二〇〇五・冬春乃章
つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
なにせ『徒然雑記』なのだから。
メモ魔/'05.1
趣味や仕事に限らず、私はメモをよくとる。外出時の胸のポケットには、小型のシステム手帳が必ず入っている。街を歩いていてふと思いついたこと、ひらめいたことを、時にはイラストをいれてメモしておく。車で動いているときには、道端に車を停めてメモすることもある。システム手帳を使う前は、定期入れに名刺サイズの無地のカードをたくさん入れていて、それをメモ用紙に代用していた。
入浴中や食事中にはよくいいアイデアがひらめくので、居間にある私の指定席にはもちろん、家の中のいたるところに、メモ用紙と鉛筆が置いてある。メモする内容は仕事関連に始まって、エッセイや小説のヒント、手作り作品のアイデア、新しい曲のフレーズ等々、実に雑多だ。大まかに分類すれば、「建築デザイン」「工芸デザイン」「文章」「音楽」「生活」といったあたりか。私の創造活動のすべてがここから出発しているといっても過言ではない。
文章のヒントの場合、メモするのは最も重要なセンテンス一行だけであることが多い。エッセイなら、単にタイトルだけでいい。そのメモが活きて形になるまで、時に数年を経ることも少なくないが、何年たってもそのタイトルを見るだけで、当時何を意図していたかが即座に蘇ってくる。
別のコーナーでもしばしばふれているが、仕事に関連する各種デザインの核にあたる部分のアイデアは、ほとんどこのメモから生まれている。私の場合、「さあ、考えましょう」と机、あるいはパソコンの前で意気込んでも、すぐにはよい案は浮かばない。風呂に入ったり、ビールのグラスを傾けたり、家族とたわいない雑談を交していたり、公園をぶらぶらと歩いていたり、そんなリラックスした時間に限って、懸案だった問題の思わぬ解決案がふとひらめく。私に限らず、デザイナーは誰にもそういう傾向があるかもしれない。このようにメモを有効に活用するには、ある程度のトレーニングが必要かもしれない。私の場合、子供の頃から父親にもらった手帳をよくメモ帳として使っていた。誰かにそうしろと教わったわけではない。はっきりしないが、何かの偉人伝でそんな話を読み、真似をしていたような気もする。
当時のメモの大半は、手作りのオモチャに関するアイデアだった。両親は私に本は充分に与えたが、オモチャは買ってもらった記憶がない。野球のバット、ベースボール盤、チャンバラごっこの刀、パチンコ台、等々、ありとあらゆるオモチャは自分の手で作り上げた。「ほとんどの物はこの手で作りだせる」という実感は、たぶんこの時期に育った。その基礎は自分のメモ癖にある。つまり、現在の創造的な暮しや生き方は、メモ抜きには語れないことになる。
死までの時間/'05.1
「人間は明日死ぬかもしれないが、その死までの時間は各人にとって無限だ」と、かって映画監督の大島渚氏がテレビで語っていた。この言葉には、市井の人々にとっての多くの生きるヒントが隠されている。
その日その日を刹那的に生きたり、あるいは自分の人生が120歳まで続くと考えて用意周到、準備万端整えて慎重に人生を歩んでみたり、人によって「死までの時間」をどのように考えるかはさまざまだ。しかし、少なくとも私はそのどちらででもない。少し回りくどいが55歳のいま、私の考えていることは以下の通りである。
●明日死ぬかもしれないので、とりあえず今日やれることは今日やっておく。●一方で、間違って平均寿命まで生き長らえてしまうかもしれないので、夫婦二人、あるいはどちらか一人が生き残ってしまった場合のことまで考え、生き方暮し方全般にわたって、子供に依存せずにやってゆく道を、ぼんやりとでも確保しておく。
●いずれにしても自分はいつか死ぬので、死したあとの家族や社会、世界、宇宙のことまで配慮し、生きているいま、具体的に考えて行動する。死しても人の強い思いだけは確実に残るから。
「自分の死んだあとのことなど、知っちゃいない」という考え方もよく聞く。だからいま、幸せになれない。人生は実に正直なものだと思う。
ある人は、「あと〜年経ってから、これこれのことをやりたいと考えている」などと理想を語る。またある人は、「子供がすべて独立したら、夫婦水入らずであちこち温泉巡りなどして老後を楽しみたい」などと夢を広げる。
