一九九八・秋乃章
つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
なにせ『徒然雑記』なのだから。
息子の家出/'98.9
末の息子が家出をした。ある土曜の夜、忽然と自分の部屋から姿をくらましたのである。最初に気づいたのは上の息子だった。「シンヤ(末の息子の名)が部屋にいない」と夜中の3時に大騒ぎ。あわてて部屋を調べてみると、寝ていると思っていた二段ベットの上段はもぬけの殻。以前から末の息子は、早朝に一人起き出して付近を散歩したり、友人の家のポストへ手紙を投げ込みに行ったりの奇行癖があったが、それにしてはいくらなんでも時間が早すぎる。
玄関を調べてみると普段はいている靴はそのままだが、部屋にあったプール用のデッキシューズの袋が空である。どうやら夕食後早々と寝てしまったと思い込んでいた私たちを出し抜いて、窓からこっそり抜け出したらしい。とりあえず寝ていた妻を叩き起こしてみたが、「ええっ、またぁ?」とかナントカ寝ぼけ声でつぶやくだけで、別に起き出す気配もなく、そのまま寝てしまう雰囲気。可愛い息子が深夜に消えてしまったというのにだ。
この妻の肝の太さには、日頃つくづく感心させられると同時に、時に救われたりもするのだが、あわてふためいていた私も、(まあ、そんなに騒ぐこともないのかな…)と妙に気持ちが治まり、とりあえずその夜は寝てしまうことにする。浅い眠りの夜が明けた翌日は日曜だったが、息子は相変わらず姿を見せない。夕方になって小学校時代から親しくしている友人から電話が入るが、昨日から会っていないし、何もしらないと言う。この頃になると、呑気に構えていた妻も、さすがに青ざめてくる。いよいよ家出は決定的だ。
「警察に届けようか…」
恐る恐る切り出した私の言葉に、妻はかぶりを横にふる。明日(月曜)は振替で学校が休みのはずだから、それと何か関係があるかもしれない、もう少し待ってみよう、と言う。妻の言葉に、私ももう一晩待ってみる気になった。夜が更けても息子は帰らない。もちろん、電話もない。落ち着かぬ気分で時計を眺めながら、息子が無断で夜中に姿を消した訳を、私は彼の立場になったつもりで懸命に想像してみた。
この春、些細な出来事がきっかけでトラブルが起きて以来、親子関係がずっとぎくしゃくしていたので、その兆しは以前からあった。私たち夫婦とはここ数カ月ほとんど口をきいていないし、受験生というのに、まともに勉強をしている気配もない。部屋は散らかったままで、生活は乱れに乱れている。彼の精神を支配しているものはいったい何か…?
自転車のカギがないこと、財布は持っているらしいことから、あらかじめ計画的に何かを企てていることが想像出来た。 あれこれ思いを巡らすうち、あるひとつの事に思い当たった。もしかして苫小牧(札幌から50Kmほど離れた都市)に行ったのでは…?
イニシエーション/'98.9
昨年の終わり頃、友人関係や自分の生き方に悩んでいるらしい下の息子に、ひとつの示唆を試みたことがある。一人旅をしてみないか?というものがそれだ。実は私にも息子と同じ年頃に、家出に近い一人旅の経験がある。30数年前の高2の夏だった。自分の内側から突き上げてくる何かにうながされ、私は野宿での単独自転車旅行を企てた。行き先は札幌から400キロ近く離れた稚内である。
なぜ稚内だったのか?なぜ単独自転車旅行だったのか?自分でも定かではない。何だっていい、とにかくそれまで経験したことのない大きな何かを、ただ自分に課してみたかっただけだったのだと思う。
正月ころから漠然とそう思い始め、郵便配達のバイトをしてサイクリング自転車を買った。春になったとき、計画はすでに実行段階にはいっていた。家族には秘密だった。親しい友人に打ち明けると、「お前はアホか、そんなことに何の意味がある。車にはねられて死ぬのがオチだぞ」と軽く一蹴されてしまう。姉の一人だけが同調してくれ、自分と共用という条件で、親に内緒で寝袋を買ってくれた。テントを買う金の余裕がなく、固形燃料とわずかな食料と所持金だけで一週間の無謀な旅に出た。
直前になって母にだけ打ち明けたが、最後まで反対だった。友人と同じ考えである。出発の朝になって母が折れ、握り飯を作ってくれた。青ざめた顔の母を残し、ひとりまだ薄暗い街をあとにした。父親は最後まで姿を見せなかった。
