親馬鹿サッカー奮戦記・第13話
 高校のサッカーはどうする? /'98.3



勝てそうで勝てない



 1993年、4月。息子は中3になった。浮上のきっかけがつかめないまま、あっという間に中学生最後のサッカーシーズンは切って落とされた。ちょうどこの年にJリーグが華々しく始まり、巷のサッカーブームは頂点に達しようとしていた。
 チームは勝てそうで勝てなかった。個々の選手の資質は確かに優れていた。息子を始めとするレギュラーの中に少年団時代の区選抜が5人いたし、全道大会ベスト8の成績を収めたときのメンバーも6人そろっていた。チームワークとか戦術面での問題がクリア出来れば、勝てないはずはなかった。
 当時の監督の先生は部活動のスポンサーの他にいろいろな学校の仕事を引き受けていて、大変忙しい人だった。勢い、毎日の練習はその日決められたメニューをキャプテンが中心になって選手だけでこなすことが多くなる。監督が現われるのは夕暮れも迫ったころで、紅白戦の笛を吹く程度か、さもなければミーティングだけで練習は終わってしまう。
 13〜15歳の少年に自主的に練習をさせるのは、おそらく至難の技だったに違いない。人それぞれに事情があり、いろいろなやり方があるが、この年代の指導はやはり監督なりコーチなりがある程度そばで見てやるべきではないかと私は思う。

「どうも僕たちだけだと、うまく練習が進められないんだ」

 そんな悩みを妻にだけそっと打ち明ける息子の姿があった。たとえ副キャプテンとはいえ、キャプテンと一緒に率先してチームをまとめなくてはいけない立場であることに変りはない。先生があまりグランドに姿をみせないことに、息子も苛立っているように見えた。
 部活動の指導者のなり手がなく、やむなく廃部に至る部がじわじわと増え始めていて、そんな話題が小さな社会問題として新聞を賑わすほどになっていた。父母としては毎日のミーティングと試合の引率をやってもらえるだけで満足すべきだったのかもしれない。補佐する先生も他におらず、もしそれが可能なことなら、私は迷わず指導者の末席に加わっていただろう。それが出来ない自分がもどかしかった。

 春季大会はリーグ戦だったが、チームは全市大会に進むべき区予選を通過することが出来なかった。どの試合もいいところまで相手を追い詰め、そしてわずかの差で最後には負けてしまう。善戦した試合でようやく引き分け、といった状態だった。
 勝てそうで勝てない理由が私には見えていた。チームにはこれといった勝ちパターンがない。チームを強くするには、「これだ」という特徴のあるパターンを作る必要がある。それまでの指導経験から私はそのことに気づいていた。もちろん、それは少年団レベルでのサッカーである。だが同じサッカーである限り、基本的な部分の考え方は子供であろうが女性であろうが変わることはないはずだ。私はそう信じていた。
 たとえば私が最初に指導した息子のチームでは、すべての局面で激しいプレスを相手にかけ、奪ったボールを中盤から前線へとすばやくボールをつないで得点するのがひとつの勝ちパターンだった。2年目に指導した6年生チームは、快速ツートップを軸にしたカウンター攻撃が売り物だったし、3年目のチームでは強いリベロが攻守の要だった。
 だが、息子のチームはどれもがそこそこ及第点だが、ずば抜けた何かがない。それが苦戦の原因に違いなかった。もちろん息子もかっての少年団時代のようなキーマンにはなり得ない。



女子サッカーの監督



 息子が卒団したあとも、私は依然として少年団の指導に関わっていた。二つ違いの次男がまだサッカー少年団に在籍していたこともある。長男のチームを輝かしい成績に導いた噂は地域や学校中に広まっていて、こと少年団に関すれば私の信用は絶大だった。
 中学校での上の息子のサッカーが思わしくなく、親子のコミュニケーションも滞っていたので、たまった憂さの数々を晴らすように、私は少年団の指導にいそしんだ。
 息子がチームにいたときのようなわけにはいかなかったが、指導した学年はそれなりの好成績をおさめ、手塩にかけて育てた選手の中から、創立十一年目にして初めて札幌選抜選手を輩出もした。

