親馬鹿サッカー奮戦記・第10話
 チーム分裂の荒波 /'98.2



モノへのこだわり



 クラブチームでの激しい練習の日々は、かってなかった様々な試練を息子にもたらした。まだ身体が完全に大人になりきっていない13歳の少年に、そうした激しいトレーニングが果たして適切なものだったのかどうかは分からない。だが、クラブでは一介の父兄に過ぎない私が、そうしたチームの指導方針に口をはさむことなど、出来るはずもなかった。
 サッカーの知識など何もなければ、ひたすらおまかせする境地になれたに違いない。だが、わずか一年とはいえ、弱小チームをまとめあげ、それなりの成績を収めたという自負が、私の気持ちをときに苛立たせた。

 一方、息子のほうにも練習や試合とは全く質の違う悩みが新たに生まれていた。それはチームメイトの「物」に対する感覚が許せないという、簡単には解決できそうにない、根の深い問題だった。
 練習や試合の行き帰りに、飲み食いにかなりの金を使う選手がいるのだ、と息子は訴えた。そしてそんな選手は、使っているスパイク、ボール、ウェアなども、どれもがプロ顔負けの一流品。そしてそれらを息子のような持たざる者たちに対し、誇示するのだと言う。レギュラー選手に特にその傾向が強いらしかった。
 クラブチームともなれば、少年団と違ってさまざまな境遇、考え方の家庭の子供が集まってくる。それは当然なことだった。
 私はいわゆるモノへの感覚に対しては非常に頑固で、高いスパイクをはいている奴がうまいとは限らない、そんものはバーゲン品で充分だ、喉がかわけば、水を飲め、と万事がこの調子で、そんな環境で息子は育てられてきた。古い考えかもしれないが、私はサッカーとは本来、ハングリーなスポーツであると信じていた。
 冷静に判断してみて、息子の言葉の奥には、モノを充分に与えられている同じ世代の子供に対する、ある種のやっかみも含まれているように感じられた。私はふと息子がまだ小学生のときの「COOP印スパイク事件」のことを思い出していた。



スパイクがなんだ



  少年団に入って二年目の春、監督の先生の勧めもあり、私は息子に初めてスパイクを買い与えることにした。だが、スポーツ専門店に出回っている品は、どれもが5000円以上の高級品ばかり。まだ仕事が軌道に乗ったばかりの私にとって、簡単に手が出る代物ではなかった。
 たまたまたち寄った近所の生協に、メーカー品ではないが、2000円の安いスパイクが並んでいる。サイズもちょうど息子にぴったりのがあった。私は迷わずそれを買い求めた。
 息子は大喜びでさっそく練習にそれをはいてゆき、運動靴とは一味違うキックの感覚に、しばしご満悦の様子だった。
 ところがある日、練習から戻った息子がなぜかしょんぼりしている。

「おい、どうした」

 思わず私は声をかけた。すると息子は、今にも泣きだしそうな情けない顔で私に尋ねた。

「父さん、僕のスパイクって、何印なの…?」

 メーカーのことだ、と私は瞬時に判断した。買ってきたスパイクは外見こそ普通のスパイクだったが、いわゆるブランド品とは程遠い、名前など聞いたこともない弱小メーカーのバーゲン品だったのだ。私は素知らぬふりで答えた。

「そりゃお前、生協で買ってきたんだから「COOP印」に決まってるさ」

 息子はまだ納得出来ない顔で、私を問い詰めた。

「今日さ、『お前のスパイクはダサい』って、友達に馬鹿にされたんだ…」

 息子の声はいまにも消え入りそうだった。そいつはどんなスパイクをはいているんだ、と聞くと、ぴかぴかのブランド高級品なのだという。安い物しか買い与えられない息子の立場を、私は少しばかり不憫に思った。だが、同時に、持ち前の反骨心がむらむらと沸き起こっていた。

「馬鹿野郎、まだスパイクを持ってない奴だって、チームにはたくさんいるはずだ。なんだ、スパイクのメーカーくらいでめそめそするな。言われてくやしかったら、そのスパイクでお前がそいつの何倍も点を取って見返してやるんだ」

