親馬鹿サッカー奮戦記・最終話
息子の旅立ち /'98.6
親に出来ること
1996年春、息子の高校サッカー最後のシーズンが始まる直前の春休みである。チームは例年この時期に、一週間ほどの日程で静岡に遠征する。本州の強豪チームと対戦して力をつけようというのがそのねらいだった。ところが、その年に限ってやっかいな問題が持ち上がった。半ば慣例化しつつあったこの遠征に対し、学校長からクレームがついたのである。
はるばる海を渡っての道外遠征は度が過ぎている。他の体育系の部はどこも道内遠征しかやっていない。公立高校である以上、サッカー部だけの特例は認められない、というのが校長の言い分だった。
たとえ鬼監督といえども、サッカーを離れれば一教師に過ぎない。サッカー部そのものが学校の管轄下に置かれている以上、校長の指示には従わざるを得なかった。この問題に関して、すぐに緊急父母総会が召集された。遠征には監督から選ばれたレギュラークラスの25人だけが参加出来る。3年生はすでに卒業しているし、新1年生はまだ入ってきていない。それでも部員の約半数は参加出来ないことになる。この時点で息子が遠征メンバーに入れるかどうかも決まっていない。だが、それでもあえて私は父母総会に参加した。
「親が熱心な選手は、使ってもらうチャンスが多いような気がする」
いつか息子がぽつりともらしたそんな言葉が、ずっと胸に引っかかっていたからである。運営面で父母の協力を得なければやっていけない少年団ならいざしらず、高校生に親の手助けはいらない、とかねてから私は考えていた。年に一度の総会は妻か私のどちらかが必ず参加していたが、代表や委員は一度も引き受けたことがないし、年に数回開催される監督との懇親会などにも参加したことがない。もう半分は大人なんだからそれでいいじゃないか、と思っていた。
しかし、自分の出番が少ないのは監督との間に確執があるからだ、と息子は信じて疑わない。親が監督と懇意でないことがその理由のひとつだとしたら、私としては放ってはおけない。いまひとつ納得は出来なかったが、監督も人間だからそんなこともあるのかな、と考え直した。総会は行き詰まっていた。「自分が中心になって遠征に行くことはもはや不可能だ」と監督は言い張る。
「遠征はどうしても必要なのでしょうか?」
父母のひとりが恐る恐る切り出した。面倒を避けて、遠征そのものをやめてしまえば問題は即座に解決する。すると監督はすぐにこう切り返した。
「今のM高校が全道大会の常連校になれたのも、数年前に全国大会に行けたのも、すべて静岡遠征の成果です。道内だけの『井の中の蛙』では、たちまち力は落ちてしまうでしょう」
総会は再び静まり返った。重苦しい空気が流れる。
「要するに、父母の責任で遠征を執り行えばいいのでしょう?」
立ち上がって私は言った。これを切り出せば、その運営委員を任されるのは目に見えている。だが、その覚悟は出来ていた。総会に出かける前に、「もしかしたら遠征の引率責任者を引き受けるかもしれないよ」と妻に言い含めてある。
「そうしていただけると非常に助かります」
父母からのそんな発言を待ちかねていたように監督が言った。その表情に安堵の色が浮かんだ。
親が子供にしてやれることは限られている。十分な金や適切な助言は無理だから、せめてこれくらいはやってやろうじゃないか。そんな開き直りである。「巣立ちを目前にした息子への最後のご奉公」という思いもあった。こんなことで息子の憂いが晴れるならお安いものだ。
私の発言をきっかけに数人の申し出があり、妻を含む3人の父母が交代で引率することを条件に、「後援会主催」という名目で遠征は予定通り実施されることになった。
寂しいインターハイ
5月、いつものようにインターハイの前哨戦ともいえる春季大会がやってきた。静岡遠征での3日間の引率責任者という、これ以上ない親の「貢献」にも関わらず、息子には相変わらず出番がなかった。息子は完全に腐っていた。技術以前に大切なメンタル面で、もはや崩れかけていた。
