二〇〇五・夏乃章
つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
なにせ『徒然雑記』なのだから。
カエルの子/'05.6
6月初旬の週末、数年ぶりに東京でパッケージデザイナーをしている娘が帰省した。仕事を終えた金曜夜に職場からそのまま札幌行き最終便に乗り、自宅に着いたのが深夜。
今回の帰省は、これまでのようなただの顔見せや友人の結婚式出席の類いではなく、半分以上は仕事である。以前にこのサイトで書いた、「札幌スタイルコンペ」での父子同時入賞がきっかけとなり、娘の作品が商品化される運びとなった。私の作品は商品化となると難しい部分が多く、もちろんこのような声はかからない。
形になった試作品を手にした一般市民がどのような反応を見せるのか、商品化の前の市場アンケート調査が今回の主目的である。
ちなみに、娘の作品は「雪の上に文字や絵を印しつつ、遊びながら足跡を残す」という、接着式の靴の滑り止めで、どちらかと言えば冬の観光客を対象にしている。「生活や気持ちを豊かにする楽しさ、温かさ、面白さ、新しさ、美しさを持ったデザイン」という今回の公募主旨に、ぴたり一致する。会社での仕事が忙しく、翌日土曜の朝から夕方まで実施されるという調査の資料が、まだ完成していないと娘は嘆く。私も多忙だったが、2台あるパソコンの1台を娘に明け渡し、残った資料の作成に夜半からとりかかった。朝の早い妻は、隣の寝室で軽やかな寝息をたてている。
未完成の資料は、商品を入れるパッケージの見本と、説明用に市民に配るデザインコンセプトを簡単に記載したA4のパンフである。前夜に娘からのメールでSOS信号をキャッチしていたので、私も時間を割いて娘をサポートした。娘のメインPCは私と同じマック、使っているソフトも同じだが、バージョンが微妙に違う。私のほうが古かったので、娘が東京から持ってきたファイルが読み込めるのか、かなり不安だったが、何とか作動した。
細かい修正をしていよいよ印刷という段になって、大きな問題が起きた。色が娘のイメージと合わないのだ。パソコンの画面の色とプリンタで印刷した色をぴったり合わせるのは、プロでも大変難しい。光の信号であるパソコンの画面と、色の信号である印刷物とは、本来全く性質の異なるものだからだ。
数種類ある用紙を変えても、なかなか娘のイメージには到達しない。私もそうだが、何かを創作する場合、デザイナーやクリエイターは事前に必ず強いイメージを自分の中に作る。このイメージが甘い場合か全然ない場合、完成作品の質はほとんどの場合、著しく落ちる。父親ではなく、同じ創作を生業とする「同志」として、私は娘のイメージ追求に辛抱強くつき合った。手持ちのあらゆる用紙を持ち出し、色の変換設定を何度も変えて出力を試みる。あれこれ手間取るうち、夜が白々と明けだした。
かなりのパターンを仮出力し、「これ、いい!」と娘の最終OKが出たのは、何と私が数年前に1ヶ月近くかけて建築の完成予想図用に構成した用紙と色変換ファイルのパターンだった。
印刷したパッケージをすぐに裁断し、用意した商品と袋をセットすると、確かに購買意欲をそそるデザインに仕上がった。娘はあくまで大手企業の下請けである制作プロダクション勤務だが、彼女自身の手がけた商品を街のスーパーやコンビニで最近よく見かける。
「ああ、これは幼稚園の時に書いたあの絵のイメージがどこかに残っているね」などと、商品を手にして妻と語り合う。
幼い頃娘は、オモチャ箱の中にある綿埃を集めて形にし、名前をつけてよく独り劇をして遊んでいた。はたから見ればただのホコリだが、娘の眼にはどんな高価な人形よりも素敵な友達に見えたのだろう。
