第7話/高浜〜武生〜敦賀 初秋の北陸路へ涙のゴール!
第29日 高浜〜敦賀 /1970.8.24(月)晴れ
《初秋の若狭湾を行く》
素晴らしき北陸の夜明け。若狭湾は海岸線が複雑に入り組んだ場所。紀伊半島にちょっと似ているけれど、道はずっと平坦だ。キラキラ輝く海に点々と浮く島々が水蒸気で青く煙る。秋だな、空も海も。
北陸は水も良い。いたるところに湧き水が出ていて、冷たくて実にうまい。昨日トラックに乗せてもらったおかげで日程に少し余裕が出来たので、三方五湖にちょっと寄り道して行く。周遊道路をゆっくりと回る。車も少なく、道もいい。静かだ。平和だ。
若狭国定公園、三方五湖
《最後のキャンプと最後の自炊〜ひとりビールに酔う》
敦賀の海岸沿いにある松林の中でキャンプ。密集する松の枝からテントを吊るし、久しぶりに広々とした寝床。今夜は自転車をテントの外に出して眠ることにする。
もう夏も終わり。広いキャンプ場なのに、テントは僕のを入れてたったの3つ。明日は確実に母の生家のある武生に着ける。今夜は最後の野宿、最後の自炊だな。そう思うと、何だかとても名残惜しい。もっと旅を続けたかった。もっと色んな人に会いたかった。僕はその夜、旅に出て初めて酒を買って飲んだ。テントの中で膝をかかえ、誰もいない暗闇に向かってビールの缶を差し出し、乾杯!
やけに酔う。これっぽっちの酒なのに…。夜中の1時20分、ふと目が覚める。テントのファスナーを開けて顔を出すと、月がきれい。思いついてラジオのスイッチをひねってみる。1260サイクル、北海道放送。聞き覚えのある懐かしい深夜DJの声が、日本海を越えて飛んできた。
(この海の向こうに、北海道があるんだな…)
そう思っただけで、思わずわあっと叫びだしたくなった。「北海道に帰りたい、帰りたい!」
●本日走行距離/102.9Km ●走行距離合計/2775.0Km
北陸に入ったとたん、急にペースダウンしてしまったのは、敦賀から小樽に向かう長距離フェリーの都合である。当時は便が週に2回しかなく、予約出来たのはこの日から4日後の8月28日敦賀発の便だった。結果的に旅の最後で、ゆっくりと旅情を楽しむ余裕に恵まれたのである。
最後のキャンプ地となった敦賀の松林は、車の音もなく、人も少なく、旅の中で最高の、そして最も印象に残るキャンプとなった。
旅の間はこの夜を除き、禁酒禁煙禁欲で通した。こうした何かしらの「願」をかけでもしないと、なかなか満願成就というわけにはいかない、と書くと少し格好が良すぎる。とてもそんな余裕などなかった、というのが正直なところである。
第30日 敦賀〜武生 /1970.8.25(火)晴れ
《ゴールめざして》
朝起きてゆっくりとテントをたたむ。新品だったのに、随分汚れてしまった。色んな場所の土や泥や雨がついているな。ごくろうさんだった。
いつもより念入りに朝の手入れを済ます。チェーンにオイルをたっぷりさして。ブレーキは?いいな。ギヤチェンジは?これもいい。よし、いくぞ。
《北海道の街はクマが歩く?》
越前海岸をゆっくりと走る。海の色が澄んできれい。途中でまたまたオカシナ野郎と出会う。自称カメラマンで、僕と同じくらい重装備の自転車に乗っているやつだ。嫁さんを大阪に置いて、良い写真を求めて日本中を放浪しているんだと言っていた。
しまいには、このまま北海道に渡って写真を撮るんだと言い始める。「馬鹿な、オレは北海道の人間だゾ。真冬の北海道を、自転車で走れるものか」
「おい、本当か?」
「ああ、早いとこじゃ、10月にはもう雪だぜ」
「う〜ん、そりゃ困ったな」本州の人たちは、北海道についてまるで無知だ。北海道の街は熊が歩き回っているという話を信じ込んでいる人が本州には多いと聞いていたが、それは全くの事実であって、そう信じている人たちがかなりいたのである。
