親馬鹿サッカー奮戦記・第16話
 最初で最後の高校選手権 /'98.6



困惑の副キャプテン



 インターハイが終わって大半の3年生は引退し、新チームが結成された。注目の新キャプテンが発表される。キャプテンは監督の一存で指名されるのがチームの慣例だった。
 スタメンはもちろん、レギュラーさえも危ない状態だったので、息子はこうしたチームリーダーには全く縁がないものと思い込んでいた。だが、蓋を開けてみるとどういうわけか息子は副キャプテンに指名されていた。少年団でも最初は副キャプテンだったから、これで小学校、中学校と3チーム続けての副キャプテンである。
「お前はつくづく副キャプテンに縁のある奴だ」と私は思わず苦笑した。
 監督が何をどう考えて息子を指名したのか分からなかった。だが、20名以上いる2年生の中であえて副キャプテンに指名したからには、息子に期待する何かがあったのだろう。

「練習態度が真面目だからじゃないか?」

 困惑気味に首をかしげる息子に私はそう言った。監督の信用が崩れかけているのははっきりしていたし、息子がそれほど従順な選手ではないことも、先のインターハイ予選の「反抗」で立証ずみである。だとすれば残された理由はただひとつ。たとえどんな扱いを受けようとも、腐らず、一日も休まず、手を抜かず、真摯に練習に打ち込む息子のサッカーにかける姿が、監督を動かしたと判断する以外にない。
 チームをぐいぐい引っ張るリーダー性はいまひとつとしても、ジュニアユースチームにいたとき、あのF氏も認めたそんなサッカーに対するひたむきさが、おそらく3チーム続けての副キャプテンという息子のサッカー人生につながっているのだ。

(それでいいじゃないか…)

 私は自分にそう言い聞かせた。他にいったい何を望む?そんな生真面目過ぎるほどの息子のやり方は、まさに生き下手な両親譲りだ。たとえサッカーが駄目だったとしても、そうした人生にかける姿勢は、必ずいつかどこかで芽を出し、花を咲かせる。それでいいじゃないか。



監督批判



 夏が駆け足で去り、北の街に早い秋が訪れた。高校選手権の札幌地区予選が始まった。息子の調子は相変わらず上がったり下がったりでぱっとせず、予選段階では登録選手にも選ばれず、ベンチにすら座れない屈辱の日々が続いた。
 このころ、息子はそれまであまり表に出さなかった言葉を公然と口にし始めた。場当たり的な監督の起用方法に不満を持った息子の監督批判である。

「ふざけてるよ全く、ぼくのどこが悪いのか分からない。きっとぼくは嫌われ者なんだ。あんな監督の下じゃ、やってられないよ」

 息子の批判は手厳しい。思うようにいかない自分のプレーに対する不満の持っていき場が、おそらくどこにもなかったのだろう。私には息子のやりきれなさが手にとるように分かるのだった。だが、だからといって、「そうだ、そうだ」と手をたたいて息子に同調するわけにはいかなかった。
 選手に対する説明不足の感は否めないが、単なる好き嫌いだけで監督が息子を外しているわけではないことくらいは想像出来た。私も少ないながらコーチの経験があったから、監督の気持ちも多少は推測出来る。監督にアピールするずば抜けたものがない以上、反骨心の固まりのようになった息子を使う気にはなれないのだろう。
 第一、高校サッカーはまだ1年以上も残っている。ここで監督に腹をたててみても、いくらかのストレス解消になるくらいのもので、問題は少しも前に進まない。監督が代わる可能性など100%なかったし、将来のある1年生のころはともかく、2年も半ばを過ぎた息子にとって、試合に出られない高校サッカーでは意味がない。

 何とか監督の意向をくみ取り、チーム内での息子の立場が少しでもよくなるようにしてやりたいと私は考えた。だが、自分の指揮下にあった少年団時代とは違い、適切なアドバイスを与えて息子を矯正する力は、そのころの私にはもうなかった。それぞれのチームにはそれぞれのプレースタイルがあり、それぞれの監督にはそれぞれのやり方がある。それがサッカーというものだ。そのチームとその監督から逃れられない以上、あとは自分で何とかしていくしかないのだ。
 いつの間にか息子は17歳になっていた。もう親の出る幕ではない。



