第1話/東京〜磐田  猛暑に打ちのめされた東海道



第1日 東京〜藤沢 /1970.7.27(月)晴れ



《さすらいの旅へ》

 とうとう出発してしまった。僕はいま間違いなく、東京の空の下を愛車のペダルをしっかり踏み締めて走っている。
 高2のときの自転車旅行は厳しかった。
「もうこんな事、二度とするもんか」と決めたはずなのに、帰ってくると、すぐまた次の旅の計画を練っている僕だった。どうしてこんなに旅に、そして自転車に固執するんだろう。どうしょうもない魅力があるな。

 昨夜、ユース(市谷ユースホステル)で2時間かかって組み立てた自転車。チェーンががっしりギヤに食い込んで、ウン、いい感じだ。クラブ(弓道部)の田村先輩が、僕の組む横でずっと見ていてくれた。
「オイ、気をつけて行けよ」煙草をふかしながら、そう言った先輩の言葉が耳に残っている。もうしばらくは知っている人にも会えない。気をつけて行かなくちゃ…。

 それにしても、どうしてこんなに暑いんだろう?9時にユースを出発して、1時間もたっていないというのに。北国に生まれ育った僕には、とても我慢できない。排気ガスと車の量も予想以上だ。なにしろここは東京のど真ん中。無理もないんだが。
 3時間以上もかかってようやく東京脱出。川崎でふらついて転倒。そのすぐ後ろから車が…。危なかった。35キロの荷物と20キロの自転車、そしてこの暑さじゃ、ふらつくのも当たり前だ。


《いきなり道に迷った》

 車の少ない道路を走り続ける。それにしても3時間近くも1台の自転車にも出会っていないのは、おかしい…、と思ったそのとき、

「君、この道は自動車専用だよ」と声をかけてくれる人あり。
「はあ、そうなんですか?」
「旧東海道を行きなさい。私が案内してあげよう」

 と、この親切な牛乳配達氏は、その旧東海道とやらに導いてくれる。どうやら道を間違えたらしい。いくぶんふてくされ気味で道路沿いの寺の境内で横になっているうち、すっかり眠ってしまった。

 どうせ先を急ぐ旅じゃあるまいし、コースだって臨機応変に変えりゃいい。気楽にいこうと思う。あせって身体を壊してしまっては、本末転倒だ。
 そんなわけで、今日は藤沢市内にある「時宗総本山遊行寺」という大きな寺の境内にお世話になる。テントを張ってストーブを点け、湯を沸かしてメシを炊く。予想外の激しい疲れで、食べるのがやっと。一夜の宿を感謝し、 本堂に向かって合掌。泥のように眠る。

●本日走行距離/63.3Km  ●走行距離合計/63.3Km


 最初にこの旅の全行程を説明しておきたい。スタートはなぜか北海道ではなく、東京だった。東北をすっとばしてしまったわけを話せば長くなる。当時僕は北海道室蘭市にある工業大学の2年生だった。
 2年の夏に放浪自転車旅行をやることはかなり前から決めていたから、本来なら大学が休みに入った7月上旬、地元室蘭市から海を渡り、東北、関東の海岸線をひた走って、近畿、四国、九州、山陰、北陸と回り、北陸からフェリーボートで北海道再上陸というのがおおまかな予定だった。沖縄を除く全県走破をもくろんでいたわけである。

 そんな予定がいきなり狂ってしまったわけは、当時加入していた弓道部にある。1年生のときはさっぱりだった弓道の実力が、2年の春に突然開眼。あれよあれよという間に的中率70%、ふと気づけば、毎年夏に東京武道館で開催される「全日本学生弓道選手権」のレギュラーに、ぶっちぎりで選ばれてしまっていた。
 困り果てた僕が選んだ方法は、「自転車を分解してすべての荷物と共に手荷物扱いで東京に送り、大会が終わったらすぐさま弓道具を北海道に送り返し、そのまま自転車旅行に旅立つ」という、なんともムチャクチャな計画だった。おいしい物を、ふたついっぺんにいただこうとしたのだ。

