親馬鹿サッカー奮戦記・第14話
 ボランチへの挑戦 /'98.4



早く練習に行けよ



 1994年春、猛勉強が実ってめでたく志望高校合格を果たした息子は、中学校の卒業式をはやばやと終え、おそらく人生の中でも数少ない安らぎのときであろう、学校が変わる時期の春休みへと入った。長い受験勉強からの解放感からか、息子は友達と連れ立って毎日遊び歩いていたが、私は内心それを苦々しく感じながらも、口には出さずにいた。
 中3の6月に部活を引退してしまった息子は、実質的に半年以上もまともなトレーニングをしていない。春休みとはいえ、合格を決めていた高校ではサッカー部のトレーニングがすでに始まっているはずだった。ここは少しでも早く練習に参加し、高校でのサッカーにいいスタートダッシュをかけて欲しい。私はそんなふうに考えていた。ところが息子は、

「まだ入学していないんだから、そんなの無理だよ」

 と全く取り合おうとしない。(事情は話せば監督の先生が受け入れないはずはない)と私は思ったが、ここで無理強いさせても仕方がない。先にも書いたように、中学校に入ってからは徐々に一人立ちさせていこう、というのが少しかたくなな私の教育方針だった。さらに口出ししたくなる自分を必死でこらえ、結局放っておくことにした。
 入学式が終わってようやく息子は活動を開始したが、いざ入部してみると私の忠告した通り、サッカー強豪中学から入学した数名がすでに春休みから練習に参加しており、結果的に息子はこうした積極的な仲間から遅れをとることになってしまったのだ。



筋トレと持久走の日々



 その高校のサッカー部の指導方針は体力トレーニングに重点を置いたもので、それまでの中学校のものとはやや趣きが違っていた。入部してしばらくの間はボールを使った基礎練習の他に、1日1時間の持久走とバーベルやダンベルによる筋力トレーニングが続けられた。試合形式の練習の方がおもしろいには違いなかったろうが、考え方を変えれば、基礎体力に欠ける息子にとってはうってつけの練習といえた。
 だがこうした場合、例外の選手というものが必ずいるものだ。はやばやと春休みから練習に参加していた数人の1年生は、他の多くの1年生とは別メニューで上級生に混じって紅白戦に加わっていた。そして5月に行われた春季大会では、その数名だけが控え選手ながらも、先輩に混じってベンチ入りを許された。
 他の1年生よりも早く部に参加したという積極性が監督に買われたのか、それとも実力の差があったのか、本当のところは分からない。中学生のときのクラブチームで、同じように数名の同級生に先を越されたときのように、息子は寂しくそれを横目で見る身となる。先の読みや積極性に欠けたまま漫然と時を過ごし、結果的に先を越されて悔いを残すことになった息子が、私には歯がゆくてならなかった。

(俺が若い頃はあんなじゃなかった。あいつには俺のDNAが受け継がれているはずなのに…)

 そんなありがちな父親の論理に私はしばられた。本当は私だって似たようなものだったかもしれない。新しい環境に飛び込むのは誰にだってある種の怖れが伴うものだ。だが仮にもプロをめざすのなら、最終的な差はそうした場面での物おじしない心意気にあるのではないのか。
「僕、知らない人とサッカーなんかしたくない」と泣いて訴えた幼い日の息子の姿が浮かんだ。人間、根っこの部分でそう簡単に変わることは出来ないのだ。そんなあきらめにも似た思いが私を寂しく包んだ。



ボランチへの挑戦



 地道なトレーニングが続けられるなか、息子の出番のないままにインターハイが終わって3年生は引退し、やがて夏がやってきた。一時は遅れをとっていた息子も、元来持っている柔らかい身のこなしが監督の先生の眼にとまり、紅白戦や練習試合で少しずつ使われ始めていた。
 岩内町での長い合宿のあと、夏休み中に実施された市民大会で息子は登録選手に選ばれ、初めて公式戦に出る機会を与えられた。
 市民大会なので当然相手は札幌市内の高校だけが相手だ。だから多くのチームはこの大会にそれほどの力は入れてこない。だが、秋の高校選手権予選に向けて新戦力がどれくらい通用するのか試すという別の重要な意味がこの大会にはあった。すでに監督の信頼を得ている選手はともかく、まだ何の実績もない息子のような立場の者にとっては、自分をアピールする絶好のチャンスなのだった。

