第5話
  煙草断ちして願かける



筆を捨ててエアブラシへ



 1981年末、念願がかない、私はついに九年間勤めた会社を辞めることが出来た。だが、仮に脱サラを百メートル走にたとえるなら、私はまだスタート台に足をかけてもいないような状態。せいぜい、レースにそなえてサブトラックでアップに励むランナーのようなものである。本当の意味での勝負はこれからなのだった。

 辞めたあとの事業は建築パース一本に絞っていたので、辞表を出す数年前から私は新聞の折り込みチラシや広告を集めたり、パース関係の専門書を買うなどし、資料と情報収集に努めていた。
 当時、建築パースのタッチ(描法)は筆書きが主流で、私が通信教育で会得した技術もこれだった。だが、もともとが機械屋で固いきっちりした画法を得意とする私には、この筆書きの柔らかなタッチがどうにも肌にあわず、通信教育でもこの過程はやっとの思いで仕上げた苦い経験がある。
 ペンや鉛筆を使ったモノクロ作品であれば、普段の仕事柄慣れているので自信があったが、いざ独立して事業を構えるとなれば、当然カラー作品の注文にも応じなければならない。果たしてこんな私に、プロとして満足いく作品が納められるのだろうか?
 不安に苛まれつつ、建築パースに関するいろいろな資料を調べていたとき、ある画材店で、自分の運命を大きく左右することになる一冊の本にまたしても出会う。

「現代パースの着彩テクニック」山城義彦著/グラフィック社

 この本には、従来からの絵の具と筆を使った手法の他に、注目すべきテクニックが懇切丁寧な解説つきで掲載されていた。それは当時、まだ一部のイラストレーションでしか使われてなかった「エアブラシ」という技術を使った画期的描法だった。
 エアブラシとは、文字通り筆を一切使わず、空気(エア)を筆(ブラシ)代わりに使うというもので、本来は写真修正や塗装などに用いられていた技術だが、それをパースに応用しようというのである。
 まず最初にペンで枠取りした絵に透明な専用シートを張り、必要な部分だけはがしてはエアーガンと呼ばれるピストルのような道具にカラーインクを入れ、ノズルから霧のように噴き出させて色をつける、というものだ。

 私はこの描法にがぜん注目した。新描法ということで、タッチも非常に新鮮だったし、何より苦手な筆を一切使わないで済む。色が混じらないように、ミリ以下の単位でシートを切り刻むという作業も、細かいことが好きな自分むきだった。扱う道具がメッカニックなものであることも、元来が機械屋である私の好奇心を揺さぶった。
 難点は設備に10万円近くの投資が必要なことで、筆に比べると相当な出費だった。そしてタッチが新しすぎることが、ユーザーのニーズに合うかどうかも不安材料だった。
 だが、私はここでまたも大きな賭けに出た。自分の描法をエアブラシ一本に絞ることを即断したのだ。斬新なタッチはいずれ必ず時代のニーズが訪れる、と読んだ。そしてこのときの思い切った決断は、のちのち私を窮地から救うことになるのだ。



見本作りの日々



 辞表を出したのは暮れも押しつまってからだったので、明けて三月に私は故郷の札幌に戻って事業を始める予定でいた。当時定着し始めた言葉で言えば、いわゆる「Uターン」というやつである。
 独立にあたって、元の会社のコネを使う気は最初からなかったし、当時地元の工務店に勤務していた父親に、何らかの形で世話にもなろうとも思わなかった。やるならあくまで何の色にも染まっていない、まっさらな状態から始めようと頑ななまでに思っていた。であれば、なぜ私は故郷、札幌での開業にこだわったのか?
 就職したてのころ、企業社会の最先端で一泡吹かせてやろうと思っていた野心のようなものがもろくも崩れ去ったこと、そして親が札幌に住んでいたことなども確かに理由のひとつではある。だが、本当のところは、やはり単純に北海道が好きだったからである。大都会の暮らしは自分の肌には合わないということが、九年間の生活で嫌というほど思い知らされていた。

