親馬鹿サッカー奮戦記・第15話
 インターハイに咲いた華 /'98.5



くやし涙の春季大会



 高校サッカー最初のシーズンがまたたく間に終わり、翌1995年に息子は高校2年生になった。チームにも高校生活にも慣れ、大学受験にもまだ間があるこのシーズンが、息子にとって本当の勝負の年になる。
 前シーズンの終了間際の新人戦でいい結果を出せたことで、息子は中学校ではさんざんだった自分のサッカーに自信を取り戻しかけていた。監督の確かな信頼も勝ち得たはずである。何も障害はない。息子も私もそう信じて疑わなかった。ところが、事態は思ってもみない方向に進んだ。

 例年のように北のサッカーシーズンは春季大会とともに幕開けする。指導者にとってはそのシーズンをどう乗り切るか手探りの大会になるし、選手にとってはその年の調子を占う重要な意味を持つ。5月上旬に実施されたその大会で、息子は登録選手に選ばれ、背番号も新人戦のときと同じ10番をもらった。10番は歴代のチームリーダーから引き継がれた伝統ある番号である。実はこの10番が結果的に息子にとって重い足かせとなって働いたのだった。
 予選は4チームのリーグ戦で行われ、1位チームだけが決勝トーナメントに進むことが出来る。同じリーグには全道大会常連高のN高がいたが、大きな実力の差はなく、順調に行けば最終戦でぶつかるそのN高校との試合が事実上の決勝戦となるはずだった。当然のことだが、それまでの2試合をとりこぼすことは許されない。
 第1試合はサッカーでは無名のE高校で、力の差ははっきりしており、勝ち負けよりは最終戦にそなえて何点差で勝てるかが焦点だった。選手も監督もだれもがそう考えていた。ところがいざ蓋を開けてみると、シーズン最初の公式戦というプレッシャーからか選手の動きは固く、楽勝のはずの相手にまるでペースがつかめない。
 スタメンでボランチに起用された息子も、そんなチームを象徴するような悪い動きで、前半途中でいきなり交代させられるという、かってなかった屈辱を初めて味わった。

「お前は全然分かってない」

 新人戦では息子を絶賛した監督が、顔を強ばらせてそう言った。突然の交代に息子はわけが分からず、 鬼のような監督の顔から自分の動きが監督の意にそぐわなかったことだけは悟って、ベンチでむなしく戦況をみつめるしかなかった。試合は得失点差をつけるどころか、チームにとっては負けに等しい引分け。監督の怒りは治まらない。

 翌日の2回戦の相手も進学校として知られるA高校で、勝って当然の相手と言えた。だが、一度狂ったリズムを取り戻すのは難しく、前日に続いてまさかの引分け。対するN高は順調に勝ちを重ね、勝ち点の関係で最終戦を待たずに予選敗退が決まるという、かってない屈辱と苦境にチームは立たされていた。
 チーム不振の責任を一手に背負わされたのが息子だった。2回戦は全く出番がなく、消化試合となった最終戦も、負けが確定的となった後半なかばにお情けのように出してもらったものの、グランドに入ってわずか数分で交代させられるという、まるで人身御供のような扱いを受けた。
 さらしもののような出番に、息子のプライドはいたく傷ついた。途中出場はともかく、ボールを数タッチしただけで交代させられたことがどうしても納得出来ない。交代直後、普段あまり感情を表に出さない彼にしては珍しく、息子は監督に食ってかかった。

「どうして交代なんですか?」
「この相手はお前には無理なんだよ」

 監督は固い表情のまま、冷たく言い放った。息子の憤りは収まるどころか、この言葉でかえって増大した。

(じゃあ、最初から出さなきゃいいじゃないか…)