モノやカネには限りがあるが、イメージには限りがなく、そしてどこまでも自由だ。そのことを娘は本能的に悟っていたのだろう。彼女のデザイナーとしての優れた資質は、そのときすでに小さくほころんでいた。その夜はたいした話しも出来ないまま、数時間寝ただけで翌朝早く娘は集合場所の繁華街へと向かった。朝の苦手な父親だが、こんなときは眠い眼をこすって最寄りの駅まで車で送り届ける。
デザインコンペを主催した札幌市の正式なサポートを得て、大通り公園で2日間実施されたアンケート調査は盛況だったという。秋には娘が直接手がけた作品が、土産物店やDIY系量販店に並ぶ。
すべてを無事やり終えた娘は、日曜夜の最終便で、まるで風のように帰っていった。
エレアコ/'05.6
ネット通販でギターを買った。前回ギターを買ったのが23歳で社会人となった最初の給料でだったから、32年ぶりの2台目のギターということになる。
これまで使ってきたギターはモーリスの中級品で、いわゆる「ドレッドノートタイプ」というボディが大形で、音量の大きいギターだ。私のようにPAなしの路上(青空)でガンガン弾いたり、介護施設のような比較的小さな空間で、ギター専用マイクなしで歌うにはうってつけのギターだった。かなり弾きこんだこともあって、音は決して高級品に負けていないと自分では思っている。
そもそも、私はギターにはまるで頓着しないたちで、履物にたとえるなら、安くて丈夫で気楽に履けるスニーカーかサンダルのような感覚のギターで充分満足する。
「趣味はギター」ではなく、どう見ても「趣味はギター収集」としか思えない一部のマニアと違って、メーカーや型番など、どうでもいいのだ。人それぞれだが、ギターに余分な金や時間を注ぐくらいなら、その分聴き手を少しでも感動させる歌の創作と練習、そして工夫に私は励む。これまでのように、週に一度くらいのペースで自宅でポロポロ弾き語る程度の使用頻度なら、この「スニーカーギター1台こっきり」で充分事足りていた。ところが、今年から本格化した音楽活動のせいで、わずか半年で10数回ものライブをこなした。準備のために、毎日の練習も欠かせない。酷使がたたって、使い続けたギターにも傷みが目立つ。万が一、約束した訪問ライブの直前、不足の事故や故障でも起きたら、相手側に大きな迷惑をかける。
(予備のギターが最低1台は必要だよな…)
そんな思いは日増しに高まっていた。折も折、6月に入って200名近くの聴き手が相手の野外ライブに出た。2名のプロも出演した大きなイベントだったが、そのプロが使っていい音を鳴らしていたのが、増幅装置内蔵のギター、いわゆる「エレアコ」だった。
アコースティックギターの音を電気的に増幅しているので、繊細な音には程遠い。しかし、たった1台でまるで複数のギターがそこにあるかのような迫力があった。ストローク奏法中心でガンガン弾く私に向いているかもしれない、とそのとき思った。
エレアコはミキサーを介して直接PAにつなげるので、専用のマイクがいらない。録音でボーカルマイクとのバランスを調整する煩わしさからも解放されそうだった。仕事とライブに追われ、たまった未録音のオリジナル曲が10曲を超える。エレアコがあれば、この録音も一気に片づきそうな甘い期待もあった。1週間以上かけて情報収集し、セミハードケース付で3万のエレアコを新品で買った。名前はある程度知られてるメーカーで、シリアル番号や制作者のサインも入っているが、価格からして傷や汚れを気にせず、気兼ねなく使える汎用の「スニーカーエレアコ」だろう。
それでもPAにつないだ音はイメージ通りの迫力だし、スイッチを切って普通のアコースティックギターとして弾いても、音にはそん色ない。いま使っているギターの予備には充分なりそうだ。
