二〇〇二・春夏乃章
つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
なにせ『徒然雑記』なのだから。
投稿魔/'02.3
私は投稿や応募のたぐいがとても好きである。10代の頃は懸賞の応募が専門で、こまめに葉書を書いては、数多くの賞品を手に入れていた。近年特に主婦の間でそうした懸賞応募に打ち込む人々が多くいるようだが、私はおそらくその走りに違いない。ところがある出来事がきっかけで、私は懸賞応募への意欲を急速に失ってしまう。
20歳の頃だったと思う。「目的意識を持って大学に来い」という主旨で出した初めての新聞投稿が、いきなりトップで投稿欄を飾った。自分の文章が活字になった、たとえようもない快感。まさに悪魔の美酒に酔いしれた瞬間である。
この日を境に、結局は他力本願に過ぎない懸賞応募が、急に色あせたものに見え始めた。以降、新聞や雑誌などの幅広いジャンルに投稿を続けた。懸賞応募を当てるにも何がしかのコツがあるように、投稿が採用になるにもある種のツボのようなものが確実にある。私はそのツボを探り当てるのが本能的に得意らしく、採用の確率は極めて高かった。正確なデータはないが、漠然とした実感ではおそらく8割を越えていると思う。
投稿の魅力は自分の文章が活字になること以外に、報酬のほとんどが現金か金券のたぐいでもらえるということだった。懸賞応募でたいして必要のない品物が期せずして当たってしまい、始末に困った経験をお持ちの方はいないだろうか。自分で文章を創造しなくてはならない投稿は、あなたまかせの懸賞応募よりもはるかに険しい道といえるが、その分報われ方も違うのだ。一時はかなりの収入に結びついた投稿だったが、やがて私はこの投稿もすっぱり止めてしまう。採用記事の記録がすべて手元に残っているが、1997年以来新聞や雑誌への投稿はしていない。理由ははっきりしていて、小説のたぐいを文芸誌などに頻繁に応募し始め、相対的に投稿に割く時間がなくなったせいである。広い意味ではこれも投稿のひとつといえるかもしれないが、新聞や雑誌に比べるとてつもなくハードルは高い。それこそ一生に一度採用されたらもうけもの、と考えてもいいくらいの難しさだ。
ちょっと格好が良過ぎるかもしれないが、結構な小遣い稼ぎにもなるお手軽投稿を止めてしまったのは、本格的に書くことへの覚悟のようなものだった。出せば結果がすぐに形となって表れる世界は、自分にとって甘い密の誘いに近い。それに甘んじていては大きな飛躍は望めない…。
私は書くことに、大きな野心のようなものを抱き始めていた。幸いなことに、自分の「覚悟」の結果は数年でひとまず出た。私は地方の文学賞を取ることが出来、企画出版で本を出すことも出来た。「運」とか、「神」という目には見えないものに私が支配されていたことは紛れもないが、新聞や雑誌への投稿によるそれまでの積み重ねが、成果の大きな下地になっていることもまた事実だった。人生、思い立ったことはとことん飽きるまで打ち込んでみるものである。
父子同時入賞/'02.3
文学賞を取っても本が出版されても、私の応募熱はさめることはなかった。ターゲットはもっぱらハードルの高いものばかり。一所に安住せず、常に自分にムチを当てることで、少しずつでも自分を高めていきたかった。
実はこの1年の成果はかんばしくない。建築や家具作り、小説などに関連するさまざまなコンペへのチャレンジはすべてボツだった。人の運気には逆らうことの出来ない流れがあるようで、おさらく私はいま下り坂のまっただ中にいるのだろう。二人の息子の就職が相次いで決まり、暗いトンネルの中にも一筋の光を見つけ、そろそろ我が身の運気も上昇のきっかけをつかみたいものだと思っていた矢先、1月に応募していた「札幌国際デザイン賞入選」の朗報が飛び込んだ。
札幌国際デザイン賞との関わりについては、このページの自己紹介などでもすでに触れている。過去3度応募し、2度入選しているデザイナーとしての私にとって、唯一最大の実績だった。実施は2年に一度だが、昨今の度重なるボツにもめげず、またまた応募をした。その成果がついに出たのである。