息子の家庭での監督批判は続いていた。親の貢献度は監督の評価に関係ないことがすでに証明されているので、矛先はもっぱら監督とのサッカー感の違いである。この時期になるとさすがの私も、たび重なる息子のばり雑言にへきえきさせられていた。自分のプレーそのものではなく、監督のやり方だけに責任をもっていこうとする息子の態度に不快を覚えた。
「何だかんだ言ったって、結局はお前に監督をねじ伏せるだけの力がないからだ」
あるとき、少しきつい調子で私がそう諭すと、息子は返す言葉もなく、ただ黙っていた。
やがてインターハイの札幌予選が始まった。息子は一回目の登録選手には選ばれず、本番3日前までに可能な登録変更でかろうじて滑り込んだが、こんな状態ではスタメンはおろか、出場そのものもおぼつかない。
それでも息子は勝ちが確定的となった一回戦後半の残り15分になって、お情けのような出場の機会を与えられた。数少ないチャンスで何とか自分をアピールしようと、息子は懸命に走り回った。だが、実はこれが息子の高校サッカーでの、最後の公式戦の舞台となってしまうのである。M君という切り札がいなくなってしまったチームは、苦戦しながらもなんとかベスト8まで勝ち進んだ。準々決勝は皮肉にも中学校のときに息子が直前まで受験を迷った、あのS高校が相手だった。勝ったほうが無条件で全道大会出場を決める大事な試合である。
「絶対出ないよ」と息子から聞いてはいたが、会場が自宅から近かったこともあって、私は試合を見に出かけた。S高校には、あのU17日本代表のK君がいる。息子と同じ年でかっては試合で対戦したこともあるK君のプレーをぜひ見たいと思った。会場についたとたん、グランドの一角に立つ高い脚立が目に入った。最上段には見覚えのある全日本代表のブルーのユニフォームに身を包んだ父兄らしき人が、誇らしげにビデオカメラを構えている。
(K君の父親だ…)
私はそう直感した。全日本代表のユニフォームなど、スポーツ店に行けばいくらでも手に入る。だが、高校サッカーの地区予選でそんなものを応援席で身につけている父兄など、普通はいない。
そっと近寄って背中の名前と背番号を確かめる。するとやはりそれは、テレビなどでも中継されていたK君のユニフォームだった。寂しいものがふっと胸をよぎった。
仮に自分の息子が同じ立場だったとしても、おそらく私なら同じようにふるまいはしないだろう。だがしょせんそれは負け惜しみというものだ。かっては同じグランドで戦い、同じ札幌で同じ学年、そしてまかり間違えば同じチームだったかもしれない選手でありながら、選ばれたものとそうでないもの。そんな無情な運命の仕打ちに、私は声もなく打ちのめされていた。
不本意な引退
インターハイ予選は結局そのS高校に延長のすえ0:2で敗れ、5位決定戦でも終了直前の失点で0:1で敗れて、チームの2年続けての全道大会の夢ははかなく消え去った。もちろん息子には全く出番がなく、スーパーサブとしての役割ももはや期待されていないように思われた。
インターハイが終わってしばらくたったとき、サッカー部の女子マネージャーのひとりが学校で息子を呼び止めた。
「菊地くん、ちょっといい?」
何事かと息子はいぶかった。無愛想な性格がわざわいして、息子はあまりもてるほうではない。艶っぽい話でないことは分かっている。
「この前の予選で、少しだけ出たよね」
「それがどうかした?」
女子マネージャーは複数いるが、彼女は同学年だったので気心は知れている。
「あのときさ、監督がベンチでちょっときついことを言ったらしいのね。直接聞いたのは私じゃなく、Uさんなんだけど」
「なんだよ、いったい」
試合では必ず二人の女子マネージャーがベンチに座ることになっている。誰かが監督のつぶやきを小耳にはさんだらしい。監督が自分をどう評価していたのか、ひどく気になった。
「菊地くんのプレーを見ながらね、『あいつはもう使えないな…』って言ってたらしいの」
