私のサッカー履歴 My Soccer History

 実は「履歴」とたいそうに書くほどの輝かしいサッカー歴が私にあるわけではない。このページのあちこちに書かれているように、私のサッカーはしょせん独学でつちかった「素人サッカー」である。だが、逆に素人であるからこそ見えるものがあるのではないか、とも思える。
 ここではそんな私のささやかなサッカーとの関わりを年代順に綴ってみたい。



小学生時代 1958〜1960



 好むと好まざるとに関わらず、1949年生まれといういわゆる「団塊の世代」(ステレオタイプの呼ばれ方があまり好きではないが)の一員として生まれてきたため、小学校時代は野球と相撲人気が絶頂だった。長島茂雄が巨人に入団したのも3年生ころだったし、栃若全盛時代もこのころ。
 4年生のときに担任になった先生が、

「先生はな〜、大学でサッカーをやっていたんだ。今度体育の授業でサッカーをやるからな。おもしろいぞ〜」

 といきなり言い出し、クラス全員、

「せんせ〜、サッカーって何さ?」

 とあっけにとられた。誰もサッカーなど知らなかったのだ。

「ようするに手を使わないで足と頭でボールを相手のゴールに入れればいいんだ」

 学生時代はレギュラーだったんだと先生は、半ば強引に授業でサッカーを始めた。ところがいざ始めてみると、ただボールに子供が群れ集まるばかりで、ちっとも試合が進行しない。(いま思い返せば、いわゆる「おだんごサッカー」)正直言って少しもおもしろいとは感じなかった。
 あまりの人気のなさに先生も手を余し、授業はわずか数回で打ち切られた。これがあまりぱっとしない、私とサッカーとの最初の出会いである。

 この先生のサッカーテクニックがどれほどのものだったのか、あまり記憶に残っていない。だが、たたひとつだけ鮮明に覚えていることがある。あるとき、先生が不意に持っていたボールをぽんと空中に放り投げて軽く蹴り上げると、ボールは二階建ての木造校舎の遥か上の高さにまで、糸を引くように真直ぐ上がったのだ。
 なんのことはない、ただのパントキックなのだが、子供心に、(やっぱり先生はすごいな…)と感心した覚えがある。
(この「必殺技」は、のちにコーチになったとき、子供たちを驚かせる隠し技としてよく用いた)



高校時代 1964〜1966



 その後、サッカーとは無縁の日が続いた。中学校の体育の授業でサッカーが行われた記憶もない。体育の実技はいつも零点に近く、逆にいつも満点に近い学科のほうでなんとかバランスを保っていたような次第で、スポーツというものにはまるで関心がなかった。

 高2になって、いきなり体育の授業でサッカーが行われることになった。30人近くいた男子を3つのグループに分け、3クラスごと、合計9チームで延々とリーグ戦をやるという。
 なぜいきなりサッカーだったのかはっきりしない。メキシコオリンピックの前年で、釜本や杉山を中心とする全日本チームの快進撃が始まっており、そのブームに体育教師が乗じたのかもしれない。それとも、そのつどつきっきりで指導せずにすむように考えた、単なる教師の手抜きか。
 ともかく、そのリーグ戦は盛り上がった。私はテレビで何度か試合を見ていたので、サッカーのだいたいのことは分かっていた。だが、私には運動神経とスタミナがない。人並みだったのは、10mほどのダッシュくらいのもので、あとは並外れた「負けん気」だけで試合に望んだ。
 チームは出席番号順という無難な分け方で作られたが、私のチームはなぜか覇気のない選手ばかりが集まり、ズルズルと連敗が続いた。普段、体育では目立たないタイプだったので、私はおとなしく後ろのほうに下がっていたが、いつまでたってもチームが得点する気配がなく、業を煮やした私はあるとき、ボールをキープして前線へとあがってみた。(いまでいう「オーバーラップ」)
 すると、なんだか相手をうまくかわせる。さすがにシュートまでは打てないが、おかげで味方は陣地を大幅に回復することが出来た。

「お前、なかなかいいよ。守りより、攻めが向いているよ、お前には」

 体育ではいつもかやの外の私に、そんな声がかかる。私もすっかりその気になり、ポジションをいくらか前にあげて機会を見てはドリブルで攻め上がった。私にはキック力がなく、ただ蹴るだけではまるで勝負にならないが、ボールをキープしてスピード勝負にもちこめば、それなりに通用することが分かった。
 チームは相変わらず勝ちとは無縁であり、年に一度開かれる体育祭でのサッカー大会のメンバーの中にも当然のように私の名はなかったが、このころのサッカーは非常に楽しい思いとして私の記憶の中に刷り込まれた。

