白いブレザーの友
1993.2 菊地 友則
初夏の日ざしがキャンバスの芝生の上に強く照りつけていた。スプリンクラーからほとばしる水が陽光に乱反射して、キラキラとまぶしい。
土曜の午後だった。学生の流れはいつもより格段に多い。午前中の講義を終えた私は、大学と同じ敷地内にある学生寮への帰り道を、足速に歩いていた。
入学以来住み続けている学寮の古びた屋根が見え始めたころ、人波に紛れて、見覚えのある白いブレザーの学生が近づいてきた。同じ部屋に住む同級の柴崎だった。柴崎は一浪で入学した私より年は一つ下だったが、たまたま学部が同じで学年も同じということもあり、親しい友の一人だった。
「おう、柴崎。めかしこんでどこ行くんだ?家教(家庭教師のアルバイト)行くのか?」
すれちがいざま、私がいつもの調子でかけた声に、彼は視線を急にずらした時に起こる、独特のやぶにらみの目でニヤリと笑い、だまってうなずいた。
色黒の肌に、薄いクリーム色のブレザーが、よく似合っている。土曜の午後は柴崎が家庭教師のアルバイトに行く日であり、そのときの柴崎は必ずこの服を着ていた。
ほんの少しの間だったが、私たちは通りの中で立ち止まっていた。学寮に戻る学生と、昼食を終えて再び大学に戻る学生との人波にもまれ、私たちはそれ以上会話を続けることが難しかった。
「じゃあ、彼女によろしくな」
私の声に柴崎は再びうなずくと、教養部の建物を曲がり、足速にバス停の方角へと姿を消した。姿が見えなくなるまでそこに立ち止まり、私は彼の姿を見送った。心の中に、なぜか少しひっかかるものがあった。
「彼女」とは、柴崎の教えている中一の女の子の事をからかってみただけで、特に深い意味があるわけではない。私がそんな冗談を言ったのは、柴崎の態度に普段とは少し違う「何か」を感じたからだった。
いつもなら、そうしたとるに足らぬ話には、「うるせぇ」とか、「馬鹿野郎」とかの返事が必ず返ってくる筈なのに、今日に限ってそれもない。いぶかりながら戻る私の頭に、今朝、講義に出かける前の彼との会話が蘇った。
「くそっ、今日は家教に行けないかも知れない。午後から、自動車部(当時、柴崎の所属していたサークル)の緊急部会だってさ。まったく、稼ぎ時だってのに」
柴崎のアルバイトは歩合制で、休むとその分バイト料が差し引かれる決まりだった。
(そうだ、アイツは今日、バイトに行けない筈だ。という事は、部会が中止になったのか?だったら、もう少しうれしそうな顔をしていてもいい筈だが…)
すっきりしない気持ちのまま、私は学寮の薄暗い廊下を通り、自室の立てつけの悪いガラス戸をがらりと開けた。
信じられぬ光景がそこにあった。たったいま会話を交わし、見送ったばかりの柴崎が、窓からの逆光線をあびて私の前に立ちふさがっていたのだ。
声が出なかった。喉がひきつり、悪寒に近いものが身体中を走り抜ける。
「どしたの?」
いぶかしげに柴崎が尋ねる。いつもの汚いTシャツに、ジーパン姿である。
「どしたのって、お前、バイト行ったんじゃぁ…」
やっとの思いで、私はかすれた声を出す。
「え?今日、部会あるから行けないんだ。サボっちゃおうかと思ったけど、さっき部長に出会って念押されてな。しかたないから、たったいま、バイト先に断りの電話してきたところ。だけどこの事、今朝お前に言わなかった?」
「お、俺、たったいま、白いブレザー着てバイトに行くお前に出会ったんだよ…」
「俺に?ウソだろぉ?俺、講義から帰ってから、一歩も外へは出てないぜ」
「じ、じゃあ、あのブレザーは…」
私は、白いブレザーにこだわっていた。
「あるさ、ほら」
柴崎は、そう言って部屋の隅をあごでしゃくる。そこには確かに、ほんの少し前、私がすれちがった「もう一人の柴崎」が着ていたものと同じブレザーが、壁にぶらさがっていた。
「夢でも見てたか、ただの人違いか、どっちかだろ」
「違う!あれは確かにお前だ。白いブレザーの奴は、他にもいるかも知れないが、俺はお前と話をしたんだ!」
それまで、半分せせら笑って私の話を聞いていた柴崎が、急に真顔になった。
「おい、俺と話をしたって?いったいどんな話したんだ」
問い詰められて、私は答えに詰まった。そして、ある事実にそのとき気づいた。
あの時、一メートルほどの距離で立ち止まり、確かに会話を交わした。それは間違いない。だが、「話した」のは一方的に私の方だけで、柴崎は一言も口をきいてはいない。私が柴崎にいつもと違う印象を抱いたわけは、まさにそれだったのだ。
「お前、バイト行きたかったんだろ?」
(落ち着け、落ちつけ)と言い聞かせながら、私は混乱する頭の中を必死でまとめようとした。
「実はそうなんだ。今月ピンチだしな。今日はどうしても行きたかったんだ。講義の帰りに部長に出会わなかったら、たぶん部会サボって行ってたよ」
迷走する思考回路が、ある一点に凝縮しつつあった。私があの時出会ったのは、柴崎の「強い思い」に違いない、と。そしてその強い思いが白いブレザーとなり、私にだけ見える形となって、姿を現したのだ、と。
〜その後の「柴崎」〜この話は、私が学生時代に体験した実話です。この現象は「生体離脱」の一種である、という事が分かったのは、ずっと後になってからの事です。某小説家は締切に追われて徹夜で原稿を書いていた夜、小用に立って戻ってみると、机に向かって一心に筆を走らせるもう一人の自分の姿を見たといいます。
この友人が今どうしているかというと、某自動車メーカーの中堅エンジニアとして、元気に暮らしています。こういう体験をする人は、意志の強い人に多いそうで、なるほど確かに柴崎は、一度物事に食らいつくとなかなかあきらめない、エンジニアにはぴったりの資質を持っていました。
ついでですが、生体離脱を目撃した人の運勢も、決して悪くはないんだそうです。