親馬鹿サッカー奮戦記・第9話
 悩んだ末のクラブチーム /'98.1



部活か?クラブチームか?



 数々の思い出と記録を残した4年間の少年団活動が終わり、息子の小学校卒業のときがやってきた。ここで息子と私たち夫婦は、重大な選択を強いられた。中学校でのサッカー活動を、地元中学校での部活動にするか、それともクラブチームにおけるジュニアユース活動にするかがそれだった。
 当時、札幌には出来たばかりのジュニアユースチームが2つあり、そのどちらもが札幌選抜選手を中心に優秀な選手を集め、指導者にもそうそうたるメンバーをそろえていた。一方、中学校の部活動のほうは中1だった娘を通し、少年団での活躍の噂を聞きつけたサッカー部スポンサーの先生から、すでに勧誘の声がかかっていた。いわく、

「クラブチームは中体連にも出られないし、組織的にもまだ海のものとも山のものとも分からない。ここは全道、全国めざしてぜひ部活動のほうに入って欲しい」

 私たち親子は悩んだ。中学校の部活動は内申書にも影響することは知っていたが、指導面での環境は、クラブチームのほうがはるかにいい。しかし、経済的負担は部活動のそれに比べて、はるかに大きかった。
 問題は息子の将来にとって、サッカーがどんな位置を占めるのだろうか、ということだった。単に趣味、楽しみとしてサッカーを捕えるなら、別に無理せず、部活動を選べばいいし、より高いものを目指すなら、クラブチームが有利と思われた。

 こうした難しい場面での最終選択を、子供にまかせるか親がするかは意見が別れるところだろう。「あくまで本人の意思だ」という意見もあろうが、12歳の子供に自分の才能とか将来とかがどれほど把握出来るものなのか、私には分からない。かといって本人の意思を全く無視して、親が勝手に進路を決めてしまうのもどんなものか。
 いろいろ思い悩んだ末、結局私たち夫婦は、息子にクラブチームのセレクションを受けさせることにした。札幌のトップクラスの環境で、息子がどれだけやれるのか見てみたかった。半端な環境で「お山の大将」になるより、厳しい環境のほうが本当の意味での息子の資質の見極めが出来る、と踏んだのだ。万一セレクションに落ちた場合でも、まだ楽しみとしての部活動の場が残っている。



全員合格の奇妙なセレクション



 1991年2月。小学校卒業を間近にひかえた息子のセレクションの日がやってきた。受けるチームは練習場が比較的近く、ふたつの少年団の名門チームが指導者を出し合って作られた、新しいクラブチームである。指導者のひとりは日系ブラジル人のF氏で、あのサッカーの神様ペレも在籍していたブラジルの名門、サントスでプレーしていたという、素晴らしい経歴を持つ人だった。
(実はこれがこのチームを選択した大きな理由だった)
 息子が受けることを知り、同じ少年団から合計5名の選手がテストに望むことになった。外はまだ雪に埋もれているため、体育館での基本練習、ミニゲームなどが繰り返し行われた。私はその一部始終を見守っていたが、5年生のときの札幌選抜の試験のときと同じで、大勢の選手の中で息子の力がどれほどのものなのか、正直いってよく分からなかった。
 最後にセレクションを受けた動機を書かせる作文などもあり、やがて合格者の発表のときがやってきた。
 結論からいえば、結果は不合格者なしの全員合格だった。私も子供たちもこの結果に拍子抜けした気持ちだったが、ともかくも合格である。

 私は帰宅してからこの結果を妻と話しあったが、どうもチーム側は創成期ということで、出来るだけ多くの選手を確保し、特に経済的な面でのチーム運営の安定を計りたかった節がある。他のチームに潜在的な能力を持つ優秀な人材が流れるのを防ぎたい、という意向もあったろう。だとすれば、本格的なふるい分けはこれからだ。合格という甘い言葉に浮かれてなどいられない。



ボク、フォワードは無理だ…



 4月になり、息子は中学生になった。雪が融ける前の春休みから、体育館での厳しいトレーニングはすでに始まっていたが、外のグランドが使えるようになると、練習にも一段と熱が入ってくる。
 校区を離れての練習通いは6年生のときの区選抜ですでに経験してはいたが、本格的クラブチームでの活動は、息子も私も初めての経験だった。週に2〜3回行われる練習は、決まったグランドを持たない急造クラブチームの悲しさで、日によって毎回変わるという落ち着かないものだった。
 練習開始は全市からの選手が集まれることを考慮して5時からという遅い時間がほとんど。終わるのはあたりが暗くなる7時過ぎということが多く、練習場所が遠い場合は時間をやりくり出来る自由業の私が車で迎えにいく、という習慣がすぐに定着した。