でも夢や理想のほんの入口で、あるいはそれ以前に、「死」という冷酷なつい立てで行く手を阻まれてしまった人々の、何と多いことか。実現しそうもない夢や理想を描くだけで、もし人が幸せでいられるなら、それもいいかもしれない。しかし、私にとって大切なのは、まず今だ。同時に、自分が消えてしまったあとの宇宙を思いやる遠くて高い視点である。
木や森のどちらか一方ではなく、両方を見据えて生きていたい。
零下35度/'05.1
11歳の夏まで、冬は零下35度まで下がる極寒の地に住んでいた。最も寒いのは1月下旬、ちょうどいまの時期である。(1978年2月に、私の故郷で零下41.2度の公式記録がある)
私の体験した零下35度の世界を簡単にご披露しよう。
●朝起きると、布団の回りが自分の吐いた息で凍り、真っ白な霜柱のようなもので覆われている。●外に出てうかつに鼻で息をすると、鼻の穴が瞬時に凍ってしまい、ぴったりくっついてしまう。(口でゆっくり息をするのが正解)
●同じく、外に出てうかつにまばたきすると、まつげが瞬時に凍ってしまい、目が開かなくなることがある。(帽子などを深くかぶって冷気が直接目に当らないようにする)
●あまりにも寒いと、「有線」というラジオのようなもので各家に連絡があり、学校の始まる時間が2時限ほど遅れた。(結構うれしかったりする)
●幅の広い川が完全に凍ってしまうので、学校に行くのにかなりの近道が出来る。(馬さえも軽々と渡れる)
●醤油や油も凍ることがあるので、毛布などでくるんでおく必要がある。(いまはすべて冷蔵庫に入れるそう)
●風呂は入った後にすぐお湯を抜いておかないと、桶全体が凍りついて大変なことになる。(下手をすると壊れる)
●汲取り式のトイレは用をたす片端からすぐ凍りつき、巨大なウ○コのピラミッドがいつも出来ていた。
●どの家にも、冬はその凍ったウ○コを砕くための太い鉄棒がトイレの中に必ず置いてあった。(直径3cm、長さ2mくらいで、通称「金テコ」)凍ったウ○コを砕くのは、男たちの重要な仕事だった。
●しかし、子供には砕く力がないので、(かなりの重労働)やむなく開いている場所をねらって、慎重に用をたした。
●しかし、その「ねらい撃ち」に失敗すると、盛上がった自らのウ○コが、お尻にモゾモゾとつかえてしまう不快感に、しばしば苛まれた。
全部ウソだと思われるかもしれない。しかし、すべて私の経験した事実である。生っ粋の北海道人にでさえ、「いい加減なことを言うな」と相手にされなかったことがある。
屋内に関する記述は、住宅の断熱化の進んだいまはおそらく解決されていることと思う。後半部の下品な話は、私にしてはたぶん珍しい。でも、たまにはこんな戯れ言もいいでしょう。酒席で話すと、確実に場が盛上がりますが。
ちなみに、「外でうかつに立小便をすると、する片端から凍って氷の棒になる」という話をする人がたまにいるが、あれは全くのウソ。さすがにそんなことは一度もありません。
大気中の水蒸気が瞬時に凍りつき、陽光にキラキラ輝く「ダイヤモンドダスト」はあまりにも有名なので割愛。しかし、現実はそう美しいばかりでなく、実に厳しいものなのだ。
物持ち/'05.2
およそ10年ぶりに冬靴を買った。「およそ」と書いたのには訳があって、実は前回買ったのがいつだったのか、はっきり記憶にないほど遥か昔であるからだ。
これまでの靴は、黒いごく普通のアシックス製スノトレ(冬用トレーニングシューズ)。合成皮製の安物で2,000円くらいだったが、暖かく丈夫で滑らず、特につま先部分のでしゃばらない上品なデザインがとても気に入っていて、冠婚葬祭以外は仕事も遊びも雪かきも、すべてこの靴一足で間に合わせていた。ここまで書いて、ある重要なことを思い出した。上の娘が10歳のとき、「クラス男女対抗雪中サッカー」というイベントがあり、見学に行ったら、顔見知りの担任の先生から「女子のキーパーをやっていただけませんか」と頼まれた。そのときの靴がスノトレではなく、キックにとても苦労した。翌年、冬のサッカー用にと買ったのがこのスノトレだった。