雨とヤブ蚊に悩まされた旅行だったが、一日100キロ以上を順調に走り、3日で宗谷岬に到達して予定通り一週間で家に戻った。この旅以来、目には見えないがそれまでなかった確かな何かが、自分の中で育ち始めた。おそらく私にとってその旅は、大人になるためのひとつの大切なイニシエーションだったのだろう。そんな自分の青春体験談は、機会あるごとに3人の子供たちに聞かせてきた。時にはオヤジの繰り言とうっとおしく感じたこともあっただろう。だが、自分が信じてやってきたことは、単なる情報としてでも子供たちに伝えておかなくてはいけない。
そうした日頃の言葉に、息子たちが感化されたのかどうかは分からない。しかし、長男は高2のときに札幌から50キロ離れた小樽への日帰り自転車旅行を試みて成功させた。だが二男には長男のような覇気がいまひとつ足りない。「小樽への道は坂が多くてきついから、同じ距離でも坂の少ない苫小牧にでも行ってみろ」
そうけしかけてみた。だが息子はうつむいて黙ったままだった。その苫小牧への旅を決行したのではないか?と私は思った。稚内への往復800キロの野宿旅行に比べると格が下がるが、軟弱な息子にとってみれば、往復100キロの旅は大冒険に違いない。
二日目の朝が明けた。明け方5時まで起きて待っていたが、息子は帰らない。朝刊に身元不明者の死亡記事がないことを確かめると、私はとりあえず眠ることにした。息子が旅に出たのではないかという思いは、次第に確信に近いものに変わっていった。
父と息子/'98.9
息子が失踪してから三日目に入った。昼に起きてみたが、玄関の鍵はかかったままだ。妻も長男もそれぞれ仕事と学校に出かけてしまい、家の中はがらんとしている。
ふとみると、子供部屋の戸が閉ざされている。もしかすると息子がこっそり戻っているのでは…。そう思って近づいたとき、居間のテーブルの上に一枚の見慣れた文字の手紙が載っているのが目に入った。息子の筆跡だった。
父母へ心配かけてごめんなさい。本日午前11時、家に帰ってきました。まる一日半近く、どこをふらついていたのかといえば…、実はひとり自転車で小樽に行っていたのです。なぜ小樽だったのかといえば、これが自分でもよく分かりません。たぶんどこでもいいから一人になって、自分をもっと見つめてみたかったんだと思います。でももしかすると、黙って家を抜け出して心配させてみたかった、もっとみんなに構ってもらいたかった、ただそれだけなのかもしれません。
本当は昨日の夕方に札幌に戻っていたのですが、ドアに鍵がかかっており、父母の怒った顔を想像すると怖くてインタホンが鳴らせませんでした。結局翌日の皆が出かけたころを見計らい、開いていた窓からこそこそ家に戻る格好になってしまいました。もうこんなことはしません。本当に心配かけてごめんなさい…。読んでいるうち、不覚にも涙で文字がぼやけた。やはりそうだったのか、と思った。薄く扉を開けてみると、ベットの上で寝息をたてている息子の頭が確かに見える。親のあずかり知らぬ二泊三日をどこでどう過ごしたのだろうか、とにかく疲れ切って眠り込んでいるようだった。
私はそのとき、一年ほど前に息子がふともらしたある言葉を思い出した。「ぼく、父さんにはかなわないよ、どうしても勝てないんだ」
仕事や趣味の世界でさまざまな活動を続ける私に対し、ただ圧倒されてしまうのだと息子は言う。ときには家族を犠牲にし、好きなように生きてきたことが、知らず知らず息子への無言の圧力になっていたことに私はただ驚き、返す言葉がなかった。
勝ち負けで物事を捕らえるのは、おそらく父親と息子だけの特別な感覚なのだろう。打ち明ければ、私も父親に対して(勝った…)と心密かに思ったことが人生で幾度かある。背丈で父を追い抜いたとき、一級建築士の資格を取ったとき、脱サラが首尾よく運んだとき…。どれも父が果たせなかったことばかりだ。
肉親の間柄で何もそこまで、と言われそうだが、当事者にとってみれば一番身近なオス対オスの壮絶な力比べ、そんな例えすらあてはまる、羨望と嫉妬に満ちた不可思議で過酷な関係なのである。男とは元来、やっかいな性(さが)なのだ。
息子は少しでも私に近づこうとして今度の旅を企てたのではないか。道の平坦な苫小牧ではなく、険しい坂道の続く小樽を目的地に選んだのも、長男に対するライバル心、私に対する意地と考えれば納得出来る。家出という乱暴な形をとったのも、そうしたやり方で、弱い自分を抜き差しならない状態に追い込む必然性があったからではなかろうか…?息子が目覚めても咎める気は全くなかった。反対に、(なかなかやるじゃやないか)と成し遂げた息子をほろ苦い思いで見直す気分だった。長男に続いて二男もが私の青春時代と同じ道を辿ってくれたことが単純にうれしくもあった。