入選したのは「集う街」というタイトルの、「人間の生き方、暮し方をデザインする」という途方もなく、ある意味では画期的な作品である。作品の詳細に関しては、このページに別のコーナーをもうけたので参照されたい。話はこれだけでは終わらない。実は今回のコンペには、首都圏の某企業で働きながら夜間美大に通っている娘も応募している。諸事情あって、娘はすべての学費を自分でまかなって学業を続けている。元来コンペにはさして関心を示さない娘が、今回突然応募すると言い出した背景には、自身の厳しい懐具合という切羽詰まった事情がある。要は賞金が目的で応募したというわけで、その意味では父親である私の応募動機も、しょせんは似たようなものだった。
娘の作品は「アンダーグラウンド・スカイ」という舌をかみそうなタイトルで、札幌の地下街と地上とを画像プロジェクターを使った仮想の「空」でリンクさせ、地下街の天井に地上と同じ条件下の景色を映し出そうという、これまた途方もない提案だった。
事前にEメールで相談を受けた私は、娘の計画の概要を知った瞬間、デザイナーとしての直感で、(これはいける…)と思った。忙しい娘に代わり、私が作品作成に必要な札幌都心部の写真を撮りに出かけることになった。作品のイメージはすでにつかんでいるので、どんなアングルの写真が必要かは私にも分かる。
「こうなれば父子同時入賞をねらおう」そんなエール文を添えてそれらの資料を娘宛に送り、結果を待った。実行委員会からの電話連絡があってすぐ、「入選だってさ」というタイトルで娘宛に自分の結果をEメールで知らせた。あえてそんなタイトルをつけたのは、「入選」という賞金の入らない名誉だけの自分の授賞を少しばかり揶揄すると同時に、(ひょとしたら娘はもっと上の賞をとったのでは…)という予感めいたものが胸の内にあったからである。
その夜8時近く、元気のいい音で電話が鳴った。「アサコ(娘の名)からだな」と私。
「きっと入賞したのよ」と妻。電話の音色だけで何となくかけてきた相手と用件が分かる。受話器を取ると、やはり娘だった。「私は佳作だったよ!」との声が弾んでいる。苦労が報われた、と娘は電話を代わった妻に打ち明けたという。その言葉を聞いて万感胸に迫るものがあった。佳作には10万円の賞金が出る。初応募で佳作とはやるじゃないか、さすがは俺の娘だ…。
旅費がもったいないから、表彰式にはお父さんが代わりに出てよ、と娘は言った。委員会からの電話の際には、一番下の入選だからと表彰式への出席を固辞した私だったが、そういうことなら話は別だ。「父子同時入賞」という、おそらく過去には一度もない珍しい事例だ。実行委が許してくれるなら、胸を張って出席しよう。そう私は思い直した。
壁としての父親/'02.3
我が子に対しては、常に壁のような存在でありたいと心がけている。子供が娘であろうが息子であろうが、それは変わることのない私の論理であり、信念のようなものだった。
「父親にとって娘は特別な存在だ」などとよく言われる。父親は理屈抜きで娘を可愛いのだという。何だか類型的過ぎて私にはしっくりこない。
父と娘は広い意味での「異性」だから、そんなところに心理的背景があるのかもしれないが、だとすればもっと身近な「異性」で、娘よりもっと大切な存在であるはずの妻に目をむけておやりなさいな、とへそ曲がりな私はつい考えてしまう。私にとっては娘も息子も同じ子供として均等の距離であり、どちらか特別だとか、どちらが可愛いなどとかの感情を抱くことはなかった。だから自分の3人の子供に対しては、等しく「壁」のように険しく立ち塞がってきたつもりだ。
たとえば子供と遊ぶときにも、私は相手が子供だからといって決して手加減することはなかった。これは私の唯一の著書である「父が息子に残すもの息子が父に贈るもの」にも詳しく書いたが、上の息子とサッカー遊びに興ずるときでも、いつも私は真剣だった。子供は本能的に大人の嘘を見抜く。だから手を抜いてはいけないのだ。