 そんな反抗的な言葉が喉まで出かかる。だがそれを口に出せば、息子は高校でのサッカーを捨てなくてはいけない。怒りをこらえ、慰めるように女子マネージャーが差し出したタオルをひったくると、やり場のない不満をぶつけるように、息子は汚れたタオルを地面にたたきつけた。自分が情けなくて涙がこみあげてくる。監督からは見えない物陰で、ちくしょう、ちくしょうと息子は見えない相手にむかって叫び続けた。

 10番という背番号やボランチというポジションから考えても、監督の息子に寄せた期待がいかに大きかったかが容易に推測出来る。私も息子も背番号に対しては、たいして思い入れやこだわりがなく、特定の番号で喜んでみたり、あるいは選手に思いを託したりはしない。だが、そうでない人にとって、自分のこめた期待が裏切られたときの落胆は、期待が大きかった分だけより激しいものになるに違いない。監督と息子の関係がまさにそれだった。
 任されたポジションが相性のいいオフェンシブハーフではなく、どちかといえば苦手なボランチだったことも不運だった。背番号に対する周囲の目に応えようとする気負いが空回りした面もあったに違いない。
 この試合で息子は、それまで培ってきた監督の信用を一気に失った。もしここで息子が期待通りの働きをしていれば、息子にとってその後の2年間の高校サッカーは輝かしいものになったに違いない。シーズン最初のこの春季大会は、息子にとってまさに運命の分岐点となる大会となった。



苦いベンチ



 春季大会が終わると、チームは全国大会へとつながるインターハイ(高校総体)にむけて立て直しを図った。息子は10番の背番号を取り上げられ、ポジションのボランチやオフェンシブハーフもそれぞれ同級生や将来有望と目される下級生に譲ることになった。紅白戦でももっぱら控え組に入り、じっと耐えるだけの日々が続いた。
 インターハイの札幌予選は春季大会敗退のせいでシード権が得られず、チームは苦しい立場で望むことになった。息子は登録メンバーにこそ選ばれたものの、当然のように出番はない。チームは大幅なてこ入れの成果からか、はたまた監督の危機感が選手に浸透したせいか、春季大会とはうって変わった好調ぶりで勝ち進んだ。チームを引っ張ったのは、息子の10番を引き継いだM君だった。
 M君はすでに3年生だったが、1年のころからレギュラーをつとめる実力派だった。M君にも好不調の波があり、必ずしも監督の全幅の信頼を得てはいない立場だったが、チームの窮地を救うため、監督は選手としては先の短い上級生に、もう一度賭けてみる気になったらしい。
 全道大会ではベスト4までが無条件で出場権を得る。それを決定づける準々決勝も優位にゲームを進め、勝ちが確定的となった残り10分に、監督のお情けで息子はようやくグランドに立つことが出来た。結局、予選での息子の出番はこれだけである。

 順位決定戦となった準決勝になって、私は初めて試合を見にいく気になった。監督の信頼は回復せず、息子の出番はありそうにないことは分かっていた。皮肉なことに息子が見切りをつけられてからチームは波に乗り始めたわけだから、親としても見る気が失せていた。それでも私が出かけたのは、ただ会場が近かったからだけではなく、M君のプレイをこの目で確かめたかったからだ。

「Mさんはすごい。ぼくがいままで会ったなかでは、一番すごい選手だ」

 かねてから息子はそう私に話していた。実際にどん底にあったチームを立て直す原動力になったのだから、その実力はすでに証明されたことになる。
 めぐりあわせとは皮肉なもので、準決勝の相手は春季大会で苦杯をなめたN高だった。全道大会進出はすでに決まっている。だが選手の心には春季大会でのいやなイメージが残っているのか、試合は劣勢だった。
 1:2で前半を折り返し、後半10分を過ぎても一向にペースをつかめない。ここは選手交代をして流れを呼び込むときだ。私がそう思ったちょうどそのとき、ベンチが動いた。その会場は小高い傾斜地にあり、一段高い道路縁にある応援席からはグランドやベンチの動きが手にとるように見える。

(息子の出番はないか…)