 引っ越しは長女の幼稚園などの手続きから逆算し、三月上旬と決めた。具体的に行動するまで、ちょうど二ケ月の準備期間がある。会社へはもう行かなくていいので、時間は充分過ぎるほどあった。総額10万円をはたいてコンプレッサやエアガンなどのエアブラシ専用道具を買いそろえ、この突然出来た膨大な時間の大半を、もっぱら建築パースの見本作りにあてた。
 当時、幾日もかけて作り上げた六ページにわたる「独立開業までのチェック表」を広げてみると、一般住宅、マンション、室内など、バリエーションを変えた見本を九種類作ったことになっている。

 最初にエアブラシで描いた作品は自分で設計した二階建住宅で、まさに習作そのものだったが、初めてにしては自分としても満足のいく出来映えだった。エアブラシ独特のグラデーションがきいていて、筆で描いたのものに比べても遜色ない。

(これならいける、きっとやれる…)

 私は建築パース屋のプロとして、なんとかやっていけそうな手応えを、初めてそのとき感じていた。



独立した先輩から学ぶ



 建築パースの習作と見本作りをする一方で、豊富にある時間を有効に使って、異業種ですでに独立した経験を持つ人々を訪問し、いろいろな話を聞いて歩いた。
 経理や工務、税金関係の情報はすでに退社前に以前の会社で情報を集めていたが、実際に独立を経験した人の生の声をぜひ聞いてみたかった。実体験した人でしか知りえない勘どころのようなものを、この身で感じ取りたかったのだ。

 まず、かって妻がトレースの内職を貰っていた人を訪ねることにした。この方はごく普通の家庭の奥さんだったのが、手伝いでトレースをやっているうち、いつしか自宅で本格的にトレース業をやることになってしまったという異色の経歴を持つ。以前近所に住んでいて、私も何度か話をしたことがあった。
 予め電話して来訪の主旨を告げると、快く応じてくれた。既に完成していた建築パースの習作と手土産を持参して、いろいろ話を伺ったが、彼女との話の中で記憶に残っていることは、次の一点である。

「こういう手仕事には、『時間単価』っていうものがあるんですよね」
「えっ、『時間単価』ですか?」
「そう、パートなんかの時給と同じなの。トレースだと、トップクラスの人で時間2,500円くらいかな。この単価を徐々に上げていかなくちゃいけないのよ」
「というと?」
「つまりね、単価一万の仕事をやるとして、最初は十時間かかったとする。時給1,000円ね。五年やったら、これをたとえば五時間で仕上げられるように自分を鍛えるのよ。そうすると時給2,000円になって、自然に収入が増えていくでしょ?」

 なるほど、と私はうなった。不況風が一向に吹き止まないいまならともかく、当時はサラリーマンならば、年毎に給料は確実に上がっていく時代だ。独立自営でやっていく場合、収入を上げていくのは、あくまで自分自身の地道な努力というわけだ。
 私はさらに建築パースの時間単価について知っているかどうか聞いてみた。すると彼女は、はっきりしないが、たぶんトレースのトップクラスの人よりちょっと上くらいではないか、と言う。だとすれば、時間3,000円前後ということになる。
 このとき教えられた時間単価の概念と具体的な数値が、のちのちの私の事業を進める上での貴重な基礎資料となった。



自営業は妻との関係が勝負



 次に、いまは宮仕えだが、以前に工業製品などを入れる紙の箱を作る仕事を自宅でしていたことのある方を訪ねた。血縁ではないが、妻の縁戚関係にあるということで、忙しい中を私のために時間をさいてくれた。

「一人でやる場合ね、得意先は六、七社あればうまくやり繰り出来るよ」
「六、七社ですか」
「そう、これより多いと仕事が重なってやり繰りが難しくなるし、少ないと収入がきつい。それと、一社にあまり仕事の比重が片寄るのは駄目だ」
「なぜですか?」
「万が一、そこが左前になってしまったら、それこそお手上げだろ」

