親馬鹿サッカー奮戦記・第11話
 なじめぬ部活動 /'98.2



はやく部活へ



 多くの試練と教訓を残したクラブチームを息子がやめてから一ヵ月が過ぎた。私は息子がすぐにでも中学校の部活に入ってくれることを望んだ。最終的に息子も同意したとはいえ、結果的に親の意向で強引にやめさせてしまったのではないか、という後ろめたさがどうしても頭から離れない。新しい環境で気持ちを切り替え、早く息子に再スタートを切って欲しい。そんな思いが私を急き立てた。
 だが、まるでそんな私をじらすように、息子はなかなか部活に入ろうとはしなかった。クラブチームの激しいトレーニングでボロボロになっていた息子の足は、長い休養とリハビリの甲斐あってほぼ完治していた。
 夏休みも終わり、中学校のグランドでは新学期から部活動でのサッカーを続けている生徒が元気にボールを追っている。私たちの住まいはグランドに近く、仕事の行き帰りにそんな風景を見ると、それが身勝手な理屈と分かっていながらも、いつまでも行動を起こさない息子に苛立った。

 クラブチームをやめたあとの気持ちを切り替えるのに、多少の時間も必要だったろう。だが、息子が入部を躊躇している本当の理由が、私には察しがついた。
 同じ13歳のサッカー少年でありながら、少年団や区選抜の仲間には、いろいろな理由でクラブチームには行けず、やむなく部活でのサッカーを選択した者が数多くいた。そうした仲間に比べればたとえ半年とはいえ、部活ではなく、クラブチームに通わせてもらった息子のような立場は、そうでない者にとっては羨望と嫉妬の対象になるはずだった。
 チーム分裂という特殊事情とはいえ、シーズンの途中でそうした連中がどやどやと加入してきたとしたら、最初から活動している者は心中穏やかではないだろう。必然的にレギュラー争いも熾烈になる。息子は仲間をそんな立場に追いやる自分が嫌だったに違いない。彼は物事をそんなふうに捕える質だった。
 そう考えた私は苛立つ気持ちをこらえ、息子がみずから動き出すのをじっと待つことにした。繰り返しになるが、中学校に入ったら、私は息子をじょじょに一本立ちさせようと考えていた。日常生活はもちろん、サッカーに関してもそれまでのようにあれこれと細かく指示はせず、だいたいの方向だけを示唆して、あとは息子自身に判断させようとしたのだ。



息子の引け目



 9月に入り、息子はようやく行動を開始した。一緒にクラブをやめた連中と足並みをそろえ、まとまって部活のスポンサーの先生のところに挨拶に行ったらしい。なるほど、「部活動、みんなで入れば怖くない」というやつか…。
 私はようやくひと安心した気持ちになることが出来たが、息子にとっては部の中で本当の自分の居場所を確保するのは、いよいよこれからなのだった。

 北のサッカーシーズンは雪解けの4月とともに始まり、そのシーズンの小手調べとも言える春季大会、夏は中学校であれば中体連などの大きな大会、そして秋は新人戦などで締めくくられるのがひとつのパターンである。息子が加入した秋ともなれば中体連はすでに終わって3年生は引退しており、2年生を中心とした新チームが結成されていた。チームとしての形態はほぼ固まっていたといっていい。
 過去の実績が多少はあったとはいえ、途中で加入してきた者に、「さあお待ちしていました、こちらへどうぞ」などと、ポジションを用意してくれるはずもない。ましてや教育的配慮がなされる部活動の場であれば、なおさらのことである。息子にとっては、まさに一からのレギュラー争いが始まった。
 もともと息子にはチームメイトや先輩に対して引け目がある。あとで息子が打ち明けたことだが、同じ少年団出身の一学年上の先輩だった新チームのキャプテンは、息子の途中加入の噂を聞き、「あんな奴はチームにいらない。入ってくるな」と苦々しげに言ってのけたという。
 そうでなくても息子は人一倍他からの評価を気にかける質である。人づてに伝わってくるそうしたチームの中心選手の中途入部者に対する強い反発は、息子をますますチーム内で萎縮させることになった。