 卒業間近の最後のリーグ戦。対戦相手は同じく勝ちのないチームで、 これを落としたほうが最下位が確定する。チームの中は試合前からすでにあきらめムードが漂い、良くて引き分けて同率最下位か、という雰囲気。私は心中期するものがあり、その日は一段と気合いをこめて試合に望んだ。
 30分一本勝負の試合は、両チーム決め手のないまま時間だけが過ぎる。私は何度もドリブルで攻め上がり、シュートも数本打ったが、なにせ一度も得点したことがない悲しさで、ことごとくゴール枠を外していた。
 終了時間が迫り、引き分けが濃厚になった。そのとき、またも私の前にボールが転がってきた。

(ラストチャンスだ…)

 私はそう思った。いつものようにドリブルで攻め上がるが、このパターンは相手もすっかり警戒していて、容易に突破出来そうにない。ふと回りを見ると、相手の左サイドが空いている。私は中央突破とみせて、この空いた左サイドに深く切り込んだ。守りの薄いサイドをつく攻撃が有効なのは、テレビのサッカーを見て本能的に知っていた。
 左サイドに切り込んで、私はボールをキープした。角度のないここからシュートを打っても、ゴールの可能性は低い。得点するには中央に誰かが走り込んでこなくてはいけない。だが、やる気に乏しいチームメイトに、そんなやつがいるか…。すると、当時おそらく私の次くらいに負けん気だけは強いNという男と目があった。

「こいよ、N!」
「おう!」(ほとんど「キャプテン翼」状態(^^;)

 走り込んでくるNに合わせ、私は素早くマイナスのセンタリング。グランダーの球だったが、冬だったので雪でボールはよく走る。そしてボールはあがってきたNの足にぴったりと合った。
 インサイドでちょんと合わせただけのボールはゴール左すみに見事に決まり、その日チームはついに初得点、初勝利をあげたのだった。

 たかが体育の授業でのサッカーだが、30年たったいまでもはっきりとあの足の感触、周囲の情景、ばんざいをして走り回るNの姿が焼きついて離れない。もしかすると私をサッカーの世界へ深くいざなった原点は、あのときのあのアシストにあるのかもしれない。



息子の個人コーチを始めたころ 1983〜1986



 大学、社会人、そして結婚と時を重ねても、サッカーとは無縁の日々が続いた。大学では4年間弓道をやったが、これには結構のめりこんだ。「的」という無感情で動かないモノとの対峙が、自分によく似合ったスポーツだと思った。
 弓道での私の自慢はふたつあり、ひとつは「射詰め」というサッカーでいうとPKのようなサドンデスでの同点決勝の戦いに、4年間で一度も負けたことがないことだ。全道学生弓道大会で3位に同率で6〜7人が残ったとき、確か5本くらい連続で当てて勝ち抜いたこともある。
 もうひとつは、2年生の夏の全国大会にレギュラーで出たことだ。最初の1年間はまるで当たらず、クラブのお荷物だったのが、2年の春に突然「開眼」し、あれよあれよという間に的中率7割近くまでかけのぼった。
 武道館での本選でも、的中率7割5分以上が要求される一次予選を2年生の中でただひとり通過し、気をはいた。我田引水になるが、大舞台になると変に胆がすわるタイプで、プレッシャーとか緊張感を逆にうまく自分の中で利用出来るタイプだった。

 閑話休題。1983年、すでに3児の父親になっていた私は、ひょんなことがきっかけで、幼稚園に通っていた長男のサッカー練習につきあうはめになる。ここらあたりのてん末は、このページの超人気連載「親馬鹿サッカー奮戦記」に詳しく書かれているので、ここではふれない。
 弓道は社会人になっても細々と続けていたが、いまはやっていない。息子のちょっとしたサッカー指導がきっかけで、なぜ私が突然サッカーへとのめりこんだのかといえば、年令を積み重ねることにより、モノとしての象徴である「的」との対峙より、より人とのコミュニケーションが必要な「サッカー」というスポーツ、ひいてはそれにまつわる「人との関係」のほうに自分の興味が移ってきたからではないか、といま振り返ってみて思う。