コーチの忠告



 息子の出番は全くなかったが、M君を中心にまとめられた予選でのチーム成績は、夏のインターハイでシード権を確保していたこともあって、順調そのものだった。3試合通しての得点は14点、逆に失点はわずか1点で、難なくグループ優勝して本大会出場を決めた。このままいけば息子の出場のチャンスはやってこないものと思われた。
 予選が終わってまもなくのころ、本来はチームの主務担当であり、普段はあまり練習に口をはさまないコーチ担当の先生が、練習に励む息子を呼び止めた。

「お前はな、ディフェンスの意識がないんだよ。だから使えないんだ」

 コーチは監督の言葉を代弁してくれていたのかもしれない。これを聞いて私は少年団時代の自分の指導を悔いた。いまではトップの選手でも前線で相手に厳しくプレスをかけるディフェンスの意識が徹底されているが、当時は私の勉強不足もあり、息子に仕込んだのは攻撃に関するプレーや戦術ばかりで、こと守りに関しては全く何もさせていないと言ってよかった。ジュニアユースチームでわずかばかりのディフェンス経験はあっても、12歳までに備わっていないものを簡単に変えるのは難しかったのだろう。

 このコーチからの何らかの取り計らいがあったのか、しばらくして息子はBチームのストッパーを命じられた。競り合いに少しでも有利にと、自主的に筋トレも始めた。
 指導者のちょっとした一言で選手は変われることがある。息子は元来暗示にかかりやすい質のようで、少しでもけなされるとしょげ返ってプレーは精彩を欠き、逆に適切なアドバイスを受けると薄皮がむけるように本来の調子を取り戻す、という具合である。それが彼の弱点でもあり、長所でもあった。
 高校に入ってからのサッカーで、極端に浮き沈みが激しくなった理由がまさにそれで、仮にそうした息子の資質を見抜き、うまくコントロール出来る指導者にめぐりあっていたなら、もっと力を発揮出来ていたかもしれない。
 ともかくも、コーチの具体的な助言によって立ち直るきっかけをつかんだ息子の動きは、レギュラークラスが相手の紅白戦でも徐々に機能しだし、息子は本選へむけてようやく確かな手ごたえをつかみ始めていた。



再現!必殺スルーパス



 9月末、北海道予選が始まった。会場は札幌から車で1時間余の夕張である。

「今回は出られるかもしれないよ、体調もいいし」

 かろうじて登録選手に滑り込んだはずなのに、息子の表情はなぜか明るい。

(自信があるんだな、こいつ…)

 その言葉を聞いて、私は試合を見に行く決心をした。試合での自分の使われ方に関する息子の「予言」は見事に当たる。自分の調子は、やはり自分が一番よく知っているのかもしれない。
 初戦は平日の水曜日だったが、仕事をなんとかやりくりし、私は渋る妻の手を引いて出かけた。高校に入ってから、妻と二人でのサッカー観戦はほとんどない。息子がいつも出られるかどうかはっきりしない宙ぶらりんの状態だったので、妻も以前ほど熱心な息子の「追っかけ」ではなくなっていた。
 それでも私が強引に妻を誘ったのは、この大会が息子の高校サッカーの見納めになるのではないか、という強い危惧があったからである。最後になるかもしれない息子の「晴れ姿」を、妻と二人で眼に焼きつけておきたかった。

 一回戦の相手は道北の稚内大谷高校だった。初出場のチームではなかったが、いわゆる常連校ではないので、これといったデータがない。そのせいか両チームとも探り合いのような試合展開で、0:0のまま前半が終わった。
 注目のM君は要のポジションであるボランチを任され、ひとり気を吐いていた。日本代表での合宿や試合を重ねたせいか、そのプレーにはある種の風格さえ感じられた。だがM君がボランチに下がると守りは安定するが、攻撃面がどうしても弱くなる。圧倒的優位で戦った札幌予選と違い、やはり地区予選を勝ち抜いてきた相手は手ごわかった。

(息子を使ってくれ…)

 祈るような気持ちで私は戦況を見守った。後半に入っても試合は膠着していた。残り時間が20分になってようやく監督がベンチから立ち上がるのが見えた。選手に指示を出している。同時に背番号7が動く。息子だ!
 インターハイ予選の準決勝を思わせる、二人同時交代だった。ここでもし流れが変われば、またまた監督采配の妙である。そうなることを祈った。

 息子のポジションは中盤あたりだったが、ここへ息子が入ったとたん、M君からのパスがずばすば通り始めた。もともと息子とM君は「サッカー通信」を通して深い信頼関係で結ばれている。おそらくM君のめざすもものと息子のめざすものとに、大きなズレがなかったのだろう。
 あるときのM君からのサッカー通信にも、

