第4話/臼杵〜桜島  東九州人情港で無償の愛を知る



第15日 臼杵〜日向 /1970.8.10(月)晴れのち雨



《荘厳…臼杵の石仏》


 冷房完備のフェリーの船室で、シュラフにくるまって気持ちよく寝ていたら、朝6時に係員に起こされる。船は朝4時には臼杵港に着いていたのだけれど、そのまま夜明けまで寝ていていい、という船会社の粋な計らいだった。
 フェリーを降りて九州への第一歩をしっかりと踏み締める。水平線の彼方から、ぽっかりと出たばかりのオレンジ色の朝日が印象的。太陽を見ると不思議と身体中にエネルギーが充ちてくる。

 旅に出て以来、自分の写真をほとんど撮ってなかったことに気づき、九州上陸記念もかねて港にある電柱にカメラをひっかけ、セルフタイマーを作動させて撮る。ちゃんと撮れているかどうか、まるで自信がない。

 港からまっすぐ西に走ったところで、田んぼの真ん中にある遺跡、「臼杵の石仏」を見る。朝が早いので誰もいず、無料でゲートを通過。
 天然の岩壁に刻まれた平安、鎌倉期の石仏がうっそうとした木々と朝霧の中に浮かび、荘厳。思わず両手を合わせる。早朝でなければ、とてもこの雰囲気は味わえなかったろう。思わぬ拾い物だった。

 野津町から左折して国道8号線に出る。道路縁の看板が「大分…」になり、山々の稜線も四国よりは険しい。九州に入った実感が次第に沸いてくる。道端の朝顔が鮮やかな色。心が休まる。
 九州のスイカはうまいと聞いていたので、道端に出ていた店でさっそく食べてみる。この店のおばさん、僕が北海道から来たというと、「北海道ちゅうと、地の果てじゃのう」などと、僕を異国人でも見るようにジロジロと眺める。そんな目で見ないでください。僕だってちゃんとした日本人です。


朝日の中で輝く荘厳なる臼杵の石仏


《清流、北川と並走》

 中ノ谷トンネル、通行料10円也。入口に「中ノ谷トンネルの無料化を」のアピール看板あり。賛成、賛成。だいたいくだらない所で金を取りすぎるよ。自転車はたいてい10円くらいで済むけど、トラックなんかは何千円も取られるんだ。
 宗太郎峠を上りきったら、あとは延岡まで一気に下り。北川という実にきれいな川が、道に寄り添うように走っている。この川はまだ汚れていなかった。天然の鮎が捕れるという話で、鮎料理の看板があちこちに見える。でも、貧乏旅行の僕にはとても手が出ない。せめてきれいな景色でも腹一杯楽しもうと、道路沿いの木陰にマットを敷いて横になる。
 真っ青な空と藍色に澄んだ川と濃い緑の木々に囲まれ…、ついうとうとと1時間ほど寝込んでしまう。本当にどこでもおかまいなしに眠ってしまう。

 天気がいいと人も陽気になってしまうのか、たくさんの人が声をかけてくれる。追い抜く車の中から、数人の若き乙女が顔を出し、「がんばってェ〜」と黄色い声をかけてきたときには、思わずあたりを見回してしまったけれど、それは間違いなく僕にくれた声援だった。こんなとき、思わずハンドルから両手を振り上げて応える。
「がんばるぜぇ〜」


《見知らぬおばあさんの家に泊めてもらって…》

 日向の近くで晩飯にする。30分で出来上がり。ろくなもんじゃないが、腹ペコなのでそれでもうまい。メシのあとはお決まりの宿探し。今日はどこかの海岸にテントを張るつもり。

 美々津という海沿いの小さな集落で、浜にいたおばあさんに「この辺にテント張っていいですか」と尋ねると、家に泊まっていけ、と言ってきかない。
「いつも外で寝てますから」と丁重に断ると、せめて家に上がって休んで行けと、いろいろごちそうしてくれたうえ、風呂に入れ、洗濯物はないかと、まるで自分の息子のように世話してくれる。
 家の中で寝なさい、というのを振り切り、外の縁台を借りて眠ることにしたが、しばらくすると空から大粒の雨。接近する大型台風9号の影響のようだ。家の中からおばあさんが飛んできて、
「だから言わんこっちゃないが…」と叱られて…、すみません。やっぱりお世話になってしまいます。

「つれあいを日華事変で亡くしてのォ、息子たちもみぃな都会に出て行きよって、盆になってもだぁれも帰ってきよらんョ。独り暮らしだと、寂しゅうてのォ」
 人の良さそうなおばあさんの顔が、ふっと曇る。

 その夜、僕は床の間のある部屋できれいな布団に寝かせてもらい、おばあさんは茶の間で眠った。まるで自分の家に帰って寝ているような錯覚に襲われる、とても不思議な夜だった。