「子供相手に本気になるなんて、大人気ない」という意見もある。だが、相手が子供だからこそ本気で立ち向かうべきだと私は思う。子供はいずれ社会という名の荒波にもまれ、否応なしにその厳しさにさらされる。それ以前の訓練の場として、まず父親が子供にとって最初の壁となるべきではないか。私が子供の頃を振り返ってみても、かけっこや五目並べなどの遊びの場で、父親は決して手を抜こうとしなかった。負けて悔し涙に濡れたことも一度ではない。それでも手を抜いて勝たせてもらうより、本気で闘ってボロボロにうち負かしてくれる父親が好きだった。本気で接してくれることで、自分が大人と対等に扱われているということを本能的に察知していたのだと思う。
自身が父親となったいま、そんな生き方を知らず知らず踏襲している自分に気づく。親が子に残すものは決して財産だけではない。渾沌としたいまの世だからこそ、そうした確固たる生き方を身をもって伝えてやりたい。全く同じフィールドでの親子勝負となった今回のコンペでは、はっきりとした形で娘の「勝ち」が決まった。独学で二級建築士の資格を取った父親を、初めて「抜いた」と私が実感したのは、やはり独学で一級建築士を取ったときだった。娘の場合は勝った負けたの勝負意識はそれほどなかったかもしれない。だが、私自身は初めて我が子に「負けた」ことを自覚した。私は決して手を抜かず、全力でぶつかった。だが、それでも娘に負けたのだ。
それでいい、それでいい、と私は思った。幼い頃に父親に負けたときと違って、少しも悔しさは感じない。それどころか、私は我が子から目には見えない大きな贈り物をもらったような爽やかな気分だ。(どんどん乗り越えて行けばいい。私は喜んで我が子の踏み台になろう)
いつもより早い春の訪れの中で、私はそんな感慨に独りふけった。
メンテナンス/'02.6
日々の忙しさにかまけ、ホームページの更新が滞りがちだ。この一ヶ月はほとんど開店休業状態である。それでもなぜか訪問者カウントは日に日に増え続け、先月の一日平均カウント数は実に160近く。日平均訪問者が100を越えたと大喜びしたのはついこの前だったはずなのに、いまや200に迫る勢いなのだ。
いろいろな公的サイトからのリンク設定、大きな家作りサイトとの相互リンクなど、思い当たる節はいくつかある。雑多なコンテンツの多さが検索エンジンにひっかかりやすいということもあるのかもしれない。でも、正直に書くと、なぜこんなに訪問者が多いのか、自分でもよく分からない。はっきりしているのは、この状況に慣れ緩み、気持ちが奢り高ぶってしまうと、いずれ手痛いしっぺ返しがやってくるということだ。脱サラしていまの仕事を始めた20年前、やはり忙しさにかまけて身体の手入れを怠った一時期がある。来る仕事はダボハゼのように何でもすべて受けた。事業の基礎を築きあげるため、とにかく必死の毎日だった。何とか先の見通しがついた開業2年目の春、突然の病魔が私を襲った。環境の激変と、極度の運動不足からくる腎臓結石である。
言葉に出来ぬほどの疼痛が日夜身体を襲い、絶望の淵に私は立たされた。このあたりのくだりは、このホームページのノンフィクション連載「僕の脱サラ日誌」に詳しいので、子細は省く。結論から書くと、日夜のたゆまぬ自虐的努力により、数ヶ月で小指の爪ほどの巨大な腎臓結石は、何とか手術なしで外に出た。私がいろいろな意味でメンテナンス、すなわち保守管理の大切さを思い知ったのは、この出来事がきっかけである。腎臓結石の発病以後、どんなに忙しくとも運動と仕事とのバランスは上手に保つように努めてきた。マンション時代は地域の子供たちへのサッカー指導で汗を流し、戸建住宅に引越してからは地域のボランティアや家庭菜園、家具作りなどに勤しんでいる。
高いお金を払ってどこかのフィットネスクラブに通ったりする余裕はなく、人間関係の煩わしさを考えると何かの運動サークルに入ったりする気持ちもない。あくまで生活の延長上での健康作りをめざしたいと考えている。たとえば家である。どんなに素晴らしい家であっても、建てたとたんに家はじわじわと朽ち始める。それが自然の習いであり、生き物にとっての死と同じで、避けられない事実だ。問題はそれをどう永く引き延ばすか、あるいはどう美しく老いさせるかではないだろうか。