 かなり綱渡りだったが、結果的にこの計画はうまく運んだ。分解した自転車と荷物をテレビの空き箱を改造した箱に詰め込み、リヤカーに積んで運びこんだ駅では、「荷物が大きすぎてチッキ(当時、切符1枚に1個だけ許された鉄道手荷物)では送れない」といったんは断られたものの、「特別に布団扱いで送ってあげる」と親切な駅員さんに計らっていただいた。宿泊予定の市谷ユースホステルでは、送った自転車を快く1週間以上も保管してくださった。
 出発に至るまでに出会ったこの種の善意の数々は、数え出すときりがない。逆に言うと、すでに出発以前から、僕は多くの人々の善意に励まされ、支えられていたのだ、と言える。




第2日 藤沢〜伊東 /1970.7.28(火)晴れ



《伊豆への道》

 夕べはひどく暑かった。あまりの暑さに夜中に起き出して、境内の井戸水で冷やしておいたコーラを飲んだくらいだ。4時45分に起きてテントをたたみ、ウェハース、コーラ、トマト、レーズンの朝食。とにかく朝の涼しいうちに、出来るだけ距離をかせごう。


 寺に一夜の宿のお礼を言い、6時出発。東海道の裏街道をすっとばす。交通量も少なく、快調。
 荷物の積みすぎか、はやくもキャリア(荷物を支える荷台)がぶっこわれる。すぐに針金で応急処置。慣れたもんです。こんなとき、高2のときの経験がモノを言う。
 昨日、道端にあったコカコーラの工場を見学させてもらったとき、案内のお嬢さんにいただいたコーラの缶がバッグの中でゴロゴロしていて扱いにくい。早く処分しなくては。

 箱根の入口の牛乳屋のおばさん。「箱根の山は自転車じゃキツいよ」
 そうですか、何しろ天下のケンですからね。僕はどうせあてのない旅、箱根を南に迂回して、伊豆のお山を越えてゆっくり行くことにしましょう。

《ここは伊豆》

 ここは国立公園のど真ん中。すばらしい景色の中をひた走る。だが、8時を過ぎるとまたまた強い太陽がギラギラと。
 サングラス、サンオイルを持ち出し、装備。谷川で帽子とシャツをべたべたに濡らして走る。でも、すぐに乾いてしまって、あまり役にたたない。
 道端に大きな木を見つけると、日影に飛び込んで一休み。また少し走っては、またまた一休み。大丈夫かな?これで本当に九州まで行けるんだろうか…。

 熱海に入る前の峠の店で、季節はずれの夏ミカン売りのおばさんとお話。伊豆の話やら身上話、ずいぶん話したなあ。熱海ではタダでいいからラーメンを食べて行け、と言われたり、網代では魚の干物を値段の倍も分けてくれたり、道端の氷屋さんは、水筒一杯の氷をサービスしてくれる。これだけ気候がいいと、人まで良くなるんだろうか。


《厳しかった大黒さん》

 伊東から冷川峠を越そうと考えていたけれど、日が暮れてしまった。困った…また宿探しだ。
 禅宗の大きな寺に行き、一夜の宿をお願いすると、この寺の大黒さん(寺の住職の妻)、非常に厳しい口調で「なぜこの寺に来たか」「寺を安宿と考えてはいけない」「あなたのような人が来ては、悪さをしてゆく」等など、いろいろとお説教される。
 僕はいままで旅で色々なところにお世話になったが、そんなことは一度もしなかったし、また、これからもしないだろう。しかし、中には悪い奴もいると聞く。泊まったところから色々な物を失敬したり、壊したり、汚したりする奴等だ。
 僕は決してそのような事をしないし、母が寺の娘であるから、寺がどのようなものかをよく知っているつもりです。僕は真摯な気持ちでそう訴えた。すると、大黒さんは分かってくれたのだろうか、じっと僕を見て言った。

「あなたがこうしてここにやってきたのも、きっと何かの縁でしょう。御本堂にきちんとお参りしてから泊まって行きなさい。その前に近くのお風呂に行ってらっしゃい。その格好じゃね」

 言われてみて自分の身体を見てみると、なるほど、埃だらけの汗だらけで薄汚い。これでは浮浪者と間違われたっておかしくない。
 風呂に入り、境内にテントを張ろうとしたら、「中で泊まって行け」と言う。僕は初めから外で寝るつもりだったが、何度も言ってくれるので、お言葉に甘えることにする。冷えた夏ミカン、ごちそうさま…。