 ところが、私の気晴らしになるはずだった少年団の指導にも変化が訪れていた。息子が中3になったのと同じ年にやってきた新任の先生は、それまでのサッカー無経験の監督とは違い、サッカーの国体選抜候補選手という輝かしい実績を持つ人だった。指導者としての実績は徐々に積んではいたが、しょせん私のサッカーは手探りの素人サッカーである。本格的にサッカーを続けてきた人に対しては、心のどこかに遠慮と引け目があった。
 ある試合で新監督と隣り合せでベンチに座っていたとき、敵チームのパスがちょうどベンチの前あたりで守っていた右バックスの前に転がった。相手トップが勢いよく走り込んでくる。守っていた選手はキック力はあるが、あまり器用な子ではない。ここは大きくクリアさせるのが安全だ。私は即座に叫んだ。

「蹴れ〜!」

 そのとき、隣の新監督が同時に叫んだ。

「蹴るな〜!」

 一瞬きょとんとした顔を見せた右バックスの子。だが、足はすでにボールに大きく踏みこんでいた。結局最初の私の指示通り、ボールを大きくクリア。直後に新監督の叱咤の声。

「駄目じゃないか、いまのは蹴らずにつなぐんだよ。失敗したっていいんだ。もっとつなぐ意識を持たなくちゃ…」

 冷や汗が流れた。叱咤の声は選手と同時に、私にも向けられている。新監督の言い分はもちろん分かった。長期的な視野で選手を育てようとしているのだ。ただボカボカ蹴るのはサッカーじゃない。結果的に相手にボールを取られたって、きちんとをつなぐ意識を持つ。それがサッカーの正道である。それがおそらく、真の教育者としての姿勢なのだ。それに比べて自分はなんだ。ただ目先の勝ち負けに捕われているだけじゃないのか…。
 自嘲的な思いが私を打ちのめす。新旧二人の指導者の間に気まずい空気が流れた。自分の素人サッカーの底の浅さが暴露されたようで、やりきれなかった。

 この事件をきっかけに、私は少年団の指導の第一線を退く決意をした。指導に関わりだしてからすでに4年目に入っていたし、3人の子供たちもすでに全員卒業している。辞めるならいまだな、とぼんやり考えだした。
 ちょうどそのころ、少年団に4人いた女子団員が中心になり、女子部を作ろうか、という話が持ち上がった。女子のサッカーは連盟も分かれていて、チームも監督も別組織にしなくてはいけない。そしてその新監督候補として、私に白羽の矢が立った。
 正直に言えば、この話は渡りに舟だった。息子のサッカーの「追っかけ」もストレスがたまる一方だったし、それを解消するはずの少年団の指導も手詰まりだった。

(チームの全責任を背負わせてくれさえすれば、まだまだ自分はやれるはずだ …)

 そんなごう慢とも思える理屈を打ち立て、私はその話に乗った。

「5年でなんとか全国大会までいけるチームを作ってみますよ」

 半分冗談、半分本気でそんな話を後援会の父母と交した。ゼロからやり直し、この女子チームに自分のコーチとしてのすべてをぶつけてみようと思った。
(この願いは4年後に形を変えて叶えられた)



涙の中体連



 北の街に初夏の訪れを告げるライラックの花がいっせいに咲き始め、息子の中学生としての最後の公式戦、中体連の区予選が始まった。
 予選は近隣の区の中学校をいくつかのグループに分け、総当たりリーグ戦を行って1位チームだけが決勝トーナメントに進むことが出来る。全市大会に進むには、まずリーグ優勝しなくてはいけない。
 初戦はいつものように両チーム決め手にかける攻防が延々と続く心臓に良くない展開だった。相変わらずバックスから中盤、中盤から前線へのつながりが悪く、ボールが寸断されていた。そしていつものように終了間際に得点されて負けるという悪いパターン。
  第2戦は引き分けたが、私はその試合を見ていない。予選は忙しい日程で行われたため、さすがの私もすべての試合を見ることは出来なかった。そしてこの試合で息子は、クラブチームで痛めたあの古傷のふくろはぎを再び痛めた。

 翌日の第3戦、息子は足を引きずりながら出かけようとしている。

(その足で試合に出る気か…)