6月末にあった居酒屋での定例アマチュアライブには間に合わなかったが、7月上旬にある大人数が対称の単独野外ライブには何とか使えそうで、仕事の合間にリハーサルを兼ねた音の微調整を重ねている。いままでのギターには愛着があるので、自宅や狭い空間でのライブ、そしてPAのない青空ライブにはこれまで通り使うつもりだ。だが、全く使用目的の異なる別のギターを初めて手にしたことで、いつになく気分が高揚している。ステージで映えるよう、あえて真っ赤なワインの色を選んだことも影響しているかもしれない。
いまの自分の活動や実績の積み重ねから考えると、実にささやかな投資なのだが、今後の曲作りやステージスタイルに大きく影響を与えそうな予感がしてならない。
床下冷房/'05.7
久し振りに外気温が30度を大きく超えた。1階から2階までワンルームのような開放的構造になっている我が家は、南北と東西に効率よく設けた窓を開け放つと、自然の風が気持ちよく吹き抜ける。入居6年目になるが、エアコンはもちろん、扇風機の必要性も全く感じない。これぞ二酸化炭素排出とは無縁の、エコロジー生活の極地なのだった。
最近、デジタル式のかなり正確な温湿度計を入手したので、コード式になったセンサーをあちこちに置いて、真夏の室内環境を調べている。外気温が32度の日、室内は1〜2階とも27度前後で、湿度は50%程度。1〜2階のどの部屋も似たような数値で、温度湿度のムラがない。これは真冬に簡易温湿度計で測っても同じ傾向で、高断熱高気密住宅と開放的間取りのなせる技だ。
ところが、1階の掘りごたつに座っていると、どうも2階よりは涼しく感じる。しかし、温湿度計の数値に大きな違いは見られない。「足元がすごく涼しい感じがする」と妻も言う。私も同様の感触を実は持っていた。試しにセンサーを床下に入れ、温度湿度を詳しく測ってみた。
信じられないことに、温度計の数値はみるみる下がって、23度強。1階の室内温度より、4度前後も低い。これじゃ涼しいはずだ…。1階居間の中心にある掘りごたつは、もともと冬の床下暖房の熱を効率良く室内に回すために作った代物だ。居間の中心を1メートル四方ほどの大きさにくり抜き、下に台を置いて足を入れると、ちょうど椅子に座るような具合になっている。
基礎の壁際にはパネルヒーターを置いてあるので、暖房時には足元から暖かい。上に布団等はかけてなく、ただ手作りの座卓を蓋のように置いてあるだけだが、冬はここに座ってしまうと心地よくて、なかなか抜けだせないほどだ。その全く正反対の現象が、盛夏であるいま、まさに起こっているらしい。蓄熱効果のあるコンクリートを10センチの厚さで床下全面に打ってあるので、暖まりにくく、冷めにくい、という特質があるのは理屈で分かっていた。周囲温度の急激な変化に左右されず、ゆっくりと温度が上がったり下がったりしているわけだ。
冬はヒーターが微少になっても何となく暖気が残っており、夏は反対に外部の温度が急速に変化しても、マイペースで低い温度を保とうするのだ。数字を見てふたつの考えが閃いた。ひとつは夏の暑い日は窓を開け放って1階の掘りこたつに陣取り、このひんやりした「天然エアコン」の恩恵にとことん甘える生活をすること。
1階は台所やトイレにも近く、この掘りこたつに日がな一日座っていても、日常生活に大きな支障はない。パソコンをもう1台増やし、家庭内LANでつなげば、仕事もこの掘りこたつで充分こなせるだろう。もうひとつは、この床下にある4度も低い冷気を積極的に室内に循環させ、冷房のように使うという考えである。
理論的には冷たい空気は下に流れ、暖かい空気は上に流れる。放っておいても、冷たい床下の冷気はそのまま床下に留まっているだけだ。その摂理に逆らうには、何らかの形で床下の冷気を強制的に家の上方まで導けばよい。
いま考えているのは、家の中心にある間仕切壁の一部をダクト代りに使い、2階の間仕切壁にファンをつけて運転し、床下の冷気を2階まで引っ張る方式だ。2階に上がった冷気は、室内を冷やしながら階段や吹き抜けから1階を経由し、再び床下に戻るはず。