娘の年から逆算すると、17年前という数字が出てくる。ううむ…、まさかそんなに使ったとは思わなかった。合成皮製のスノトレがそんなにもつものかと、自分でも驚いてしまう。話を戻そう。そのような酷使がたたってか、昨年あたりからついにつま先がはがれてきた。いよいよ寿命かとあきらめ、同じものを探したが、どこにも見当たらない。困り果ててボンドで修復しつつ、何とかごまかした。しかし、今年はもうダメで、湿った雪道だと、じわじわ水が中までしみ込んでくる。観念してついに買い替えることにした。
街はすでに冬物大バーゲン。銘柄や形にこだわると同じ物は手に入りそうにないので、あきらめて選択幅を広げた。皮製のよい品物が安く売られていて、サイズもぴったり。メーカーを見ると、くしくもアシックスである。運命的なものを感じてとうとう買った。
さっそくはいてみたが、まだどうもしっくりこない。トレーニングシューズに比べると、やや重くてしなやかさに欠ける。17年もはいた靴には、自分の足の型がぴったり馴染んでしまっている。新しい靴に数日で慣れるのは、とても無理な話だ。何とか可愛がって、また10年はき続けてみようか。私はとても物持ちがいい。気にいった物は何十年でも大事に使い続ける。たとえば秋物のごく普通の木綿のジャンパーは、色といいデザインといい、襟元にフードを目立たなく巻込んである使い勝手といい実に具合がよく、20数年も使い続けている。衣類では他にも10年選手、20年選手がゾロゾロそろっている。
たとえば車にしても、庶民的で実用一点張りのホンダのシビックプロをあちこち手入れしつつ、もう17年も乗っている。こうなると、とことん乗ってやれという気分になり、愛着を通り越して自分の身体の一部のような気になってくる。値段の高い安いと使う長さとには、相関関係はおそらくない。むしろ安いもののほうが、長く使う割合が断然高い気がする。選ぶ基準は、ほとんど直感であり、その直感力を支えるのは日常生活の中での、万物に対するたゆみなき好奇心である。
そして、気にいったものは、ただひとつあるだけでいい。車でもギターでも靴でも、それは同じことだ。だから私の持ち物は同年代の中でも、とても少ないほうだと思う。ぜい肉を省いた無駄のない生活は、結局地球にも優しいことに通ずる。
私の場合、この「物持ち」に関するこだわりは、「人持ち」すなわち、自分と馬の合う人とのつながりを大切にし、細く長くつきあいを続けてゆく経緯に相通ずる。つまり、自分が真に理解し、同時にまた自分を真に理解してくれる人は、この世にごく少数でいいと私は考えている。
黄昏デート/'05.2
「明日いっしょに映画に行こう」と妻に宣言した。私の提案はいつも唐突だ。しかし、妻もそれを心得ていて、余程のことがない限り、私の誘いにつき合う。
唐突のようでいて、実は仕事のやり繰りや軍資金、そして提案するイベントの時期を吟味し、事前にある程度の下調べはしてある。私につきあって損はしないことを、妻も充分承知しているのだ。
見に行ったのは60年代後半を背景にした青春映画だ。二人の興味を引くキーワードが多数含まれていたのが選んだ理由だった。
調べてみると、我々は「夫婦50割引き」というサービスの対象になるらしいことが分かる。「夫婦のどちらかが50才以上の場合、夫婦2人で2000円」というおいしい内容だ。しかし、行った日がたまたま「映画の日」で、この日は誰でも一人1000円。どちらにしても、安く観れる仕掛けだった。映画の内容はちょっと期待外れ。シナリオがやや類型的すぎて意外性に乏しい。「ああ、この次はこうなるな」「あの台詞はあとでこういう働きをするのだろう」というシカケが、素人でも分かってしまう。しかし、妻はあまり予測出来なかったそうで、他の観客と同様、涙を流して観ていた。「60年代後半の青春もの」としての切り口で論ずるなら、「青春デンデケデケデケ」のほうが遥かに出来がよかった。
ただ、60年代後半の世相はうまく描かれていた。主役の二人も悪くない。あまり欲張らず、焦点を「青春」1点に絞ればもっと共感出来ただろう。ちょっと惜しい。映画を観て外に出ると、まだ宵の口の5時。仕事の隙間をぬって、平日の真っ昼間から夫婦で映画館にハマっていたわけだ。これこそ金はないが、ときに時間だけは気ままにあやつれる自由業の数少ない特権である。