「………」
「黙っていようかと思ったんだけど、やっぱり教えておいたほうがいいかなと思って。Uさんも直には言いづらかったみたいよ。だから私が…」
あまり気にしないで、と言って彼女は去った。身体の中で何かが音をたてて崩れた。
(もう俺は駄目だ…)そんな思いがぐるぐると空っぽの頭を駆け巡った。この出来事をきっかけに、息子は部からの引退を考え始めた。それまで息子は妻や私に、
「3年の選手権まではサッカーを続けるよ、このままじゃ納得出来ない」
と公言してはばからなかった。なんとか監督の信用を勝ち取ろうと、それまで息子は彼なりに努力を続けてきた。だが、いくら自分で納得のいくプレーが出来ても、監督がそれを認めてくれなければ選手はどこにも身の置き場がない。M君のようにインターハイ後もチームに留まり、もう一度秋の選手権に賭けてみたい。そんな未練は確かにあったが、もう限界だった。息子は身も心も疲れ果てていた。
尊敬するM君から息子へのサッカー通信の最後には、大きな文字でこう書かれている。
「自分でサッカーを楽しくしよう」
かっては楽しくてたまらなかったはずのサッカーが、息子は苦痛になり始めていた。そんなサッカーでこれ以上の成長は期待出来ないし、続けることにも意味がない。
(このチームではもう無理だ。大学のサッカーでやり直すしかない)
こうして息子は秋の選手権を前に、はやばやと部から去った。
3つの条件
高校に入って3度目の秋がやってきた。グランドでは選手権の晴れ舞台をめざしてチームメイトが練習に励んでいる。その年は多くの3年生が引退せずにチームに残留していた。もちろん息子の姿はその中にはない。
息子は何かに取りつかれたように勉学に励んでいた。練習がないので以前よりは身体が楽なせいもあり、就寝時間は毎晩のように真夜中過ぎだった。経済的な事情もあって、息子がめざしたのは関東近辺の私立大学ではなく、国立大学の中でも全国大会の常連である地方のK大学だった。そこで人文学の勉強を続けながらサッカーで全国のひのき舞台に立つ。それが当面の息子の夢であり、目標だった。
もし合格出来れば遠く海を渡って行かなくてはならない。だが、息子の決めたことならなんとか応援してやりたい。私はそう考えて、勉強の手助けや大学受験に関する助言など、自分の出来ることは何でもしてやろうと心がけた。だが、ここで高校受験のときと同じような問題が起きた。息子の実力ではそのK大の現役合格はかなり難しそうなのである。自分の大学受験からすでに30年近くが過ぎ去り、私自身も最近の受験事情にはまるで疎かった。数学の応用問題ならなんとか相談にのれたが、センター試験の判定がCだとか、A日程がどうとか言われてもピンとこないのである。
合格確率は50%そこそこじゃないか、と息子は自己診断する。50%では正直きつい。だが、息子の学びたいことと、サッカーで全国の舞台に立てそうなこと、そして国立大学であることの3つの条件を満足させる大学は、K大学のほかにないのである。仮に浪人するとした場合、サッカーを続ける上で長期間の中断は重いハンデになってのしかかるだろう。
「推薦入学ってのはないのか?」
一発勝負のセンター試験では学力に難のある息子に不利だ。平常点のいい息子の特質を生かすなら、推薦入学に限る、と私は考えた。たとえ名ばかりでも、副キャプテンを務めた部活動も少しは評価されるに違いない。仮に試験に失敗しても、まだ一般入試のチャンスが残っている。
「学内推薦も必要だし、推薦合格そのものが一般入試よりも難しいみたいだけど、とりあえず出してみるよ」
「それまでは定期試験も含めて、がんばらなくちゃな」
なんとか息子に滑り込んで欲しかった。
面接試験の失敗
11月上旬、学内推薦をどうにかくぐり抜けた息子は、妻が手配した往復航空券を握り締め、K市へと旅立った。