 そう息子に言い聞かせながらも、そんなまがい物しか買ってやれない自分が腹立たしく、私の胸はきりりと痛んだ。



プロになれるかも…



 この時の苦い思いは、その後息子がチームで輝かしい成績を収めることで完全に克服出来たのだが、時と場所を変えて、全く同じ問題が起きようとしていた。しかも、今度の息子の立場は、以前とは微妙に違っている。
 ここで息子に、これ以上の精神的な負い目を強いることは酷だった。自分の事業が安定し、経済的に多少は余裕が出来たせいもある。少年団のときと同じ境遇に息子を追いやることはもう出来ない。チームの指導に関われない以上、私に出来ることは精神的な支えと、金くらいのものだ…。

 私はまず、それまで私のおさがりを使わせていた古い「張り」のボールを、蹴りやすい手縫いの新品に買い換えてやった。それまでろくなものを持っていなかったウィンドブレーカーも、バーゲン品だがナイキ製の立派なものを買い与えた。湯水のように飲み食いの金を与えることはさすがに出来なかったが、試合のときなどは引け目を感じない程度のスポーツドリンクなど持たせた。
 クラブチームというものは、とにかく物入りだった。ユニフォームやジャージーもクラブのマークの入った相当高価な品が半強制的に買わされることになった。毎月数千円の会費や入会費などを合算すると、結果的にわずか数か月で数十万という金を使ったことになる。だが、これで息子のサッカーが大成すれば、こんなものは安い投資だ、と私は考えた。私は息子に賭けていた。

 あるとき、息子がうれしそうな様子で練習から戻ってきた。練習でコーチにすごくいいことを言われたのだと言う。当時の息子は、やれ練習でほめられたからといっては喜び、友達に馬鹿にされたといっては嘆くという、毎日がまさに一喜一憂を地でいくような感情の激しさだった。

「僕さ、『プロになれるかも』ってコーチに言われたんだ」
「プ、プロだとぉお?!」

 私の声は思わず裏返った。コーチとはもちろん、あのブラジルの名門サントスに所属していたこともある、日系ブラジル人のF氏のことである。私がいろいろな障害を感じながらも、息子にこのクラブチームを続けさせているのも、このF氏が指導の中心にいるからに他ならない。私は息子に事の次第を話させた。
 息子の話では、 その日はコーチと1対1で話す機会があり、そのときF氏は息子をじっとみつめ、こういったそうだ。

「今の1年生でサッカーに対する姿勢がひたむきなのは、お前とGだけだ。ほかの連中は格好にとらわれ過ぎている。サッカーが好きなんじゃなくて、ただサッカーをやる格好が好きなだけだ。 お前は本当にサッカーが好きでやっている。俺には分かる。それがサッカーをやっていくうえで、一番大切なことだ。お前には資質もある。もしかしたら、お前はプロになれるかもしれない…」

 この話を聞き、私は涙が出そうになった。F氏は息子をよく理解してくれている。おそらく彼は、買い食いやブランドに走り、それを誇示する連中を日頃から苦々しく感じていたに違いない。彼はそれをじっと見ていた。だが、そうした問題を公のものに出来なかった彼の立場もなんとなく理解出来た。
 実はF氏は、当時札幌でJFLリーグ入りをめざしていた某社会人チームに補強として兄弟でブラジルから招かれた助っ人選手だったのである。カタコトの日本語をあやつり、弟と二人で慣れぬ日本で自炊などしながらサッカーにかける姿が、NHKの特集番組で全国放送されたので、もしかしてご記憶の方もいるかもしれない。
 そんなふうに企業にやとわれた、ある意味では弱い立場の彼が、本国のブラジルに比べて格段に裕福な日本の家庭の子供のふるまいに腹がたったとして、周囲への気がねですぐに指摘できなかったのは無理ないことだったのではないか。そして、物には決して恵まれてはいないが、サッカーに対してひた向きさをまだ失っていない息子に、 同じ年頃のときの自分の姿が重なったのかもしれない。
 こうした私の身勝手な推測は別にして、そんなF氏が言った「お前はプロになれるかもしれない…」の言葉は、くじけそうになったときの私たち親子を励ます金言として、長く記憶に留まることとなった。



もうサッカーが出来ない?



