一九九八・冬乃章

   つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
   なにせ『徒然雑記』なのだから。


紺屋の紺/'98.12


 十数年ぶりに不動産にかかわった。ひょんなことから、家の設計などしているのである。オーナーはこの私。つまり、自分の住む家を自分で設計してしまうという、私にとっては画期的なプロジェクトなのだ。
 もともと私には建築士の資格がある。だが、「紺屋の白袴」というやつか、なぜか自宅は愛想のないマンション住まい。もともと不動産というものにそれほどの思い入れがないこともあり、自宅の設計などには縁がないものと決め込んでいた。

 折しも平成の大不況の嵐が吹き荒れ、金利は下がる一方だが、同時に土地の値段もどんどん下がっている。このまま一生マンション住まいを続けるのも悪くはないが、底値に近いであろう土地をいま買い、近い将来に一戸建に住み替えるのも悪くはない。15年前に買ったマンションは、いまのところ不自由はないが、平均寿命まで生き長らえるとしてあと30年、とても住み続けられるとは思えない。人生の末期を迎えて、マンションの建て替え騒動に巻き込まれるのはごめんだ…。
 もし何か事を起こすなら、まだ身体の動くいまだ。そう思いたつと、はたして現実にそんなことが可能なのか、まるで独立のときの準備のように、綿密なる「一戸建移住シュミレーション」を試みた。

 私はこうした計画、すなわち餅をつく前に、まず絵に描いてみるのが大好きな性分である。ことわざなら餅は絵のままだが、あまり非現実的な計画をたてないせいか、私の場合はだいたいが実現してしまっている。
 ともかく、思い立ったが吉日。札幌の土地の相場調査から始まり、現在のローンの借り入れ状況、いま住んでるマンションの中古相場、家計の資産、今後の仕事の見込み、家計の収支、息子の学費、借入金融機関の利率、そして家族4人が住める家の概算価格の算出…、これらの作業を根っからの凝り性の力を借りて、またたく間にやり終えた。するとそこから、あるひとつの結論が導き出された。

「坪10万以下の土地を入手し、坪30万で延25坪の家を建てること」

 その道のプロ、いやプロでなくても、ちょっと不動産に詳しい人が聞いたら、きっと目をむくに違いない。いくら値段が下がっているとはいえ、札幌近郊でこんな安い土地を探し、こんなに安い家を建てられるはずがない。そもそも、25坪の家で家族4人が住めるものかと…。
 しかし、これであっさりあきらめてしまえば、苦心さんたんのシュミレーションがすべて無駄になる。実現の可能性がゼロじゃないなら、なんとか道を探ってみようではないか。これが「紺屋が紺」を着る、最後のチャンスかもしれない…。

 さて、そうと決まってからというもの、実現にむけて具体的な行動が開始された。計画はまだ玉虫色なので具体的な発表は差し控えるが、いくつかの難関をくぐり抜け、事態は明るい方向に進みつつある。
 あくまで紙の上とはいえ、坪30万の超ローコストハウスも着々とプランが進んでいる。「本音で暮らすシンプルハウス」がそのタイトル。20年近く暖めてきた私のとっておきのプランだが、カタログに載っているような家とは全く異なったコンセプトの家、まるでこのホームページのようにシンプルでフランクだが、小さな発見に満ちた楽しい家である。




似てない夫婦/'98.12



 私たち夫婦はとても似ていない。世間には「似た者夫婦」という言葉があり、実際、長い間風雪を共に歩んできた老父婦には、まるで血のつながった夫婦ではあるまいか、と見まがうような瓜二つの顔立ち、そして趣味嗜好を持ったカップルも少なくない。

 ひるがえって私たち夫婦は、顔立ちはもちろんだが、趣味嗜好もかなり異なっている。
 妻が好きなお菓子は塩味のお煎餅だが、私はミルク味のクッキーか、甘いチョコレートが好みだし、味つけも妻は全体的に濃いめだが、私はあっさり味が好きだ。私がパソコンでインターネットに励めば、妻は寝ころんでテレビかビデオ。私がリュック担いで山に登れば、都会派の妻は繁華街でウィンドショッピング、といった具合で、ことごとく対立してしまう。強いて共通点をあげるなら、息子の「追っかけ」から始まったサッカー観戦くらいのものか?