僕は出来る限りそうした誤解を解いてきたつもりだったが、まだまだ足りないのだろうな、と思う。僕自身も日本の国について、そこに住む日本の人々について、あまりにも無知であったことに気づく。僕が訪ねた土地、接した人々は、日本中からみれば、ほんのひと握りに過ぎないのだろう。
だがしかし、と僕は考える。少なくとも本で読み、テレビで見ただけよりはずっと生々しく、僕はこの若さで日本を、日本の人たちを間近に見、そして知ることが出来たのではないか。僕はラッキーだったな、得したな、とつくづく思う。母の生まれ故郷、武生の長慶寺に2時到着。おばさんが笑顔で迎えてくれる。とうとう着いちゃった。
●本日走行距離/44.1Km ●走行距離合計/2819.1Km
第33日 武生〜敦賀 /1970.8.28(金)晴れ
《敦賀から小樽行きフェリーに》
長慶寺には三日もお世話になってしまった。もう旅は終わったと同じだから、ゆっくりした。旅行の無事を感謝して、先祖の霊を何度も拝んだ。
武生から敦賀まではあっけなかった。写真を撮りながら遊び遊び行ったのに、3時間で着いてしまった。
船が出るまでの間、敦賀の土産物屋で世話になった人たちへのお土産をこまごまと買い込む。越前名物の羽二重餅、輪島塗の夫婦箸、絵はがき…。旅行中は重くて厄介だったから、なんにも買わなかった。●本日走行距離/43.0Km ●走行距離合計/2862.1Km
《最後の涙》
1時半、ドラが鳴る。テープが舞う。フェリーがゆっくりと岸壁を離れる。蛍の光。見送りの人たちがだんだん小さくなる。
船が港を出て、陸地がずんずん遠くなって青くかすみ始めたとき、僕の胸からこらえていたものがどっと溢れた。あの伊東のお寺の大黒さんは…厳しかったっけ、あの紀伊の山々にはてこずったなあ…。宇多津町のおまわりさん、八幡浜のおばさん、ありがとう…。
日向のおばあちゃん…、長生きしてください。
ああ、白いワンピースの人、忘れないよ…。ああ、人吉のおじさん、おばさん…、大牟田のラーメン屋さん…。ああ、三隅町の役場のお兄さん…、京都のトラックの運転手さん…、みんなみんな忘れない……、忘れられないよ……。まだ陸地は見えているはずなのに、僕の目には滲んでかすんで、もう何も見えなかった。僕は風の強い甲板の片隅にうずくまって、また泣いた。旅に出て二度目の、おそらくこれが最後の涙だった。
《旅が残してくれたもの》
僕は思った。もう僕の旅は終わったんだな、と。あの人たちが、僕が旅の中で触れ合ったたくさんの人たちが僕に残してくれたものは何だったのだろう。
みんなみんな自分たちの住む土地を愛し、自分たちの静かな生活を営んでいる人たちばかりだったっけ。そんな人たちから見れば、汚い格好で汚い自転車に乗った僕は、とんでもない闖入者だったろうに。
でも、みんな僕を拒まなかった。まるで貝が尖ったガラスをそっと包み込むように、優しく、柔らかく受け入れてくれたっけ…。そうだ、きっとあれは愛なんだ。不意に僕はそう思った。そうだ、あれが愛だろう。無償の、全く無償の、素朴で純粋なウソのない愛だ。
僕は「愛」という不確かなものの輪郭を、いまはっきりとつかんだ気がした。僕はそれが、あの人たちが僕に与えてくれたものが、きっと僕の中にいつまでも残っていて、僕はいつもそれを忘れることはないだろうと確信した。僕は以前とは違う新しい自分を見つけた。僕の旅はいま終わった。しかし、また新しい長い長い旅がすぐに始まるだろう。
僕はもう負けないだろう。僕は美しい日本の国をいつも忘れないだろう。そこに生活するたくさんの人々を、そしてそれらの人々の持つ優しさを、暖かさを、いつも忘れないだろう。
身体の底から力が満ちてくるのを僕は感じた。そうだ、僕は忘れない。もう何も見えなくなった甲板の上でたったひとり座り込み、僕は水平線の彼方をじっと見つめていた。
〜完〜
小樽行きフェリーの甲板にて
〜あとがき〜
