親馬鹿サッカー奮戦記・第12話
 息子の反発 /'98.3



閉ざされた心



 1992年春、息子は中学2年生になった。高校受験という大きなイベントがあるため、中学校の部活動は中体連の終わる3年生の6月で実質的に終了する。あと1年少しで中学校のサッカーは終わってしまうのだ。
 雪解けと同時に外でのトレーニングが始まり、クラブチーム途中退会というハンデを背負いながらも、息子は攻撃的MFとしてのプレーに磨きをかけようと自分なりに努力していた。だが、春季大会、中体連と公式戦の日程が進むなか、息子は登録選手には入るものの、先発出場の機会はもちろん交代出場の機会さえなく、1年生中心のB編成練習試合でうっぷんを晴らすだけの辛い日々がいつまでも続いた。

(とんだ見込み違いだ。部活に入れば息子はもっとやれるはずだった…)

 そんな身勝手な思いが私を打ちのめした。私の悩みはそのまま息子の悩みでもあった。
 監督の先生がなぜ息子を起用しないのか、私には分からなかった。キーパーとスィーパー、そして左トップは2年生だったので、「レギュラーは3年生で」という方針があったわけでもない。同じ攻撃敵MFのポジションに強力な先輩選手がいたことも理由のひとつだったのだろうが、もしかすると監督は3年生の息子に対する反発をすでに察知しており、チーム内のいらぬトラブルを避けるためにあえてベンチに座らせていたのかもしれない。

 やりきれない日々が続くなか、息子は私に対しても次第に反抗的な態度を取り始めた。たとえばテレビでサッカーの試合を見ているときなど、

「いまのは縦じゃなくって、サイドチェンジだよな」

 と私がいつもの調子でひとつのプレーにしたり顔で注文をつけると、以前なら黙ってうなずいていたのが、「いや、いまのは縦でいい」とぼそりとつぶやき返す、といった感じである。

「だからお前は伸びないんだよ」

 内心かちんとくるのをこらえつつ、努めて冗談っぽくふるまって私が言葉を返すと、「そんなんじゃないよ」と唐突に言い放つなり、ぷっと頬をふくらませて席を立つ、という具合だった。
 かって見せたことのないそうした息子のかたくなな態度に私は驚いた。たとえ人になんと言われようと、私には「あいつをここまで育てたのは俺だ」という強い自負がある。

(それなのになんだ、あいつは。こんな理不尽な態度をあいつにとられる筋合いはない、もう勝手にしろ…)

 年長者という立場も忘れ、 私は本気で腹をたてた。

 息子は14歳になったばかりで、難しい年頃に差し掛かっていた。軽く触れただけですぐにもはじけ散ってしまいそうな危なっかしく張り詰めた息子を、私は持て余した。思うようにいかないサッカーもその一因だったろう。半ば強引な形でやめさせてしまったクラブチームへの未練が、そんな反発心へと形を変えていたのかもしれない。
 軽い冗談にまで本気で強い言葉を投げ返してくる息子の態度に私は困りはて、そうした気持ちの余裕のなさが彼のサッカーをますます悪い方向に走らせているのではないかと案じた。



最悪の親子関係



 そんな小さな諍いがあると息子はしばらく私に対して口をきかず、私は私でそんな息子におもねるはずもなく、互いに石のような固い意地を張り続け、必要な用事はすべて妻を介して伝えあうという異常な親子関係に陥った。
 息子はそれまできちんとつけていたサッカーの記録をぴたりとつけなくなった。サッカーノートを開いてみても、少年団の最後の年以来、ページは空白のままだった。ベンチに入っても出番がなく、したがってゴールもアシストもないわけだから、記録の意欲をなくしてしまったのもうなずける。
  なんとか息子に立ち直って欲しい。私はそう願った。そのためにはまず試合に使ってもらうことだ。だが、相変わらず練習試合以外に出番はない。出口の見えない堂々巡りの論理だった。

 この時期の息子と私の親子関係はまさに最悪だった。サッカーはもちろん、日常生活のごく些細なことでも私と息子はことごとくぶつかりあった。それを修復する手だてが私には何も見つからなかった。
 息子はいわゆる反抗期というものに差し掛かっていた。反抗期は大人になるための儀式だ、などとどこかで読んだような気もしたが、その真っただ中に置かれた者にとっては、やり場のない苦痛が続くばかりで、儀式もなにもあったものではない。

 あるとき、上の娘が私にそっと打ち明けた。

「タクヤがさ、 父さんとのことで悩んでいるみたいよ。『私も前にそういうことあったよ』って慰めておいたんだけど…」

 わかってるさ、と私は心の中でつぶやいた。娘にまで相談を持ちかけた息子が不憫にも思え、胸が痛んだ。だが、固く心を閉ざした息子を前にすると、どうしても気持ちが尖って言葉がでない。何とかしようと思うのに、どうにもならない自分が腹だたしかった。大人げないのは俺のほうだ、と思った。