「それでよく夫婦やってられますね?」といぶかられそうだが、どっこい、そこは長年の知恵でうまく折り合いをつけている。たとえば私が山へ誘った帰りには、郊外の洒落た喫茶店でコーヒーを飲んだり、温泉で一風呂浴びたりし、うまくバランスを保つのである。おやつには塩味と甘味の両方をそろえるのはもちろんだ。パソコンやテレビのように、あまり共通点がないものには互いに干渉しない。
 五十路を目前に控えて思うに、こうした共通点も確かに大切だけれど、もっと大事なのは人生や人間に対する考え方、つまりは人生哲学のようなものが互いに一致していることで、それがある限り、顔や趣味嗜好がそれ程似ていなくとも、それなりにやっていけると私は考えている。

 しかし、こんな私たちにも、祭り事のたぐいが大好きという変な共通点がある。正月、節分、バレンタイン、雛祭、端午の節句、七夕、お月見、そしてクリスマス。世の中には、その時期になるとデパートやスーパーがここぞとばかりにあおりたてるイベントがわんさかとあるが、その種のお祭り騒ぎを私たちは心密かに待ちわびているのである。
 バレンタインが迫れば、妻はいそいそと息子を含めた3人分のチョコレートを買いに走るし、もちろんお返しのクッキーを私が忘れることはない。桃の節句になれば長女が家を出てもお雛様が棚を賑わすし、お月見には土手の草むらに私がススキの穂をとりに行く。
 よく話してみると、どうやら幼き頃より、二人は兄弟の中でもこうしたイベント好きで通っていたようだ。やはり縁あって夫婦になるには、どこかしらでつながっているものがあるらしい。

 そんなだから、年末年始にかけての大イベントの連続が、二人にとっての最大のはしゃぎ場であることは当然である。クリスマスツリーやリースの飾りつけ、プレゼント選び、ささやかなパーティが終われば、休むまもなく、今度は正月の準備だ。大掃除や松飾り作り、おせち料理とお年玉の準備。楽しいイベントの連続は、冗漫な日常の中での刺激的なアクセントとなり、明日への偉大なる活力となって私たちを離さないのである。




結婚の意味/'99.1



 結婚しない若い女性が増えているらしい。女性が結婚しなければ、当然相手である男も割を食らう。つまりは、男も結婚しない(出来ない)のである。
「結婚しても何も得るものがない」が、その主な理由のようだ。男女が一人で生きていける環境がそこそこに整い、性の解放も進んで、昔のような結婚の形にしばられる理由がなくなったせいもあるのか。
 今年23歳にならんとする我が家の長女もその例外ではなく、先日帰省した折にさりげなく、
「私、結婚しないかもしれないよ」などと、まるでどこかのベストセラーのタイトルのようなセリフを早々と宣言し、仕事場のある横浜にスタコラ戻っていった。

(手ひどい失恋でもしたのかな…)と、ふっと思ったりもしたが、私自身は結婚は必ずしも女の幸せではないと考えているから、娘にそう言われても、「あっ、そう。好きにすれば?」と軽くいなし、決してあわてふためいたりはしない。
 だが、世間一般にはまだ根強い結婚願望、結婚終着駅論がはびこっていて、それは概して保守的な中高年のみならず、先の「結婚しない若い女性」でも決して例外ではないと私はみる。心の奥底に強い結婚への憧憬がある。だから迷うのである。

