない画材や細々した事務用品を含めても、事業資金は100万円あれば充分のはずだった。
 生活費は、万一事業が芳しく進まず、無収入がしばらく続いた場合でも、何とか家族が一年踏ん張れるだけの金を想定した。当時子供はまだ未就学児ばかりだったので、切り詰めれば充分足りる額である。
 非常用資金は家族の予期せぬ大病や事故などに備えた金である。もちろん自分にはそれなりの生命保険を掛けてあったが、何が起こるか分からないのが人生の面白さであり、怖さでもある。独立して二十数年が経ち、その過程では家の購入を始めとして様々な家計の危機が訪れたが、この非常用資金100万円の確保だけは、一度も怠ったことがない。

 以上の合計額は450万円となる。当時といまの物価の差を考慮しても、独立資金としてはかなり少ない数字のはずだ。
 他からの借金は一切考えなかった。もしも事業に失敗したとき、リスクがあまりに大き過ぎるし、家族の理解も得にくい。必ず成功するという自信もなかったし、独立はあくまで自分の身の丈に合った形でやりたかった。
 結果的にこの目標は退社時までにほぼ達成することが出来たが、どんな事業をどんな形で事業を展開するか、また家族構成とその年齢、本人とその家族の生活形態等の各要素によって、この額は大きく変わってくる。
 自己資金がゼロでの事業展開は事実上困難だが、充分な額さえあれば首尾よく進むと保証されているわけでもない。そのあたりが難しいところだ。ただ、うまくいかないことを資金のせいにはしたくない。そのための準備は日頃から怠ってはならない。



上司は部下のセックスにまで干渉する



 ちょうど最初の一級建築士試験に落ちた頃、札幌の実家である事件が起きた。義兄が膵臓ガンのため、入院わずか一ケ月、三十六歳の若さで急死してしまったのだ。
 私には女兄弟しかおらず、長女の夫で実家にも近いところに住んでいた義兄を、両親は何かと頼りにしていた。建築関係の小さな施工会社を経営していた義兄は、私の独立計画にも賛同してくれ、「もし食えなくなったら、ウチで手伝ってもらってもいい」とまで言ってくれていた。その義兄が急死したことで姉はもとより、私の実家、そして私自身も大きな心の支えを失っていた。
 冷たい骸と化してしまった義兄を前にし、私は人生のはかなさを身にしみて感ずると共に、自分も悔いのないように人生を送りたい、という強い思いに改めて捕らわれていた。
 退社の時期が早まりそうだ、と私は思った。どうせ決めたことなのだから、なるべく早く会社を辞め、故郷に戻る。そうすれば憔悴している姉や実家の両親の心の支えに、今度は自分がなれる。そんなふうに考えた。そのためには翌年の一級建築士の試験に、何としても合格しなければならない。

 翌年の一月、まるで義兄と入れ替わるように次男が生まれた。私にとって三番目の子だ。打ち明けるとこの子は、「出来ちゃった出産」である。こと子作りに関しては、私たち夫婦はとてもいい加減で、物差しで測ったような計画出産など出来るはずもない。だが、たとえ子作りはいい加減でも、仕事や退職準備はちゃんと計画をたててやれる。それでいいと思っている。
 話が少し戻るが、結婚一年目に高松支店勤務を命じられたとき、直属の上司は現場に赴任する私をつかまえ、こんな忠告をした。

「現場で奥さんが身重だと、何かと足手まといになる。君の子供の予定はどうなっている?」

 大きなお世話だ、現場の仕事と女房の腹と何の関係がある、と私は思った。怒りをこらえつつ、いまのところありません、とぶっきらぼうに答えると、まあ君もまだ若いんだからうまく産児制限して、赴任中は身軽でいてくれ、と安心したような顔で上司は言った。私生活への過剰干渉、男から男へのセクシャルハラスメント、外国ならば裁判ものである。
 先にも触れたが、そのとき妻のお腹の中にはすでに長女が宿っていたらしい。後でそのことを知ってその上司がどんな顔をしたのか、私は知らない。もしそのとき私が、「実は出来ているかもしれません」とでも答えていれば、はたして辞令は撤回されていたのだろうか。
 はっきりしていたことは、事に及べば上司は部下のセックスにまで立ち入ってくる、という事実だった。会社、組織とはしょせんそういうものだ。



辞める時期は向こうからやってくる



 同じ年の春に製図課題が発表されると、必勝を期して試験勉強に励んだ。学科試験は免除されるから、すべてを製図課題に集中出来る。「一浪受験者」の特典である。
 うまい具合にその年の課題は、前年度に比べてはるかに取っ付きやすいものだった。考えられる資料をすべてそろえると同時に、万全を期し、建築の専門学校の主催する「建築士試験準備講座」なるものに初めて通うことにした。
 それまで私は塾だとか予備校とかいうものをあえて拒みながら人生を送ってきた。いろいろな意味での独学は、人生の中で自然に培った私の大切な人生訓だった。ここでそれを崩すのは正直いって不本意だったが、いまはそんなこだわりを捨てるべきだと考えた。考えられる手はすべて打とう。失敗はもはや許されないのだ。
 受講料も決して安くはなく、まだ週休二日ではなかった当時、貴重な休日である日曜をすべてつぶしての一ケ月は辛かったが、耐えた。そして受験の日がやって来た。前年とは別人のような落ち着いた気持ちで試験に臨み、確かな手応えで図面を描き終えた。講座の効果は絶大だった。私は合格を確信した。