平常点(通知票の成績)の平均評定が4.0以上(5点満点)であることが、その大学の推薦入学の条件である。息子の数値は4.1でぎりぎりセーフ。推薦入試に学科試験や小論文はなく、この平均評定と部活動などの生活評価、そして面接で合否が決定される。平均評定に余裕がないので、面接試験でいかに自分をアピールするかが、合否の分かれ目になる。「なぜこの大学に入りたいか?」が面接の焦点になりそうだった。大学に限らず、会社でもタレントオーディションでも、志望動機は極めて重要である。この点に関して、息子の担任は事前にいろいろ指導をしてくれていたようだ。
息子の一番の動機はもちろんサッカーで、面接でも単純にそれで推すつもりでいた。しかし、担任は「サッカーは前面に出すな」と言う。体育系の学部ならいざ知らず、人文学部の面接で志望動機の一番がサッカーでは相手の心象を悪くする、あくまで人文学で推せ、というのが担任の主張だった。なんとか生徒を志望校にもぐり込ませようと、担任としては精いっぱいの配慮をしてくれたのだろう。だが、息子にとってサッカーを前面に出さないことは、結局自分に嘘をつくことになる。面接でこうした小手先の嘘や方便は、とても覆い隠せるものではない。
案の定、試験から戻った息子の顔色はさえなかった。
「結局サッカーの話になっちゃった」
なぜ人文学なのか?から始まり、サッカーを通した国際交流、サッカーは世界の国際共通語、と強引に話を結びつけようとしたところ、「国際交流とサッカーは関係ないでしょう」と面接官の教授らしき人から首をひねられたという。
「たぶん無理だと思う」
すっかり弱気な息子の言葉通り、数日後に届いた結果はやはり不合格だった。
K君のJリーグ入り
年の瀬が迫るころ、地元新聞のスポーツ欄に大きな見出しが踊った。…S高校のK君、道内公立校から初のJリーグ入り…
全国大会経験のない無名の公立校からのプロ入りは極めて異例、と記事にはK君を手放しで賛美する言葉が並んでいる。U17日本代表でのK君の活躍はテレビや新聞で逐一報告されており、代表でもレギュラーの座をつかんでいたから、Jリーグ入りは時間の問題と思われていた。だが、こうして現実に新聞の見出しを見せつけられると、「すごい」と素直に感嘆する思いと、「やられた」という羨望と嫉妬心とが複雑に交錯する。
「おい、K君がJリーグに入るらしいぞ」
私は息子にそう水をむけた。すると息子はそんなことをある程度予期していたのか、
「そうらしいね、でもJでやっていけるのかな」
と意外にクールな反応である。私には息子のそんな言葉が、ただの強がりにも聞こえた。息子だって本当は心の中で、歯ぎしりするようなくやしい思をしているのかもしれない。
「S校に行けばよかったと思うか?」
ふと思いついて私は息子に問うた。「あの監督とは合わない」と常日頃からもらしていた息子の言葉を不意に思い出す。学力ランクが自分に手ごろだから、という消極的な理由ながらも、一時は本人も受けるつもりでいたS高校である。余計な忠告などせず、あのまま黙ってS高校に行かせておけばよかったのか。もしも指導者が違っていたなら、高校での息子のサッカーはもっと輝いていたのではないか?もしS高校の若く、情熱あふれる監督だったならば…。
くりかえしてみても仕方のないはずのそんな悔いが胸を刺す。いや、頭の固い偏屈者の息子なら、たとえどんな指導者でも結果は同じだったのではないか。だがまて、その偏屈者の血はまぎれもなくこの私の血だ。息子の痛みは、私の痛みだ…。
「M校を選んだことに悔いはないよ」
そんな私の倒錯した思いとは裏腹、息子は意外にさばさばとした口調でそう答えた。
「M校にきたからMさんという先輩に出会えた。そしてMさんから色々なことを教わった。サッカー以外のこともね。それだけでもM校にきた価値がある。M校でよかったんだ」
息子の言葉には親である私への小さな気遣いと、自分を納得させようとする切ない思いとがにじんでいた。そうか、親子で決めたことだものな…。私は息子の言葉に救われる思いでいた。後悔ばかりしてみても、何も始まらない。もっと足を前に進めるんだ。息子も私も…。