 なるほどそうか、と再び私はこのふたつの忠告を心にとめた。この方からはどうしても聞き出したいことが別にあった。それは、彼が商売をやめた理由である。それまでの話だと、仕事は軌道に乗り、取引先との関係もうまくいっていたはずだった。

「ああ、そのことね。実は仕事のほうは順調だったんだが、大きな仕事が入って納期がきついと、どうしても家族を巻き込んじゃうんだよね。それこそ飯も食べないで仕事してみたり、時には女房、子供にまで手伝わせてみたり…」

 話はどうやら核心にふれつつある。私は一言も聞き逃すまいと、耳をそばだてる 。

「結局、女房のほうの気がまいっちゃってさ、これ以上続けると、もう別れるしかないようなところまで追い込まれたんだよ。それで結局、商売を捨てて、女房のほうを選んだってわけ」

 彼は自嘲気味にそう言って笑ったが、話の内容はかなり深刻だった。私が近い将来にそんな事態に陥らないと、誰が断言出来るだろう。

自営業でね、特に家で商売やるなら、女房との関係は大事だよ。そこだけはよく肝に銘じておいたほういがいい」

 独立にいったんは成功しておきながら、断念せざるを得なかった先輩としての彼の忠告を、私は神のお告げのようにありがたく聞きとったのだった。



いくら稼げば暮らして行ける?



 引っ越しまでの時間は矢のように過ぎていった。 次に私がしたことは、家計の分析だった。
 それまでは会社勤めだったこともあり、世間一般のほとんどの亭主族と同じように、給料やボーナスは妻にただ渡すだけで、家計のやり繰りはすべて妻まかせだった。
 だが、いざ独立となって収入が不定期となれば、私が経営主となり、商売用の財布と家計の財布とを分け、妻に必要な金を月々滞りなく渡さなくてはならない。そのためには、いったい最低どれくらいの金があればやっていけるのか、事前にしっかり把握しておく必要があった。

 結婚してから退職するまでの七年間、妻は細かく家計簿をつけ 、保存してくれていた。私はそのすべてを出してもらい、 項目別に分類して、当面どれだけの金があればやっていけるのか、詳細に分析を重ねた。
 妻も私も堅実で倹約家であったので、月々の支出に大きな無駄はなかった。おそらく世間の平均値よりはかなり少ないであろうある数字を、最低年間必要額として「独立開業までのチェック表」 に書き留めた。
 そしてその日から、家計管理はすべて私の手にゆだねられた。その習慣は開業して二十数年が過ぎたいまも、変ることはない。
 小規模のSOHO事業者で、この種のお金の管理を奥さん任せにしている例を多々見受けるが、一経営者としてはいささか心もとない。毎日の帳簿づけなどはともかく、月々の金の出入りなどは、自分自身で確実に把握するべきではないか。



不景気だから開業だ



 ところで、私が会社を辞めた1981年は不況のまっただ中だった。いわゆる「第二次オイルショック」というやつで、1980年ころからそれは顕著になり始めた。
 私が会社を辞めて独立するらしいことを聞きつけた社員の中には、半分は組織から逃げ出すことに対するやっかみもあったのだろうが、「あいつ、馬鹿なやつだ。こんな不況のときに独立だなんて、いったい何を考えてるんだ」とあからさまに言う者も少なくなかった。
 だが、その不況は前回ほど長くは続くまい、と私は踏んでいた。入社当時のオイルショックと背景は同じだったが、それに懲りた政府がその後、石油基地の備蓄施設などの充実に努めていたので、 根は深くはないだろう、と読んだ。
 それに、景気のいいときの脱サラならば誰もが思いつく。不景気のいまこそ、誰も見向きもしないいまこそが競争相手も少なく、仕事に慣れてきたころに景気は上向いてきて、仕事は軌道に乗る。私はそんな風に自分に都合のいい計画をたてた。