 受験後、本格的に退職の準備にとりかかった。業務の引き継ぎは何とかなりそうだったし、義兄の急死は会社にも知れ渡っていたから、「故郷に戻って姉の引き継いだ会社を助ける」という口実を設ければ円満退社まちがいなし、と踏んだ。
 辞めても元の会社から仕事を分けてもらうわけでなし、問答無用で強引に辞めてしまってもよさそうなものだったが、私の性格上、どうしてもそれは出来なかった。
 街には寺尾聡の「ルビーの指輪」が記録的な大ヒットで流れていた。1981年の秋だった。私はその年いっぱいで退社することを決意していた。会社規約などから逆算し、二ケ月前までには辞表を出す必要がある。一級建築士の合格発表は十一月下旬だったが、それを待ってはいられない。辞めるならいまだ、と思った。時は熟していた。辞めるタイミングは向こうから勝手にやってくる。



辞表と合格



 十一月上旬のある日、私は前日に書き上げた辞表を懐に出社した。直属の上司である部長は忙しい人で、日中はほとんど席にいない。それでも何とか部長をつかまえ、「実は折り入ってお話しが…」とひとけのない会議室に連れ込んだ。

「いったいどうしたんだ」

 普段とは明らかに違う私の物腰に、いつもはライン業務を任せきりの部長も、さすがにただならぬ気配を感じたようだった。

「実は会社を辞めさせていただきたのです」

 一息にそう言って懐から辞表を取り出した。さすがに声は上ずり、封筒を持つ指先が震えた。
 そんな私の突然の申し出をまるで予期してなかったのか、部長は思わず絶句し、う〜ん、と唸ったまま頭を抱え込んだ。私は思いつく限りの理由を並べたて、どうしても辞めるという強い決意を表わした。
 分かった。役員ともよく相談してみるよ。しばらくしてから、ようやく部長はそう言って渋々辞表を受け取った。

 辞表を出した中ぶらりんな立場のまま、一級建築士の合格発表の日がやってきた。発表は確か平日で、私は昼休みに昼食も取らず、当時山手線の有楽町駅近くにあった東京都庁へと出向いた。この目で合否を確かめるためである。
 合格を信じてはいたが、やはり直前になると不安が襲ってくる。震える手で合格者名簿をめくった。

 あった!名簿の中で私の名が小さく光っている。そう見えた。(やった!)思わずそう小さく叫んでこぶしを握った。その瞬間、たとえようのない喜びが身体の底から沸き上がった。すぐに妻に連絡し、続けて北海道の実家にも電話を入れた。
 人生には(生きていてよかった)と心から思えることが、必ず幾度か訪れる。少なくとも私はそうだった。苦難の末の大学合格、自転車での日本一周成功、妻との愛を確かめあったとき、自分の子を初めて持ったとき…。
 これまでの人生の中でも、数え上げるといくつかあるが、この一級建築士合格の喜びは、その中でも間違いなくベストスリーに入る。そしてそれは九年間にわたる私のサラリーマン生活のエピローグでもあった。



そして退職の日



 辞表を提出してからの一ケ月、私は何度か担当常務などに呼ばれ、話を聞かれたが、何をどう言われたからといって、いまさら決意が揺らぐはずもない。
 会社側は私の胸の内にある不満を薄々察しているらしく、しきりに探りを入れてくるが、私はそれをおくびにも出さず、ひたすら「死んだ義兄と両親のために…」で押し通した。
 日本人はおしなべて「親」だとか「死者」だとかの浪花節に弱い。その会社も決して例外ではなく、私はたくさんの責任ある仕事を抱えていたにもかかわらず、意外にあっさりと退社を許されることになった。
「姉の会社を助ける」という退社理由は、もし私が事業に失敗すればその通りになったかもしれないが、しょせんはその場しのぎの嘘である。これに関しては亡くなった義兄をダシに使ったようで小さな罪悪感に襲われたが、事実故郷に戻って半年くらいはいろいろと姉が引き継いだ会社の手助けをしたので、義兄もきっと天国で許してくれていると思う。

 忘れもしない1981年の暮れ、私はついに九年間勤めた会社を後にした。屈辱のプロジェクト解散で退職を決意したあの秋から、はや七年が過ぎ去っていた。予定の十年より、一年早い退社だった。
 関東の冬空は、まるで私を祝福するように青く晴れ渡っていた。私は三十二歳になったばかりで充分若く、人生に対して怖れやあきらめではなく、まだ夢や期待を抱いている時期だった。

 その日、私はいつもとは違うコースをとって帰路についた。少し遠回りだが、会社のビルがよく見える道を選んだ。九年も勤めれば、嫌なことや悪い思い出ばかりでなく、いろいろな意味で自分を成長させてくれたプラスの面も少なからずその会社にはある。私は少しばかりの感傷に浸りたかったのかもしれない。
 振り返ると、慣れ親しんだビルの屋上にある会社のロゴマークが、青空の中で小さくなって見えた。私はそのとき、自分にとってのひとつの旅がいま終わり、新たなる出発点に自分が立っていることを強く感じていた。