 人一倍責任感の強い息子なら、痛みをかくしてでも出場しかねない。私はそれまでのわだかまりも忘れ、玄関先の息子に思わず声をかけた。

「おい、あまり無理するなよ。お前のサッカーは今日で終わるわけじゃない。痛めたことを先生にちゃんと言えよ」
「うん」

 たとえ今日の試合を勝ったからといって、勝ち点の関係で優勝はもう難しいことは分かっていた。たぶん今日で息子の中学校でのサッカーは終わるだろう。そんな確かな予感があった。無理をするな…。私は心底息子の身体を案じていた。
 結果的に息子の中学校最後となったこの試合も、私は見届けていない。無理をすれば行けたが、正直言って見るに忍びなかった。試合から帰ってきた息子は、妙にさばさばした表情でこう語った。

「先生に足のことを言ったら、とりあえず半分だけ様子見るって言われて、我慢してやったんだけど、やっぱりハーフタイムでギブアップ。『俺はもう駄目だ、あとは頼む』って言って2年生と交代したんだ。そしたら自然に涙が出てきて、ベンチに座っている後輩とかも一緒にボロボロ泣いちゃって、ああ、これで中学校のサッカーも終わったんだな、って思えて…」

 何かといえばよく泣く男だな、と思いつつ、私は黙って息子の話にうなずいた。息子の涙に対し、「男のくせに泣くな」などとはかって一度も言ったことがない。私も男だが、感情が高ぶると自然に涙が流れる。それでいい、泣きたいときは思い切り泣け、泣いてわめいてすべてを癒せ。そう私は叫びたかった。



高校のサッカーはどうする?



 あっけなく終わってしまった中体連を最後に、息子は2年間の部活動から引退した。正確な記録が残っていないのではっきりしないが、おそらく公式戦での息子の個人成績に記すべきものは何もない。それに歩調を合わせるように、チーム成績も低迷を極めた。少年団時代とはまるで正反対の結果が私には信じ難かったが、これも事実として冷静に受け入れるしかない。
 息子は自分の進むべきサッカーの方向に悩んでいた。彼をどう導けばいいのか、私にもその方向が見えなかった。少年団のときのような点を取ることを前提としたサッカースタイルは、すでに息子に合わなくなってきている。息子は点を取ることより、パスを出すことに生きがいを感じ始めていた。それを強引に変えさせることは出来ない。すべては高校でのサッカーにかかっていた。

 夏休みが近づき、息子の受験勉強にも一段と熱が入り始めていた。学校では教師や父母を交え、進路指導が盛んに行われていた。息子の高校のサッカーをどうするのか、決断を下さなくてはいけない時期だった。

「もう一度クラブユースチームに入ってみるか?」

 私はそう水を向けた。このころ、少しずつだが息子は私に心を開き始めていた。

「クラブチームはもういい。公立高校にするよ」
「本当のことを言えよ。なんなら、私立の強いところだっていい」

 経済的な理由もあり、私も妻も息子が公立高校に進んでくれることを本音では望んでいた。そこでサッカーを続けて欲しかった。だが同時に、3年前に親の意見を強く打ち出してクラブチームを選ばせたのと同じてつを踏んではならない、とも思った。もし本当に望むなら、どこにでも行かせてやりたかった。息子はもう15歳である。自分の決断にも、それなりの覚悟はあるはずだった。

「いや、そういうところは僕には合わないと思うんだ。だからなんとか全国大会に行けそうな公立高に入りたい」

 息子はきっぱりそう言った。もちろんそれは、私たちの生き方にも叶う選択である。息子はそんな両親の生き方を察知し、彼なりの思いやりでそれに合わせようとしただけなのかもしれない。あるいは、単にクラブチームや私立の強豪でのサッカーに自信が持てなかっただけか…。
 だが、そんなことはもうどうでもよくなっていた。大事なことはこの選択が両親と息子が向かい合い、互いに納得して決めたという事実だった。



志望高の選択



 夏休みが過ぎ、高校サッカー選手権の道予選が始まった。私はビデオカメラをかつぎ、会場となる河川敷グランドに出向いて市内の公立高校が出場する試合を徹底的に撮りまくった。各々の高校のプレースタイルを調べ、息子が進むべき高校を選ぶ材料とするためである。同時に進学関係の雑誌を買い集め、受験情報の収集にも努めた。公立高と決めた以上は、なるべく多くの判断材料があったほうがいい。それくらいは親の務めだと思った。
 こうして集めた資料を何度も見、息子と二人で受験するべき高校をあれこれと吟味した結果、受験ランクや校区などの関係から最終的にS高とM高に候補を絞りこんだ。
 S高は自宅からも比較的近く、ランクも手頃だったが、チームの歴史が浅く、全道大会はその年が初出場だった。だが監督の先生が筑波大学を出たての若く、情熱あふれた先生で、将来性がありそうに思えた。