●本日走行距離/86.4Km  ●走行距離合計/149.7Km


 旅行2日目で早くも荷台が壊れるというアクシデントに見舞われた。多くの荷物を積んで走る長距離自転車旅行では、荷台の補強が重要な課題だ。出発前に相当の補強をしたつもりでも、やはり駄目である。最初から壊れる前提で、修理用の針金なりロープなりを準備するしかなさそうだ。
 そのほか、不要な荷物を持たないことも長距離旅行では大切だ。高2のときの経験で、こちらも充分吟味して絞り込んだつもりだったが、実際に走ってみるとやはりいらない物が出てくる。この旅では、出発して1週間後あたりに、土産と一緒に不要な持ち物を送り返している。

 文中にもあるように、宿泊先はいつも悩みの種である。偶然だが、初日、二日目と続けて寺の世話になってしまった。いま考えてみると、心のどこかに(寺に行けばなんとかなるさ…)という甘えの気持ちがあったことは否定出来ない。
 あまりあちこちで親切にされるので、(僕はこんなに苦労して旅をしているんだから、親切にされて当たり前なんだ)という、歪んだ意識が育ち始めていたのかもしれない。
 伊東の寺の大黒さんの言葉は、そんな僕の甘えを戒める痛烈な一撃だった。この言葉で目が覚めた僕は、以後の旅では、人の善意をあてにする意識を一切ぬぐい去ろうと努めた。




第3日 伊東〜清水 /1970.7.29(水)晴れのち雨



《境内の掃除》

 朝6時に起き、「寺の掃除をさせてください」と大黒さんに申し出る。昨夜、僕はひとり考えた。善意を期待してはいけない。少なくとも他人からは。
 僕は善意を持っているつもりだし、他人にもそれを与えてきた。だけど、それを他人に要求するのは間違っている。僕は善意を与えたい。何も期待せず、純粋に。それでけでいい。そして、他人から善意を与えられたときは、善意でお返ししよう。

「あなたがそういう気持ちなら、やっていただきましょう」と大黒さんは境内の掃除をさせてくれた。草むしり、ごみ拾い、一生懸命やりました。昨夜のお返しのつもりです。

「もうすぐお盆だけど、あなたがきれいにしてくれたから、もう境内の掃除はしなくていいわ」
「あなたがあと何年かして社会に出たとき、ここでこうして働いたこと、きっと思い出すわよ」

 そうだ、僕はきっと忘れない。

「ご苦労さま」と朝御飯をごちそうになる。またここで互いの身上話などが出る。僕は話好きだから、この種の話にはきりがない。
 出発前、境内にある木からたくさんの夏ミカンをもいでくれ、冷たい麦茶といっしょに握らせてくれる。
「気をつけてね、元気でね」
 ありがとうございます、本当に。


《旅行最初の難所》


 冷川峠はすごかった。とてもペダルを踏んで登れるような坂ではない。自転車をかつぐ感じなのだ。しかも、道の大半は未舗装の砂利道。昔の人は偉かったんだな、とつくづく思う。伊豆の踊り子は、こんな道も歩いたんだろうか…。
 麦茶とコーラと夏ミカンでがんばって、4時間でやっと頂上に到着。やれやれ、旅行第一の難所だった。これなら箱根の山のほうが楽だったかな?

 冷川から沼津までは舗装された下りの連続。富士山を真正面に見て、絶景。車輪に取りつけた距離メーターの刻むコツンコツンという音が、耳に心地よい。

 沼津から再び東海道に合流。冨士市までは一直線に見事な松林が続き、その名も「千本松原」。その数、とても千本どころじゃやない。エゾ松、トド松しか知らない僕は、そのものすごさに圧倒されてしまった。
 蒲原で岩手大の永井君という同じ自転車旅行仲間といっしょになり、今日は二人でどこかにテントを張ろうということになる。
 清水東高のグランドのバックネット下でキャンプ。夏休みのせいか、どこにも人影はない。彼に昨夜の出来事を話すと、「黙って泊めてくれるのが普通だと思うがなあ」と不思議そうに言う。それはちょっとおかしいぞ、永井君。

