二〇〇四・夏冬乃章
つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
なにせ『徒然雑記』なのだから。
ミニライブ/'04.6
以前にこの雑記帳でちらりとふれた自宅でのミニライブの夢が、ふとしたきっかけから実現しそうな気配である。
30年来の秘かなファンだったフォーク歌手の及川恒平さん(以下、恒平さんと記す)のライブを札幌で観たい、と私が恒平さんの掲示板で書いたことがきっかけとなり、ファンの間で一気に気運が高まり、実現にむけて話が急速に進展しつつある。その経緯はこのページの別コーナー「及川恒平札幌ライブProject」に詳しい。
活動の一環として、賛同者の打ち合わせを我が家で定期的に行うことになった。フォーク歌手のライブの打ち合わせなのだから、あまり堅苦しくなく、どうせならギターを弾きながら、歌いながら楽しくやろうよ、そんな話になった。(言い出したのは実は私だ)これまたこのページの別コーナー「本音で暮らす手作りハウス」に詳しいが、私自身の設計による我が家は、とても変な間取りである。いわゆる「間仕切」の概念がなく、建てた当初、ドアは玄関と居間入口、そして脱衣室と浴室の4箇所だけだった。
家族や来訪者の苦情により、その後寝室とトイレには引戸をつけたが、これすらも私の手製の極めていい加減な代物で、のれんやカーテンのたぐいと機能的に大差ない。また、1階と2階も建物中央を貫く吹抜けで上下につながっている。つまり、我が家は全体がひとつの巨大な空間でつながったワンルームのような特殊な構造となっているのだ。その2階25畳のスペースの一隅に簡単なステージをこしらえ、ミニライブをやろうと企てているのである。2階の2/3は仕事用スペースだが、打ち合わせや休憩用に椅子やテーブル、そしてベンチのたぐいは手製のものがあちこちに数多くしつらえてある。歌い手とギターさえそろえば、「いつでもライブOK」状態なのだ。
いつかこんな日がくるかもしれないと、暇にまかせて作り上げた木製のマイクスタンドとギタースタンドも、オブジェ代わりに随分前から仕事部屋の隅に陣取っている。仕事の合間をみて、譜面用のスポットライトや演奏用のベンチも作りあげた。
2階は傾斜天井になっていて高く、内装はすべて木材なので、音響効果はとても良い。ベンチに腰掛けて譜面台を前に「雨が空から降れば〜」とやると、声が気持ちよく空間を通り抜ける。1階でそれを聞いている(聞かされている)妻が、「今日は声がよく通る」とか、「今夜は高音の伸びがイマイチ」だとかの茶々を入れてくる。我が家は都会のオアシスのような田舎の一軒家なので、夜遅くギターを奏でても、隣近所に気兼ねはいらない。賛同者には歌える人、ギターの上手い人が数多くいて、歌い手の心配はまずなさそうだ。一番心配なのは、主催者である私のノドの調子と、ギターの腕くらいのものだ。こちらも仕事の合間を見て、毎日トレーニングに励んでいる。左手の指はスチール弦をきつく押えすぎて、固くマメが出来た。一時は絶不調だったノドの調子も、少しずつ回復しつつある。
歌の候補は恒平さんの曲ばかりでなく、三橋美智也や吉幾三のド演歌から、ブルコメ、そしてオリジナルまで、幅広いジャンルからピックアップ。日々練習に怠りない。さかんにアマチュアライブに参加していた30年前にタイムワープしたような、妙に心が浮き立つ毎日で、もしかするとこんな日々が当分続く。人生よ、まだまだやってくれるじゃないか、そう声に出して感謝したい、そんな気分なのである。
大変なこと/'04.6
「我に艱難辛苦を与えたまえ」そんな山中鹿之介みたいなことを、割と幼い時期から真面目に考えてきた。「大変なこと」をあえて自分に強いることで、何かしらの生きるバネにしようとしていたふしがある。