予算が許せば、半永久的にメンテナンスの不要な材料を選択したい。7〜8年で塗り直しが必要になる外壁など論外だ。経年変化による劣化の少ない設計や工法を選択しよう。家全体の風通しを良くし、カビや結露のない家作りをめざそう。
それでも家は老いる。そこで施主自身によるチェックと日々の手入れが重要になってくる。ウッドデッキの塗り直しくらいは自分でやろう。日本では家作りから保守点検にいたるまで、とかくプロにまかせがちだが、本来そうしたものは住み手自身が中心となって執り行うべき事柄なのだ。そしてホームページである。忙しさで更新が途切れがちになるのはある程度やむを得ないにしても、特定のページが読込み不能だったり、いつまでたっても「工事中」だったり、アップロードしてから半年過ぎても「NEW」のマークが点滅していたり、ページ内のリンクが無効になってしまっていたりするのは来訪者に失礼だし、なによりもそのページを管理している人間のセンスが疑われかねない。
人間関係と同じで、日々の点検を怠り、そうしたずさんさがまかり通り始めたとき、ホームページに黄信号が点滅する。
実はこうして書いている私自身も、時に大きな見落としをしていることがあってあわてるから、あまり大きなことは言えない。結局のところ、ホームページから何らかの見返りを期待するのなら、来訪カウント数の増大などに奢ることなく、常に原点に立ち返って、来場者の立場に立った見やすくて分りやすい、そして主張のあるページ作りを粛々と続けろということなのだろう。
船頭と舵取り/'02.6
「家庭に船頭は二人いらない」と、ある人から言われたことがある。実はそれが膠着する夫婦関係の相談だったことは、あとになって分かったことだった。
船頭が多すぎると船が山に登ってしまう、とことわざにある。組織内で指揮をとる人間が複数いては組織は迷走してしまうという格言だが、家族や家庭という小さな「組織」でもそれは同じことで、家庭を取り仕切る人間は、ただ一人であることが望ましい。
古き大家族の名残りを残す家なら、家庭の全権を握るのは高齢の家長であったりする例もあるが、大多数を占めるであろう核家族の場合なら、夫か妻かのどちらかが船頭役ということになる。男だとか女だとか、収入の多い少ないだとかはこの際あまり関係がなく、要はどちらが適役なのかである。だが、その見極めはなかなか難しい。特に望んだわけではないが、我が家では気がついたら私が船頭役になっていた。子供の教育方針から、家計の方向性、不動産の決断や老後の資金調達まで、家計内のある意味で煩わしい諸事雑事の方向づけや最終決定は、すべて私が取り仕切ってきた。もちろんそれは妻も充分納得済みのことである。
ある意味では私のワンマンな一面がそうさせたのかもしれない。だが、実は私は自分でも結構ふところの深い人間だと自負しており、もしも妻がいろいろな面で船頭役に適役と判断したなら、おそらく脇役としての舵取りに徹していたであろう。
結果的にこうなってしまったのは、私が船頭役として家族を引っ張っていったほうが万事スムーズに事は運ぶと判断したからに他ならず、その判断は少しも間違ってなかったと、妻との二人三脚人生の半ばを過ぎたいま、確信をもって言える。家族、あるいは夫婦の在り方として難しいのは、船頭が二人いる場合と、船頭が一人もいない場合である。私の両親の場合、家計は父が、子供の教育は母がと船頭役を分担してやっていたような節がある。しかし、家庭内の大半の重要事項は経済、すなわちお金と密接な関係があるわけで、この分担制船頭はうまく機能していなかったように思う。