「どうだ?ここは」
「う〜ん、ちょっとね…」

 大きい展開が多いサッカースタイルがあまり好きになれない、と息子は言う。ではM高はどうか、と問うと、「ああ、ここはなかなかいいサッカーしてる」と息子はまんざらでもなさそうだった。
 ビデオで見る限り、両チームにそれほどの差はないように思えたが、S高と違ってM高にはチームとしての長い歴史と実績があった。全道大会の常連校でもあり、その年の高校選手権でも準決勝まで駒を進め、優勝した室蘭大谷高相手に一歩も譲らぬ戦いぶりで、もう少しのところまで追い詰めていた。インターハイで一度だけ全国大会に出場した経歴があり、通学距離が遠いことを割り引いても、こちらもかなり魅力的だった。
 ところが、このM高には大きな問題があった。 S高に比べると入試ランクが高く、息子の成績では合格はおぼつかないのである。
 中学校のサッカーを見てきて、私たち夫婦は息子のサッカーの将来に危惧を抱き始めている。プロはもちろん、たとえ社会人チームでもサッカーだけでやっていくのは難しいのではないか、と思い始めていた。大学受験などを考えれば、受験環境の整ったM高に行って欲しいのが正直なところだったが、問題は息子自身の意思である。

「ちょっとランクが高いけど、いまからがんばれば入れないことはないぞ」

 私たちはそう息子を励ました。受験までにはまだ半年ある。とりあえず第1志望をM高にし、S高を第2志望と決めて勉強を進めることになった。



即席家庭教師



 目標がはっきり決まったせいで、息子の行動はより具体的になっていった。勉強の合間にS高とM高を見に行き、本命のM高では校内まで見学させてもらうという念の入れようだった。グランドでサッカー部の練習を見学もし、息子の中で受験とその後の高校サッカーのイメージが次第に膨らんでいくのがはた目にも分かった。
 猛勉強のかいあって、息子の成績は徐々に伸びていった。だが、受験雑誌などで調べてみると、内申点はなんとか足りているが、素点のほうがボーダーラインすれすれである。

(このままだと危ないな…)

 私はもちろん教育のプロではないが、なんとなくそんな感じがする。それまで3人の子供たちには、塾や通信教育などは一切やらせたことがなく、そのときもすべて独学で乗り切らせるつもりでいた。これもしょせんは親の教育方針の押し付けで、勉強に不安のある息子としては迷惑千万だったろうが、サッカーチームの選択のときと同じで、これも因果な定めとあきらめてもらうしかない。

 もちろん私はただ「やれやれ」と息子の尻を叩いていたばかりではない。私には自由になる時間だけはたっぷりとあった。サッカーと同じで勉強でもおそらく息子を助けることは出来るはずだ。そう考えた私は、暇をみては息子の勉強をみてやることしした。
 30年前の記憶を振り絞り、息子と頭を突き合わせながら難解な数学の応用問題を解いてみたり、英語の単文の訳に頭をひねったりすることは、サッカーに興ずるとはまた違った刺激であり、ある種の楽しみでもあった。かってのサッカーの猛特訓のように、息子と私は「受験」という新たな目的を介して、少しずつ親子の信頼関係を取り戻しつつあった。



三者懇談



 秋も深まると志望校を絞り込む担任との話し合いが頻繁になり、11月に入ると学校と親と子供による最終志望高決定の懇談、いわゆる「三者懇談」が開かれた。家で仕事をしている関係で、3人の子供の三者懇談にはすべて私が出席している。