「これからのチーム作りはお前を中心にしてやる。どんな場合でも、出来る限りお前を通してから攻めようと思う。MFとして必要なことは全てお前に伝えておく」

 と熱く書かれていたし、息子が不調でグランドにいないときも、

「頼むから菊地を使って欲しい」

 と陰で訴えていたらしい。そんなM君からのパスを受けた息子が、張り切らないはずはない。大会前に公言していただけあって、息子の身体のキレも確かによかった。
 交代して5分ほどが過ぎて息子が何度目かのボールをキープしたとき、左前方にわずかなスペースが一瞬出来た。いい場所に味方も構えている。

「縦だ!」

 我を忘れて私は叫んだ。応援席は左サイドとは反対側の見晴らしのよい高台にあった、こんなところでわめいてみたところで、試合に集中している息子の耳に届くはずがない。だが、私はそうせずにはいられなかった。そして同時に息子がそのスペースに絶妙のタイミングでパスを送った。絶好調のときにしばしば見せる、「必殺スルーパス」である。
 すかさず反応する味方。飛び出すキーパー。だがボールは一瞬早くその脇をすり抜け、ゴールを割った。先制点だ!
 この一発で試合のペースは完全にM高のものになった。M君が起点となったボールを、息子がすかさず前線へと鋭くつなぐ。味方がそれを立て続けに決め、終わってみれば4:0の圧勝だった。得点はすべて息子がグランドにいた20分間に取ったものだったから、まさに救世主だった。



1年振りのスタメン起用



 翌日は雨模様の空だった。私たち夫婦はその日も勇んで出かけた。息子は夕張に泊まり込みだったので詳しい情報は入ってこなかったが、前日の働きからして、その日はスタメン起用が濃厚だった。

「俺が監督だったら、絶対に最初から使う」

 夕張に向かう車の中で、私は妻にそう言って胸を張った。短期決戦では調子のいい者、流れをつかんだ者を使うのが常套手段である。絶好調の息子を使わない手はない。

「そうだといいけど…」

 それでも不安そうな妻を、「大丈夫さ」と慰めて車を走らせた。

 会場に着くと雨は本降りになった。山あいに作られたグランドに黒い雨雲が低くたちこめていて、激しい雨足は簡単に衰えそうにない。どしゃぶりのグランドに選手が並ぶ。いた!予想通り、公式戦では1年ぶりのスタメン起用だった。
 二回戦の相手は函館ラサール高校。サッカーよりは進学校として有名だが、地区予選を僅差で勝ち上がっていて、あなどれない。前日の初戦も巧みな試合運びでしっかりモノにしていた。

 この日も息子は好調だった。グランドが池のようになってしまった悪条件の中、パスにシュートにと大活躍だった。前半15分に早々とチームが得点してからは楽な試合運びとなり、勝ちが決定的となった後半残り20分で交代となった。もともとスタミナには難があるし、スコアも 3:0で試合はほぼ決まっていたから、納得出来る交代だった。
 試合は4:0で圧勝し、チームは無失点のままベスト8に勝ち進んだ。



因縁の登別大谷戦



 翌日は秋らしくカラリと晴れ上がった。山はすでに色とりどりに染まっている。準々決勝の相手は因縁の相手、登別大谷高校である。夏のインターハイでも準決勝でぶつかってやられている。全国大会の舞台を踏むには、どうしても突き破らなくてはいけない、大きな壁のような相手だった。
 そんな強豪相手に、監督がどんな秘策で望むのか見ものだった。夏に大敗しているので、選手に変な気負いやプレッシャーはないはずだった。相手の手の内は十分知り尽くしているから、開き直りの境地で望めるその分、かえって有利と言えるかもしれない。
 仕事や家事を放り出し、私たち夫婦は3日続けて夕張へと出かけた。

「タクヤは出るかな…」

 監督の作戦がいまひとつ読み切れない。不安そうな私に対し、

「出るわよ、スタメン間違いなし」

 と今度は妻のほうがえらく強気である。だが、試合前に整列した選手の中に、息子の姿はなかった。
 それまでの2日間の働きからして、どこかで息子が使われるだろうという確信はあった。選手交代で試合の流れを一気に変えるのが監督の得意な采配であることはすでに分かっていたから、ある程度の時間まで無失点で引っ張り、息子を投入した時点で流れを呼び込む作戦かな、と私は考えた。

