一九九九・夏乃章
つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
なにせ『徒然雑記』なのだから。
ネクタイ/'99.6
たぶん40年ほど前のことだったと思う。10歳くらいのころだ。父親がネクタイのついたシャツを買ってくれたことがある。私の父親は出稼ぎの大工で、夏場はいつも家にいなかった。雪解けを待ちかねるように札幌や旭川の現場に働きに出かけ、暮れも押し詰まってからでないと家には戻らない。私は年の大半を3人の姉と母親という「母系集団」に取り囲まれて育ったのである。
末っ子の男の子、しかも長男ということで、好むと好まざるとにかかわらず、私は両親から可愛がられた。父親は普段家にいないという負い目もあったのか、帰省の折には私だけへの高価な土産を忘れなかった。特に衣類が多かった。「男の子一人だから、お下がりの融通がきかない」
両親からすれば、そうした大義名分があったのだろう。だが理由はどうあれ、兄弟の中で私だけが高価で新しい物を買い与えられれば、姉たちから羨望を浴びることになる。親には言えなかったが、物心ついてからというもの、それが私にとって大きな負い目となった。
そんなわけだから、こうした経緯で買い与えられたネクタイつきのシャツなど、私が喜ぶはずがない。ましてや僻地に指定されているような田舎の村である。同級生の大半はつぎのあたったズボンと、着古しのシャツを身につけて学校に通っていた。(なんで自分だけがこんな物を着なくちゃいけないんだ…)
シャツを前にして掛け巡るのは、そんな倒錯した思いばかり。本人の思惑など全く無視し、両親はそのしゃれたシャツがお気に入りだった。私はいわゆる優等生で、父親の稼ぎも良かった。両親からすれば、自分の子、引いては自分たちに対する強い自負があったのだろう。
「ウチの子はよその子とは違う」という…。結局私がとった手段はといえば、朝出かけるときにネクタイをつけて家を出て親を「安心」させ、家が見えなくなった時点で、すぐにネクタイを外してしまう、という巧妙かつ姑息なものだった。 (ネクタイはホックで簡単に外せるような作りになっていた)
要するに私は「息子にいいものを着せてやりたい」という両親の期待を裏切ることも出来ず、かといってネクタイをつけて堂々と友人の前に登場する開き直りも出来なかったのである。それが当時の私の姿だった。この企てはしばらくは成功した。私は親の前での「孝行息子」と、友人の前での「大いなる同志」を上手に演じ分けたのである。
ところが、事実は意外な形で母親に暴露されることになる。通報者は他ならぬ姉だった。中学部に通う一番年の近い姉が、ネクタイのしていない私の姿を、学校(当時、小学校と中学校は同じ場所にあった)で見かけたらしく、いち早くそれを母親に告げ口したのだ。
私は母親のきつい咎めを覚悟したが、不思議なことにこれに関して叱られた記憶は全くない。おそらく複雑な私の心境を、さすがの親も理解してくれたのだと思う。あれから半世紀近くのときが流れるが、私はこのネクタイにまつわる忌まわしい記憶を忘れたことがない。だから、自分の子供に対するときも、決して自分の趣味趣向で物事を押しつけないよう、戒めている。
「〜ちゃんがやりたがるから」「〜ちゃんが欲しがるから」
子供になにがしかの習い事をやらせたり、何かを買い与えたりするときに親がよく使う言い訳だが、実に怪しい言葉である。胸に手を当ててよく考えてみると、結局は子供の意向など無視した、単なる親のエゴだったりすることが多々あるのだ。
いま、ネクタイとは全く縁のない仕事についているが、これももしかするとこうした幼児期の「トラウマ」を引きずっているせいなのかもしれない。
女の年齢/'99.6
このところ、「女の歳」が気になってならない。新聞や雑誌でいわゆる「文化人」「著名人」のたぐいの経歴が掲載されるとき、対象が男性の場合は100%年齢の記載があるが、これが女性となると、年齢の記載がほとんどないのである。これはなぜなのか?