「希望はM高ということですが…」

 懇談の席で担任の先生はそう切り出したが、どうも歯切れが悪い。

「はい、親子でよく話し合ってそう決めました」

 きっぱりとした口調で私は言った。

「君もそれでいいんだね?」

 先生が息子に確かめる。はい、とうなずく息子。先生はパラパラと内申書をめくる。

「実はうちの学校ではM高を受けた生徒が過去にほとんどいなくて、受験データがあまりないのです。それで…」

 合否の判断はなんとも言えないが、難しいかもしれない、と先生は曖昧な口調になった。数日前に息子が学校から持ち帰った話を思い出し、私は不安に襲われた。

「今日、職員室でM先生に『お前にM高校は無理だ』って言われた」

 その日、学校から戻った息子は眉をひそめてそう言った。M先生は担任ではないが、3年生の受験指導を担当していた。どんなつもりでそんなことを言ったのかは分からない。だが、すれ違いざまにかけられたというその言葉に、息子はひどく傷ついていた。それを聞かされた私も妻も同じ気持ちだった。
 息子がボーダーラインぎりぎりなのは分かっている。だが、だからといってただでさえ不安に押しつぶされそうになっている受験生に、そんなことを軽々しく言っていいものなのか。

「やっぱりS高校にしようかな…」
「S高に行きたくなったのか?」
「………」

 息子が弱気になっているのが分かる。

「M高がいいと思うけどな、そう決めたんだろ?」
「本当は僕だってM高に行きたいよ」
「じゃあ行きたい高校を受けろよ」
「そんなこと言ったって、受けるのは僕なんだ。あんなこと言われた僕の身にもなってよ」

 息子の語気が荒くなる。こいつは楽な道を選ぼうとしているんじゃないのか…。そんな思いが不意に駆け抜ける。

「ああ、そうだ。受けるのは確かにお前だよ。でもな、M高よりも楽に入れそうなS高校に行ったとして、はたしてお前は本当に満足出来るのか?M高校が無理っていうけど、おそらくあと少しのところだ。安全ばかり考えてるより、ここは本当に行きたい高校をめざすべきだと思う。もしどうしても無理だと思ったら、願書を出したあとの変更だって出来るんだ。目標ってのは、自分の力よりちょっとだけ高い場所に置いたほうがいいんじゃないのかな」

 またこれも親の押しつけかな…。そんな自嘲的な思いが沸き上がる。だが、言うべきことはどうしても言わなくてはいけない。たとえそのことで、子供から一時的に疎んじられたとしても…。

 教室から見える木々はすっかり葉を落としている。弱い晩秋の光が広い窓から差し込んでいた。担任の先生は黙っている。要するにランクを下げろというのか。私はもう一度息子を見た。

「どうする?」

 最終的には息子にゲタを預けるつもりでいた。M高校にします、と息子は答えた。よろしくお願いします、と私が頭を下げた。これですべて決まりだった。



そして合格



 M高校めざしての息子と私との二人三脚にムチがはいった。あと3ヵ月余りで勝負が決まる。内申点にはかなり余裕があるので、ここで素点をもう少し上げることが出来れば合格圏にすべり込む。息子の前で大見得をきって人生訓などたれた手前もあり、なんとしてでも合格させてやるんだ、という気概に燃えて私も指導に励んだ。
 担任と息子とは再度の懇談があり、M高校を受けるなら滑り止めでどこかの私立高校を必ず受けるように、と強い要請が出された。そして担任の先生が紹介してくれた私立高校は特待生の推薦入学制度を設けている高校で、成績次第では学費の優遇制度があり、しかもサッカーでも全道大会の常連校という私たちにとっては願ってもない条件だった。
 2月に入ってすぐ、息子ははやばやとこの高校に合格した。合格通知書には「入学金、授業料免除」とあり、もしM高校が不合格なら、迷わずこの高校に入学することで親子の意見が一致した。こうして M高校を受けることに対する外的な障害はなにもなくなった。

 入学試験が瞬く間に過ぎ去り、合格発表の日がたちまちやってきた。ちょうど3年前のクラブチームのセレクションの日のように、緊張した面もちで私たちは発表を見に行った息子からの連絡を待った。

「受かってたよ」

 受話器の向こうの声は弾んでいた。よし、やったぞ。まるでグランドで息子が決勝ゴールを決めた場面のように、私は力をこめて叫んだ。合格は息子の勝利でもあり、同時に私の勝利でもあった。中学校の先生の一人がわざわざ発表を見にきてくれていて、「おめでとう」と声をかけられた瞬間、息子はまたしても喜びの涙にむせんだという。

 街から雪が消えようとしていた。私と息子との長い冬も終わりを告げていた。こうして息子は、彼にとって最後の勝負の場となるかもしれない高校サッカーのスタート台に、晴れて立つことが出来たのだった。



(第14話『ボランチへの挑戦』へと続く)