 そのシミュレーション通りに事を運ぶためには、どうしても景気が上向いてくるまで持ちこたえなくてはならない。独立前に読んだいろいろな本や様々な人の話などで、脱サラは最初の一、二年が勝負、という事実をつかんでいた。最初の一、二年をしのぎきれば、あとはなんとかなるものなのだ、という。
 そこで私は仮に最初の一、二年が無収入に近くとも、なんとか生活してゆくための資金計画をたてた。最低限の支出は前述のようにすでに把握していたし、資金のほうは、それまでの預金、ささやかな退職金、最後のボーナスなどを併せ、かなりまとまった額があった。それに、もし最初の半年に仕事が全くなければ、失業保険も貰えるだろう。
 あれやこれやと計算していくと、二年間は無収入でもやっていけそうだった。 よし、二年あれば何とかなりそうだ。いや、何とかしなくてはいけない。



煙草断ちして願かける



 二月末。 引っ越しの当日がやってきた。すべての準備が整った私たち一家は 、長年住み慣れた東京をあとにすることになった。私にとっても妻と巡り会った思い出の地。妻にとっては三十二年もの間住み続けた、まさに故郷そのものだった。
 結婚の折、いずれ北海道に戻ることは妻の母親にも告げており、妻自身もそれは納得していたのだが、いざそれが現実となると、そう簡単に感情を整理出来るものではない。 彼女の故郷を離れがたい熱い思いが、私には手にとるように分かるのだった。

 あらかたの荷物が片付いたそのとき、当時五歳だった娘の友達のカナちゃんが玄関先に不意に現われた。カナちゃんは近所に越してきたばかりだったが、娘と同じ年で二人とも幼稚園に通っていなかったせいもあり、とても仲がよかった。
 彼女は何も荷物のない開け放たれた部屋を見て、子供ながらにただならぬ気配を感じたのだろう、利発そうな眼で部屋の奥をじっとうかがうと、何も口にせず、そのままぷいときびすを返して去ってゆく。

(うちは引っ越すんだよ、アサコはもうここからいなくなるんだ…)

 そんな言葉が喉まで出かかる。だが、なぜか口に出来ない。通路の先に止まっていた引っ越しのトラックの前で、カナちゃんは立ち止まる。その中に、娘の愛用していた自転車を見つけたカナちゃんは、すべてを悟ったようだった。
 少しうつむいたカナちゃんは、つまらなそうに爪先で地面を蹴ると、通りの向こうに駆け出していった。私は玄関先でじっとそれを見送った。甘酸っぱい思いが湧き上がっていた。おそらくもう二度と、娘とカナちゃんが遊ぶことはない…。
 娘と彼女との間で、「引っ越し」という言葉がどんなふうに語られていたのか、知る由もない。だが、自分の都合で会社を辞め、引っ越しという形で生活を大きく変えるということは、こうしたささやかな絆をも容赦なく断ち切るという、ある種の痛みを伴うものなのだ。妻はもちろん、年端もいかぬ子供でさえも例外ではない。私はそのことを思い知らされていた。

 その引っ越しの日を境に、私は十三年間吸い続けていた煙草をぷっつりとやめた。なんの保障もなくなる経済的な不安、一匹狼としての健康面への配慮、事業が成功するようにとの「願かけ」など、いろいろな意味合いがあったが、いま思い返してみれば、(家族に痛みを強要する代償として、自分にもなんらかの我慢を強いなくては…)という心理的背景が自分の中にあった気がしてならない。

 こうして私たちは住み慣れた東京をあとにした。五歳を頭に、三人の子連れ旅立ちである。末の息子はまだおむつさえ取れていなかった。
 街には細川たかしの「北酒場」がテンポよいリズムで流れていた。私たち一家は希望と不安に打ち震えながら、新たな人生のスタート台になる北の地へと向かおうとしていた。