●本日走行距離/113.8Km  ●走行距離合計/1458.8Km


 キラ星のような自然が残された東九州は、自然嗜好の僕をたちまち虜にした。つい最近、臼杵の石仏をテレビで特集していたが、酸性雨などの影響で、かなり風化が進んでいた。あの澄みわたった北川が、果たしていまも健在なのかどうかも定かではない。いずれにしても、再訪してみたい場所のひとつである。

 旅の中での自分の写真というのは、なかなか撮れないものだ。装備を少しでも軽くするため、三脚を持っていく余裕がないのだ。人の少ないコースと時間を選んで走っているため、誰かに頼もうにも頼めない。
 結局、写すチャンスはユースホステルに泊まった朝に同じ旅行者に頼むか、何かの台や柱などにカメラを固定し、ひとりセルフタイマーで撮るくらいしかない。

 旅行中、特に暑さの厳しい昼間は、疲労回復と睡眠不足解消のため、眠気がくるとすぐに横になるようにした。いつでも取り出せるように、仮眠用のマットはバッグの外側にバンドでしばりつけてある。雨具などの入った柔らかいバッグを枕代わりにし、顔には帽子をかけて眠る。
 やたらと食べるシーン、特に果物関係が多いのは、果糖によるエネルギーの補給と、自炊や外食からくるビタミン不足を補うためである。何と言っても旅は身体が資本なのだ。




第16日 日向〜日南 /1970.8.11(火)雨ときどき晴れ



《さよならおばあさん、忘れませんよ》

 朝ごはんをご馳走になる。夕べおばあさんがしてくれた洗濯物もすっかり乾いている。おばあさんは近くの漁業工場に勤めているそうで、出勤前のひととき、家のすぐ前に広がる日向灘を眺めながら、最後のお話をした。

「ほら、あそこにふたつの大きな岩があるじゃろう。あの岩はのォ、むかし神武天皇が国造りをするちゅうて、最初にこの港から船を出したとき、通った岩なんじゃと。それからのォ、あの岩の間は普通の船が通るとバチが当たるちゅうて、だぁれも通らんかったとョ。ところがの、そんなの迷信じゃちゅうて、あの岩を通って沖に出た船があっての、その船は嵐でもないのに、波にのまれて二度と戻ってこんかったとョ」

 潮風に白髪をなびかせ、話すおばあさんの話は僕の心に染みわたった。

「雨がひどくなったら、いつでも帰ってくるんョ」
 おばあさんの声をあとに、僕は出発した。曲がり角で振り返ると、小さくなったおばあさんが、まだ手を振っている。僕は精一杯手を延ばし、精一杯手を振ってさよならした。

 僕は人間のふれあいの不思議を知る。僕はただの汚い旅行者。そしてあの人は小さな漁村の独り暮らしのおばあさん。夕べあの浜で出会わなかったら、僕とおばあさんはおそらく何の関係もなく、名前も知らず、一言の言葉を交わすこともなく、一生を終えていただろう。それがほんの些細なきっかけで、まるで親子のように通じ合える。いったいそこに何があるんだろう。
 そこには打算などと言う安っぽいものはひとかけらもない。そこには無償の、全く無償の、素朴な人間同志のふれあい、それしかない。それしかないんだ。

 僕はいままでなんて打算的でいやらしかったんだろう、と思う。昔は、少なくとも田舎に住んでいたころは、僕はもっと純粋だったはずだ。それがいまはどうだ。何事にも計算、打算がつきまとう毎日。
 おばあさんは、もう随分長いこと忘れていた心を僕に思い出させてくれた。もうよそう、打算は。ありのままに僕は生きたい。僕は決意する。いつも純粋さを、素直な心を忘れない。


《数珠を拾って…堀切峠》

 雨のパラつく中を宮崎へ。市内にはフェニックスの並木道が縦横に走り、南国ムードがいっぱいに漂う。観光客の多い青島は避け、堀切峠でしばし休憩。
 ここで僕は道路縁で小さく光る数珠を見つけた。拾い上げてあたりを見回し、落とし主を探してみても誰もいない。普段でもそうだが、旅に出てから僕はめっぽう信心深くなった。これはきっと仏様が僕に授けてくださったに違いない、と考える。結構本気になって。
 自転車のハンドルについてるベルにしっかりと結びつけ、願いをこめる。

(まだだいぶあるけど、僕を守ってください。お願いします)

 ここは日南海岸のど真ん中、海も山も木々も美しい。宮崎は県全体が国立公園という印象だ。景色を楽しむため、ゆっくりペダルを踏んで走る。
 日南まであと20キロの地点で、猛烈な雨と風に襲われる。ラジオのスイッチをひねると、台風9号が九州直撃のコースをとっているという。危ない。きょうは日南ユースホステルに飛び込もう。