「大変なことは楽しいこと」3人の子供たちにもそんな親父の物心ついた頃からの処世訓を、機会あるごとに語ってきた。小学生の頃はなんだか分かったような分からないような戸惑いの顔で聞いていたが、上の娘が16、7歳くらいになった頃、「そうだよね〜、チチの言う通りだよ、よくワカルよ」と突然賛同してきて、今度はこちらが面喰らった。
当時娘は学業のほかにバンドや芝居、落語など、様々な趣味の活動を精力的にやっており、そんな中で不意に私から常日頃聞かされていた先の「金言」が、胸の奥にピンと響いたのだろう。先に書いた「及川恒平札幌ライブProject」の旗ふり役のように、はた目にはほとんど得にもお金にもならないようなことを、好き好んでやる傾向が以前からある。9年間続けた子供たちへのサッカー指導もそうだし、5度やったホームスティもしかり。よく考えると雑多な情報を8年もコツコツと流し続けているこの趣味のホームページ自体が、まさにその「得にもお金にもならないようなこと」そのものである。
この種の趣味の活動は決して仕事ではないので、基本的に誰からも強制はされない。しかし、いざ続けるとなるとそれなりに知恵や体力も使い、少しはお金も使う。ほとんどの場合、わずらわしい人間関係にも否応なしで巻き込まれる。やってみれば分かるが、結構大変なのである。
しかし、この「大変で、ほとんど得にもお金にもならないようなこと」が、実は充実した楽しい時間であることに気づく。これまた実際に体験した者でないと感じ得ない、貴重な感覚なのである。充実感は過ぎ去ったあとに泉のようにじんわり湧き上がってくることが多いが、最近では進行中でもそれなりに感じ取れるようになってきた。もしかすると年を経て、達人の域に到達したのだろうかと、一人悦にいっている。「楽してお金だけはたくさん欲しい」、そう公言してはばからない人々が、年令を問わず、巷には溢れている。そんなオトナたちの価値観が、子供たちの精神にまでじわじわと浸透し、巣食っている。本当にそんなふうにお金を気楽に稼いでいる人々も、おそらくこの広い日本にはきっといるのだろう。
しかし、私の論理からすれば、仕事にしても趣味にしても恋愛にしても、「楽なことはツマラナイこと」そのものだ。ハローワークの本を読んで懸命に適職を探すのも結構だが、この視点がブレていると、結局は泣きを見てしまい、やれ自分探しがどうの、自分の居場所が見つからないだの、癒しがどうの、自分にご褒美をあげようだのと彷徨い続ける羽目になる。
事態がいつまでたっても好転しないのは、若年者の模範となるべき齢を重ねたオトナたちが毅然として胸を張り、道を指し示さないからだ。「大変なことは楽しくって、生きる喜びにつながるんだよ」と。
僕と私/'04.6
日本語の一人称に、男だけにしか使えない「僕」という不思議な言葉がある。いつからかはっきりしないが、たぶん大学を卒業して社会人になった頃から、それまではずっと「僕」だった自分のことを、人前では「私」と呼ぶようになった。
就職試験を控えた大学の先輩から、「面接で自分を『僕』なんて言ったら、一発で落されるぞ。会社ってのはそういうものだ」と脅され、結構身構えながら自分を「私」と呼ぶよう訓練した記憶がある。
以来、会社を辞めて自分で事業を始めてからも、この自分を「私」と呼ぶ習慣はずっと続いている。このホームページに散らばっている数多くの文章も、多くは「私」という人称で書かれている。「私」という呼び方は、英語の「I(アイ)」のニュアンスに近く、中性的で相手にも例を失せず、確かに社会人としてそつなく生き抜くには、とても便利で無難な言葉だ。そんな強かな計算もあって、自分を「私」と呼び続けているのかもしれない。