「夕食をはやめに居酒屋あたりで」と前日に妻から希望を聞いていて、ネットなどでいろいろ見繕ってあった。まるで独身時代のデートのようである。迷ったが、チェーン店は避け、めったに人は連れて行かない自分だけの「隠れ家的居酒屋」に妻を導くことにする。繁華街の少し外れにあるが、そう遠くはない。
街は黄昏れから夜に移るちょうど境目あたり。夜と昼の光の輪郭が微妙に重なりあっていて、なかなかいい情景である。楽器店の前でギターの弦の予備がないことを思い出し、2セット買う。ネットで仕事を納品することが多くなり、繁華街に出る機会がめっきり減ったので、あれこれ用事がたまっている。しばらくぶりに行く店はちっとも変わっていず、ほっと安心する。営業60年近くになる古い店を商売気のあまりない老夫婦が経営していて、確か二代目のはずだったが、ご主人は名門国立大出のエリートという一風変わった経歴。学生時代にアルバイトをしていて、そのまま店主に納まってしまったという噂だ。
開店直後なので店に客は誰もいない。厚い無垢板で出来たいつもと同じテーブル席に座り、その店でしか食べられない特別な料理をいくつか注文する。飲物は小樽ワインのロゼ。洋楽が静かに店内に流れ、山小屋風の調度がいい雰囲気を作っている。
料理の味も少しも変わっていない。初めて食べるラム肉の不思議な鍋焼きと、タコのすり身で作った妙なタコ焼風揚げ物に妻は、「とってもおいしい」と大喜び。小樽ワインも料理によく合っていて、実に旨い。
小1時間ほどいてお腹もいっぱいになり、店が少し混んできたのを潮に、退散することにする。「隠れ家」に長居は無用である。外に出るとまだ6時過ぎ、帰るにはちと早い。「……に寄ってみないか?」と妻を誘う。懐かしい二人だけの思い出がある喫茶店だ。「いいわ」妻もあうんの呼吸で応ずる。
札幌パルコの裏あたり、40年近く前からその店はある。学生時代によく通ったストレート珈琲のうまい本格喫茶だった。当時は1階に店があり、通りに面した広い窓があった。このサイトの詩のコーナーに掲載した「僕は窓のある喫茶店が好きである」は、実はこの店をモチーフにしたものだ。妻を初めて札幌の両親に紹介したときも、最後に連れてきた。青春の切なくてほろ苦い思い出が、ぎっしりここに詰まっている。
店はその後火事にあい、ビルの地下に移った。しかし、「本格珈琲の店」というスタイルは守っているはずだった。ところが…。珍しい店の名はそのままだったが、構えがすっかり変わってしまっている。本格珈琲など影も形もなく、ただの軽食とデザートの店に変わり果てていた。店の前でかなり迷ったが、結局入る。ウェイトレスに、「いつからこうなったんですか?」と尋ねると、この1年で2回ほどスタイルが変わったという。
「以前はストレート珈琲が飲めたいい店だったんです。知ってますか?」忙しそうなウェイトレスについ愚痴ると、そんな話も聞いたことがあるという。考えてみると、この店に来るのも10数年ぶりなのだった。
珈琲はメニューにないので、やむなくアイスクリーム系のデザートを頼む。味はそれなりで、店の雰囲気も悪くはないのだが、大切な青春の一部が消え去ってしまったようで、少し寂しかった。
だが、これも時の流れと受け止めよう。店の場所と名前が当時のまま残っているだけまだましだ。おかげで30年前のあの日の思い出話を、妻と懐かしく出来たのだから。中年夫婦による、あわあわした真冬の「黄昏デート」は、かくして終りを告げた。
本物とニセ物/'05.4
引出しの奥にずっとしまってある赤茶けた古い雑誌の切り抜きがある。日付けと出典が記載されていないので、いったい何年くらい前の資料なのか分からないが、10年以上前であることは確かだ。そこにはこんな言葉が書かれてある。「本物は控え目である…」
ぼんやりした記憶しかないが、たぶん切り取ったのは私ではなく、妻だ。なぜなら、私が切抜きをする場合、余白に必ず鉛筆で日付けと出典を書き留める習慣があるからだ。雑誌の中でその記述を見つけた妻が、「ねえ、こんなことが書いてあるわよ」などと私に話し掛ける。どれどれ、へえ、こいつはすごいじゃないか。おそらくこんな互いのやり取りがあったはずだ。