冒頭に書いた夫婦の例は、一方が他に対し、家庭内の重要事項をほとんど相談なしに決めてしまうことによるストレスの増大だった。こんなケースでも一方が全面的に折れ、舵取りに徹してしまえば事は円く治まる。だが、双方に相譲らない強い自我がある場合、ストレスは限りなく増大を続ける。ストレスを受けている側が早くサインを出して手を打たないと、やがて夫婦が破綻に至るのは必至である。船頭が一人もいない例は、現代では実はよくあるのかもしれない。仕事人間としてお金はそこそこに稼いではくるが、子供の教育や家計管理に関しては、まるで無頓着な男は世間にいくらでもいる。家庭に船頭がいなければ船は迷走してしまうので、仕方なく妻が櫓(ろ)を漕ぎ、時には舵まで握る。だが、納得づくで船頭役を引き受けたわけではないので、その船の行く先は危うい。まして渾沌とした現代という荒海の中で、一人二役がそう簡単に勤まるだろうか。
ほとんどの場合、結婚前の予備的段階からこの役割分担は決まっているように私には思える。結婚式の在り方を二人で考えたり、新婚旅行の行き先を決めたり、結婚後の住まいを決めたりするプロセスそのものが、すでに結婚後の二人の在り方を強く決定づけていることを、決して見逃してはならない。
ライトバン/'02.7
長年ライトバンに乗り続けている。二度目のホームステイを受け入れた1988年初夏に新車で買った車だから、かれこれ14年にもなる。「ホンダシビックプロ」、要はシビック1300のライトバン仕様なのだが、名前のどこにも「バン」が入ってなく、外観も仕様もシビックと大差なくて一見、普通車である。
エアコンもリヤワイパーもパワーウインドウももちろんない。手入れしながら大事に使ってきたが、あちこち傷やへこみが目立ち、中年をやや過ぎてくたびれの見える昨今の自分の姿とどこか重なる。だが、走行距離はわずか55,000キロ。まだまだ乗れる。「なぜライトバンなのか?」と問われると、答は二つある。
ひとつは言わずと知れた経済面である。商用車だからとにかく安い。バブルの入り口だった当時で、諸経費こみで100万弱。税金や維持費も普通車に比べると格段の安さ。燃費も街中で12Km/L、ほとんど軽自動車なみである。四輪独立懸架、パワステで、乗り心地も決して悪くない。ふたつめはとにかく荷物がたくさん積めること。貨物車だから当り前だ。子供たちが小さい頃はキャンプで大活躍したし、彼らが巣立ったいまは夫婦二人の小さな住まい作りに大いに役立っている。後部座席を倒せばレンガなら250個は軽く積めるし、長さ3640の長尺材や3×6のパネルなども屋根に簡単に積める。自転車でさえも車内にぴたりと収まる。
同じような仕様の普通車もいまはあるが、200〜300万はする。縄文生活者にはとても手がでない。
難点はあくまで貨物車の定義のため、車検が毎年あることか。だが、これも車の調子を毎年チェック出来ると前向きに考えればいいし、最初の3年が過ぎたら2年おきにくる普通車の車検より一回あたりの経費が安くつき、車検費用の工面にあわてずに済むという利点にもなる。実はこの車、最近マフラーに穴が開いた。14年も乗り続けているのだから仕方ないが、純正の新品部品だと4〜5万はかかるという。これまた縄文生活には痛過ぎる出費だ。
中古部品を求めてインターネットや街の中古ショップを探し回ったが、型があまりに古過ぎてどこにも見つからない。やむなくいつも車検を頼んでいる工場に相談したら、長い時間をかけ、純正ではないが安い新品部品をなんとか探してあててくれた。
こうやってだましだまし手入れをしつつ、まずは走行距離10万キロを目標に乗り続けてみようと思う。いまの調子だと年間せいぜい5000キロ前後しか乗らないので、あと10年近くは乗る計算になる。果たしてそれまで交換パーツが入手可能だろうか?フランス人は車をサンダル代わりとしてしか考えていないという。要は実用一点張りで、見てくれなどかまっちゃいない、ということらしい。私の車に対するイメージにかなり近い。
だが、もしも私の計画が首尾よく運んだとしたら、逆にクラシックカーとしての価値が出てくるのかもしれない。そうなるまで、せいぜい車を可愛がってやるとするか。
女の細やかさ/'02.7
女性が社会的に責任ある地位、たとえばどこかの首長であるとか、何かの団体の副会長であるとかについたとき、決まって出る言葉がある。「女の細やかさを生かした働きが今後期待される…」
一見的を射た言葉のように聞こえる。だが、まてよと私は言いたい。果たしてそうか。本当に「女は細やか」なのか…?