「どうしてタクヤが出ないのよ」

 と口をとがらせる妻をなだめつつ、グランドを見守った。

 試合はなかなか動かなかった。あとで聞いたことだが、試合前のミーティングで監督はワンツーマークを指示したという。すべての選手が特定の選手をマークし、その選手がどこに動こうと執ようについていく作戦だったらしい。相手ボールの場合はともかく、マイボールになったときには攻めにくいやり方で、個人的にはあまり好きな作戦ではない。だが、力に差のある相手に対して一泡吹かせるには、ある程度やむを得ない手段だったかもしれない。

 最初の15分はなんとかしのいだ。このまま前半を0:0で乗り切ればチャンスはある。そう思った矢先、強引とも思える個人技で右サイドが破られ、無念の失点を許す。ピンチだ、と私は思った。弱いほうのチームが先に失点してはいけない。ここは早い時間で同点にしなくては…。
 ふと見ると、息子がベンチ裏でアップを始めている。はやくも交代なのか?それにしては時間が早すぎる。だが、ほどなく息子が交代カードを予備審判に渡すのが見えた。やはり交代だった。思いがけない早い時間の失点に、監督が予定を早めたようだった。
 息子がグランドに入った直後、いきなりチャンスが訪れた。M君からの長いパスを受けた息子が、右サイドをドリブルで深く突破したのだ。

「いいぞ、菊地。いけいけ!」

 応援席の父母から歓声が上がる。息子は敵バックスを振り切って抜け出した。逆サイドには味方トップが攻め上がっている。いまだ、上げろ。
 息子の右足から絶好のセンタリングがゴール前に繰り出された。味方トップの頭にドンピシャだ。よし、もらった。かたずをのむ応援席。だが、ボールは無情にもクロスバーのわずか上をかすめた。歓声はたちまち悲鳴とため息に変わった。

 勝負に「たら」や「れば」はないと言われるが、もしもこのシュートがゴールしていたら、試合はどう転んでいたか分からない。チームはツキにも見放されていた。だが、負ける試合はたいていこんなふうに、ほんのわずかのところで幸運がするりと逃げてゆくものなのだ。
 その後、決定的なチャンスは二度と訪れず、逆に2点目を追加されてからは試合は完全に相手のものとなった。終わってみれば、0:7の大敗。インターハイよりも無残な敗戦だった。息子にとっての最初の、いや結果的に最後となってしまう高校選手権は、こうして終わりを告げた。



あとは任せたぜ



 ベスト8に終わった選手権だったが、この大会は息子に多くのものを残した。全道大会では出番が最も多かったし、M君とのコンビで多くの得点に貢献することが出来た。国体選手のひしめく強豪相手に息子のプレーが、ある程度通用することも立証された。
 あくまで非公式な情報だが、この大会の活躍で息子は一時、国体選抜の候補になったらしい。別チーム経由でそのことが知らされた。だが、監督からは何の話もなく、実際にも正式な声はかからなかった。仮に選ばれていたとしても、M君の日本代表に比べると格が下がる。それでも私たちはこの噂を素直に喜んだ。「まだまだやれるじゃないか」と思った。

 この大会を最後に3年生のM君は引退した。某Jリーグ球団からM君に勧誘の声がかかったという噂がチーム内に流れたが、それに関してM君は口を固く閉ざしていたので、真相は定かではない。
 結局M君は、関東1部リーグのK大学にスポーツ特待生としての入学を決めた。噂が本当だったなら、なぜJリーグを選択しなかったのか、私には合点がいなかった。

「上でやっていく自信がなかったんじゃないかな…」

 息子はそう言ってM君を気遣った。さすがのM君もU18日本代表では、控えに甘んじたらしい。

「トップレベルは違う。パスひとつとってみても、スピードや正確さが桁外れだ。すべてのプレーが速くて正確なんだ」

 M君はそう息子に教えた。「自分のサッカーが分からなくなった」とも打ち明けた。大学でもう一度やり直したい。おそらくそんな意向がM君の中にあったのだろう。

 卒業するM君からは1足のスパイクが息子に贈られた。在籍中に数々の輝かしい成績を残した思い出の品である。そのスパイクにこめられたM君の想いはなんだったのだろう。はたしてそれに息子は応えることが出来るのだろうか…?
 息子の高校サッカーのラストシーズンがやがて始まろうとしていた。



(感動と涙の最終話『息子の旅立ち』へと続く)