ベンチを暖めた新人戦



 チームとしての当面の目標は、差し迫る新人戦だった。本来、クラブチームから部活への年度途中の移籍は認められていない。だが、息子の場合はチーム分裂という特殊事情であり、スポンサーの先生が所属連盟に熱心にかけあってくれたこともあって、息子を含めた移籍の5人はなんとか秋の新人戦への登録を認められることになった。
 練習試合などで、息子は交代要員として少しずつ使ってもらってはいたが、ポジションはそれまでやっていたサイドバックではなく、中盤のオフェンシブハーフに逆戻りしていた。
 監督の方針でポジションがいろいろ変るのは止むを得ないことである。だが、1年ぶりのポジションということを割り引いてみても、息子の動きには精彩がなかった。一言で言えば、プレーに思い切りがないのだ。
(やはりあいつはチームになじんでいない…)私はそう認めざるを得なかった。

 新人戦のときがたちまちやってきた。上の娘の教科担任だったせいで、監督の先生とは顔見知りであり、私が少年団で息子を始めとする多くの選手を育てたことももちろん知っていた。だからといって私が采配や選手起用に口だしするなど出来るはずもなく、試合が始まれば人目につかない物陰から、じっと戦況を見守るしか術がなかった。
 息子はなんとか20人弱の登録メンバーに入ることは出来たが、スタメンから起用された一年生の中に息子の名前はなく、じっと途中交代の指示を待つだけの辛い身となる。
 区選抜で一緒だった仲間がすでにレギュラーを確保していたし、クラブから一緒に移籍した5人の仲間のうちの一人も、キーパーという特殊ポジションの恩恵で(当時、チームには正規のキーパーがいなかった)ほどなくレギュラーをとった。そんな中で遅れをとってしまった息子の心中はどんなものだったか。
 チームはトーナメント戦の二つを勝ち抜き、3回戦で破れたが、試合の後半になるとベンチで足踏みをしてみたり、ジャンプしたりしてデモンストレーションをする息子の思惑もむなしく、監督の先生から交代の声がかかることはついになかった。



F氏への恩返し



 秋も深まって山々にそろそろ初雪の便りが聞かれだすころ、部活から戻るなり息子が言った。

「今度の土曜日、Fのチームと練習試合があるよ!」

 心なしか、息子の顔は輝いて見える。2チームに分裂したあとのF氏のチームが、なんと息子の中学校チームに練習試合を申し込んできたというのだ。

「お前は試合に出られるのか?」

 私は少し皮肉っぽい口調で尋ねた。すると息子はそんな私のことは意に介さず、明るい顔で答えた。

「うん、1年生だけの試合もあるから、たぶんそっちには出られるよ」

 私は俄然色めきたった。上級生のいないチームなら、息子の遠慮もそれほどではないはずだ。戦力が半分に分かれたとはいえ、F氏の率いるチームが強豪であることに変りはない。そんなチーム相手にいまの息子がどんなプレーを見せるのか、私は強い関心を持った。

 試合は近くの中学校グランドで行われた。私はビデオカメラをかついで勇んで出かけた。多くのスポーツ親馬鹿がそうであるように、私は要所要所で息子のプレーをビデオで保存している。家族の記録という意味ももちろんあるが、(もしも将来息子が有名になった時のために…)という甘い思惑も心のどこかにちらついている。
 その日の息子はそれまでの不調が嘘のような素晴しい動きをみせた。F氏がわざわざ練習試合の声をかけてきたのは、息子を始めとする数か月前の教え子がその中学校チームにいたからに他ならず、久しぶりに出会ったF氏の前で、いいプレーをみせたいという息子の意気込みが、応援席でカメラを回す私にも、はっきりと伝わってきた。



必殺スルーパス



 相手チームにはもともと資質に恵まれた選手がそろっており、F氏が手塩にかけて育ててきたこともあって、早く正確なパス回しと強い個人技で圧倒しようとした。だが、個々の技術では負けていても、息子のチームには、(因縁のあるチームに負けてなるものか)という強い意気がうかがえた。
 開始10分に味方ゴール付近の長いフリーキックを柔らかいトラップでぴたりと足元に止めた息子は、振り向きざま、相手キーパー前にわずかにあるスペースに緩やかに抜けるスルーパス。あわてて飛び出したキーパーと味方選手がもつれる間に、こぼれたボールを詰めていた味方がゲット。

(うまい…)