 空があやしくなってきて、夜にはひどい雨になった。旅行中、最初の雨。テントの中にもしみこんでくる。蚊がうるさく、蚊取り線香をたく。

●本日走行距離/92.2Km  ●走行距離合計/241.9Km


 寺の大黒さんは、旅で出会った最初の印象的な人物だった。顔だちはもうすっかり忘れてしまったが、最初に出会ったときの、すべての真実を見透かすような鋭い視線、そして打ち解けたあとの柔らかな物腰や言葉のやりとりなど、いまでもはっきり覚えている。

 暑さにも慣れて、一日の走行距離は徐々に延びてきている。こうした自転車旅行の走行距離には個人差があるが、おおむね50〜150キロの範囲だと思う。僕の最高記録は、高2のときの一日160Kmだが、距離を稼ぐこと自体、たいして自慢出来ることではない。むしろじっくり走ったほうが旅本来の意味があるように思う。

 特に峠越えで大事なのは、適度な休憩と水分、栄養の補給である。ちょっとした山登りと同じと考えたほうがいい。僕の場合、30分に一度は休憩を取る。携行品にはクッキーとかレーズン、果物を欠かさないようにした。

 旅行中の宿泊は、原則として野宿である。安あがりで場所さえあれば、どこでも泊まれるというのが最大の利点だ。だが、女性にはやはり無理かもしれない。
 当時、テントにはいまのように軽量なものがなく、僕が使ったのは「ツェルト」と呼ばれていた登山ビバーク用の簡易テントである。これには支柱がなく、自転車を支柱代わりにしてテントを上からすっぽりかぶせるというやり方だった。自転車とテントの間に出来た狭いスペースに寝るわけである。設置と片づけが簡単で、地面や施設を痛めず、自転車と荷物を雨や盗難から守ることも出来る。我ながらなかなかうまいやり方だったと思う。




第4日 清水〜磐田 /1970.7.30(木)雨



《濡れねずみで突っ走る》

 雨は降り続いている。永井君と別れ、雨の中を完全武装で出発。ポンチョにサンダル、バッグ類はすべてビニールカバーで覆う。昨夜の寝不足がたたって、走行は苦しい。
 あまりの雨のひどさに、静岡駅で休憩。海賊みたいな僕の格好を皆がジロジロ見るが、かまっちゃいられない。その格好のまま郵便局へ行き、貯金をおろす。
 雨が小降りになったので出発。焼津から東海道を左折して、御前崎へと向かう。このあたりは道の起伏は少ないが、雨が多くて路肩の地盤がゆるい。大萌海岸の絶壁はすさまじかった。

 雨が降ったり止んだりなのでポンチョをやめ、布製のウィンドヤッケを着る。磐田に弓道部の先輩の徳田さんがいるので、今日はそこにお世話になるつもり。
 あらかじめ電話して徳田さんに会ったら、びっくりしていた。無理もないね、この格好じゃ。
 徳田さんの住む社員寮の部屋に泊めてもらう。夜、誘われるままにボーリングというものを初めてやる。まさか旅行中にこんなことをやるとは思わなんだ。どういうわけか、スコア130も出る。最初にしては、かなりいいんだそう。

●本日走行距離/100.8Km  ●走行距離合計/342.7Km


 雨だなんだといいながら、一日の走行距離が初めて100Kmを突破。旅行中、これまた最初の本格的な雨である。山登りと同様に、自転車旅行での雨具は極めて重要なアイテムだ。僕の場合は上下に分かれた完全防水型のタイプと、防水スプレーを吹いた布製のウィンドヤッケの2種類を用意した。
 前者は外からの水には完璧だが、長い時間走ると内部からの汗で服はべとべとに濡れてしまう。後者のほうは雨には弱いが、汗には強い。結局、ひどい雨のときは無理して走らずにどこかに雨宿りし、軽い雨ならウィンドヤッケで走るのが得策だった。いまなら雨と汗の両方に強い新素材の雨具が出ていると思うが、事前に必ず効果を確かめたほうがいい。

 旅行中、現金は最低限にし、必要なときに必要な分だけを郵便貯金からおろすようにした。郵便局なら小さな街でもたいていは見つかるからだ。盗難や紛失に備えて通帳と印鑑(キャッシュカード)は別々に保管し、出来れば印鑑やキャッシュカードは肌身から離さないことだ。通帳の番号は手帳などに控えておくのが常識である。