一日中運転するとエネルギーが無駄だし、ファンの音もうるさい。暑い日中だけ運転しても、かなりの効果があるように思える。幸い、使っていないファンが床下倉庫に眠っている。書いているうち、だんだん本気で試したくなってきた。
BからA/'05.7
使わなくなったB5判のクリアフォルダーをかなり以前に妻にあげたが、「使いにくいからいらない」と、最近になって返された。この大きさでは持っていても使い道がなく、仕方なくプラスチックゴミとして捨てることにした。
はっきり記憶にはないが、9年間務めたサラリーマン時代の前半は、大半の書類はB系列で、A系列の書類はごくわずかだった。役所に提出する書類はB5判の指定があったし、街にあふれるノートやルーズリーフの類いは大半がB5判。当時出回り始めたFAXもB4判の用紙が標準だった。A判基準とB判基準の違いについて簡単に説明すると、よくあるA4判は210×297、B4判は257×364で、同じ数字だと、B判基準の約80%がA判基準である。
両者の違いについてネットで調べてみると、どうやらA系列はもともとがドイツの工業規格であり、現在は国際規格としてそのまま採用されているという。対してB系列は日本古来のものであり、江戸時代の公用紙「美濃紙」のサイズに由来するものらしい。
日本では現在でもこのふたつの基準は混在して使われていて、役所の書類はA判に統一されたが、新聞の折り込みチラシの大半はB4判、週刊誌の多くはB5判、ノール類にはいまでもB5判がけっこうある。コンビニのコピーも、大半はB5〜A3まで4種類のサイズが用意されているはずだ。これらの混在を解消しようとしたのか、ある日突然、役所の提出書類がA4判に統一された。確かサラリーマンを辞める数年前だったと記憶しているから、70年代の終わり頃だったと思う。突然の規格変更に、それまでB5サイズ中心で作っていた社内書類の多くをA4判に統一したり、ファイルフォルダーを買い替えたりした記憶がある。
その理由についてははっきりしないが、おそらくは国際化が急速に進み、それまで国内では通用していた日本古来のB規格が、国際的に通用しなくなったことが背景にあるのではないか。脱サラ後の自家用の書類やフォルダー類は、多くをA規格で統一した。B5判の重要書類を、わざわざ2枚並べてA4判に縮小し直したりした。しかし、完成図を描くのはB4判、FAXもB4判、いまはデータベース化した設計台帳類は、小型のB5判にした。AとBが仲良く混在、共存していたのだ。
大きさとしては机に広げたときに手頃で、情報量も多く、ファイルやフォルダーにして立てたとき、本棚にもピタリ収まるA4判中心でいいと思っているが、B判が次第に少数派となり、市場から姿を消してしまうと、日本古来の文化のひとつが失われてしまう気がする。こじつけだが、私の血液型はこの少数派となりつつあるB型だ。時にマイペース、変わり者、偏屈者呼ばわりされるが、多様な価値観を認め、相互が理解しあって共存を計るのが成熟した真のオトナ社会であると私は思っている。
「みんながやっているから」「世間が許さないから」という一元的な価値観だけでは推し量れないものが、確かに存在する。
ダンジィ/'05.8
街を車で走っていて、エラくダンディな爺さんに続けて二人出会った。一人目はベージュのハンチングに同色の木綿パンツ(おそらくチノクロス)、濃いグリーンを基調とした細いストライプの半袖シャツという身なりで、銀の自転車(ママチャリではない)に乗り、さっそうと歩道を突っ切って行く。
ハンチングの後ろからは長めの白髪がのぞいていて、顔にはロイドのメガネ。一見外人ふうだが、れっきとした日本人だ。おそらく70歳はゆうに超えている。しかし、その風貌はカクシャクとしていて、年齢を感じさせない。「すげー爺さんがいるもんだネ〜」と、助手席の妻に言いつつ、さらに車を走らせていたら、再び目の前の横断歩道を横切る黒い人影。車を停めてふと見ると、またまたハンチングをかぶったモダン爺さん登場である。