どう考えてもこれといった理由が思い当たらないので、傍らにいる妻に野暮を承知で尋ねてみた。すると、「よく分からないけど、やっぱり、恥ずかしいからなんじゃないの?」
という答え。なるほど、そうなのか。女は自分の年が「恥ずかしい」のか。そう言われてみると、確かに高校生、大学生くらいまでは、対象が女性でも年齢(または学年)の記載がある。すると女が自分の年を「恥」と感じるようになるのは、22歳過ぎあたりからか…。
だが、ここまで考えても、まだ私はふに落ちなかった。22歳過ぎといえば、社会的にもいよいよ一人前として認められてくるころだ。いわば年齢は恥どころか、自分の歩いてきた「歴史」「勲章」といってもいいのではないか。恥というより、むしろ誇りというべきではなかろうか?「22歳を過ぎると、女の盛りを過ぎてゆくからよ」
妻はあくまで女性に同情的である。肉体的な衰えがくるから本当の年を隠したい、あえて公表したくないというのはかなり本質(真実ではない)に近いものがあるように思えるが、仮に百歩譲ってその論理を認めたとして、女性だけがそれを認められるという社会的習慣は、やはりおかしい。年を重ねれば、男でも女でも平等に老いてゆくのだから。どうもこの怪しげな社会的風習には、「逆ジェンダー」すなわち、それとは気づかずに女の側からしかけられた不平等意識が底に流れている気がしてならない。
「本当の年を隠す」という行為には、どこかに「本当の年よりも若くみられたい」すなわち、「老いることは醜い」「外見が美しいものの方が優れている」という差別意識が潜んでいるように思えるのだ。
「男女の差別意識をなくす会」などという仰々しい運動の先導者の経歴欄に、女性だけが年齢不掲載だったりすると、もうそれだけで記事を読む気が失せる。いや、その前にまず大笑いしてしまおうか。毛皮のコートを着て動物愛護の会に参加するようなものだからね。女性の側が「年齢は伏せておいてくださいね」と取材者側に個人的に依頼するのは論外だが、(実際にはこのケースが多いと思われる)特に取材者サイドが男性の場合、変に気を回して、「女性だから年齢欄は空欄にしましょう」などという甘い言葉をかける例も少なくないかもしれない。だが、こうした一見女性の立場に立ったような考えは、実は女性の敵なのだと思わなくてはいけない。
「いいえ、きちんと年齢を載せてください」と、きっぱり断るべきだ。
読む側、あるいは聞いたり参加したりする側も、相手の年齢がはっきりしていた方が分かりやすいし、何より相手に対する信頼度が違う。(あくまで私の場合だが)
たとえば男女の差別意識を語るにしても、語り手が30歳と50歳とでは、まるで受け取り方が違う。年齢不詳では、会話のはしはしからあれこれ詮索しなくてはならず、ただ疲れるだけである。もっとも、「自分の年齢すら語れない、なんだか得体のしれない人物」という貴重なデータを、その人物から得ることだけは出来るが。古くからの知人で、放送関係の仕事を長く続けているNさんという女性がいる。商売柄、ラジオやテレビ、新聞などにもよく登場するが、いつも堂々と年齢を公表している。
私と同年代で、特に年より若く見えるわけでもなく、普通ならあえて年齢は公表したくないところだが、彼女は30代の前半から一貫して年を隠すようなことはしなかった。
そのことについて、特に彼女に尋ねたことはない。だが、そんな「孤軍奮闘」に近い彼女の頑ななやり方が、私にはよく理解出来る。だから、私も彼女の話、生き方には一目置いている。素の自分で勝負する、いや勝負出来る「本物」なのである。●教訓:女を解放するのは、他ならぬ女自身である
シンプルハウス/'99.7
半年ほど前「紺屋の紺」というタイトルで、「家でも建てようかいな」といった内容の駄文をこの欄で書いたことがある。とうとうそれが本決まりになった。実を言えば、あれを書いたころは、やっとの思いで探し当てた超破格値の土地を購入した直後。その後数回に及ぶ設計変更、建築確認申請に代表されるもろもろの面倒な手続、そして見積合わせから業者決定と、「本業」である建築パースのノルマをこなしながらの嵐のような7カ月間。すべての準備作業が終わってみれば、季節ははや盛夏である。
慣れぬ作業の連続で、ときにはホームページ更新もそっちのけ。子供のサッカー指導もとうにやめてしまった。ゼロから土地を探しあて、自ら家を設計して建てるという作業は、一応は建築のプロである私でさえも、並大抵なことではなかった。その土地というのが、札幌都心から北へ約10キロ、車で30分という結構便利な場所にありながら、坪10万弱という安さ。もよりのJR駅からも徒歩15分、大規模スーパーへも徒歩10分の距離である。そんな場所がなぜそんな値段で?と、最初は私も思った。秘密はその土地が市街化調整区域であることにあった。