もしも彼が将来家庭を持ち、もしも息子を持つことになったなら、今度の事件を懐かしく息子に語るときがきっとくるだろう。ちょうどいまの私のように…。
デッサンコーチ/'98.10
柄にもなくデッサンの指導などしている。十月の上旬に、小学校のころ女子サッカーを教えていた今は中3になるもと「教え子」から突然電話がきた。「もしもし、コーチですか?実は来年、市立高専を受けるつもりなんですけど、もしよかったら週末にデッサンの実技指導をして欲しいんですけど…」
久しぶりの電話、声にはいくぶん緊張の色が漂う。実はこの子の家族とは、彼女がサッカークラブを卒業したあとも交流が続いている。一家をインターネットの世界に引きずりこんだのも私だし、互いの家庭を訪問したこともある。たまにクラブの練習に遊びに来てくれたりもする。彼女たち一家はいまだに私のことを「コーチ」と呼んでくれ、私にとってその呼び方はある種の代名詞のようにもなっているのだが、それは紛れもなく私への信頼の証でもあり、決して悪い気持ちではない。
その子(仮に名前をアスカとしよう)がどうやら市内にある芸術系高専を目指しているらしいことを知り、たまたま長女が同じ学校を卒業していたこともあって、実技や面接での心がけなどをEメールでアドバイスしたことがあった。そんなことも伏線にあって、依頼の電話をかけてきたのだろう。「家に通ってくれるならやってあげてもいいよ」
私はためらわずにそう答えた。自信とか煩わしさなどの問題はどこにもなく、私に直接電話をくれた彼女の率直な心意気に、感ずるところがあったからである。
7年前の長女の受験時にも2カ月間デッサンの指導をしたことがあり、私の厳しいしごきの甲斐あってか、娘は首尾よく推薦での合格を決めたのだった。私は美術の専門教育を受けてはいないが、そのときの経験とこれまでの仕事で培ったものが、なんとか役立つのではないかと考えた。
毎週土曜日に私の家の近くでサッカーの練習をやっているので、そのあとに教えて欲しいとアスカは言う。サッカーのあとに美術のレッスン。まさに文武じゃなく、芸武両道、見上げたものだ。泣かせるじゃないないか。時間は1〜2時間と決め、さっそくその週から始めることにした。まずは記憶を頼りに、カリキュラムを組んだ。実技のテーマは例年、「複数の対象物を任意にレイアウトし、鉛筆と水彩絵具で3時間以内に仕上げる」と決まっている。対象物は当日まで知らされないが、過去の出題例では、「コップ」「花」「ガラス瓶」「プラモデル」「木片」「丸めた新聞紙」など多種多様で、ヤマはかけにくい。総合的な力が試されるのだ。
悩んだすえに、以下のように大枠を決めた。
■デッサン:円柱、球、立方体、直方体、円すいなどの基本形状を正確にとらえる。
■空間構成:平面、立体などの限られた空間に、バランスよく素材を配置する。
■表現:鉛筆や絵具で物を正確に表現する。
■総合練習:上の3つをあわせ、具体的な物を組み合わせて課題に取り組む。もしプロの指導者なら、もっと違うやり方やメニューで取り組むのかもしれない。だが、私はサッカーの指導も自分なりの工夫で試行錯誤しながらやってきた。たぶんこれでなんとかなるだろう。多少の不安はあったものの、いざやるとなるとなぜか浮き浮きした気分で週末を迎えた。
生きること、伝えること/'98.10
約束の5時過ぎにインタホンが鳴った。てっきりアスカと思って受話器を取ると、意外にも声は彼女のお父さんである。「最初ですから、送りがてらご挨拶にきました」
親しき仲にもなんとやら。律儀な振舞いに感心するやら恐縮するやら。初回は単純な直線でのグリッド(格子)や連続の円の作図で、瞬く間に時間が過ぎる。好きなこと以外は30分しか集中出来ないという自称「飽き性」のアスカにあわせ、30分ごとに休憩し、雑談をはさむ。小学5年生からのつきあいなので、年は離れているが気の置けない仲である。サッカーやデザイン、高専の話をしてあげると眼が生き生きと輝いてくる。
「デザインは無から有を作りだせる素晴らしい仕事だよ。男女の差も全くないし、一生続けられる」
分かったような私のそんなうんちくを、アスカはうんうんと頷いて感心したように聴いている。「ちっとも長く感じなかった」