ところで、このホームページでもいくつか自分を「僕」と呼んでいる箇所があるのをお気づきだろうか。たとえば詩のコーナーがすべてそうで、掲載作品以外でも、人称を「私」で書いた詩は過去に記憶がない。このほか、青春を回想するエッセイや紀行文などもすべて人称は「僕」で書かれている。私にとって人称の「僕」は、精神を社会の規律から解放させ、若返らせるための重要なキーワードとなっている。小説家を始めとする創作者も、この「僕」、「私」、ときには「俺」を創作表現の中でたくみに使い分ける。しかし、同じ一人称でこんな技を使い分けられるのは、おそらく男だけの特権だ。この一点に限ると、創作は男のほうが1%くらいは有利かもしれない。
以前書いた夏をテーマにしたオムニバス小説で、この人称を章ごとに激しく入れ替えたことがある。ひとつの実験小説で、人称の使い分けによる視点の微妙なブレを計算したつもりでいたが、合評会で著名な作家にその意図を問われ、「読者を混乱させるためです」と思わず本心を打ち明けたら、「それは読み手に失礼だ」と本気で怒られた。
ちなみに、その作家はかなりの年令だが、いまでも人前では自分を「僕」としか呼ばない。中には公私を問わず、徹底して自分を「僕」としか呼ばない作家もいるが、社会に媚びる必要がないからなのだろうなと、ある種羨ましさを感じてしまう。幼きころ、自分を「僕」と呼ぶことを母から強いられた。クラスの男子は私以外、皆自分を「俺」と呼んでいた。田舎だったのでそれが当たり前だったのだが、どうやら母は我が子だけは「そこらのハナタレ小僧とは違うのだ」と、差別化を図りたかったらしい。
悲惨なのはそんな母親の小さなプライドの犠牲になった「僕」である。3年生くらいになると敏感な子は、「なんでお前だけが『僕』なんだよぉ」と、突っかかってくる。私は友人の中で自分が孤立することが怖かった。
そこで一計を案じ、母親の前では自分を「僕」と呼び続け、友人の中では自分を「俺」と呼んだ。つまり、「母の言いつけをよく守る良い子」と、「みんなと同じ田舎の悪ガキ」とを、巧みに演じ分けたのである。
いま振り返ると、随分姑息で計算高いイヤナ子供だったのかな、と思う。しかし、この「演じ分け」は、特に秀でた資質のないフツーの子が世間を渡ってゆくには、必要とされる大切な資質だ。その視点では、年の割に随分とマセていた子だったのだろう。いずれにしても、嫌味な子供だったことに違いはない。
ラッキーペニー/'04.9
長年のナゾがついに解けた。8年前に、アレックスという愛称の16歳のアメリカ人女性が我が家に1週間ほどホームステイしたことがある。帰り際に彼女が、部屋の机の上にわざと目立つように1枚の赤い1セント硬貨(ペニー)を残していった。
アレックスはとても注意深い性質だったので、忘れ物とは考えにくく、何らかのメッセージをそのペニーに託したのではないかと感じ、当時いろいろ調べてみたが、真相はとうとう分からずじまいだった。先日、「花嫁の靴に6ペンス銀貨を入れて結婚式に臨むと幸せになれる」というイギリスの古い言い伝えのことを調べていて、このことをふと思い出し、何気なくネット検索で、「1セント/ペニー」とキーワードを入れてみた。すると、当時はまるで分からなかった事実が、次々に明らかになった。
ネット内に散らばるいろいろな情報を統合すると、以下のようなことになる。・アメリカやカナダ社会では、1セント硬貨は「ラッキーペニー」と呼ばれていて、幸せの象徴とされる。
・アメリカには「道に落ちているpennyを見つけたら、そのpennyは幸運をもたらす」という言い伝えがある。
・道に落ちてるpennyは、表向き(人の顔の面が上)じゃないといけないらしい。
・ペニーを使ったペンダントやライターなどがお守り代わりとして発売されている。なぜ1セント硬貨が幸福の象徴なのかはよく分からないが、どうやら色が赤いこと(実際には赤銅色)と関係あるらしい。赤いことが黄金、つまり福を連想させるからなのだろう。