ちょっと詳しい人なら、すぐにこう思うだろう。「市街化調整区域に家は建てられない」と。その通り、普通ならそうだ。だが、その地域には、最近施行されたばかりの「地区計画」という特例措置があった。厳しい条件つきでなら、専用住宅に限って建築が認められるのである。
詳細は省くが、これらの厳しい条件をクリアするための諸手続と設計作業には、相当の時間と労力が必要だった。安さにはやはりそれだけの訳があるのである。土地にも予算がなかったが、建物ももちろんその例外ではない。当初、坪30万での設計をめざしたが、もろもろの理由で、あえなく挫折。一時は計画そのものを断念しかけた。しかし、いまが家の建て時なのは分かっている。ここで止めてしまってはチャンスはもう2度とやってこないかもしれぬ。くじけそうになる気持ちを奮い立たせ、2度の設計変更と3度の見積依頼を重ね、紆余曲折のすえようやく実現にこぎつけた。
建物のコンセプトは以下の通り。名づけて「TOM-CUBE」の概要である。
■総2階建て三角屋根の単純構造ローコスト住宅……坪単価40万前後をめざす。
■自然素材を使った山小屋風の家……石油系材料は極力使わないエコロジーハウス
■カタログ住宅にはない本音で暮らせる家……見栄やお体裁は一切なし
■出来るところは自分で施工するDIY感覚の家……これぞ究極の手作りか?いくつか具体例をあげてみる。
家全体をオープン形式にし、ワンルームのように考えているため、壁やドアがほとんどない。トイレにさえドアがない。(^=^;(ちなみに、家全体でドアは玄関を含めて3枚だけ)2階には間仕切りが全くなく、可動式家具で個人スペースを確保する。
クロス、フローリング類は一切使わない。床は無垢の松材で、塗装はしない。壁や天井には普通は下地にしか使わない材料を、あえて仕上げ材として使う。
床下空間に暖房パネルを入れ、1台のボイラだけで家全体を暖める。(つまり、暖房器具が一切部屋にない)家のてっぺんにつけた「換気煙突」から温度差を利用した24時間自然換気をする。そのため、換気口が部屋に一切ない……。「こんな変わった家、初めてみた」
図面を見た工務店の担当者からは、そういって目をむかれ、「もしこの家が理論通りにうまくいったら、ぜひ真似をさせてもらう」
友人の建築家からさえも、そう茶化された。確かにいろいろな面で冒険を試みてはいる。だが、勝算はある。元来がへそ曲がりな私は、やはり家でも人とは一味違うことをしてみたい。予算面ではなんとかそれをクリアした。工事はまだ地盤調査が終わったくらいで、ほとんど手つかず。あまりに値切ったせいで、工期は工務店まかせ。職人の手の空いたころにボチボチやりましょう、まあ、暮れまでには出来るでしょう、という極めていい加減な契約内容だ。
これからまだ一山もふた山もありそうだが、なんとか乗り切りたい。これまでの、そしてこれからの「闘いの日々」は詳細に記録をとっているので、いずれこのページで発表する機会があると思う。
居場所/'99.7
幼きころより、自分の「居場所」をいち早く確保するのが得意だった。もちろんこれは精神的な意味の居場所ではなく、物理的な意味のそれである。
家や学校の事情で、これまで幾度となく引越しを強いられた。中には劣悪な住環境も少なくなかったが、自分のテリトリーを確保することには、物心ついたころから貪欲だった。やり方はこうだ。部屋の隅、廊下の突き当たり、屋根裏など、家人があまり使っていないスペースを見つける。広さは畳1枚もあれば充分。そこに古机、箱、天板のたぐいを置く。上に自分の本やペン立てなど並べ、前の壁に学校の時間割りやお気に入りの写真などを貼ればたちまち完成である。
小6から中2にかけ、気性の荒い大工たちのたむろす飯場の片隅に2年間ほど住んだことがあり、家族の団らんはおろか、そろっての食事すらままならない時期があった。だが、そのときも飯場の片隅にこのやり方でスペースを確保し、死守した。ここに座ると、荒んだ気持ちもすっと和らいだ。自分で見つけた場所なら、たとえささやかなものであっても、精神の落ち着き場所につながる。私にとって自分の居場所作りは、極めて重要だった。中3になって引っ越した家では、日当たりの悪い3畳間が初めて個室として与えられた。
「ここはまるで昔の女中部屋だな」
口の悪い友人はそう皮肉ったが、私にとっては天国そのもので、家具が何もなかった部屋にさまざまな壁面収納を自分で造りつけ、悦にいっていた。