第5日 磐田 /1970.7.31(金)雨



《台風で足止め》

 今日もまた雨。どうやら台風が接近しているらしい。
「無理をするな、ここで充分活力を蓄えて行け」と徳田さんがすすめてくれるので、もう一日お世話になることにする。旅行中、一番心配なのが台風だ。なにしろ、本州の奴はすごいらしいから。
 暇にまかせ、余分な荷物を小包で送り返す。少しでも軽くするためだ。洗濯もやって、食料も補給する。

 夜、徳田さんと浜名湖までドライブ。ここの砂丘の夕暮れは雄大だった。
「明日からまた出直そう」と、夕日に向かって固く決意。


 旅行中、最初の足止めだったが、たまっていた疲れをとるには、絶好の休息だったと言える。
「疲れたら休め」「雨や台風のときは無理するな」は、こうした放浪旅行での鉄則である。




第6日 磐田〜伊良湖岬 /1970.8.1(土)曇りときどき晴れ



《大福で満腹》

 お世話になった徳田さんに別れを告げ、雨のあがった道を浜松あたりまで一気に走る。潮見坂という名のきつい道をあえぎながら上る。下ってくる自転車仲間たちが、陽気に手をあげてゆく。
「がんばれよ!」

 ちきしょうめ、こっちは上りでキツいんだぞ。でも、ムスッとしているわけにもいかない。必死で笑って、必死で手を振る。頂上でかぶりついたスイカはおいしかったね。

 豊橋で距離メーターが400キロを突破。メーターの数字が100を越えるたび、ひとりで「お祝い」をする。といっても、何のことはない、何かを「食べる」のである。実にたわいない。
 大福専門店の看板のある店でふと立ち止まる。なんとなくオカシナ店なので、入ってみる。20円から100円までの大福があるというので、50円のを頼む。これがまた馬鹿でかく、全部食べるのに一苦労。人のよさそうなおばあさんが「ゆっくりしていきなさい」と、お茶などすすめてくれる。


《美しい自然の中をまっしぐら》

 今日中にフェリーで鳥羽に渡りたい。伊良湖岬を西へ西へと進む。伊良湖はいいな。まだここは汚されていないし、俗化もされていない。
 キラキラ光る海には漁船がゆったりと走り、道には真っ赤な蟹や青いバッタが走り回っている。つぶしては可哀想と、よけて走るのがまた大変。別に疲れてもいないけれど、ところどころで休んでゆく。自然がまだ生きているんだ。僕の一番好きな風景だ。

 6時15分、岬の突端に着く。しかし、フェリーの最終便はもう出たあとだった。岬のキャンプ場にテントを張る。アベックがやたら多い。僕はひとり寂しく自炊。ここの夕日も美しい。浜辺はやはり涼しい。お休み、お静かに…。

●本日走行距離/103.3Km  ●走行距離合計/446.0Km


 旅行中、同じ自転車仲間とすれ違ったら、互いに片手を上げて挨拶を交すのが礼儀である。ミツバチ族(オートバイ旅行の人々)もたいては「同志」として挨拶してくれる。山で出会った見知らぬ人と互いに挨拶を交す習慣があるのと同じで、これはいまも昔も変わらないと思う。
 平坦な道なら問題ないが、相手が上り坂でパニック状態のときは、軽く会釈するか声をかけるくらいにしておこう。

 長距離を旅するとき、どうしてもどこかでフェリーを利用することになる。旅を続けるうち、このフェリー乗り場を宿泊地にすると色々と都合がいいことに気づいた。たいては岬にあるので、朝日、夕日が大変美しい。キャンプ場が近くにあるし、たとえなくても、岸壁や待合室など、寝る場所には事欠かない。水道やトイレ、売店なども備わっていて便利なのである。

 この後、旅は伊良湖岬を渡って伊勢路へと入る。大都会を極力避け、美しい日本の海岸線を走りたいという思いが旅の当初からあった。海にこだわったのは、おそらく僕が山奥の僻地で生まれ育ったせいだと思う。いや、もしかしてただ山道を走る自信がなかっただけかな…?