 かってみせたことのない息子の渋いスルーパスに、私はファインダー越しに思わずうなった。
 息子の動きは奔放だった。あるときは前線で相手ボールに強いプレスをかけて奪ってみたり、あるときは味方ペナルティーエリアまで戻ってピンチを逃れ、あるときはゴール前まで走りこんで目のさめるようなジャンピングボレー、といった具合だった。
 私の頭のスクリーンに、絶好調だった少年団時代の息子の姿が鮮やかに蘇った。攻めに関する意識は好調時そままだが、守りに関する意識は少年団時代よりも格段に成長のあとが見られる。半年間のクラブチームでのバックスの経験は、息子にとって決して無駄ではなかったのだ。

 強豪相手に一歩も引かぬ展開のなか、20分に再び息子のスルーパスが炸裂する。中盤の相手ボールを激しいチェックで奪い、競り合いながら右足のアウトで再びキーパーの前のスペースに絶妙のパス。待ってましたと飛び出した味方トップが難なく決めて、2点目。相次ぐ必殺スルーパスに、私は息子がこの日、ひとつの新境地を開いたことを思い知らされた。
 それまでいろいろなサッカー専門誌を読んだり、多くの一流プレーヤーのビデオを見るなどし、息子とスペースへの効果的なパスの出し方を論じたことは確かにあった。だが、たとえ練習試合とはいえ、強豪相手の難しい局面でそれを実行出来る。私はそのとき、息子の必殺「トルネードボレー」を初めて目のあたりにしたときに似た驚きと感激にひたっていた。
 あとで聞いたことだが、別れ際F氏は息子に、

「キクチがんばってるネ。大きくなったネ」

 とやさしく声をかけてくれたそうだ。私にはこの(大きくなったネ)の言葉がことさら胸に染みた。実際、この時期に息子は急速に身長が伸び始め、F氏と別れた数か月前とは見違えるほどの背丈になっていた。だが、F氏の言葉の奥には、(身体もプレーも大きくなったネ)という思いがこもっているように感じられてならなかった。F氏の気遣いがうれしかった。



そこはシュートだろ!



 息子が中学生になって最初の冬がやってきた。冬期には来るべきシーズンに備え、トレーニングを兼ねた体育館での5人制室内サッカー大会が例年実施される。
 寒さもピークに達する1月下旬、近くの体育館でちょっとした大会が実施されることになった。しかも、学年毎に別れたトーナメント戦だという。

(息子の出番がある…)

 狭い体育館での父兄の見物は人目につきそうだったが、私たち夫婦は息子から疎んじられるのを覚悟で応援に出かけた。
 初戦の相手は中体連で何度も全国大会へ駒を進めているH中だった。たかだか15分ハーフのお遊びのような試合とはいえ、私が妻まで誘ってわざわざ出向いたわけはここにある。例によって、全国レベルの強豪相手に息子のプレーがどこまで通じるのか、自分の目で確かめたかったのだ。

 試合は一進一退だった。息子は先発でフル出場し、晩秋のあの練習試合の勢いを持続させているように思われた。そしてそのプレーは前半の終わりころに起きた。
 中盤付近でボールをキープした息子。ドリブルで切り込んだとき、一瞬シュートコースが空いた。敵のカバーもわずかに遅れている。

(打て、打て!)

 私はかってベンチで息子を指揮していたころの境地に戻って、強く心の中でそう叫んだ。
 ところが、次に息子が起こした行動は、見事に私の期待を裏切るものだった。なんと、息子は空いたコースに緩い「スルーパス」を出し、自分より体勢の悪い味方に打たせようとしたのである。
 苦しい体勢でボールを受けた味方のシュートが入るはずもなく、流れを呼び込めぬまま前半終了。後半終了間際になって相手ミドルシュートがたて続けに2本決まり、勝てたかもしれない試合をむざむざ落としてしまう。

 家に戻ってから私は強い口調で息子を問い詰めた。

「あそこはパスじゃなくて、シュートだろ」
「ええっ?僕はパスしか考えてなかったな」
「なんでもかでもスルーパスにすればいいってもんじゃない。ときには足元に出さなきゃいけないパスだってあるし、もっと大切なのは打つべきときには思い切って打つことだ。お前はちょっと頭が固すぎる…」

 息子の顔がみるみる不機嫌になる。押し黙ったまま、返事をしない。それほどきついことを言ったのかと私は一瞬たじろいだが、(これは息子への大事な忠告なんだ)という信念が、妥協を許さない。
 そんな私を避けるように、貝になったままの息子は自分の部屋へと逃げ込んだ。思い返せば、これが息子の長い反抗期の始まりだった。



(第12話『息子の反発』へと続く)