大学に入って否応なしに放りこまれた学寮の16畳の8人部屋でも、それまでの知恵を生かし、本来はベットとして造られている畳1枚ほどのスペースの天井をぶち抜いて机を運び込み、完全な「個室」に仕立て上げた。時は流れて25歳。結婚した私たちが最初に住んだのは、6畳と4畳半だけの1DKアパートだった。妻の化粧スペースさえままならない狭さだったが、ここでも私はベニヤ板を縦に2枚割にし、窓際に奥行き45cm、巾180cmという居酒屋のカウンターのような机を造りつけ、自分の机とした。
強引とも思える手法で得たこのわずかなスペースがもしなければ、結婚1年目の夏に建築士の資格をとることは難しかっただろう。このときに作ったカウンター机は、以後脱サラするまで、延々と私の貴重な「居場所」であり続けた。
思い返せば、いまこうして自宅の1室をぶんどって自営業など営んでいるのは、幼きころよりの自分の居場所にたいする貪欲さに伏線があるのかもしれない。以前10年ほど猫を飼っていたことがあるが、猫は自分の居場所を確保するのがとてもうまい。家人の邪魔にならず、それでいて暖かく快適な場所をちゃっかり見つけてしまう。
犬と違って、むかしから猫には「猫小屋」のようなものがなかった。いたずら心で、そこらのミカン箱などを当てがってみたこともあるが、まるで見向きもしない。犬に比べて猫は気位が高いから、人間から与えられた「居場所」など、ちゃんちゃらおかしいのだろう。私の居場所探し遍歴も、どこか猫に似ていた。先日1年ぶりに帰省した娘が、家にいると何やら落ち着かない。我が家には物があまりなく、どこにでも座る場所はあるのにだ。ははあ、と思い当たって、娘にこう尋ねてみた。
「たまに帰ってくると、自分の痕跡がだんだん家からなくなっていて、なんとなく寂しいだろ?」
19歳で家を出た自分にも、似たようなほろ苦い記憶がある。
「そうなの。どこにも自分の居場所がないって感じ。『ウチ』とはやっぱり違うよね」
娘が何気なく口にした「ウチ」という言葉に、私はどきりとした。この場合の「ウチ」は、当然娘がいま暮らす横浜のアパートの1室を意味する。いろいろ話をきくと、苦手だった部屋の片づけも、最近は好きになってきたという。部屋の中には自分で育てたミニトマトの苗が立派に成長し、もうすぐ食べ頃になるらしい。
そうか、家を出て2年余り、娘にとっての落ち着き場所である「ウチ」は、いまようやく自分のアパートのひと部屋になったのだな…。
「そうやってだんだん独り立ちしていくのよ」
妻が感慨深げにそうつぶやいた。少しばかり寂しい気もしたが、(おお、ようやく自分の居場所を作ったのか)といううれしさも同時に感じた。たぶんこれは悲しいことではなく、喜ぶべきことなのだ。
親として人生の先輩として、私は娘の変化を祝福してやりたいと思った。
やらせ/'99.8
夏の終わりを告げる新聞記事を読んでいて気づいた。文章はごく普通だが、写真が非常に作為的なのである。その記事の見出しはこうだ。「札幌大通ビアガーデン店仕舞い」
縦長の写真の遠くに会場の椅子やテーブルを片づけて忙しく働く人々の姿、これはいい。問題は手間の歩道の上にころがされ、大写しになっている空っぽの大ジョッキ3つである。ごていねいに、そのうちのひとつは「絶妙なバランス」で横倒しだ。
さらに右側の「空間」には、吸い殻が何本か残った灰皿までが「レイアウト」され、全体として夏の終わるわびしさをシュールに告げる、見事な「芸術写真」に仕上がっている。
過去にこの種のバイトをいくつかやった経験から言わせてもらえば、片づけの途中でこんなシーンは絶対に登場しない、と断言する。壊れ物のビアジョッキ、灰皿などは真っ先に片づけるもので、どう間違っても椅子やテーブルを片づけている横の歩道に転がしたりはしない。
要するにこの写真は典型的な「やらせ」であり、記者が夏の終わりを演出するために小物をかき集めて画面上に構成した、「作り物」なのである。「別にいいじゃないの」と言われそうだ。何も目くじらをたてることではないかもしれない。だが、新聞は事実を正確にありのまま伝える媒体であって欲しいと願っている。記事はもちろんのこと、写真ひとつにも小細工などして欲しくない。
以前、あるマスコミが沖縄のサンゴ礁の荒廃ぶりを取材するため海にもぐったが、思うような映像が撮れず、「苦肉の策」としてカメラマン自らがサンゴ礁の表面にイニシャルを彫り込み、人工的な「傷」をつけて「沖縄のサンゴ礁はこんなに荒れ果てている」とヤラセ報道したのがばれ、大騒ぎになったことがある。