今度は黒いスエードのハンチングに、黒の長袖シャツ、黒のパンツと、全体が黒で統一されている。帽子のスエードが陽光で鈍く光っていて、それが鋭い眼光とあいまって、独特の雰囲気を造り出している。年齢はやはり70歳前後。ううむ…、やるな。世の中には随分ダンディな爺さんがいるもので、ダンデイな爺さんだから、ダンジィだ。こいつはいい造語だぞとほくそ笑んでいたら、昨年4月に漫談の牧伸二が、「ダンジイの応援歌」という同じ主旨の曲を作り、発売していることをネット検索で知る。発想が一番手ではないことが分かって、ちょっとがっかりした。
しかし、街で出会った二人は、正真正銘の「ダンジィ」である。身勝手に、外見から推し量れるダンジィの条件を書いてみる。●ファッションを含めた自分のスタイルにこだわっている。
●背中や腰が曲がっていない。
●独りで行動出来る。
●ブクブク太っていないし、お腹も出ていない。
●眼に光が宿っている。 おそらくこれに、「自分流の生き方を持っている」という要素も加わってくるはずだ。20代後半あたりに、(30年後の俺はどんなスタイルで生きているのか…)とよく思いを巡らせたものだ。もちろん30年後にまだ生きている、という前提での話だが、現実に30年経ったいま、当時ぼんやり思い描いていた様々なスタイルに、ほぼ合致した道を歩んでいる自分を発見する。
子供に依存しない、夫婦尊重しあう、質素でも個性的な生活、新しいことへの飽くなき挑戦、死ぬまで続ける趣味…、等々。はてさて、私が道端でふと目撃したダンデイな爺さんは、もしかすると20年30年後の自分の目指すべき姿だ。二人ともそのままのスタイルでギターをかつぎ、街角でフォークを歌っていても、何の違和感もない。
その年齢に達するまで自分が生きられるかどうかは神のみぞ知る問題だが、思い立って急に舵を切り直すことが難しいのが、生き方のスタイルだ。間違って生き長らえたとき、あわてふためかないよう、理想の「ダンジィ」のイメージに向かい、日々努力まい進することにしよう。
ルイジアナ・ママ/'05.8
テレビを見ていたら、懐かしい歌が聞こえてきた。飯田久彦の歌う「ルイジアナ・ママ」である。その途端、記憶がすっと40年以上も前にフィードバックした。この曲には忘れられない思い出がある。
小学校6年の夏、田舎の過疎地の学校から、札幌市内の大きな小学校に転校した。歌が得意だった私は、音楽の時間での歌声をすぐに先生に認められ、2ケ月後の学芸会(学習発表会)では早くもクラスの代表として舞台で3曲歌わされることになる。
このときは5クラスから二人ずつ、計10人の混成であったので、気持ちはかなり楽だった。都会の学校の中でも臆することなく、そつなくこなせたと自分でも思う。数カ月たって、クラス内で卒業記念の喉自慢大会が企画された。クラス代表を中心とした運営委員会が生徒だけで編成された。先生はあくまでオブザーバーで、生徒が中心になってイベントは進められる。いまではおそらくごく普通のこうしたクラス行事のあり方に、1クラスしかない田舎の学校出身だった私はただ圧倒され、度胆を抜かれた記憶がある。
私は運営には関わっていなかったが、委員会が指名した数名が本人の意向に関わらず、代表で歌わねばならないという。それを聞いた瞬間、(もしかしたら指名されるかもしれない…)と嫌な予感が走った。予感は見事に当たり、出演者リストの中に私の名があった。学芸会での選抜は先生の指名だったが、無難にこなしたので、生徒主催の演奏会で名前が挙がったのは自然な流れだったかもしれない。