こだわりのスルーパス



 あれこれいいながらも、息子が妻にそっと渡す試合の予定表を見て、息子に見つかりにくい試合開始直後の時間を見計らって私はいそいそと見学に出かけた。出番のない公式戦はともかく、練習試合での息子がやはり気掛かりだった。監督が息子を使わない鍵がそこで見つかるかもしれない…。結局私はどうしようもないサッカー親馬鹿なのだった。
 息子の動きには精彩がなく、難しいスルーパスにどこまでもこだわっていた。1年の晩秋の練習試合で見せたパスがあまりにも鮮やかに決まったこと、そしてそれが周囲からも賞賛を受けたことが、あくまで美しい形へのこだわりに走らせているように思えた。彼にはそんな頭の固さがあった。
 だが、そうしたパスはあくまで受け手との息があってのことである。誰もいないスペースにいくらいいボールを転がしてみたところで、味方の選手が走りこんでくれなければ、結局は無駄球である。「独り合点の自己満足パス」私にはそう思えてならなかったが、そんなプレーを木陰に身を寄せて密かに見物するしかない自分の状態では、それを修正させるどころか、息子に冷静に伝えることすら出来ない。

 こうした執拗なパスへのこだわりの反動からか、息子は次第にシュートが打てなくなっていた。打つべきタイミング、打てる状態がやってきても打てないのである。このころ息子とは会話が全く跡絶えていたので確認することは出来なかったが、詰問すればおそらく彼は「打てないのではなく、打たないのだ」と言い逃れていたかもしれない。
 これは私の持論だが、サッカーとはパスをするゲームではなく、結局は点をとるゲームなのだということだ。いいパスは当然必要だが、あくまでサッカーの手段であって目的ではない。打てるときには打つ、そうした攻撃的な気持ちを失っている息子の論理は、サッカーの本道から逸脱しているように私には感じられた。監督が息子を使わないわけがなんとなく分かる気がした。



プロになれるの?



 あるとき、妻がいきなり息子にこう尋ねた。

「ねえタク、あんたって本当にプロになれるの?」

 息子は妻には心を開いていたので、こうした挑発的とも思える会話も成立する。私は素知らぬふりをしながらも聞き耳を立てた。すると息子は笑ってこう応じた。

「大丈夫だってば、まかせてよ」

 息子が本気でそう思っているのか疑問だった。そう言い切るには、かなり難しい位置に息子が立っていることを私は感じていた。

(いまのままじゃとても無理だ…)

 私は胸の内でそう息子につぶやき返した。まだ息子が小さかったころ、妻は似たような質問を私に投げかけたことがある。

「ねえ、あの子って、本当に才能があるの?」
「ああ、あるさ。たぶんあいつはすごい奴だよ」

 確信はなかったけれど、私は半分は自分に言い聞かせるようにそう答えたものだ。女親の立場として、妻は妻なりに息子の行く末を案じていた。小学校の卒業アルバムなどの「将来の夢」の欄に、息子が嬉々として「プロサッカー選手」などと書き込むのを、彼女なりの不安な思いで眺めていたに違いない。

 少年のころの夢を実現させるのは難しいことかもしれない。「夢をみろ」から、「いつまで夢みたいなことを考えてるんだ」と、いつしか言われる言葉は変ってしまう。夢を持ち続けることが難しい時代なのだ。
 息子が幼いころの夢をまだ失っていないのを、私は内心好ましく感じた。だが、息子の夢には現実とあまりにも隔たりがあり過ぎた。もっと自分を知って欲しかった。ただ漠然と夢を描いているだけでは駄目だ。



新キャプテンの選出



 中体連が終わり、3年生はチームから去っていった。夏休みが終わるとともに、2年生中心の新チームが結成された。新チームとして最初になすべきことは新キャプテンの選出である。まず引退する3年生の意見を聞き、それをもとに監督が最終決定をする、というのが 当時の監督のやり方だった。
 チームの浮沈を大きく左右するのは、なんといってもキャプテンである。技術的、戦術的な指導は監督やコーチの仕事だが、いざグランドに立って笛が鳴ってしまえば、あとはチームリーダーがゲームを引っぱっていくしかない。監督やコーチの仕事はあくまで笛が鳴る前までで、鳴ったあとはたちまち脇役になってしまうのだ。わずか2年間の指導経験だったが、私はそのことを痛感していた。
 もし息子がキャプテンになれたら、ひょっとすると一気に問題は解決するのではないか、と私は考えた。少年団時代、それまで副キャプテンという立場ではいまひとつ波に乗り切れなかった息子が、偶然転がり込んできたキャプテンという重責を与えられたとたん、まるで憑き物が落ちたような縦横無尽の活躍を見せたことが記憶の底にこびりついて離れない。
 キャプテンという重責、それこそがいまの息子を立ち直らせる何よりのカンフル剤になるはず。私はそんなふうに虫のいい論理を打ちたてた。