飛び入り試合で初ゴール 1987



 1987年に息子は3年生になり、少年団での活動が始まった。私の個人サッカーコーチも一段落し、休みの日は息子の試合の追っかけに専念する日々だったが、そうするうち、私の中にむらむらとひとつの強い願いが沸き起こっていた。それは、

「自分もチームに入ってサッカーをやりたい!」

 という身の程知らずのだいそれたものだった。子供のサッカーを見学するうち、いらいらが募って思わずグランドに飛び出してボールを追いたくなる衝動にかられた覚えは、サッカー小僧やサッカー娘をお持ちの親なら一度はあるはずだ。私はそれをただ思うだけでなく、本当に実行しようとした。
 といっても当時すでに37歳になっていて、サッカーまるで未経験、運動神経まるで音痴の中年おじさんを受け入れてくれるチームがはたしてあるのか、皆目見当もつかない。考えあぐねたあげく、秋になって当時地元の新聞に掲載されていた「やってみました」という素人なんでも体験コーナーに、「おじさんにサッカーの試合をやらせてくれ!」と、これまた大胆不敵な手紙を出した。
 すると何を気にいってくれたのか、この手紙がいきなり採用となり、私はめでたく札幌社会人の下部リーグに属するチームの「助っ人」として、練習試合に参加できることになった。

 さていよいよ本番当日。高校時代のリーグ戦以来、子供相手以外でまともなサッカーをするのはこれが初めてである。ランニングだけは普段から毎日していたので、走りにはある程度自信があったが、緊張のせいか前夜はほとんど眠れず、ふらふらの状態でまだ朝も明けきらない河川敷グランドへとおもむいた。
 スパイクはバーゲン品をあらかじめ買って用意していったが、チームには余分なユニフォームがなく、ありあわせのTシャツと短パンでなんとか間に合わせる。
「取材なのでなるべく目立つように」との特別な配慮で、ポジションはありがたく「センターフォワード」などいただく。カメラマンと記者数名が集まって試合前の打ち合わせなどあるが、緊張でガチガチの私には、そんなことも上の空である。

 笛が鳴って初めて、私はそれまでの自分のサッカーへの思いが甘かっことを思い知らされた。回りはどうみても20代の屈強な男たちばかり。(ちなみに、私の身長は171cm、体重はこの20年間56〜57Kgの超ソップ型)砂をかむスパイクの音、風を切るシュート、「ガチン」と容赦のないショルダーチャージ…。それまで応援席で無責任に怒鳴りつけていた息子のサッカーとは、まるで様子が違っているのだ。

(やってみて初めて分かることがあるものだ…)

 そんな当たり前の論理に、私はあらためて気づかされていた。

 さて、試合のほうは開始早々に1点を取られるも、味方もすぐに2点を取りかえし、押し気味の展開。最初のころはうまく足につかなかったボールも、ようやくコントロール出来るようになってきた。ここらで私も…。
 そんな「色気」が沸き上がってきたころ、中央あたりの味方から絶好の縦パスがきた。私のトラップもぴたり足元。振り返ると回りには敵が数人。ここで私は「往年」の瞬間スピードを使って両側の敵を一気に抜き去った。あとは最後尾のスィーパーだけだ。だが、この「最後の砦」は左右のバランスよく身構えて、隙がない。私はとっさに判断した。

(スピードだけでは抜けない…)

 次の瞬間、私はかねてから息子に教えようとしていたフェイントを試みた。(というより、自然に身体がそう動いた)上体だけを大きく右にふり、右にいくとみせかけて、実際は右足でボールを引っかけてコースを変えて左に抜くという、いわゆる「マシューズフェイント」だ。そして、これがものの見事に決まった。
(余談だが、初めて決めたこのフェイントが、のちに私の「必殺技」となる)
 私の前にはもうキーパーとゴールしかない。1:1を決めるのは難しいと言われているが、このときの私は、まるでかっての弓道の「射詰め」の場面のように冷静だった。キーパーが右にヤマを張っているのがはっきりと分かり、私はためらわずにボールを左サイドネットめがけて流しこんだ。ゴールだ!
 事実上初めてといっていい試合の前半でゴールを決めたこの瞬間、それまでの緊張の糸がぷつりと切れた。その日の試合はなぜか私の手紙に書かれていた「要求」通り、45分ハーフで行われることになっていたが、それからの1時間余の長いこと長いこと…。
 ようやく終了のホイッスルが鳴った瞬間、私の右足はガチガチにつってしまって、しばらく身動きできないほどだった。