つまり、アレックスが私たちの家に残し、思いを託したのは、「幸せに恵まれますように」という、優しい彼女の心遣いだったのだ。はっきりしないが、たぶん硬貨は表向きに置かれていたと思う。このことを知って、私は心暖まる思いに包まれた。
日本でも同じように5円玉に「ご縁がある」と洒落て縁起をかつぐ人がいる。30年前の話だが、妻の実家からの結納返しの中に目録と一緒に5円玉が入っていて、驚かされた。あとで確かめたら、やはり縁起をかついでのものだったらしい。大真面目にそんな縁起を信じる妻の実家に対し、私は微笑ましいものを感じたものだ。玄関に壷を置き、その中に出来るだけ多くの5円玉を入れておくと福に恵まれる、とある風水の本に書いてあった。我が家には新築祝いにいただいた立派な有田の壷が玄関に置いてある。妻の実家からの結納返しのことを思い出し、お釣りの中に5円玉を見つけると、いつしかこの壷の中に入れるようになった。
始めてからかれこれ3年近くになるが、その数すでに100枚近く。一時期の仕事の絶不調を徐々に脱しつつあるのは、もしかしたらこの5円玉のご利益だろうか?それとも、あのアレックスが残してくれた赤いペニーのおかげか?いやいや、これはやはり「気分」のもたらすものだろう。
ちなみに、その風水専門家は、「5円玉以外はダメ」と言っている。これまた理由ははっきりしない。色が金色で黄金を連想させること、模様に稲の穂が入っていて実りを連想させることが関係しているのかもしれない。だとすると、赤いペニーの縁起と大差ないことになる。
国は違っても、「気分」のもたらすささやかな恩恵にすがろうとする人間の気持ちに、変わりはないのだ。
稽古の貯金/'04.9
かなり前のテレビで、いまは引退して相撲解説者になっている元関脇舞ノ海が、こんな粋なことを言っていた。稽古には貯金が効く
「自分は充分な稽古をしなかったので、稽古の貯金が足らず、引退を早めた」と彼は続けた。陳腐な言い回しだが、久し振りに目からウロコの落ちる思いで聞いた。
ますます陳腐に輪をかけそうだが、この「稽古」を「努力」と置き換えると、そのまま万人に通用する金言となるのではないか。つまり、「努力には貯金が効き、いざというときに引出して使える」と…。かってプロのサッカー選手をめざしていて、その夢が叶わなかった我が家の上の息子が、いつかこんな事をメールで私に書いてよこした。
「札幌地区の同期でプロになったSは、チーム練習のあと、毎日黙々とキックの練習を暗くなるまでやっていたらしい。僕はそういう地道な努力が足りなかった気がする。その積み重ねの差が、最後に大きな違いになったかもしれない…」
「努力」という言葉が少し重たいなら、たとえば「イメージ(想像力)」と置き換えてみてはどうだろう。これまた自分の例を挙げる。
上の娘が幼い頃、デザイン系の才能があるとみた私は、良質な本物のデザインに、数多くふれさせた。一流の絵画、イラスト、彫刻、建築…。いまはプロの商品パッケージデザイナーとして、業界の最前線で働く娘だが、もしかするとこうした小さな「イメージ」の積み重ねが土台となり、いま開花しているかもしれない。私の最近の仕事は住宅の設計だが、暇があるとよく街の建物や看板、橋や公園などの建造物を見て回る。気に入ったデザインの作品に出会うと、立ち止まってじっくり観察し、その建造物のどこが優れているのか、なぜ美しいのか、デザイナーの意図を懸命に読み取ろうとする。
振り返ってみると、建築士の資格をとった30年近く前から、その習慣は延々と続いてる。最初はよく分からなかったその建造物の持つ美のナゾが、最近では比較的容易に解読出来るようになった。
私の場合、あまり損得は考えず、単なる好奇心からそうしているだけだが、結果としてこうしたイメージの積み重ねが自分の中で大きな財産となり、実りつつあることに最近気づいた。これまさに、「イメージの貯金」である。世の中は広いので、もしかすると「稽古の貯金」「努力の貯金」「練習の貯金」「イメージの貯金」等々、地道で面倒で時間がかかり、結果がいつまでたってもはっきり見えてこない行為などすっとばし、持って生まれたきらめくような才知だけで、軽々と世を渡っている人もいるのかもしれない。