いまでは信じられないことだが、実は人前で歌うことはあまり好きではなかった。小学校に入りたての頃から、音楽の時間はよく先生に指名されて歌わされ、「上手い、上手い」と言われるたび、なぜか気持ちが急速に引いてしまう自分をいつも感じていた。
周囲からもてはやされるのが根本的に嫌だったのである。いわゆる「優等生」に特有のこの屈折した気持ちは、本人でなければ理解不可能だと思う。私が好きだったのは歌うこと自体で、周りから騒がれ、せん望され、引いては誹りや妬みの渦中に自分が巻込まれることなど、堪え難いことだった。
時が流れ、成人したいまでも基本的に私は人のためにではなく、まず自分のために歌う。極端な話、聴き手は生身の人間ではなく、無機質な「青空」だけでもいいのだ。おそらくこのときも同様の心境だったはずだ。私は出演を固辞したが、周囲がそれを許さない。渋々受け入れたが、ここで私は卑屈な手段を講じた。数日前に習ったばかりの難しい歌を楽曲に選んだのである。
習い立てなので、自分もまだ上手く歌えない。審査員もクラス代表を始めとする同級生だったので、彼らもまだよく知らない歌の評価は、きっと下がるに違いない…。そんなふうに計算した。つまり、あえて評価の下がる歌を歌うことにより、何かと災いの元になる華やかな「優勝」を、何としてでも避けようと考えたのだ。
(いま思い返すと、逆にそれだけ自信もあったということになるが…)このとき歌った歌はなぜかタイトルだけは鮮明に覚えている。「僕の地球儀」という歌だ。ネット検索しても全くヒットしないが、自分の机の上にある小さな地球儀を眺めつつ、まだ見ぬ世界に思いを馳せる、というなかなか渋い歌だった。
何番目だったか忘れたが、伴奏もなく、アカペラで歌った。いざ歌い始めても相変わらず気分は乗らず、ふて腐れ気味に着ていたセーターの中に下から両手を突っ込み、見るからにダラシナイ格好で歌った。ヤル気のなさを態度で示し、さらに審査員の評価を下げようともくろんだ。何人か歌ったあとに、大柄ですでに声変わりをほぼ終えていた伊藤という男が歌い始めた。それが初めて聞く「ルイジアナ・ママ」だった。聴いた瞬間、これは上手い、と思った。変声期特有のハスキーな声が歌とぴたりマッチしている。いわゆる流行歌のたぐいを歌ったのは彼だけで、その点でも際立っていた。
優勝は文句なしに彼で、私は準優勝だった。その結果になぜかホッと安堵した自分を覚えている。「あの歌う態度で減点されたんだよ、ちゃんと真面目に歌えばお前が優勝だったんだ」と、親しい友が言ってくれたが、順当な審査結果だったと思う。私は明らかに負けていた。
結果的に私の屈折した猿芝居など無用だったわけで、その後私はこの「ルイジアナ・ママ」がラジオから流れると懸命に耳をそばだて、すぐにそらで歌えるようになった。「未婚の女性なのに、なぜ『ママ』なんだ?」とか、「『デキシクィン』ってなんだ?」だとか、「『ロニオリン』ってどういう意味だ?」等々、当時抱いた素朴なギモンの数々が解けたのは、それからかなりの月日が経ってからである。
蒼い星くず/'05.8
歌にまつわる話を続ける。39年前の16歳の夏、家出同然の単独放浪自転車旅行に出た。目的地は日本最北端の宗谷岬で、すべてテントなしの正真正銘の野宿。父親は最後まで旅を許さず、青ざめた母の見送りだけで明け方4時前の札幌の街を、ひたひたと北に向かって独りペダルを踏み出した。
このことは旅行記としてはまだ公開していないが、断片的にエッセイとしてこのサイトにも記した。きちんとした形で載せる日がいつかやってくるかもしれない。「なぜ宗谷岬だったのか?」「なぜ自転車なのか?」「なぜ野宿なのか?」「なぜ独りなのか?」等々、うまく説明出来ない要素がこの旅には数多くあるが、格好よく書くなら、「自分をそうしむける天からの声を聞いた」とでも説明するしかない。