 出場は絶対ない、と言い切った息子の言葉を聞いてはいたが、いざそんな場面になるとついそんな期待を抱いてしまう。それが親というものだ。私は祈る気持ちでベンチを見守った。だがジャージ姿の息子がアップする気配はない。交代を指示されたのは息子ではなかった。私の淡い期待ははかなく消え去った。
 選手が二人変わってから、試合はがぜん優位に傾き始めた。注目のM君は左トップだったが、ポジションにこだわらない柔軟な動きでチームを引っ張っていた。あるときはドリブル、あるときはパス、あるときはシュートと変幻自在である。そのM君が自分のドルブルで作ったスペースに変わったばかりの選手がからみ、これまた変わったばかりの選手がそれを決めて同点にしてからは、試合の流れは完全にM高校のものになった。
 やがて相手ゴール前でのフリーキックのチャンスがやってきた。蹴るのはM君である。
(ここは一発ねらうかもしれない…)
 そんな私の予感通り、敵の分厚い壁を巻いて鋭いカーブを描いたボールは、ゴール右隅へと直接吸い込まれた。目の覚めるような勝ち越しゴールだ!会場が歓声とため息に包まれた。
 目の前で見せつけられたM君の勝負強さとテクニックに、私は驚いた。息子が彼を絶賛するわけが分かった気がした。これがもし息子の活躍だったなら、私はきっと有頂天になってその場で叫びだしていただろう。それが出来ない自分が少しばかり悲しかった。だが息子であろうがなかろうが、上手いものはやはり上手いのだ。ひとりのサッカー狂として、私はM君の華麗なプレイに惚れ込んだ。
 試合は終了直後に粘るN高校に再度同点に持ち込まれるも、続くPK戦を制して勝利。M君の救世主のような働きで、1カ月前には考えられなかった札幌地区2位という好成績でチームは全道大会へと勝ち進んだ。



M君からの手紙



 話が多少前後するが、ここでもう少しM君のことについて触れておかなくてはいけない。1年のシーズンオフに、息子が1通の手紙を持ち帰ったことがある。内容はサッカーに関するアンケートのような形式になっており、レポート用紙に細かい手書きの文字がびっしりと並んでいた。
 内容は、「お前はなぜサッカーをしている?」「サッカーをするためにM高校に入学したか?」といったサッカーに対する姿勢の問いから、「自分の欠点は何か?」「監督をどう思っている?」「欧州サッカーと南米サッカーとどちらが好きか?」「次の局面でお前ならどう展開するか?(イラスト図入り)」など、多岐に渡っている。

「これは監督かキャプテンが書いたのか?」
「違う。Mさんからだ」

 手紙はレギュラークラスの1年生に配られたという。返事は自由なのだと息子は付け加えた。M君はキャプテンではない。だが、書かれている内容からは明らかにリーダー役としてチームをまとめようとする意思がくみ取れる。
 手紙を通して選手の意識改革を試みているのかな、と私は想像した。だが、どちらにしてもそれは監督かキャプテンの仕事だ。2年生の一選手がやることではない。

(高校生にしてはずいぶん意識の高い選手がいるものだ)

 17歳という年に似合わぬ大人びたM君の行為に、私はすっかり感心させられていた。それまでM君のプレーを特に意識して見ることはなかったが、この手紙は私にM君を強く印象づけることになった。
 M君を信頼していた息子は、ていねいに返事を書いた。それに対してM君から再度の手紙がきて、こうした手紙を通したM君と息子との「サッカー通信添削」は、M君が卒業するまで延々と続けられた。



インターハイに咲いた華



 インターハイの札幌予選と全道大会の間には、1カ月ほどの間がある。選手登録はやり直しとなるから、息子にもまだチャンスは残されていた。なんとか監督にアピールしようと、息子はある種の開き直りの境地で練習に励んだ。そんな姿勢が良かったのか、直前の練習試合で息子は、そのシーズン初めてといっていいほど自分でも納得出来る動きが出来た。息子の動きをM君も評価してくれた。あとは監督がどう見るかだった。
 やがて発表された登録メンバーの中に、息子の名があった。背番号は9番を与えられた。問題は息子がどんな使い方をされるかである。登録メンバーに選ばれたからといって、予選のようにまるで出番がなければ意味がない。