 そのことがあってから、F氏の息子に対する態度はなぜか厳しさを増した。ちょっとしたミスに対してもきつい声が飛び始め、紅白戦などでもそれまでのように簡単に途中交代ということがなくなって、疲れきるまでとことん試合をやらされるのである。私は息子が本当の意味で、期待をかけられ始めていることを強く感じていた。
 いま振り返れば、このときが中学時代の息子の正念場だった。このきつい試練を乗り切れさえすれば、その向こうにはきっと輝かしいものが待っている。私はそう信じて息子を励ました。

 夏休みに入った頃、息子が突然右足の不調を訴えた。痛みで満足に歩くことさえ出来ない。悪い予感が私の背筋を走った。
 とりあえず練習を休ませ、近所にある名医で知られる整形外科へと行かせた。やきもきしながら待ち受ける私の前に、憔悴しきって戻ってきた息子は、涙を流しながらこう訴えた。

「僕、もうサッカーをやっちゃいけないんだ…、先生がそう言った」

 いきなり頭をなぐりつけられたような気持ちだった。クラブでの過酷なトレーニングは、想像以上に息子の身体をむしばんでいた。当事者ではない私でさえその言葉にうろたえたのだから、本人のショックは相当なものだったろう。
 症状は単なる肉離れで、時間をかければ直るが、息子は先天的に筋肉が弱い質で、普通の生活なら何ら問題ないが、サッカーのような激しい運動には向いてなく、無理をすれば再発を繰り返す、すぐにやめるべきだ、と医者は宣告したらしいのだ。さらに医者は追い打ちをかけるように、こう言ったという。

「別にプロになれるわけでもなし、サッカーなんてくだらないよ」

 聞いているうち、私はむらむらと腹がたってきた。重体で山小屋にかつぎこまれた遭難者に管理人が思わず(こりゃ駄目だな…)とつぶやくと、登山者はほどなく息を引き取るのだという。逆に(大丈夫だ、絶対助かる!)と声をかけ続けると、大半の登山者は命を取り止めるという。その医者は名医として知られていたが、人間としての肝心な部分が欠落しているように私には思われた。

「コーチ(F氏)に相談してみろよ」

 ふと思いついて私は言った。「プロになれるかも」と言ったF氏の言葉と、「プロになれるわけでもなし」と言い切った医者の言葉とが胸の中で重なる。もしかすると、彼なら何かいい考えがあるかもしれない…。私はワラにもすがりたい思いだった。



長いリハビリの日々



 次の練習日、相談に出かけた息子は家に戻るなり、一枚の紙切れを差し出した。「……スポーツクリニック」と聞き慣れぬ名前と住所が書いてある。聞くと、F氏やそのチームメイトがかかりつけのスポーツ専門医院だという。場所は偶然、自宅から歩いて15分ほどのところだった。私はさっそくそこに息子を行かせた。
 そこは不思議な医院だった。医院というよりも、どこかのスポーツジムのような雰囲気だった。正式な医師がいたのかさえも定かではない。とにかく、待合室はスポーツ関連の障害を持った患者でごった返しており、ようやく診察を受けた息子は、この程度なら完全に直れば、またサッカーは出来る、心配するな、と励まされ。明るい顔で帰ってきた。
 だが、私の不安がそれで完全に消えたわけではなかった。「息子は先天的に筋肉が弱い質だ」と言った例の医者の言葉がどうにも気になってならない。もしかすると、本当に息子の身体ではプロのサッカーは無理なのではあるまいか…。
 だが、悲観に暮れてはいられなかった。ともかく今は、このスポーツクリニックに賭けてみるしかない。それから息子の長い治療とリハビリが始まった。

 そこでの治療は熱い粘土のようなものと、冷水を交互に患部にあてるという変ったもので、しかもそのあと、筋肉トレーニング器械を使って、じょじょに負荷をかけてゆくものだった。治療は健康保険の対象外で、毎回5000円前後の金がまたここで消えていった。
 治療の効果か、息子の痛みはじょじょに和らいでいったが、気掛かりだったのは、せっかくつかみかけていたレギュラーポジションのことだった。息子のいない間に、誰がどんなふうに同じ場所でプレーしているのだろうか…。
 息子のあせる気持ちが私には手に取るように分かった。だが、ここであせっては元も子もない。身体を完全に治しさえすれば、必ずまたチャンスはやってくる。私はそう言って息子と自分とを励まし続けた。