40代チームに入って 1988〜1992



 さて、初めての社会人チームの90分の試合をともかくも走り抜き、とりあえず1ゴールをあげたことで、私のサッカーへの熱はますます高まった。そんなとき、新聞の掲示板コーナーに「40〜60歳のサッカーOBを募集」というサッカークラブの記事が載った。当時の新聞の切り抜きがまだ手元に残っている。1988年6月29日のことだった。
 私はそのときまだ38歳だったが、その文章が私のために用意されているような気がしてならず、迷わず連絡をとった。電話に出られたそのクラブの会長という方は、60代半ばの元国体サッカー選手という輝かしい経歴があり、おそるおそる切り出した私の入会の申し出を快く聞き届けてくれた。

「今度の日曜に試合がありますから、サッカーが出来る格好でぜひいらしてください」

 という神のような暖かな言葉に私はすっかりその気になり、勇んで出かけていった。
 こうして私は40歳以上を対象にした、いわゆる「四十雀サッカーリーグ」(なんと、全国大会まであるらしい)の仲間に入れてもらうことになった。

 ここでの活動は5年間に及んだ。私は素人なりに練習に励み、試合でもそこそこに奮闘して下手なりにサッカーを楽しんだ。ポジションはキーパーを含め、ほとんどすべてを経験したが、一番好きだったのは左のMFである。例の「右に行くとみせかけて左にズバッと抜ける」というフェイントがイメージ通りに使えたからだ。左サイドに深く切り込んで左足で切り返してマークを振りきり、きき足の右で中に放り込む、というのが私の得意なパターンだった。
 1〜2年目はそのクラブでは若手の部類に入っていたこともあり、公式戦と練習試合でそれぞれ1ゴールもあげた。だが、私にはやはりキック力がなかった。ないというより、ボールのとらえ方がよく分からないのだ。そしてそれはそのクラブでは致命的な欠点だった。
 年齢層が高いこともあり、そのクラブのサッカースタイルは古く、フォーメーションも1-3-3-3で役割分担のはっきりしたものだった。バックスやハーフをやらされたときも、私の得意なスピードを生かしたドリブル突破はあまり許されず、ひたすら大きく蹴ることを要求された。かといって簡単にフォワードをやらせてもらえるほどの技術が私にあるはずもない。


●40代チームで苫小牧に遠征したときの写真。上段左から2番目が私



とうとう少年団チームのコーチに 1990〜1993



 上の息子が小6になったとき、指導者の先生が二人同時に転勤になり、私は急きょ地元少年団(東白石サッカー少年団)のコーチをやることになった。このへんのいきさつも先の「親馬鹿サッカー奮戦記」に詳しく書かれているので、割愛する。
 少年団チームの指導が忙しくなり、自分のサッカーの試合と日程が重なることが多くなった。ときには午前中に息子の試合の指揮を終え、昼食もそこそこに午後は自分の試合、という強行スケジュールもこなした。だが、ただでさえ実力のない私に、こんな無茶なかけもちが勤まるはずがない。午前中のベンチワークで神経をすりへらしたそんな日は、自分のサッカーのほうはまるで集中力を欠き、我ながら情けない動きに終始した。
 次第に私の出番は少なくなり、私はいつしか自分で望んだはずのサッカーが苦痛になり始めた。そして入部して5年で私はそのクラブから去った。チームではお荷物になりかけていたし、なにより思うように動けない自分が腹立たしかった。

 少年団でのサッカーは順調だった。詳しい成績は「親馬鹿…」に詳しく書かれているのでまたまた省略する。正確な記録はとっていないが、指導したチームはすべて4〜9割の勝率をおさめ、一から育てた選手の中から、超難関の札幌選抜選手にも数人を輩出した。
 こう書くと私のサッカースタイルがまるで勝利至上主義のように思われかねないが、決してそんなことはなく、いわゆる教育的配慮はいつも意識して指導してきたつもりだ。
 最初の教え子はやがて20歳を迎えようとしているが、いまでも街角で出会うとむこうから挨拶をしてくれる。茶髪で眉を細くそり込んだ一見ヤンキーふうのかっての教え子が練習中のグランドに顔をみせ、「コーチに教えてもらったときのサッカーは楽しかった」などと真顔で言ってくれたりすると、思わず胸が熱くなる。
「強さの追求」と「教育的配慮」とは本来あい反する性質があるようで、このふたつを両立させることは至難の技だったが、それをなんとかしようと欲張りなのが私の一貫した指導方針だった。