私は男ではあるが、こと細やかさや気配りに関すれば、決してその「女性」にもひけを取らないと自負している。対してわが妻はといえば、れっきとした「女性」であるはずなのに、どうひいき目にみても細やかな気質とは言い難い。だからといって私や妻が人間として劣っているとか、価値が下がるとは思わない。
私は自分と同様に細やかな気配りに長けた男性を数多く知っているし、極めて大雑把な気質の女性もこれまた多く知っている。
細かいとか大雑把とかは結局のところ個人個人の気質であって、「女だから」「男だから」という性差の及ぼす性質では決してない。なのにこうした時代がかった論理が公然とまかり通っている背景は、やはり社会的性差、すなわちジェンダーのもたらすものなのだろう。
誰もが一度は聞かされたことのあるはずの言葉、すなわち「男のくせに泣くな」「女のくせにはしたない」「女のくさったような奴」等々の言葉に代表される、古臭く色あせた価値観と同列である。
男女雇用機会均等法を後押しし、男女共生社会の旗手であるはずのマスコミ各社がこぞってこんな陳腐な表現を堂々としているのだから、恐れ入る。
ぐいぐい人を引っ張る「男勝りの統率力」を評価されて責任ある地位についたかもしれない女性が、「細やかさ」を強引に押しつけられて困惑してしまうとしたなら、これほど皮肉なことはない。井上陽水の初期の歌で、「あこがれ」というタイトルのものがある。
(1971発売LP「断絶」に収録)著作権の関係で詳しく引用出来ないのが残念だが、
「男は強く、涙を隠して荒野をめざし、女は清く優しくて、何かにすがって涙を流す。これが男と女の姿だというなら、私もついあこがれてしまう…」といった内容だ。
高度成長期まっただ中、当時22歳の私にはいまひとつピンとこない歌だったが、52歳になったいま、その意味するところが痛いほど分かる。この歌は社会的性差、いわゆるジェンダーを痛烈に皮肉った作品なのだ。「僕は本当は女に生まれたかった。男より女のほうが社会的制限が緩くて自由だから…」
同じ時期に彼がコンサートライブでそう話すのを耳にしたことがある。まだジェンダーなどという言葉のなかった時代だが、社会の進むべきかなり先の部分を、彼は的確に見抜いていたに違いない。
私は今年52歳だが、社会的性差にはほとんどしばられず、かなり自由に生きていると自分で思う。幼き頃は大正生まれの両親の影響下で、しっかりジェンダーを植えつけられて育ったが、成長するにつれ、考えや生き方が自然に変わっていった。
いまでは布団の上げ下ろしに始まり、炊事や洗濯、裁縫や育児などの社会的な意味での「女の仕事」を全くいとわないし、本来は「男の仕事」であるはずの大工仕事や力仕事もちゃんとこなす。「男や女」が問題なのではなく、「何が好きか」そして「それをこなす時間と能力があるか」が問題なのだ。
ちなみに、私自身は動物学的な意味での男女の性差、そしてそれらが精神や思考に及ぼすものは歴然としてあると考えている。だが、おそらくそれは社会的性差とは異なるものだ。インターネットの普及以来、私個人はマスコミや政治にあまり多くを期待しなくなった。だが、それらが社会に及ぼす影響は、決してまだ小さくない。ふとした言葉に潜む小さな差別意識、それらが払拭される日はくるのだろうか。