早いものです。3000キロのさすらいの旅が終わってもう一年余。忙しかったというより、この旅行記を書き上げるだけのポテンシャルの高揚が僕自身になかった、と言うほうが正確でしょう。
とにかく、ある日突然この旅行記をまとめる気になり、一週間で書き上げました。これも僕の気まぐれのひとつでしょうか。参考までに、札幌の自宅に到着したとき、距離メーターの数字は2955.0キロを指してしました。 ●
ついでにもうひとつ。小樽から札幌に帰る途中、張碓峠で見上げた秋の夜空の満天の星の美しさは忘れられません。そのとき初めて、北海道に帰ってきた実感が湧きました。この一年半に、僕自身も大きく変わりました。もしかしてこの旅行は、僕にとって生涯の一大転機だったのではないか、といま漠然と考えている次第です。 ●
この旅行記にフィクションは全くありません。表現のオーバーなところもありません。僕の真実の心の動きを、忠実に克明に追いました。 ●
また身体がうずきます。心がうずきます。人間を探しに、心を探しに、またどこかに旅に出ます。自分を探しに出かけます。みなさん、お世話になりました。僕にお金があればこの旅行記を出版してお送りするのですが、それも出来ません。手書きで一生懸命書きました。汚い字で申し訳ありません。勘弁してください。 ●
この旅行記を読んでくださる数少ない方々へ。率直なご意見をお聞かせください。右のページの余白にでも書いていただければ幸いです。 ●
〜1972.3.24 著者記す〜
30年目のエピローグ
あれから約30年の月日が流れました。若き日の僕自身が書いた「あとがき」で予知しているように、結果的にこの旅はその後の僕の人生を決定づける、大きなターニングポイントになりました。
職業、女性観、生活感覚、生きがい、社会、宗教、そして宇宙観。それら雑多な人生観のすべてが、この旅によって示唆され、凝縮されたといっても過言ではありません。その後、僕が「白いワンピースの人」のような人を愛し、自然を神としてあがめ、「脱サラ日誌」に描かれているような反骨心にあふれた人生を選び、「親馬鹿サッカー奮戦記」に書かれているような家族と深い関わりを持った生活を歩んでいるのも、必然といえば必然と言えます。 ●
文章のはしはしに荒削りではあるけれど、青く、せつなく、初々しい当時の僕の息遣いが感じられ、久しぶりに全文を読み返してみて、若き日の自分自身がいとおしくなりました。いったい何が僕をそれほどまで旅に駆り立てたのでしょう? ●
それは自分をもっといじめたかった。長い旅に自分を追いやることで、自分の力を試してみたかった。たとえば江戸時代の元服、あるいはバヌアツのバンジージャンプのような、「大人になるための儀式」を自分に課したかった。そんなふうに自分を追い立てる誰かの声が、どこからか聞こえてきたのです。
そのためには、旅はより孤独で、より過酷でなくてはなりませんでした。野宿を中心とした「単独放浪自転車旅行」というものは、僕にとってのこれまた必然でした。現代は冒険の少ない時代と言われ、子供が大人になるためのイニシエーション(儀式)の機会は限りなく少なくなりつつあります。 ●
でも、こんなふうに自分を非日常に追いやる少しの勇気があれば、普段は見えないものが必ず見えてくるもの。多感な年代にこうした旅に出る機会を得れば、それは必ずやその人にとっての「イニシエーション」になり得るでしょう。僕は物見遊山の旅にはたいして興味はありませんが、多くの人々と接し、自分の内面を見つめ直せるこんな旅を、いつかまたやってみたいと考えています。 ●
この連載を読み終えての皆様の感想などがありましたら、ぜひお寄せください。また、こうした旅をするための具体的なノウハウなど、文中で出来るだけ詳しく解説したつもりです。もし書き足りない箇所などがありましたら僕の知っている限りお教えします。あわせてお寄せください。