 どしゃ降りの中、ウィンドヤッケ1枚ですっ飛ばす。6時30分、ようやく日南ユースへ到着。しかし、満員。強引にねばって、なんとか食堂に寝かせてもらえることになった。
 このユースはNHKのドラマのモデルにもなった有名なユースである。10人近くもいる家族全員で経営しており、ミーティングがとにかく楽しい。普段の僕なら、たわいない歌やらゲームやらにはとてもついていけない気分になるんだけれど、今夜の僕はなぜか素直に受け入れられた。僕は単純にそれを楽しんだ。

●本日走行距離/126.0Km  ●走行距離合計/1584.8Km


 日向のおばあさんとの出会いは、僕にとって運命的なものと言えた。この方に出会えただけでも、僕の旅には充分意味があったと思う。この出会いはのちの僕の生き方に大きな影響を与えた。
 文中の表現がやや感情過多で鼻につく点は、どうぞお許しください。それだけ当時の僕の精神が高ぶっていた証拠です。
 別れ際、無理に頼んでそこらの領収証の裏に名前と住所を書いていただいた。そこには達筆な文字で「黒田きみ」と書かれている。いまでも僕のアルバムの中で、大切なお守りのような存在になっている。

 旅行中、天気予報のチェックはとても大切だ。電波の弱い山間部を走ることもあるので、感度のいい8石のラジオ(ラジオ内のトランジスタの数。普通は7石)を用意した。
 朝夕2回、毎日欠かさず30分くらいラジオを点けっぱなしにして天気予報を聞く。台風が接近している場合は、ラジオをバッグの中で鳴らしながら走った。

 旅の中、やたら信心深くなってしまうのも不思議な体験だった。僕が自然を神としてあがめる気持ちに抵抗なくなれたのは、この旅を経てからである。長く過酷な放浪旅行がそうさせたのだろう。
 これは原始社会の自然崇拝に近い考え方だと思うが、金まみれ欲まみれのエセ宗教なんぞより、余程人間的だと確信している。




第17日 日南〜鹿児島 /1970.8.12(水)雨ときどき曇り



《一玉35円のスイカ》

 台風の影響ではっきりしない天候。串間までの平坦な砂利道をすいすい走る。大峠という町で、スイカがべらぼうに安い。一玉22円からあって、北海道なら300円はするだろうという大きなやつが、たったの40円である。
 少し小さめの、それでも自分の頭くらいのやつを35円で買って後ろの荷台にしばりつけ、適当な道端に座り込んでかぶりつく。味噌汁用のお玉でがばっとすくいとって豪快に食べるのである。九州はスイカの本場、ペロリと一個平らげて、その味も抜群だった。


《桜島だあ!》

 鹿屋からの峠をぐ〜んと上り詰めると、いきなり目の前に錦江湾がわあっと広がった。遠くに煙りたなびく桜島が。やった、やった。ついに桜島だあ!
 鼻歌で「港町ブルース」など口ずさみ、晴れ晴れした気分で錦江湾沿いの道を桜島へと向かう。

 桜島は耳を澄ますとサラサラと音が聞こえるほど火山灰が降りそそぎ、目が痛いほどだ。溶岩の上にアスファルトをぺったり敷き詰めたような道が走り、走りやすいことは走りやすいが、あまりにも造られ過ぎていて、どうにもいただけない。

 夜7時20分のフェリーで対岸の鹿児島に渡る。今夜は鹿児島大学の寮にお世話になる。自炊の時間と場所がなく、晩飯は市内で九州名物豚骨ラーメンライスを喰う。
 この鹿児島が僕の旅の最南端の街。距離メーターも半分の1500キロをちょうど越えた。我、これより北上す、北上す。北海道めざして…。


万感の思いで見上げた桜島

●本日走行距離/126.0Km  ●走行距離合計/1584.8Km


 高2のときの一週間の旅の目的地が日本最北端の宗谷岬だった。北を制覇したのだから、次ぎなる目的地は最南端、佐多岬である。計画段階では当然のように佐多岬が行程の中に入っていたが、大型台風の襲来と日程の遅れで、結局断念した。
 これは未だに僕の大きな心残りで、やはり無理をしてでも行くべきだったかな、と思う。いつの日かこの足で佐多岬を訪れ、本州最南端の地をこの目で確かめたいと思っている。

 旅行中、孤独な僕を慰めてくれたのは、行きずりの人々との小さなふれ合いと、そして歌だった。ひとりペダルをこぎながら大きな声を張り上げると、不思議に心がなごんだ。
 普段はフォークソング(当時、若者の間で一世を風靡した流行り歌)ばかり口ずさんでいた僕だったのに、旅に出ると歌うのはなぜか演歌、演歌のオンパレード。とりわけ、日本全国の港町が登場する森新一のヒットソング「港町ブルース」は随分と歌いこんだ。放浪のひとり旅には、やはり「演歌」なのだろうか。

 台風の接近で風雲急を告げるなか、旅は最大の難所へと差しかかる。