だがしかしと、ここで冒頭の舞ノ海の言葉に戻ろう。力士として相当の地位まで上り詰めたはずの彼でさえ、「稽古の貯金が足らずに引退を早めた」と明言している。つまり、いまは才能だけでキラめいている一流のプロでも、もしかするとあっと言う間にその地位を失ってしまうかもしれないのだ。そしてその理由が、もし先に書いた地味な積み重ねを怠った結果だとしたら…。
紛れもない凡人である私は、とりあえず気のむくままに「イメージの貯金」、いや、「好奇心の貯金」を続けようかと、今日も街をさまよい、ギターをつまびき、そしてキーボードに向かって雑文を日々書き連ねるのである。
伝える歌/'04.12
「歌には力がある」と、最近つくづく思う。情報を伝える手段として人類にまだ文字のなかった時代、あるいは文字の文化を持たない民族のなかでも、歌だけは安全確実な情報伝達手段として、長い間使われてきた。
かなり以前に、「ルーツ」という黒人をテーマにしたテレビドラマが、一世を風靡したことがある。奴隷商人に拉致されてアフリカからアメリカに連行されてきた黒人「クンタ・キンテ」の子孫が、自分の先祖(ルーツ)を求め、わずかな情報を手がかりに、アフリカを放浪する。旅は苦難に満ちたものになるが、執念のはてにたどりついたある場所で、自分と血のつながった係累とついに巡り会う。そんなストーリーだったが、その決め手となったのが実は歌だった。当時のアフリカの民族には、文字の文化がなかった。しかし、自分たちの歴史を何らかの形で後世に残したい、という熱い思いは、やはり彼等にもあったのだろう。アルタミラの壁画のように、時にはそれは「絵」という形で伝承される。しかし、彼等はそれを「歌」というより確実な手段で残した。民族の長い歴史、細かな事件に至るまでを、たとえば平家物語のような長い語り歌にしたてあげ、一族の中の語り部に、脈々と歌い継がせたのである。
当時のテレビ映像をいまでもはっきりと覚えている。これと狙いをつけた民族の語り部に、その民族の歴史の歌を歌ってもらう主人公。時にそれは延々何昼夜にも及んだ。ある夜、長老の語り部が歌う歌詞の中に、主人公は自分の先祖であるクンタ・キンテ少年が、狩に出たまま、行方知れずになる個所を発見する。
ドラマのクライマックスがここで、主人公はその部分を何度も何度も歌わせ、「あなたが僕のルーツだ!やっと巡り会えた!」と固く抱き合う。同様に歌で自分たちの想いや文化、歴史を伝承してきた民族に、アイヌがいる。ユーカラがそれだ。先進国家と呼ばれている人々にも、同様のことがきっと出来るはずだ。
数カ月、あるいは一瞬で消えてしまう泡沫のような歌は別にして、たとえば懐メロアワーなどで繰り返し歌われる歌、「作詞作曲者不詳」などと注釈がついていながら、多くの人々に知られている歌、「〜地方民謡」とただし書きがあるだけで、同様に作者のはっきりしない歴史ある歌たちの数々。これらは、何らかの理由があって人々に愛され、歌い継がれているのだ。もしかするとその歌には、歌っている人々さえも気づかない、何らかの強い力(パワー)が秘められているのではないだろうか…。
この仮定がもし正しいとすると、個人レベルで(これはいい歌だ…)と感じている歌は、それがたとえ市井の人が作ったささやかな曲であったとしても、何らかの手段で歌い継ぎ、広めていくべきではないだろうか。時を経てそれは人々の間に広がり、多くの人の心を慰め、救い、時には再生させるかけがえのない存在となるかもしれない。幸いなことに、私はギターの弾き語りが出来る。上手下手は二の次にして、(これはいい歌だ…)と個人的に感じている歌は、出来るだけ多くの人々に伝えようと考え、すでに具体的な行動もおこしている。