「結婚って何だろう?」と、もうすぐ銀婚式を迎えようとする中年男がぼんやり思う。

 むかし、「結婚なんかしない」と頑なに思い込んでいた時期が、この私にもあった。17〜18歳の多感な時期で、理由ははっきりしないが、確か文学とか哲学の影響だったと記憶している。
 それがいざ社会人になってみれば、入社3年目の春に25歳の若さで結婚。いまや3人の子持ちである。何が私をそれほど華麗に変身させたのか?この理由ははっきりしている。それは、20歳のときに企てた、自転車での単独日本一周旅行がきっかけである。
 これに関しては以前、このシリーズでも触れたことがあるので詳しい経緯は省略するが、私には放浪癖のようなものがあり、青春の一時期に自転車で日本中をさすらったことがあるのだ。
 数カ月に及ぶ孤独の極致で私は思った。
(しょせん、自分はひとりでは生きていけない弱い人間だ…)と。人を好きになるということを、自分の中で真剣に考え始めたのは、この旅行のあとからである。

 いろいろあって縁あって、いまのカミサンと一緒にいるわけだが、このあたりは不動産を動かすときと同じで、はっきり言って「勢い」である。あれこれ考え過ぎてはいけない。これなくして、赤の他人が同じ屋根の下で延々暮らし、子まで設けるなんてことは、とても出来ない。
「結婚で何を得られるか?」な〜んて七面倒くさいことなんぞ、考えたことはむろんなく、「この娘と一緒に暮らしたら、楽しいだろうな」「ずっと一緒にいたいな」くらいの、単純な気持ちだけ。
 この気持ちは、放浪旅行のときに強く感じた(ひとりでは生きていけない…)という思いに、どこかでつながっている。単純な動機づけだが、その分明解で強い。それでいいんだ。結婚は取り引きじゃないんだから。
 しかし、こういうアホみたいな動機で行動したくないという慎重な方は、まあじっくり考えてください。でも、結婚って飛び降りる前のバンジージャンプみたいなもので、考えれば考えるほど怖くなってくるんじゃないかな?




してもらいたい症候群/'99.1



 などと言いつつ、現実に結婚しない女性(引いては男性)は増えている。それはいったいどうしてか?私は彼女(彼)らが、「してもらいたい症候群」に罹患してせいだと思うのだ。
 この耳慣れない言葉は、もしかすると私が日本で初めて使う言葉かもしれない。(違ってたらごめんなさい。でも、パクリじゃないです)つまり、彼女(彼)らは、一様に結婚によってひたすら相手から「何かを得よう」「してもらおう」と思っているのだ。決して相手に何かを「してあげよう」とは思わない。要求するだけで、決して与えようとはしないのである。

 この「してもらいたい症候群」は、かの「じゃないですか言葉」のように老若男女を問わず、広く日本中を席巻している。いわば戦後社会のもたらした病巣のひとつである。
 年寄りは子供や嫁に面倒をみてもらいたがっているし、親は老後の面倒をみて欲しくて、子供の教育に心血を注ぐ。妻に見放されたオヤジは、職場か酒場の若い女性に心のよりどころを求めるし、夫に見切りをつけた妻たちは、カルチャー教室かパートに自分の居場所を見つけようとする。子供のしつけを放棄した家庭は、学校に我が子の教育を要求する…。
(いちおう言い訳しておきますが、すべてがそうだとは言いません)
 気の毒なのはこの世のストレスの最後の吹きだまりとなってしまった子供たちで、何らかの打ち込む場を見つけだした子供はともかく、行き場のなくなった子供たちが、最終的に陰湿な犯罪へと走る昨今の世情は、その意味では理解出来なくもない。

「相手に対し、自分は何が出来るだろう?」と、発想を180度転換出来れば、結局は自分も幸せになれるはずなのに、長年の学歴偏重社会で培われた「人を押しのけてでも自分がいい思いをしたい」思想が根強くはびこっている現状では、道ははなはだ遠いと思わざるをえない。

 だが、決して悲観的な材料ばかりではない。いわゆる「ボランティア」という思想が真に日本に根づけば、道は自然に開けるはずだし、かすかだがその胎動はある。
 ボランティアと書くと何かたいそうな行為を連想するが、無償で他人に何かをしてあげる好意は、すべてボランティアなのだと私は思う。たとえば、ホームページで世界にむけて情報を発進するのも、立派なボランティアである。
「結婚しても何も得るものがない」などと嘆いている若き女性に、ぜひ何でもいいからボランティア的行動(道端に落ちているゴミを拾うだけでもいいのです)を経験して欲しいと思う。新しい何かが、必ず見えてくる。いや、きっと見えてくるだろう。う〜ん、見えてきて欲しいなあ。

●教訓:あなたは他に対して、いったい何が出来るだろう?