「副キャプテンに指名された」

 ある日、練習から戻った息子が小さくつぶやいた。その表情にはキャプテンに指名されなかった悔しさはなく、むしろ責任を背負わなかったことへの安堵感が漂っているように感じられた。私の心境は複雑だった。チーム全体としてはともかく、息子にとって副キャプテンという中途半端な立場では、何も事態は変らないように思えた。
 意外にも3年生の票は息子ともう一人の二つに割れたらしい。先輩の間でも息子がそれなりに評価されていたことを私は初めて知った。1年前、「あんな奴はいらない」と息子を疎んじたはずの元キャプテンが、「あとは頼んだぜ」とつけていた10番のゼッケンを外し、息子に託したという。
 結果的に監督が指名したキャプテンは、1年の4月から部活動を続けている実績を積んだ選手だった。監督はいろいろな意味での冒険を避け、周囲も納得出来る無難な方策をとったのだ。もしかすると息子がクラブチームという寄り道をしなければ、結果はまた違っていたかもしれない。繰り返しても仕方のない論理に、私はまだ縛られていた。



振り出しに戻った?



 新チームとしての真価が問われる新人戦のときがやってきた。3年生は引退しているので息子の中にチームへの遠慮はもう何もないはずだった。入部してからすでに1年が過ぎ、チームの雰囲気もがらりと変っている。これをきっかけに、なんとか息子に立ち直って欲しかった。
 私と息子との間には相変わらずぎくしゃくとした空気が漂っていた。息子の調子がどうなのか、チームの状態がどうなのか、はっきりとしたことは伝わってこない。私は試合を見に行くことをためらったが、いざ当日になると気がそわそわしてどうにも仕事が手につかず、結局は妻を引き連れて遠くのグランドまで出かけ、いつものように物陰からこっそりと試合の様子をうかがうことになった。

 試合は一進一退だった。両チームとも決め手がない。息子の動きもぱっとせず、相変わらず味方の反応出来ない難しいパスに明け暮れていた。
 これといった決定的な場面もないまま、試合は0:0で終わってPK戦へと突入した。応援席から息子のPK戦を眺めるのは3年振りのことだった。一度PK戦をベンチから采配した身にとって、何の手出しも出来ない外野からの見学は試合以上に辛いものがある。
 私の場合、前夜のうちにあらかじめ決めておいた選手と蹴り順に、当日の動きや勢いを見て微調整、というやり方で望む。行き当たりばったりの起用で勝てるほどPK戦は甘くない。この場面も当然、蹴る選手や順序はある程度決まっているものと思いこんでいた。
 ところが、審判に促されても、なかなか先頭のキッカーが現われない。

(もしかして、蹴り順が決まっていないのではないか…?)

 私はそんな不安に襲われた。(この予想が当たっていたことをあとで知る)センターサークルの中からおどおどした様子で現われたのは、なんと息子だった。PKは蹴る前の身のこなしや雰囲気でなんとなく決めるか外すかが見えてしまうことがある。

「こりゃ難しいかもな…」
「あの子に一番は無理よ」

 妻と私は示し合わせたようにそうつぶやいた。だが、もしもあの黄昏の猛特訓で鍛えたPKの技を息子がまだ忘れずにいてくれたなら、なんとか決められるかもしれない。そう私は考え直した。自分の勘が今度だけは外れて欲しい。祈る気持ちで勝負を見守った。
 しかし、悪い予感ほどよく当たるもの。息子の蹴ったボールはインサイドキックでコースをねらった弱々しいもので、勢いのないボールは応援席の悲鳴とため息とともに、ゴール外へと空しく転がった。うなだれてセンターに戻る息子。そんな弱気の虫はたちまち仲間にも伝染した。
 2番、3番の選手も申し合わせたように次々とゴール枠を外し、反対に相手は3人が連続して決めて、いつかの幼稚園のサッカー大会の再現ように、チームはあっけなく初戦で姿を消してしまったのだった。

(あいつのサッカーは振り出しに戻ってしまったのか?)

 目の前の無残な息子の姿が信じられなかった。悪い夢なら早くさめて欲しかった。だが、その悪夢は一向にさめる気配も見せず、翌年まで延々と私たちに試練を与え続けることになる。



(第13話『高校のサッカーはどうする?』へと続く)