 全道大会の会場は釧路だった。札幌から車を飛ばしても、日帰りでの見物は不可能である。息子のことが気がかりではあったが、さすがの私も仕事を長期間放り出して見物に行くわけにはいかない。確実に試合に出られるという保証もない。やきもちしながら毎日の息子の電話を待った。
 試合は一発トーナメントで、負ければハイさようならである。だが、チームは札幌予選の勢いを失ってはいなかった。1回戦、2回戦と順調に勝ち星を重ね、 息子もすべての試合に出場する機会を与えられた。試合が終わったあと、宿舎から毎晩入る息子の弾んだ声の電話が私は楽しみだった。
 息子の登場する場面は試合が膠着状態に陥った前半20分あたりか、後半15分あたりだった。ポジションはダブルボランチの片方で、どちからといえば守備よりも攻撃的な動きを要求されたようだ。おそらく息子の攻撃的なセンスを生かすべく、流れを変えたい場面でいわゆる「スーパーサブ」的な役割を期待されたのだろう。

 息子の動きは悪くなく、以前のように出されたとたんに交代ということはなかった。どうやらある程度監督の期待に応える動きはみせたようだ。攻守のかなめだったM君も絶好調で、チームは順調に勝ち進み、とうとう32チーム中ベスト4の位置まで登りつめた。インターハイの北海道枠は2チームだから、準決勝で勝てば十数年ぶりの全国大会進出である。
 その準決勝の相手は強豪の登別大谷高校だった。全国から優秀な人材を厚め、Jリーグにも多くの人材を送り込んでいる室蘭大谷高校と並ぶ北海道高校サッカー界の雄である。いくらチームが好調とはいえ、その強豪に果たして勝てるのか、まるで見当もつかない。準決勝からテレビ中継がある選手権と違って、インターハイには一切のテレビ中継がない。地元スポーツ紙が「インターハイサッカー速報サービス」なるものをやっていることを知り、1回戦が終わったあたりから試合が終わりそうな時間を見計らってこまめに電話を入れては勝敗を確かめていたが、この日ばかりはその時間が迫るとまるで仕事が手につかない。
(こんなことなら釧路まで車を飛ばせばよかった…)と悔やんだが、すでに遅い。ようやく手に入れた速報の結果は、期待もむなしく0:5の負けだった。
 前半はなんとかしのいだが、1点入ってからはじわじわとやられてしまった、やはり全国レベルは強い、と夕方入った息子の電話で試合経過を知る。だが、息子の声は決して沈んでいなかった。どん底だった自分が、あと一歩で全国へとつながるグランドに立てたという満足感に息子は浸っていた。



M君のU18日本代表入り



 好成績で終わったインターハイから2週間ほどが過ぎたとき、チームに驚くべきニュースがもたらされた。縦横無尽の動きでベスト4に貢献したあのM君の、U18日本代表入りが決定したのである。もちろんチーム始まって以来の快挙だった。
 息子からその話を聞いたとき、私は自分の耳を疑った。ついこの前、プレーを見たばかりのあのM君がいきなり日本代表だという。いったいどういうことか…?息子から詳しい話を聞いても、私はまだ半信半疑だった。ごく身近なところから、そんな全日本レベルの選手が出たこと自体がどうにもピンとこないのだ。
 詳しい事情は分からない。だが、インターハイでのM君の動きを見ていた協会関係者の強い推薦で、それは決まったらしい。少年団とはいえ、私も指導者のはしくれだったから、都道府県レベルの試合でとび抜けた働きをした選手は、協会の推薦を受けて選抜選手に抜擢されることがあることは知っていた。高校サッカーに限らず、小学生でも中学生でも女子でもそれは同じである。だが、地区選抜ならともかく、話は全国である。国体選抜の実績はもちろん、札幌選抜の経験さえM君にはない。そんな「三段飛び」のような話が現実にあるのだろうか?