仮に戦争や天変地異によって文明が壊滅的打撃を受け、文字の文化やその累積遺産が消え去ったとしても、人間がこの世に生き残っている限り、口から口へ、記憶から記憶へと歌い継がれる歌だけは、けっして消え去ることはない。
文明が滅びれば、CD-ROMやハードディスクの最新デジタル情報も、むなしく消え去る。やはり歌には、底知れぬエネルギー、パワーがあるのだ。
運 /'04.12
大雪の降った先日、とても不思議な体験をした。所用があって午後1時過ぎに近所の郵便局まで車で行き、用を済ませて道ばたに停めてあった車を発進させようとエンジンキーを回したとき、彼方から若い男が親し気に手を振りながら走り寄ってくる。
(やけに人なつっこい気味の悪いヤツだな…)と、アクセルを踏込もうとしたとき、よく見るとそれが我が息子であることに気づいた。「いや〜、助かった。この寒空に、家まで20分も歩いて帰るのかと思ってたら、偶然父さんの車がいるんだもの…」
聞けばその日は朝早くから授業があり、私の寝ているうちに近郊の大学に行って、たまたま帰り道で私を見かけたのだと言う。
もちろん、私が息子の帰宅時間にねらいをつけて外出したわけではない。単なる偶然である。その時間帯は、JRの列車が1時間に3本しかなく、かなり低い確率であったことは間違いない。ここまでなら、単に「お前は悪運の強いヤツだよ」で終る話で、実際助手席に乗り込んできた息子と、そんな戯れ言を交しながら、車を走らせていた。車が駅と自宅の中間あたりにある赤信号に差し掛かったとき、横断歩道を小太りのどこか見覚えのある中年女性が、雪道に足をとられそうになりながら、ヨロヨロと横断してくる。
「おいおい、もしかしてアレ、カーサンじゃないのか…?」
「どうも、そのようだね」と息子。近づく女性を見ると、やはり妻だった。ちょうどパート勤務の帰りで、「ワ〜、らっきー。疲れて歩いていたら、目の前にウチのとよく似た車が停まっているんだもの…」などと言いつつ、喜色満面で乗り込んできた。まるで数分前のVTRのような光景である。
ちなみに、私は午後一番に近所に外出することは稀である。ほとんどは妻が帰宅して一服したあとの夕方に買物をかねて外出するのだが、なぜかその日だけは違っていた。
当然ながら、息子にも妻にも出迎えなど頼まれていず、その日は二人とも私がまだ寝ている早朝に出掛けたきりだった。もし私の外出が1分でも早かったり、逆に遅かったりしていたら、あるいは郵便局員が1分だけ応対に手間取っていたとしたら、間違いなく息子と妻は私の車に出会っていない。すると、3人の家族をあの時間、あの場所で引き合わせたものは、いったい何か…。話が突然飛ぶが、中学2年のときのクラスで、横の席の男子と後ろの席の女子と、たまたま誕生日の話題になったことがある。すると、信じられないことに、私を含めた3人が全く同じ誕生日なのだった。
難しい確率の計算式は分からないが、二人ならいざ知らず、席が隣と後ろの3人が同じ誕生日というのは、かなり低い確率に違いない。この日の「偶然」がもたらした確率も、おそらくその時くらいに、相当低いものだったに違いない。人の持って生まれた「運・不運」というものについて小さい頃から、よく考えた。この世のあらゆる出来事はすべて「偶然」が支配しているもので、それを何らかの形で制御することなど、結局は出来ないことだと思っていたが、50歳を半ば過ぎてみて、(もしかしたら少しだけ運・不運をコントロールすることが可能なのではないか…)と、思い始めた。
現時点でぼんやり考えているキーワードはただひとつ、「謙虚に生きること」それだけだ。「何だ、そんなことか」と笑われるかもしれない。しかし、あくまで「ケンキョ」であって、「ヒクツ(卑屈)」や「ヒゲ(卑下)」とは違う。