チーム分裂の危機



 夏休みが始まるころ、同じ少年団からクラブに入っていた仲間から、妙な情報がもたらされた。どうもチームにもめごとが起きているらしい、というのだ。
 息子が一ヵ月近く練習に顔を出していなかったせいもあり、トラブルの詳しい経過は私には分からなかった。以前にも書いたように、そのクラブは市内の有力2チームの卒業生が集まって作られたものだった。どちらかといえば「かやの外」的な立場にあった私に入ってくる情報は、断片的なものばかりだった。

 そのうち、指導者と全父母が集まった「緊急総会」なるものが召集された。険悪な雰囲気の中で、一触即発の会議が目の前に繰り広げられた。私はそこですべてを理解した。
 簡単にいうと、2つのチームの指導者と後援会をも巻き込んだ主導権争いが問題の根だった。事態のおおよその推測はついていたものの、私は子供を全く無視した指導者と父母の醜いののしりあいに、耳をふさぎたい思いだった。
 会議は完全に膠着状態だった。もともと2つのチームは個人技と組織プレーの考え方で微妙にサッカースタイルの違いがあり、それを一緒にしようとしたところに無理がある。双方が出しあった指導者の数があまりに多すぎるということも、問題をこじれさせた要因のひとつだった。
(これはチームを二つに分けるしかない…)私は直観的にそう思った。私は遠慮がちに手をあげて発言を求めた。

「お話を伺っていると、どうも二つにチームを分けるしかないように思えるのです。いかがでしょう。戦力的にある程度均等になるように、指導者も選手も分けるってのはどうですか?」

 会場にざわめきが走る。それじゃ子供がかわいそう、などとささやく声がする。なに言ってるんだ、なんとかうまくやろうとこうして集まってるってのに…。そう言って鋭い目で私をにらむものもいた。
 私はきわめて現実主義者である。仲良くやろうなどと言っても、すでに信頼関係が壊れてしまっているもの同士が、どうして一緒にやっていけるというのか?
 多くの日本社会の会議がそうであるように、総会は問題点をさらけ出しただけで、何の結論も出ずに終わった。ところがそれから、チームは私の発言通りに音をたてて動き始めた。



退会の日



 その日以来、いろいろな父母から、多くの電話が自宅にかかり始めた。いわく「もしチームが分かれたときは、ぜひ行動を共にして欲しい…」云々。いわゆる「多数派工作」というやつである。
 私は自分の発言通りに事が運び始めたことには溜飲の下がる思いでいたものの、結局は本来の主役である子供を全く無視した論理で話をすすめようとしているこうした動きに、非常な嫌悪感を覚えた。「物に対する感覚のマヒ」「息子の筋肉には耐え難い激しいトレーニング」「こうした子供不在の身勝手な論理」それやこれやがいっしょくたになり、私の中でひとつの結論が育ち始めていた。

(今がこのチームの見切り時ではあるまいか…?)

 妻に相談してみると、私と同じ意見だった。この半年間の様々な騒動は、私と妻をボロボロにさせていた。このチームは私たちの生き方に合わない…。私たちは疲れきっていた。
 私たちは練習を休んでいる息子に、このことを伝えた。息子はしばらく考えこんでいる様子だったが、父さんと母さんがそう言うなら、やめてもいい、と答えた。少年団からいっしょにクラブに入ったIも練習についていけないのでやめるらしい、と息子はつけ加えた。
 サッカーは続ければいいさ、部活だったら、お前はまだ充分やれる。私は息子を励ますようにそう言った。
 私の唯一の気掛かりは、F氏のことだった。息子が信頼しているF氏は息子の退会を知ったら、なんと言うだろう。何より、息子の筋肉の問題さえなければ、F氏は信頼に足りうる人物だった。
 もし高校生になったとき、F氏がユースチームを作ったとしたら、またそのときにお世話になればいい。そのときには、きっとお前ももっと筋力がついているはずだ。私はそう言って自分と息子を納得させようとした。

 1991年8月。北の街にはすでに秋風が吹き始めていた。私は息子を車に載せ、チームメイトが練習している郊外のグランドへと出かけた。チームのごたごたにもかかわらず、練習は細々と続けられていた。私はグランドの外に車を止め、退会の挨拶をしてくるよう息子に促した。
 ここで私が息子を連れ、息子に代わって退会を告げるのは簡単だった。事情を話せばコーチも引き止めはしまい。「どうもお世話になりました」と一緒に頭を下げてくるべきだったかもしれない。だが、中学生ともなれば、もうそろそろ大人扱いをしてもいい時期だ。私は息子ひとりをグランドに向かわせるつもりでいた。