そのときはマスコミのモラルの欠落として大問題になったはずだが、マスコミ人の根っこはそのときと少しも変わっていないようだ。「たかがビアジョッキ」ではなく、わざわざビアジョッキを歩道に転がす感覚そのものがすでに問題なのだ。この種の「やらせ報道」は枚挙にいとまがなく、私自身も何度か遭遇している。
まだSOHOがブームになる以前、「在宅勤務」が珍しいとして新聞の取材を受けた。最後になって自宅での様子を写真に撮りたいのだが、ただの写真ではツマラナイので、机の前で「仕事をするふり」をしてくれと無茶な注文を出す。
仕事なら出来るが、ふりは出来ないと断ると、それでは絵にならないので、とにかく机に座ってペンを握ってくれと記者は言い張る。仕方なく、やり終えたばかりの仕事をもう一度やり始めるとすかさずフラッシュが光り、ようやく「OK」が出た。
掲載された私の写真は、怒ったような顔をしている。結局私も記者の要求を断り切れず、「やらせ」に加担してしまったのかもしれない。大正生まれの私の父母は、テレビや新聞の言うことはすべて本当だと信じてるところがある。本来、マスコミの姿はそうあるべきなのだが、残念ながら現実はそうではない。我が家ではときに家族には疎んじられながらも、私が常にこうしたマスコミの「虚構」をほじくりだし、吠えているので、頭からマスコミを信じこむことはない。
結局信じられるのは、自分の目と耳、そして感覚だ。悲しいことだが、あふれるような情報の洪水の中から真実だけを見抜く力も、現代人には不可欠なのである。
次男の入院/'99.8
次男が突然入院した。病名は「ウィルス性髄膜炎」という、けっこう重くてやっかいな病気である。月末の日曜日、前夜から軽い頭痛を訴え、家で休んでいた次男の容態が急激に悪化した。「内部からドリルで突かれるような激しい頭痛」「悪寒」「発熱」「吐き気」を訴える。無理に食べさせた朝食も、すべて吐いてしまうのだ。
元来が呑気な妻は、「きっとコンタクトレンズが眼に合ってないんでしょ」と眼医者にだけ行かせ、自分はすたすたパートに出かけてしまった。長男も例によって日曜はサッカーの試合でいない。家に残されたのは、私と次男だけである。だが、眼に全く異常はなかった。次男の症状は次第に悪化する…。テレビでJ1昇格をかけるコンサドーレ札幌の戦いぶりを観戦していた私も、次男の様子にただならぬものを感じた。
(これは普通の頭痛とは違う。かといって、ただの風邪でもない…)万一脳の異常からくる頭痛だとすると、事は急を有する。病院は休みだが、のんびりとサッカーなど見ている場合ではない。テレビの横で唸っている次男を残し、私は近くにある脳神経外科に走った。
幸い、そこは救急病院に指定されていて、日曜でも当番医が待機していた。受付で事情を話すと、診てあげるからすぐにつれてきなさいとの有り難いお言葉。家に戻って次男に「歩けるか?」と聴くと、何とか立ち上がったが、足元がおぼつかない。肩を支えてそのまま病院へ…。CTスキャナーを始めとする3時間に及ぶ検査の結果、病名は先に書いた「ウィルス性髄膜炎」。脳の中にウィルスが入り込み、悪さをするという奇病である。7月にひいた夏風邪を放置し、こじらせたのが遠因らしい。8月に入って続いた試験、サークルの猛練習、慣れないバイトの肉体労働などが重なり、病気の引き金は引かれてしまったらしい。
「お父さん、よく日曜に連れてきましたね。いい判断でした」
もし手当てが遅くて脳炎でも併発していたら大変でしたよ、と医者がかけてくれた言葉が救いだった。「変だな」「普通とは違う」という私の感覚と運び込んだ病院は、10歳のとき長女が腎盂炎で入院したとき、入院はしなかったが、34歳のとき私自身がかかった腎臓結石のときにもずばり的中していた。
ともかく、命あっての物だねである。死を恐れることはないが、何も死に急ぐこともない。人生、結構いとおしくって、楽しめるように出来ているものなんだな、とこの年になってつくづく思う。それもこれも命があればこそのこと。自分と家族を病魔から守るという意識は、医学が進んだいまでも大切なのだ。入院2日目までは満足に食事さえとれず、点滴だけが頼りだった次男も、6日目を迎えてようやく体力を取り戻しつつある。「この際、自分の生き方やこれからの人生をじっくり考えてみるんだな」との私の言葉に、普段は反抗的な態度をとりがちな次男も、神妙に耳を傾けている。
忙しさの中で不意に出来た膨大な時間が、次男の長いこれからの人生の中で意外なターニングポイントになってくれたとしたら、禍転じて福なのだが。