必要以上に卑屈になったり、自己卑下したりするのは時に居心地がよいものだが、幸運の女神はともすればするりと逃げてゆくだろう。反対に、生き方暮し方に自信過剰や誇大妄想の勇み足があれば、同じく幸運の女神はいずれそっぽを向く。必要なのは、おそらく自分への正しい評価である。しかし、このあたりのさじ加減が実に難しく、自分を少し高い位置から見つめるもうひとつの冷めた視線が、不可欠のようだ。
しかし、その技を会得したなら、「運・不運」という摩訶不思議な現象の仕掛けが、もしかしたら少しだけ見えてくるかもしれない。う〜ん、そうだといい。
旨いラーメン/'04.12
若き日のサラリーマン時代に、本当に旨いラーメンを一度だけ食べたことがある。
当時から、「どこそこにある、なにがしのラーメンは絶品だ」などと本やテレビではよく特集を組んでいた。食べることに関しては人並み以上に好奇心の強い私、かってはそうした情報に翻弄され、あちこち食べ歩いた経験を持つ。しかし、噂通りに旨い食べ物にはそう滅多に出会えるものではなく、現実には期待はずれの味がほとんどだった。会社で遅くまで残業をしていたある初冬の夜、同じ社員寮の先輩から、「車で帰るから、乗っていかないか?」と声をかけられた。当時の社員寮は東京大田区の洗足池の近くにあり、芝浦にあった会社からは、山手線の五反田駅付近を通って帰るのが常だった。
車が山手線あたりに差し掛かったとき、先輩が不意に「この近くに旨い屋台のラーメン屋がある。食っていこう」と言い出した。時計は確か11時を回っていて、空腹だった。誘われるまま、ガード下の暗がりに頼りない明りをつけて営業している小さな屋台に座った。メニューはなく、ただ1種類のラーメンがあるだけだった。無口な店主は小さな引出しから出したラーメンの玉を手際よくゆで、まな板の上で何かカタカタと刻んでいる。やがて目の前に熱く湯気のあがったどんぶりが差し出された。
一口すすってみて、驚いた。それまで一度も食べたことのない味だった。スープは透明な醤油味で、いわゆる昔風ラーメンである。具もチャーシューとナルト、ねぎと支那チク、といった案配で、これといった特徴はない。しかし、旨い。
どんぶり全体から独特の風味が柔らかに立ち上っていて、それが味覚を絶妙にくすぐる。屋台の外は暗く、寒かったが、私の胃袋と心は幸福感に満ちていた。「あんなに旨いラーメンは食べたことがない。どこが違うのだろう?」
店を出たあと先輩にそう尋ねると、どうやら隠し味に柑橘系の何か(おそらくユズかカボスあたり)を入れているらしいのだが、はっきりしたことは分からない、と応えた。
私はとてもラーメンが好きだ。それまでも、そしてそれからも、多くの店で多くのラーメンを食べた。しかし、この時のラーメンを越えるラーメンの味には、残念ながら一度も巡り会っていない。
「マスコミに取り上げられていない小さな店」「店主のこだわり」「寒い冬の屋台」「ひもじくて疲れていた心と身体」旨いラーメンに必要なそんないくつかの条件が、おそらくこの時にぴたりと満たされていたのだろう。
結局のところ、旨いラーメンを支配する大きな条件は、食う側の事情にある、ということに気づく。疲れてひもじいときには、ささやかな食べ物でも、この上なく旨く感じられる。その意味で、飽食と工業化された食産業に支配される昨今の日本では、旨いものそのものにありつくこと自体が、かなり困難になりつつあるのだろう。食べることは人間の幸福感を満たす大きな要素のひとつであると私は思う。だから、「旨いラーメン」イコール、「生きている幸せ」とずばり置き換えてもいい。すると、前述の「旨いラーメンを支配する条件」という論理も、そのまま「生きている幸せ」に置き換えられるのではないか。「生きている幸せを実感出来る条件は、生きているもの自身が握っているのだ」と…。
人間の幸福感とは、絶対的なものなどでは決してなく、あくまで相対的なものなのだ。