「一緒にいってやろうか?」

 車の中でぐずぐずしている息子に、思わず声をかけた。ここで息子が首を縦にふれば、迷わず私は息子についていっただろう。だが、息子は首を横にふって拒絶し、ひとりでグランドへと向かった。息子はもう大人の入口に足をかけていた。

 長い時間がたった。息子はうつむき加減で戻ってきた。そして「ちゃんと言ってきた」と私に告げた。言葉の最後に涙がにじんだ。
 おおよそ2ヵ月ぶりの仲間との懐かしい再会、そして突然の別れ。13歳の息子にとっては、少し辛すぎる試練だったのかもしれない。泣いている息子には、まだクラブに対する未練が残っているようにも感じられた。私には息子にかける言葉が何もなかった。

(本当にこれで良かったのか…)語り尽くされたはずの自問自答が再び湧き上がってくる。だが、(これしかなかったんだ)という声がそれを打ち消した。退会は私たち夫婦と息子にとって、せっぱ詰まったぎりぎりの選択だった。



F氏からの電話



 息子の退会が呼び水のようになり、チームには退会者が相ついだ。クラブはたちまち空中分解した。
 いわゆる「反主流派」は別のチームを作る準備を始め、「無派閥組」は退会してそれぞれの中学校の部活入り。チームに残ったのは、「主流派」だけで、結果的にチームは私が当初指摘した通りの形に落ち着いた。
 家には、以前にも増して「新チームへの参加お願い」やら「チーム残留願い」やらの電話が騒がしく舞い込んだ。だが、私たちの決心が変ることはなかった。

 ある夜、突然F氏から息子に電話がかかってきた。F氏からの直接の電話は初めてだったので、私たちはあわてふためいた。
 電話の内容は、息子への新チーム加入を促すものだった。F氏はいわゆる「反主流派」に入っていることを私は知っていた。
 話し始めるうち、またしても息子が涙声になった。(息子は両親に似て、きわめてウェットである)信頼するF氏に直接説得されるうち、自分でもどうしていいのか、分からなくなってきたようだった。そうするうち、息子は私に受話器を差し出した。

「F(選手はコーチの名を親しみを込めて呼び捨てにしていた)が父さんと直接話したいって言ってる」

 私は困惑しながらも受話器を受け取った。つたない日本語で語るF氏の声は、悲嘆に暮れていた。大人の勝手な論理で子供たちを巻き込んでしまって申し訳ない。新チームは私が責任を持って対処するので、ぜひ息子さんには参加して欲しい…。
 私はいろいろ当たりさわりのない理由を並べ、F氏の申出を断わろうとした。だが、F氏はなかなかあきらめなかった。F氏が息子に言ったという(プロになれるかもしれない…)の言葉が、再び私の胸をくすぐった。飾り気のない熱心なF氏の語り口に、固く決めたはずの気持ちが揺らいだ。
 ここで私は「それではもう少し考えさせてください」と時間を置くべきだったのかもしれない。6年以上の月日が流れても、ときどきそんな後悔が私の中を走る。だが、実際に私の口から出た言葉は一気に事に決着をつけるものだった。

「実は私、息子のいたサッカー少年団で指導をしていたんです。お気持は大変うれしいのですが、息子のことは私が一番よく知っていますから…」

 これを聞くとF氏は、分かりました、と言い、すぐに電話を切った。F氏からはもちろん、他の父母からも勧誘の電話がくることは、それから二度となかった。

 私は身勝手で理不尽な親だったのだろうか。ここはもう一度F氏に賭けてみるべきだったのかもしれない。だが、私たち夫婦にはどうしてもクラブチームというものが水に合わなかった。
 美辞麗句を並べたて、自分の行為を正当化する気持ちなど私にはさらさらない。「クラブチームで自分を試してみろ」と最終的に結論を下したのも私だし、「止める」という断を下したのも私だ。よく言われるように、子供は親を選べないものだ。口では同意してはいたが、仮に息子が心の隅で私の身勝手さを恨んでいたとしても、こんな無骨な生き方しか出来ない親を持ったと嘆くしかない。私は甘んじて息子の非難を受ける覚悟でいた。
 息子のサッカー人生における最初の試練は、こうして幕が降りようとしていた。



(第11話『なじめぬ部活動』へと続く)