 しばらくして送られてきた日本サッカー協会の公式広報誌、「J,F.Aニュース」の代表者リストの中にM君の名を見つけて初めて、ようやく私はそれを事実として受けとめることが出来たのだった。
 リストの大半は全国のサッカー有名高の選手で埋めつくされていた。北海道ではM君のほかに室蘭大谷高校の池内選手。(現、鹿島アントラーズ)他にも富山第一高の柳沢選手(現、鹿島アントラーズ)市立船橋高の北嶋選手(現、柏レイソル)など、のちにJリーガーとなって活躍するそうそうたるメンバーが並んでいる。
 こうしてM君はビッグチャンスをつかんだ。インターハイで息子が咲かせた華が小さなつぼみなら、M君のそれは輝く大輪の華である。絶好調のときに全道大会がぶつかった、という幸運もあっただろう。だが、シーズンオフにM君が自らの意思で下級生に配ったあの意識改革の手紙が、彼の日本代表入りの伏線になっているような気がしてならない。「センダンは双葉より芳し」なのである。



M君に続け



 日本代表入りに続いて、M君は国体代表にも選ばれ、新聞のスポーツ欄を大いに賑わした。日本代表としての活躍も協会広報誌から逐一伝わってくる。

「すごいなM君は。お前の言った通りだった。M高校から初のJリーガーは間違いなしだな」

 私は息子にそう語りかけた。だが、

「そうかな、そんなにすごくはないと思うけど…」

 と返事はそっけない。私は自分の思いを素直に言葉にしたつもりだったが、ひょっとして息子はそれを皮肉と受け取ったのかもしれない。そんな息子の反応に、私は息子のM君に対する密かなライバル心を感じた。息子はまだあきらめたわけではないのだ。

 この年の札幌は、まさに全日本レベルの人材の宝庫だった。春には息子が直前まで受験するかどうか迷っていたあのS高校から、同じ学年のK君がU17日本代表入りを決めていたし、秋にはDジュニアユースに所属していた2学年下のK君がU16日本代表入りを果たした。M君を含めてU16〜18のすべてのチームに代表選手がいたわけだから、その勢いのすごさがうかがえる。
 選手の多くは顔見知りかそれに近い存在だった。私も息子もはっきりとは記憶してないが、S高校のK君は少年団時代に練習試合で一度対戦しているという。DジュニアユースのK君にいたっては、自宅が同じ区にあり、少年団のころはいつも私の指導するチームと対戦していた。顔を会わせると必ずむこうから「こんにちは」と明るく声をかけてくる屈託のない少年だった。4年生のころから最強チームに入って活躍していたから、息子も公式戦で何度か対戦している。広い視野と鋭い戦術眼で、当時から指導者間では「前途有望」と目されていた。

 こうして同年代の選手が次々と全国トップレベルの結果を出しつつあった。チームとしては無理でも、個人レベルでの全国はもはや夢や幻ではなく、身近にある現実だった。
 北海道という地域ハンデはもはや通用しないと断言してよかった。「あのセレクションで落ちたから」という一発勝負での不運も言い訳にはならない。トレセン(ナショナルトレーニングセンター制度)を始めとして、協会が無名でも優秀な地方の人材の発掘に力を入れ始めていた。そんな足音が間近まで迫っていた。チャンスはどこにでも転がっており、そして誰にでもつかむことが出来た。真の実力さえあれば…。

「M君に続け!」それを合い言葉に、息子は残り少ないチャンスにわずかな望みを託そうとしていた。



(完結近し!第16話『最初で最後の高校選手権』へと続く)