女子チームの監督に 1994〜1995



 男子の指導を始めて4年目の夏。Jリーグが始まり、それに合わせるようにブームにあおられた女子部員が増え始めた。父母の間から「女子部を作ってくれないか」という声があがる。女子リーグは組織も代表も男子とは分けなくてはいけない。そしてその監督候補として、私に白羽の矢が立った。「あかつきFC」の誕生である。
 コーチとしては多くの実績を積んでいたが、監督は学校の先生だったので、組織の代表としての全権をまかされたわけではなかった。名実ともにすべてをまかされる「監督」に、私は自分のそれまでのサッカー理論のすべてをぶつけてみたかった。指導が難しく、誰も手を出さない女子が対象であることにも、逆に意欲をかきたてられた。なにより、女の子が「格闘技」とも呼ばれるハードなサッカーをやる、という事実そのもの。顔面にぶつけられてもボールに向かってゆく「健気さ」とか「ひたむきさ」とかいうものに、私は強くひかれた。


●なつかしき結成当時のメンバー

 チームは2〜5年生という小粒なサッカー未経験の選手ばかりだったので、初年度は全くといっていいほど勝てなかった。スコアも15分ハーフで0:18とかの屈辱的なものばかりだった。つい前年までは勝率4〜9割というサッカーをしていた私にとって、そうした試合の指揮は堪え難いものだった。だが、ここは自分のやり方を信じてひたすら我慢するしかない。
 夏に素晴らしい資質を持つ選手が加入してからは徐々にリズムがよくなり、秋にはその子がチーム初得点をあげた。冬の室内大会では初勝利もあげた。チームは次第にリーグのお荷物から抜け出そうとしていた。

 結成2年目の1995年、アメリカで行われたSANDIEGO SURF CUP世界大会の国内予選に、チームから2人がチャレンジし、全国から集まった400人強の小学生女子の中から、あれよあれよというまにその2人が日本代表の16人の中に選ばれ、アメリカで行われる本選に出場することになった。
 だが、個人レベルでは好選手を輩出しても、チームとしてそれが機能していたとはとても言えず、チーム成績は相変わらず定位置の最下位に低迷した。この2年目の公式戦チーム成績は、以下の通りである。

■夏(11人)
◎0勝12敗2分/勝率0%
 1試合平均得点0.29
 1試合平均失点4.07
■冬(5人)
◎4勝8敗2分/勝率33%
 1試合平均得点1.17
 1試合平均失点2.08



念願の全道準優勝 1996



 女子チームの指導は3年目に入った。この年のチームは最強だった。強力なボランチの育成に成功したことが大きく、攻守のバランスもよかった。このホームページをちょうど開設したばかりの年で、チームの動向は逐一このページで報告していたので、覚えている方もいるかもしれない。
 春の試合でいきなり準優勝し、その勢いで夏の全道大会では決勝までコマを進め、全国まであと一歩のところまで突き進んだ。


●全道準優勝したときのイレブンの勇姿

 全国大会へはあと一歩のところで進めなかったが、準優勝の実績から、2名が補強選手として全国大会に出場した。この年の成績を書くと以下のようになる。

■夏(11人)
◎9勝4敗1分/勝率69%
 1試合平均得点2.07
 1試合平均失点1.42
■冬(5人)
◎3勝6敗3分/勝率33%
 1試合平均得点1.92
 1試合平均失点2.25