ともかく僕は旅に出た。国道12号をひた走り、一日目は旭川をこえた平原で日が暮れた。固形燃料を燃やしてインスタントラーメンを食い、道端にシートを敷いてシュラフにくるまって泥のように眠った。明け方に冷たい雨が頬を叩いて目がさめた。テントを持たない悲しさだ。まだ3時過ぎで薄暗かったが、早々に起きだし、雨カッパを着てまた走り出した。
若かったが、前日は160キロも走っている。サイクリストの常識を越える無茶な距離だ。緊張と寝不足もあり、身体には疲れが残っていた。それでも、少しでも距離を稼ぎたい。4段変速の自転車にバイトの金を使い果たし、旅行資金が足りなかった。わずか5泊6日で、札幌〜宗谷岬間の往復およそ800キロを走ろうという無謀な計画だった。
(単純計算で1日約130キロ強のノルマで、この数値自体が非常識である)
途中、景勝地はいくつかあったが、ほとんど目に入らなかった。景色を見るのが旅の目的ではないからで、ただひたすら走ることそのものが目的なのだった。当時の札幌〜稚内間は、旭川を過ぎると大半が無舗装の砂利道で、自転車には非常に過酷な条件だった。それでも距離が少しずつ伸び、見知らぬ街を通り過ぎるたび、新しい感動に包まれた。人生で初めての旅らしい旅がこれだったが、何とも僕らしい形であったと振り返ってみて思う。
食事は節約のため、食堂の類いには一切入らず、朝と昼は持参の乾パンや通りすがりの店で買う菓子パン。夜は野宿する場所で簡単な調理をしたが、持参の米は携帯燃料では火力が弱く、ほとんど生煮えのまま胃袋に流し込んだ。
こんな粗末な食事でよく走れたものと感心するが、執念とは恐ろしいものだ。強い精神はときに貧しい肉体をも凌駕する。そして天からの声が僕を駆り立て、支え、励ました。旭川と稚内の中間地点にある名寄という街を走っていて、見知らぬ人から不意に呼び止められた。30歳くらいの人だったが、埃まみれの凄まじい僕の姿を見て、一目で自転車放浪旅行だと分かったという。
実は僕も若い頃に同じ様に自転車で独り旅をした。懐かしくてつい声をかけた。がんばって走ってくれ…。
そんな言葉をくれた。旅に出て初めての経験で、本当にありがたく、うれしかった。
当時、バイクに乗って旅をする人は結構いたが、自転車を使って旅をする人は稀で、一日走り続けても一人のサイクリストに出会わないことさえあった。その意味でも僕は非常に先駆的、言葉を変えれば、偏屈な変わり者だったわけである。通りすがりに声をかけてくれたその人と別れたあと、道沿いにある繁華街を通り過ぎようとしていたまさにそのとき、街灯スピーカーから聞き慣れたメロディが耳に飛び込んできた。当時の歌謡界で一世を風靡していた加山雄三の歌う、「蒼い星くず」である。
「たった一人の日暮れに 見上げる空の星くず〜」
それを聴いた途端、身体の底からどっと熱いものがあふれて頬を伝い落ちた。普段から聞き慣れたごく普通の旋律のはずなのに、なぜそんなことが起きるのか、自分でもよく分からない。痛みでも悲しみでも悔しさでもない涙、そんな種類の涙を人生で初めて流した一瞬だった。
野宿での厳しい独り旅の心境が、出だしの歌詞にぴたり合っていたこと。直前に見知らぬ人から暖かい励ましの言葉をもらっていたこと等が、涙と密接に関わっていた。
「天からの声」に駆り立てられ、意気込んで走り出した僕だったが、熱い涙を流したのは街を行くごく普通の「人からの声」でだった。この事実は、その後の僕の人生に少なからず影響を与えたと思う。旅は予定通り、6日で無事終えることが出来た。
(人生、何とか自分でやっていけそうかな…)そんな自信の芽らしきものを初めて自覚することが出来た、僕にとっての大きな旅だった。しかし、この「蒼い星くず」とそれに伴う涙のことは誰にも話さず、長い間心の中に封じ込めたままだった。
その後も妻以外には話したことがなかったが、いまようやく公にする気持ちになれた。年をとったということだろう。