 最初の試合は平日だったが、私は久々にビデオをかついで試合会場の河川敷グランドに出かけた。息子からの情報で、どうやら紅白戦での使われ方からみてスタメンは間違いない、と聞いていたからだ。
 グランドに並んだ先発11人のうち、半分は1年生で、あきらかにこの大会がテストマッチであることを示していた。予告通り、 息子の顔もその中にあった。
 息子のポジションはボランチ。(デフェンシブハーフ、つまり守備的MF)まだボランチという言葉が使われ始めたばかりの頃で、当時の監督の構想にボランチを二人置くいわゆる「ダブルボランチ」があり、その候補の一人として中学校時代のクラブチームでサイドバックの経験がある息子が指名されたようだ。
「ボランチ」とは、ポルトガル語で「ハンドル、かじ取り」を意味する。原則的に特定のマークを持たず、中盤の底(後方)で敵のラストパスやそれにつながるパスをカットしたり、味方が中盤でボールを奪われたときにスペースをカバーしたりする守備的な役割と、カットした敵のボールや味方バックスからのボールを前線へと効果的につなぐ攻撃の起点としての役割の両方をこなさなくてはいけない。
 当時日本代表だった森保選手(現、京都パープルサンガ)がオフト監督の指揮下でこなしていたポジションで、同じ守備的な役割でも最終ラインのデフェンダーと違い、重心が高く、競り合いにやや弱い息子にもなんとか務まりそうな予感はあった。何より、たとえ試験的にでもスタメンで使ってくれるということは、息子に何かしらの取り柄があるからに他ならない。

(何とか結果を出してくれ)

 ここでいい動きを見せて春休みの出遅れを一気に取り戻して欲しい。祈る気持ちでキックオフを待った。



スタミナが足りない?



 試合が始まった。息子のいるM高校の試合を目の前で見るのは初めてのことである。今年のチームには2年生に素晴らしいセンスの選手がいると息子から聞いていた。ポジション取りのいい攻撃的MFの選手がそれらしく、この選手を起点としてチームの攻撃が組み立てられているようだった。
 息子は慣れぬポジションに戸惑いながらも、懸命に自分の役目を果たそうとしていた。だが、攻撃につながるパスはともかく、守備にまわったときの味方のフォロー、相手の攻撃の芽をつみとるパスのカットなどはお世辞にもいい動きとは言えない。もうひとりのボランチとポジションが重なることも多く、息が合っていない。チームメイトからもときおり叱咤の声がかかっていた。
 それでも息子は前後半をフル出場した。おそらく長い時間の動きを見てみたいという監督の意向があったのだろう。後半になると動きはさらに悪くなった。守りにはいったとき、サイドに出来たスペースをつぶす動きが出来ていない。スタミナがないせいかな、と私は思った。それとも疲労が足に溜まっているのか。
 中学のときのクラブチームで息子が足を痛めたとき、「先天的に筋肉が弱い質だ」と言い切った医者の言葉がよぎる。運動量が足りないのはそのせいなのか…。不安が再び黒い雲のように沸き上がった。ボランチは中盤の底を自由奔放に動き回るスタミナが要求されるタフでハードなポジションである。動けない選手では務まるはずもない。

(このポジションはいまの息子にはちょっときつい)

 私はそう認めざるを得なかった。



サバイバルゲーム



 息子のM高校は結局60校中のベスト8まで勝ち進み、準決勝で破れたが、初戦以後の息子の出番は大幅に減り、出たり出なかったりの状態だった。試合日程が詰まっていたこともあったろう。色々な選手を試したい、という監督の思惑もあったに違いない。だが、一部の1年生は試合にフル出場し、PK戦でさえもちゃんと蹴らせてもらっていたから、息子が 監督の信頼を得たとはとても言い難い状況だった。
 この頃のチーム内の選手間のポジション争いにはすさまじいものがあったらしい。3年生は引退してしまっているので、実質的なチームのリーダーは2年生である。すでにレギュラーの位置を確保している4〜5名の2年生はともかく、ボーダーライン上にいる選手にとっては、レギュラーをつかむ最後のチャンスなのだった。50人近いメンバーの中で、台頭してくる1年生とこれらボーダー上の2年生との熾烈なレギュラー争いがチーム内で繰り広げられており、息子はまさにその渦中にいた。