新聞などを読んでいて毎日のように夫婦間で繰り返される光景で、それ自体は別にどうということもない。しかし、問題はその切り抜きの中身だ。実によく出来た警句だと読むたびに感心し、我が身を振り返っていつも肝に命ずるばかりである。分かりやすくするために、この言葉をそっくり裏返してみる。すると、「ニセ物ほど目立ちたがる」「ニセ物ほどキャンキャン吠える」「ニセ物ほど人を押し退けてシャシャリ出てくる」「ニセ物ほど図々しい」「ニセ物ほどウザったい」等々、昨今どこにでも転がっているごくありふれた事象に、次々とぶち当る。
おそらくこれは、ニセ物であるがゆえの悲しい性なのだろう。本物であれば特に自己主張せずとも、周りが自然に引き立て、持ち上げてくれる。吠えたり、騒いだり、シャシャリ出たりして眉をひそめられる心配はない。
ところがニセ物の場合、ボヤボヤしていると周囲から無視され、見放され、置いてきぼりを喰らってしまう。「本当のニセ物」には、おそらくこれがガマンならない。
(世間は自分を分かってくれない…)そんな筋違いな薄暗い考えを、心のどこかでいつもウラミがましく握りしめている。やれ書きためた原稿を自費出版だ、やれ日々の思いをネットでブログ公開だのと、お手軽な自己主張の手段が世を席巻しているが、とどのつまりは我が身が哀れなニセ物であることを世間に言いふらしているようなものだ。
もしかすると、国民総ニセ物時代が到来しつつあるのかもしれない。ニセ物を見抜くのにとても難しい時代と言えるが、そうなると、冒頭の警句がますます光を放ってくる。騒々しいものをまず最初に排除すればいいからだ。
よく考えると、こんなことをエラそうに書き留めている自分だって、限りなく目立ちたがりで、世間に吠えまくっているという皮肉な事実に気づき、ただ呆然とする。私が真のホンモノであれば、こうしてホームページで世間にむけて一方的に能書きを垂れる必要など、何もない。
本物への道は険しく、限りなく遠い。
外れ者/'05.4
私は外れ物、つまりはアウトローの偏屈者、ひねくれ者である。幼き頃より、組織にはあまり縁のない生活を送ってきた。義務教育である小中学校はもちろん、自分の意志で選んだはずの高校でさえ、イヤイヤ通った記憶しかない。学ぶことに対する自己責任の比重が高い大学は別にして、高校までの各学校は、集団に対する強制的な帰属意識や全体主義がたまらなくイヤだった。
学校の成績はまずまずで、親も教育には非常に熱心だったので、何とか登校拒否にも陥らずに済んだが、特に月曜の朝や長期休暇の明けたあとの登校前の朝の陰うつとした気分は、未だに心の隅にオリのようにしぶとく残っている。組織、つまりは徒党を組むのが本質的にイヤだったので、たとえば校内行事で自由にグループを作る、という段になると、これまたいつも途方に暮れていた。修学旅行のグループ、炊事遠足の班作り、等々…。
しかし、結果的にこの種のグループからあぶれた記憶は、なぜかない。成績面である程度クラス内での位置を確保していたことが、おそらく幸いしていたのだろう。周囲はその種の人間を決して見捨てはしない。真の友情からの結びつきであったとはとても言い難いが、世の中とはそのように厳しく、また冷酷なものだ。
この種のグループ作りで変な記憶がある。クラスには私よりもさらに外れ者が確かにいた。だいたいの場合、私はリーダーに祭り上げられたので、その「自分よりも可哀想なさらなる外れ者」に声をかけ、グループに加えてやったりした。それに対する他のメンバーの異論は記憶にないから、おそらく似たような価値観の者同士が集まっていたのだろう。高校を卒業するとき、卒業アルバム作成のため、「仲良しグループ」が数人集まって中庭などで写真を写すという企画が持ち上がった。このときは最後まで誰からも声がかからず、さすがに困り果てたが、どうしてもどこかのグループに入れという。仕方なく一番変わり者が集まっているグループに自ら声をかけ、隅っこに入れてもらった。
余談だが、このとき私を心良く受け入れてくれたリーダー格の男が、なぜかその後教育産業を自ら興してめきめき頭角をあらわし、いまや東証上場企業の社長に収まっているから人生分からない。