ぷっつん/'99.2



 愛用マックがぷっつんした。壊れたのである。いや、正確に書けば壊れてしまったのはマックではなく、モニタのほうだ。
 月末の深夜、一仕事終えたあと、さて「徒然雑記」の原稿でも書くかと、いつものようにマックのスイッチを入れ、飲み物を取りに台所に行った。ついでに居間にたむろしていた妻と息子たちとひとしきり馬鹿話に花を咲かせ、仕事部屋に戻ってみると、なんだか部屋の中がキナ臭い。
 すわ、ストーブの不完全燃焼か?と、あわてて調べたが異常なし。ふと傍らのマックを見やると、画面がフニャフニャ歪んで波うっている。臭いの元は、なんとマックだったのだ。

 様子からして、どうやらモニタの異常のようだった。熱を逃がすモニタ横のフィンから、猛烈な臭気がのぼってくる。過熱でもしたのか?念のため再起動してみると、マックの起動音声その他はいつも通りだが、相変わらずモニタは歪んだままだ。臭気はいよいよ激しく漂う。

 私はマックの使用をあきらめた。症状からして、修理に出さざるをえない。保証書を引っ張り出して確かめてみると、なんと保証期限は1999年2月28日、つまり『今日』ではないか!
 その日は日曜だった。購入したパソコンショップが休日だったかどうか、はっきりしない。念のため、私はすぐに保証書のコピーを取り、店に症状を詳しく書いたメモとそえてFAXを流した。のちのちの「証拠」とするためである。

 翌日(正確に言えば、同じ2/28の昼)店に電話を入れて事情を話し、すぐにモニタを持ち込んだ。
 受付の店員は技術畑の人ではなく、要領を得ない。だが、期間内なので保証はされるという。その言葉にほっと一息ついたが、問題は修理期間だ。なんと7〜10日はかかるという。代替品のモニタがあればお貸しするのだが、あいにくそれも今はないと、つれない。こうして数年振りのマックなしの日々が始まった。

 幸い、息子が使っている古いマック(Performa)は健在なので、E-MAILチェックはなんとか出来た。こんなこともあろうかと、インターネットの設定その他は、以前のままそっくり残してあって、モデムさえつなげば、いつでもネットイン可能にしてある。やれやれ。
 困ったのは、ホームページのアップロードである。折悪くサッカー会議室の投稿が2本来ていて、本来ならすぐにアップしなくてはいけない。だが、MOに保存してあるホームページのファイルのコピーが少し古く、会議室の分は追加が不可能である。これは参った。月末恒例のこの『徒然雑記』も、いつになったらアップ出来るのやら…。
 サッカー会議室の投稿をくれた方には、事情を書いたメールを送った。だが、とにかくマックのない生活は不便である。
 設計中の家の見積書、資料などはすべて新マックのみ対応のツール(クラリスワークス4.0)で保存してあるので、息子のマックからでは起動出来ないのだ。やむなく、仕事の台帳の記入は昔通りのメモ書きでしのぐことにする。これもクラリスワークスでこなしている確定申告は、虫が知らせていたのか、すでに終わらせていた。
 さらに幸いだったのは、2日前に徹夜仕事で納品したばかりの3D-CGの仕事があったことである。もしモニタの故障が数日遅れていたら…、と思うだけで身の毛がよだつ。保証当日に壊れたことなども考えると、これでまだ結構ツキが残っているのである。

 全く予期しなかったモニタの故障でさんざんな目にあっているが、まあ人生の終わりも、もしかしたらこんなふうに「ぷっつん」とくるのかな?と妙に考えさせられる今回の騒動である。パソコンなら修理もきくが、人間はそうもいかない。いつ「ぷっつん」が来てもあわてふためかぬよう、せいぜい日々精進したいとも思うが、はたしてどれだけの準備が出来るのだろうか?