 市民大会で監督の期待を少しばかり裏切った息子だったが、まだ未完成の素材だったこともあり、それからも何度か出場のチャンスは与えられた。ただ、ポジションはボランチばかりでなく、古巣のオフェンシブハーフを含めて、さまざまなMFの役割を試されているようだった。

「お前はチームで一番トラップがうまい」

 と、普段はあまり選手をほめない監督が皆の前で公言するほどだったというから、監督としてもいいものを持っている息子をなんとかチーム内で生かそうと考えていてくれたのだろう。



やっぱりオフェンシブハーフか?



 ポジションが固定されないまま月日は流れ、秋の高校選手権の時期がやってきた。息子はかろうじて登録メンバーに選ばれたが、スタメンに名を連ねることはもちろん、交代出場の機会さえ与えられることはなかった。良い資質の選手をそろえながらもチームは勝ちに恵まれず、夏のインターハイと同じく札幌予選であっけなく破れ去った。
 全国へとつながる高校サッカーの大きなふたつの大会予選に、一度も出場の機会を与えられなかった息子は、消化不良の気分を引きずったままシーズン最後の新人戦を迎えることになった。新人戦は全道大会どまりだが、1年生中心で望むチーム方針になっていたから、息子の出場のチャンスは多くなるはずだった。そして来年にむけて自分をアピールする最後のチャンスでもある。

 紅白戦や練習試合などでのテストマッチが続けられるなか、息子のポジションは次第にオフェンシブハーフ(攻撃的MF。「ボランチ」のように格好のいい名前がないのはなぜか?)に固定されていった。小学校、中学校を通して最も長い経験があったということもあるが、パスとシュートのセンスがそこそこにあり、ボランチと比べてそれほどの激しい運動量を要求されないこのポジションが、息子の力を最大限に生かせると監督が判断したのかもしれない。
 めでたく新人戦の登録選手に選ばれ、息子は初めて10番の背番号をもらった。伝統的に10番はチームリーダー的役割を務める選手に与えられていたから、監督の息子にかける期待の大きさがそれだけで充分想像出来た。忙しい時間をやりくりして、私は試合を見にいった。息子がスタメン起用されるのは確実だった。

 試合での息子の動きは溌溂としていた。相手ボールによくからみ、ドリブルやパスのタイミングも絶妙だった。スペースを鋭くえぐる得意のスルーパスが幾度も炸裂し、味方トップはやすやすと得点することが出来た。中学の部活では独りよがりだった難しいパスも、このチームでは反応する選手がちゃんといる。相手チームのプレッシャーがやや甘いことを割り引いてみても、その動きは充分レギュラーで通用するものと思われた。
 後半になっても息子の動きは落ちなかった。パスばかりでなく、シュートも何本か打ち、後半10分頃にはゴール前にふわりと上がった難しいタイミングのボールをぴたり足元に止め、キーパーをかわして軽々とゴールに流し込む絶妙のプレーも見せつけた。そんな自由奔放な息子の動きをグランドの金網越しに眺めながら、久しぶりに胸のすく思いが私を包んでいた。
 その日の午後の2回戦、翌日の3回戦と息子はすべてスタメンフル出場し、それまでの不振が嘘のような働き振りだった。並んで試合を観戦していた次の対戦チームの選手が、「M校の10番は要注意だな」とささやきあっているのが私の耳にも入ってきたくらいだから、その活躍ぶりが決して親馬鹿の思い込みばかりではなかったことが証明出来る。

「あいつはうまくなる。スピードがちょっと足りないが、たぶんN(引退した3年生の元キャプテンで、国体選抜選手)くらいにはなれるぞ」

 選手の評価が厳しいことで知れ渡っている鬼監督でさえ、思わずベンチでそう唸ったという。

(さあ、いよいよこれからだ。これからあいつの本当のサッカーが始まるんだ)

 長い間あたりにたちこめていた白い霧が一気晴れ、回りの景色が鮮やかに目に映る思いに私は酔っていた。息子の高校サッカーの本当の幕開けがいま始まろうとしていた。



(第15話『インターハイに咲いた華』へと続く)