そう言ってアスカは帰っていった。その夜にさっそくお母さんからEメールでのていねいなお礼が届いた。15歳の彼女にとって余程刺激的なレッスンだったのか、「楽しかった」とはしゃぎ回り、勉強のほうにも俄然やる気を見せ始めたらしい。めでたしである。こうして毎週末に私の仕事部屋で繰り広げられるアスカへの「デッサンコーチ」は、都合4回を終えた。サッカーでもエースストライカーであり、小6の時に日本選抜としてアメリカにも行ったことのあるアスカは、サッカーと同じように直感力で物事をとらえるタイプだった。小さなヒントですぐに物事を理解してしまう。教える側としてもやりがいがある。
指導をしてみて改めて思った。私は教えることがとても好きなのだ。以前、サッカーコーチでの経験をノンフィクションにまとめた時にも書いたけれど、相手の立場にたって分かりやすく、順序だてて教えること、そしてそれを相手がうまく吸収してくれてよい結果となって表れることに、どうやら私は至上の喜びを見いだすタイプらしい。たぶん私は根っからの「コーチ」なのだ。五十路を目前にして思う。生きること、生きていくことは伝えることなのではあるまいか、と。私はいままで様々な人々に出会い、経験し、そこから多くのことを学び、教わってきた。私の人生はすでに折り返し点を過ぎている。今度は私がお返しをする番だ。
ひとりよがりのわがままな中年男の戯言かもしれないが、もし機会と望んでくれる人がどこかにいるなら、私は自分の持っているすべての知恵と知識を伝える努力をいとわないだろう。それは私自身が自分の道を確かめて行き続ける道でもあるのだから。
右折禁止/'98.11
先日、車で家路につく途中、急にパソコンショップでMO(磁器ディスク)を買う必要があったことを思いだした。場所は札幌の大通公園を少し東に入った3車線の広い道。たまたま一番右の車線を走っていたので、ちらりと標識を確認し、次の交差点でUターンを試みた。
すると反対車線の横断歩道の渡り口あたりで、帽子をかぶった不審な人物がさかんにこちらに向かって手を振っている。
(いいオヤジが(私もそうだが)車に手なんか振って、気味の悪い奴だな…。)
そう思った私は、車の流れが途切れたのを見計らい、アクセルをふかして急いでUターンしようとした。危ない昨今のご時世、ストーカーもどきにかかわるのはごめんだと思ったからである。
ところがその瞬間、かの人物はすごい形相で車道に飛び出してきた。こいつはいよいよ危ない奴だ、そう思った途端、フロントグラス目前に迫ったその人物が、ある権威を持つ制服を着用していることに、ようやく私は気づいた。そう、彼はまさしく「おまわりさん」その人だったのだ…。「だ〜めだな、こんな所でUターンなんかしちゃ。ここは右折禁止なんだよ。さっきから曲がっちゃイカン、って手で合図してたのに、見えなかったの?」
あわてて車を降りた私に、なぜか勝ち誇ったような口調で彼はまくしたてる。ええ、確かに手を振るお姿はよっく見えましたとも。不審人物として…。しかし、不審なのは彼ではなく、まさしく私であったことはすでに明白である。どうやら標識の見逃しらしい。すみません、と私は素直に自分の非を認めた。
このあと、免許証提示、無線での身分紹介、(よく見ると、反対車線の道路脇にパトカーまで止まっておりました)とお決まりの「取り調べ」が続き、さしたる違反歴、事故歴もないことが確認されると、かのおまわりさんの口調も幾分和らいできた。「いったいど〜こいくつもりでUターンなんかかけたの。あの道路標識見えなかった?」
彼の指さす彼方を見やると、確かに3車線の一番左側の路肩に、「右折禁止」の標識が見える。「全然見えませんでした。だって、ずっと右車線を走ってきたし、あんなに遠い場所にある標識は、目に入りませんよ。ここはあまり通る道じゃないし…。普通これだけ広い道なら、中央分離帯にも標識がありませんか?環状通りなんか必ずありますよね?」
別に見逃して欲しいという下心ではなく、私は自分の運転していた状況をありのままに説明した。するとそれまで元気だった彼の口調が、なぜか突然トーンダウンしてしまった。
「う〜ん、まあそういうことなら仕方ないかな…。ま、気をつけて行ってください」
と、免許証を返され、あっさり無罪放免。ン万円の違反切符を覚悟していた私を、拍子抜けさせてしまったのだ。で、その理由をいろいろ考えた。この10数年、無事故無違反の「優良運転手」。すぐに止まってすぐに非を認めた「潔さ」。全く違反の意識のなかったこと。いろいろ理由は考えられるが、おそらく決定的だったのは、「標識の分かりにくさ」だったのではないか?