 秋の市民大会では悲願の初優勝も果たした。同じ年にはいっしょに指導していた3年男子までもが区大会で全勝で優勝し、まさに大満足の1年だったと言える。



合同チームで全国大会へ 1997



 チーム結成4年目のこの年は、結果的にチームにとっても私にとっても大きな転機となる年になった。最盛時は19人の部員を抱えていたチームも、シーズン開始時にはどうしても9人しか集まらないのだ。Jリーグ人気の下降と、いわゆる「少子化現象」に伴い、メンバーが徐々に減り始めていた。
 他チームの内状も似たようなもので、まともに11人でメンバーを組めるチームはわずか1チームだけという惨状。危機を感じた私は、連盟の意向もあって、近隣チームで合同チームを作ることを後援会と各チームに提案した。奔走の甲斐あって提案は受け入れられ、夏の全道大会はこの合同チーム「札幌ドリームFC」で望むことになる。監督は「言い出しっぺ」の私が指名された。
 大会本番は厳しい試合が続いたが、「優勝は難しい」との下馬評をひっくり返し、3勝1分の小差でチームは優勝し、初の全国切符を手にした。
 さて、福島県に出来たばかりのJビレッジで行われた肝心の全国大会は、日程が平日だったため、仕事の都合で私は見届けることができなかった。予選リーグの結果は0勝2敗で、スコアはそれぞれ0:5、0:8。ビデオで見せてもらった試合内容はシュートすら満足に打たせてもらえない状態で、あえなく予選敗退だった。全国との差が限りなく広がってしまったことを私は悟った。

 これらの結果が示すものはいったいなんだろう?少年団でさえあちこちのチームで慢性的な部員不足に悩んでいるようだし、「入部すれば待ってましたと即レギュラー」という競走のない環境では、いい選手が育つとはとても思えない。サッカークラブの活動そのものが単なる「習い事」の感覚に限りなく近づき、教育的効果も低下する一方だ。
 部員不足はすなわち子供のサッカーの死(終わり)を意味する。私たち大人も、こうした世相に合わせて考え方を変える時期にきているのではないか。



そして引退 1998〜1999



 1998年になり、チームにおける私の立場が大きく変わった。実はかねてから体力面や指導面で限界を感じはじめており、男子4年間、女子4年間というきりのいい指導年数を経たこともあって、後援会代表には監督引退を申し出ていた。全国大会出場も果たし、いろいろな意味での私の役割は終わったと判断した。
 後継者もちゃんと育てたつもりでいたが、いざ引退となってみると事はそう簡単には運ばず、さまざまな問題が噴出した。練習はともかく、運営面での不安がその主なものだった。だが、非常に強いストレスに苛まれる運営面を続ける気力はもう私にはなかった。
 一時は5年前のように少年団に吸収合併の話も出たが、紆余曲折のすえ、当面は後援会母集団による単独チームとして活動を続けることでようやく決着がついた。
 私自身も「練習だけに限定したコーチなら続ける用意あり」と予め申し出ていたので、選手の一貫指導とのからみもあり、とりあえず6月の最大イベント、「全道少女サッカー大会」までは週2回のトレーニングコーチとして指導を続けることになった。

 この年は結局2月末まで週1回のトレーニングコーチを勤めた。だが、試合に行かず、ただ教えるだけのコーチは自ら選択した道とはいえ、正直言ってあまり面白いものではない。私のコーチングが、練習と試合のいろいろなデータを相互に比較しながら、細かい修正を加えて同時進行のような形で進めていくやり方だったから、なおさらである。
 結局、1998年度をもって私の9年間のコーチ生活は終わりを告げた。そしてすべてのチーム運営からも手を引いた。完全なる引退である。
 サッカーはとても好きだし、教えることも好きだが、子供の向こう側に親のエゴが見え隠れするような状況での指導は、楽しさよりも苦痛のほうが多い。我が子も皆すっかり大きくなってしまい、チームに妻の顔見知りの親もほとんどいなくなってしまったため、父母と私のパイプ役を妻に期待するのも、もはや困難な状況である。
 指導を始めた最初の頃のように、練習に出かける前のウキウキした気分が消えうせてしまったなら、老兵は静かに去るべきだろう。私にとって、サッカーコーチは義務でも権利でもボランティアでもなく、ただの道楽、趣味、生きがいのたぐいだったのだから。

 ともあれ、すべてが終わったいまはとてもさっぱりした気分である。いろいろあったが、様々な形で私を支えてくれた家族や仲間、地域の人々、そしてなにより、楽しい思いを私に与え続けてくれた子供たちに深く感謝したい。
 当分はテレビ桟敷かスタンドで、口やかましいサポーターのひとりとして、がなりたてていようか。

「おらぁ〜!そこはパスじゃなくって、シュートだろうがぁああ〜!!」などと…。