 当時、そのチームには1〜3年生あわせて50人近くの選手がおり、ほぼ全員が区選抜以上の経歴を持つという、そうそうたる顔ぶれだった。2〜3年生を中心とするAチームはレギュラーだが、このチームのほかにB〜Dまで、ランク別に合計4つのチームがあり、レギュラー争いは熾烈だった。
 地元少年団では輝かしい経歴を持つ息子も、ここでは普通の選手。ずば抜けた資質を持つ1年生数人が、5月に催された公式戦のメンバーに選ばれ、上級生に混じって溌剌とプレーするのを応援席でくやしい思いをしながら眺めているしか術がなく、上級生のいなくなったあとのチームの中心となるであろうCチーム入りが当面の目標となった。

 こうして2カ月近くが過ぎたころ、息子はかって一度も口にしなかったことを言い始めた。

「ボク、バックスをやってみようかな…」
「えっ、バックスだって?そりゃいったいどういうことだ」

 私は驚いて息子を問い詰めた。区選抜で攻撃的MFの経験こそあるが、しょせん息子は目立ちたがり屋のフォワード人間だと私は思っていた。今でも特に子供の世界ではそういう傾向があるが、バックスは技術や身体能力の劣る者のポジションとして忌み嫌われる傾向がある。息子とてその例外ではなかった。そんな息子がよりによって、自らバックスをやりたいと言う。いったいどんな心境の変化があったのか。

「今度ポジションの希望を2つまで出さなくちゃいけないんだ。あのチームでフォワードだと、とてもレギュラーはとれそうにないよ。だから…」
「だからバックスを希望するっていうのか?」

 声が自然に尖ってくるのが自分でも分かった。レギュラー欲しさに、本意ではないバックスを希望する息子の考えがさもしく、情けなくもあったが、練習や試合での他の選手の素晴らしい技術や身体能力を目の当たりにしていた私にも、息子のせっぱ詰まった気持ちが分からぬでもない。
 それでお前はいいのか、とさらに詰問すると、出番のない控えでフォワードよりも、少しでもレギュラーになれる可能性のあるバックスがいい、と息子は固い表情で言う。やはりこのチームは息子にとって負担だったのか…、入部当初からあったそんな不安が私の胸をかすめた。
 結局私は、ここでの選択は息子にまかせることにした。はたで見ているより、グランドに立っている息子自身こそが、回りのメンバーの中での自分の位置というものをより切実に感じとっているに違いない、と思ったからだ。



左サイドバックの名手へ



 優秀な選手の中で、かってなかった大きな壁にぶつかっているらしい息子に、私はひとつのアドバイスを試みた。

「バックスをやるならセンターではなく、サイドバックはどうだ?きっとお前に向いてると思うよ」

 そのころの息子はまだ身体が小さく、センターラインでのバックスは負担が多すぎて難しいと思われた。同じバックスをやるなら、当時すでに攻撃参加のバックスとして新しい役割を与えられつつあったサイドバックがきっと息子には向いている。それに、地味なポジションで確実な仕事をすれば、レギュラーへの道はより近くなるだろう。
 息子はこの忠告を素直に聞き入れ、サイドバックを第一希望として提出した。しばらくすると息子の練習へ通う姿が、それまでよりも生き生きとし始めた。どうやら、紅白戦などでいろいろなポジションを試されるうち、息子の動きが監督の目にとまって一年生チームの左サイドバックのレギュラーポジションをもらえそうだ、という。
 正直いって私は胸をなでおろす思いだった。ポジションはどこであれ、レギュラーとそうでないのとでは、天と地の差がある。何やかや理論を並べたところで、やはりサッカーは試合に出てこその世界。ベンチを温め続ける控え暮らしは、一度は少年団でスポットライトを浴びて感激に浸った経験を持つ息子と私にとって、辛すぎた。

 私は時間を作っては迎えの時間を予定よりも早めにし、息子がチームでプレーする姿を数多く見るように努めた。メインのコーチは先に書いたように、日系ブラジル人の素晴らしい実績を持つ人だったので、その人がどのような指導をするのかもこの目で確かめたかった。
 息子はすでに名前を覚えられ、コーチはカタコトの日本語で「キクチ、イイゾ」などと声をかけている。息子を含むすべての選手の目は真剣そのものだった。その練習は、それまで私がイメージしていた練習という概念とは、かなりかけ離れたものだった。一言でいうと紅白戦がメニューの中心なのである。
 基本練習は軽いアップ程度で、30分もするとすぐに紅白戦が始まる。休憩などなく、たまに交代したものが休む程度だった。力のあるものは交代がなく、長いときは1時間近くも出ずっぱりの状態だった。
(のちにこれがブラジル流の実践的練習であることを知る)

 息子はそんな厳しい練習の中で、確かに溌剌とプレーしていた。それまで全く経験のないデフェンスも無難にこなし、奪ったボールは確実に前線へとつなぎ、味方が逆サイドから上がっているときはオーバーラップをかけて攻撃参加、とまるでサイドバックの見本を見るような動きだった。
 力のあるチームメイトにも顔を覚えられ、息子はすっかりそのチームでの位置を確保したかのように思われた。だが、少年団のころから倍近くに増えた過酷な練習量が、結果的に息子の身体と精神を窮地に追い込むことになろうとは…。



(第10話『チーム分裂の荒波』へと続く)