卒業アルバムにはその後もクラス集合写真の招集が幾度かあったが、面倒になって私は入るのを拒否した。だからいまアルバムを繰っても、私が写っているのはこのイヤイヤ写された1枚のグループ写真だけである。こんな私でも人並に会社に入って宮仕えの身になった。だが、根っからの外れ者、ひねくれ者根性が、そうやすやすと変わるわけがない。入社後、人間関係にまつわる様々なトラブルが私にふりかかった。このあたりの経緯はこのサイトの別コーナー「脱サラSOHO日誌〜人生は二度ある」に詳しい。私はあらゆる組織というものに、どうにも融合出来ない自分というものを思い知った。
私に残された道は、組織を離れて事業を興し、独りで生きることだった。これまた変わり者の同じ価値観で結ばれた妻も、あっさりとそれを受け入れた。
天が味方したのか、事業はトントンとうまく運んだ。目の回る程の忙しさが私を追い立てたが、使用人や助手のたぐいをうかつに持つと、それはたちまち「組織」というやっかいなシロモノに変貌する。私は多忙に追われつつも、妻以外の助手や使用人を一切持たずにこれまでやってきた。このスタンスは今後も死ぬまでおそらく変わらない。建築士の資格を持ち、事業を営んでいると、たった一人の事業形態であっても、やれ××商工会議所だとか、やれ○○建築士会だとかの「組織」からのお誘いが、これまたやってくる。しかし、この種の同業者組織にさえも私は一切加入していない。税金の確定申告は自分一人で覚えたし、設計監理も独自の手法を自分で工夫した。
とかく組織に属したがる人は、おそらく組織の中に浸かっているときの束の間の居心地のよさ、そして束の間の心の平穏が魅力なのだろう。様々な制約や煩わしさを重い抵当に入れても、それは充分価値のあるものなのだろう。孤独と刺し違えても悔いのない自由のほうを選んだ私には、まるで縁のない話であるが。
何か/'05.4
70年代初期に、「何か」が歌詞の中に入った曲がかなり売れた。記憶に残る3曲を挙げる。「真夜中のギター」 作詞:吉岡 治、作曲:河村利夫(歌:千賀かほる)
「風」 作詞:北山 修、作曲:端田宣彦(歌:シューベルツ)
「サボテンの花」 作詞:財津和夫、作曲:財津和夫(歌:チューリップ)「真夜中のギター」には、「愛をなくして 何かを求めて さまよう…」の下りが、「風」には、「何かをもとめて 振り返っても…」の下りが、「サボテンの花」には、「何かをみつけて生きよう 何かを信じて生きてゆこう…」の下りがそれぞれ含まれている。探せばたぶんもっとある。
聞いていた頃の自分は10代後半から20代前半で、この「何か」という曖昧模糊とした、それでいて耳障りのいい言葉に、「ふ〜ん」と分かったような分からないような気分にいつもさせられていた。
よーし、それなら俺もと、ずばり「何か〜something」という曲を作ってラジオのフォーク番組に意気込んで投稿してみたりしたが、あえなくボツ。身の程を知った。当時聞いていて、この言葉のどこかにひっかかりを感じたものの正体が、いまになってみて分かる。私が知りたかったのはおそらくその「何か」の中身であって、「何か」そのものではない。はっきり書くと、当時流行っていたこの「何か」は、当の作り手さえ正体がまるで分かっていないある種のごまかし言葉ではなかったか。
聴き手の立場から言えば、「何か」ではなく、はっきり「勇気」とか「強さ」とか、「夢」だとかの実体のある言葉で置き換え、主張してもらったほうが入りやすい。話がいきなりすっ飛ぶが、定職を持たないその日暮しの人々(年齢は関係なくなりつつあるらしい)の間でよく声高に言われる言葉がある。いわく、
「本当にやりたい事が見つかるまで、定職にはつかない…」
これに関しては以前にもこの雑記帳でふれたが、もしかするとこの「本当にやりたい事」とやらは、いわゆる70年代当時の「何か」そのものである気がする。
当時は「定職を持たないその日暮しの人々」がいまほど大きな社会問題とはなっていず、いまよりも物質的に豊かだったとはとても言えないが、まだまだ高度成長の発展途上で、金はなくとも未来にいくばくかの夢はあった時代だ。貧しいが故に、人々の心の中にある程度ガマンしたり、ダキョウしたりする部分も残っていたのだろう。
時代が進んで見かけ上の生活だけはすっかり豊かになり、ガマンもダキョウも、他に対するソンチョウもまるでなくなったアマッタレ思想が世に蔓延しているいま、「何か」を追い求め、そして首尾よく「どこか」にたどり着くのは、30年前よりもはるかに至難の業だ。