詳しい経緯は忘れたが、この「分かりにくい標識」で違反切符を切られ、それが不満で最高裁まで争った誰かが、見事無罪を勝ち取った判例が過去にあったと思う。もちろんそれを逆手にとったわけじゃないが、制服に驚かず、言うべきことは言ってみるものだという認識を新たにした今回の「事件」だった。
子供の名前/'98.11
「ボクは『拓馬』のほうが良かったな…」いつだったか名前の話になったとき、上の息子がポツリとそうつぶやいたことがある。今年20歳になる息子の名は「拓也」といい、それは彼の年代ではベスト3には入る、とてもポピュラーな名前なのだ。息子が言うには、「タクヤ」という響きははっきりしていて悪くないが、名前そのものが平凡過ぎるのが嫌だと言う。
「本当は『拓馬』っていう名前も最終候補に上がっていて、父さんはそっちが良かったんだ。お前はウマ年生まれだし、なかなか締ったいい名だろ?最後まで迷ったんだが、最後は母さんが決めたんだ」
「どうして母さんが?」
「そりゃお前、『腹を痛めた者の特権』ってやつさ」
息子はいまひとつふに落ちないという顔である。私たちには3人の子がいるが、上から順に「亜沙子」「拓也」「晋也」である。長女には「史織」「亜沙子」とふたつの名を用意しておいたが、生まれてきた顔を見るなり、「これは亜沙子だね」と二人の意見が一致し、すんなり決定。医者からは何も聞いてなかったが、なぜか女の子だという確信があったので、男の子の名前は全く準備していなかった。
長女の名前にはもうひとつの曰くがある。高校の同級生で、特別好きだったわけではないが、とても雰囲気のいい子がいて、その子の名前が「あさ子」といった。あるとき、その子が友人と「私、本当はこの名前だったら良かったな…」とノートに走り書きしていたのが、この「亜沙子」という名である。
はっきりいって「パクリ」なのだが、この名前は長女の雰囲気にピタリあっていて、 本人もたいそう気に入っている。2番目のときは男の子という確信がこれまたあったので、「拓也」と「拓馬」に絞った。いずれにしても、「切り拓く」という意味で、「拓」の字を入れたかった。候補をいろいろリストアップし、最終決定を妻に委ねるというやり方は、私たち夫婦の関係を端的に表しているように思う。
二男のときは男か女か絞りきれなかった。仕方なく、両方を用意した。男なら「晋也」「進也」、女なら「菜緒子」である。男の子の名は、長男の名前の成り行きで、語尾に「也」がつくものでいいだろう、最初に「切り拓いた」んだから、次は「進む」か「到達する」(「晋」には到達する、という意味がある)がいいんじゃないか、という安直な結論。子供も3人目くらいになると、親もだんだん肩の力が抜けてくる。
「菜緒子」という名は、上の娘が3文字で語尾に「子」がついているからという、これまた安直な発想。私のアイディアで、安直な割には上品な文字づらと明瞭な響きがエラく気に入っており、結果的にボツになったが、このまま眠らせるには惜しい名だといまだに思っている。
「進也」ではなく、「晋也」を最終選択したのも妻。実は「進也」だったほうが、もっとのびのびした子に育ったのではないか?とこちらもいまだに未練に思っているのは、おそらく私だけであり、当の本人は自分の名に関しては、さしたる思い入れはないようだ。ちなみに、私の名は「友則」という万葉歌人のようなたゆたき名だが、当初母は「治樹」(はるき)「秀人」(ひでと)のどちらかにしたかったのが、「子供の名は俺がつける」とわめく亭主関白的父親に、あっさり寄り切られてしまったのだという。
同様な議論をここで試みてみれば、私は「治樹」が一番良かったな、などと、中年男のせんない独り言。いろいろあるが、結局名前ってのは、親が子供に押しつける最大のわがままプレゼントなのかもしれない。