鳴り分け/'99.2



 久々に電脳機器を買い換えた。といってもパソコンではない。最新式の電話を買ったのである。話は数年前あたりにさかのぼる。

 我が家には数種類の電話がかかってくる。まず、私の仕事用の電話。これは「お客様」の電話であるので、取扱いに最も注意を要する。応対も礼を失しぬよう、いんぎんに受け答えなくてはならぬ。
 次に3人の子供達への電話。子供が小さいころはたいしてなかったが、年ごろになるに従い、その数は次第に増えてきた。私から見れば、とるに足らないような内容でも、子供たちにとっては大事な用件であるらしい。
 最後にこれらのどれにも属さない電話。私や妻の個人的友人、知人、親戚からの電話である。
 以上の電話がすべて別の回線からかかってきて、すべて別々に受けられるシステムになっていれば何も問題はない。だが、我が家の電話回線は、たったの1本である。何もかもが集中してしまうのである。

 これまで17年間、すべての電話は仕事用のものとみなし、平日昼間の電話は、私か妻が「はい、TOM工房です」などと、応対してした。最初はこれで十分だったのだ。
 ところが子供への電話が増えるにつれ、応対した電話が子供からのものだと、事情を知らない相手は、どこの事務所にかけ間違えたかと一瞬絶句する。「菊地さんじゃないですか?」と聞き直す相手はまだしも、ぷつんと切ってかけ直してくる相手も少なくなかった。
 いちいち応対する私や妻も次第におっくうになり、また子供たちへの電話だろうとうっちゃっておき、子供に応対させたときに限って、私の仕事用電話だったりし、冷や汗をかくことも度々あった。

 困り果てた私は、対応策を考えた。簡単なのは回線を2つにすることである。ISDNを使う手もある。いや、やり方によっては、いまのままの1回線でも電話番号をふたつ入手する方法があるらしいことが、インターネットで調べて分かった。
 だがそのどれもが、いかにも初期経費と維持経費がかかり過ぎた。それに、これらの方式はすべて「決まった相手からの電話を、特定の電話器だけで鳴らす」というシステムで、我が家のように、「すべての部屋にある電話器で応対でき、しかも相手が受ける前に特定出来る」というシステムには巡り会えなかった。

 あきらめかけていたとき、私たちの要求をほぼ満足させてくれるシステムがあることが分かった。「鳴り分け機能つき電話」である。100人までの特定相手の電話番号と名前(3文字まで)をセットで登録し、5種類の音色で教えてくれるという。しかも、玄関のインタホンまでつなげることが出来る。まさに私たちむきの電脳機器ではないか。
 さっそく購入し、(子機1台つきで約2万5千円)使ってみたら、この便利なこと!2週間くらいの間で、我が家に電話してくる相手は単独FAXも含め、約70人であることが判明した。これらのすべてを名前つきで4グループに分けて登録した。私への仕事用電話なら、
「ピロピロ……グループ1で〜す!」などと、電話器が賢く教えてくれるのである。
 もちろん、ディスプレイには相手の名前が点滅しているから、心の準備も万全だ。受話器をとる前に相手が分かっていることが、これほど安心出来るものとは、正直言って思いもしなかった。さすがの偏屈者の私も、文明の進歩に思わず脱帽してしまう。

 この新電脳システム、子供たちや妻にも、すこぶる評判がいい。かけてくる子供の友人たちは、すべての電話に一発で本人が出ることを最初はいぶかっていたが、事情を知ってからは大好評である。
 維持経費は、NTTの「ナンバーディプレイサービス」の月々400円のみ。電話を2回線入れるよりはるかに経済的で効率的な、まさにSOHOむきのシステムなのである。