息子の旅立ち
年が明けてまもなく、息子は最後のチャンスに賭けてセンター試験に望んだ。だが、結果はまたしても無残だった。K大学現役合格への道は、限りなく遠ざかった。
「家を出て、自分ひとりでやってみたい」
推薦入学に失敗してからというもの、息子は妻だけにそっとそう打ち明けるようになっていた。家を出て関東の新聞販売店に住み込み、新聞奨学生として働きながら来年の受験に賭けたいのだ、と言い張る。思うように学力が伸びず、センター試験で目標の得点を挙げることは難しいものと、その時点ですでに覚悟していたらしい。密かに資料なども取り寄せているようだった。
「まだ二次試験で挽回出来るんじゃないのか?」
「無理だよ。センター試験が悪すぎる」
息子はかたくなに心を閉ざした。
「働きながら新聞配達とか言ってるけど、厳しいぞ。ちゃんとやっていけるのか?」
実は私にも浪人しながら新聞配達をした経験がある。住み込みではなかったが、働きながらの受験勉強の辛さは、想像を越えるものだった。はたして息子はその厳しさに耐えられるのだろうか…。
「楽じゃないのは分かってるさ。でもやってみたいんだ。そう決めたからには、やるしかないじゃないか」
普段は温厚な息子の言葉が、このときばかりは荒いだ。その口調の激しさに、息子の悲壮な決意を感じた。
(金を出してやるから、札幌の予備校に行けよ)
本当はそう言ってやりたい。だが、大学の学費だけならともかく、予備校の資金までの余裕は家計にはない。そんなことは息子自身が一番よく知っている。だから息子は自活の道を選んだのだ。
そんな健気ともいえる息子の気持ちが痛いほど分かった。同時に、親として満足なことをしてやれない自分が腹立たしく、情けなかった。
私はもう止めなかった。息子はやがて19歳になろうとしている。もう大人だ、旅立ちのときだ。全てを自分で決めたからには、それなりの覚悟があるのだろう。それをとやかく言う権利は私にはない。
(ひとりで歩いてみろ。思い通りにやってみるがいい。そうすれば、いままで見えなかったものがきっとまた見えてくる…)
私の手を離れ、息子は自分の足で歩き出そうとしていた。私は自分の親としての役目が、ひとつ終わったことを悟った。息子の一人旅が、いま始まろうとしていた。
〜完〜
あとがき
今回で『親馬鹿サッカー奮戦記』は完結です。開始当初は4〜5回で終える予定のはずが、『少年団編』の途中あたりから皆様の励ましや応援メールが急増し、終わってみれば全17回、原稿用紙換算350枚余、2年余りに渡る長編連載となってしまいました。皆様からの暖かいご声援がなければ、おそらくここまで書き続けてはこれなかっただろうと思います。深く感謝いたします。
日本サッカー史上初めての参加となる記念すべきワールドカップ開催の日に、ぴたり合わせて連載を終えることが出来たのも、おそらく何かの縁でしょう。
この連載で私が描きたかったのは、単なる親馬鹿ドタバタ顛末記ではなく、サッカーを通した親子の対話、親子関係です。もっと書けば、サッカーというスポーツを通した本音の子育て論です。一話ごとに舞い込む皆様からの熱いメッセージから、その試みがある程度成功したことを知りました。さて、気になる息子の「その後」ですが、慣れない気候と人間関係のなかで、やはり想像を越える数々の困難に出会ったようです。この連載の本題から大きく外れそうなので、そのすべてを書くのは控えますが、生活に慣れるのに懸命で成績が思うように伸びなかった息子は、結局当初のK大学への進学をあきらめ、自宅近くにある私立大学への進学を決めました。
自分でやると決めたことを曲がりなりにもやり抜いたこと、そして「家を出る」という大きなイニシエーションを乗り越えたことで人間的にも一皮むけた息子は、以前のような周囲に対するこだわりやわだかまりも影を潜め、私ともすっかり大人の会話が出来るようになりました。どうやら私の「サッカーを通した子育て」は、ひとまず終了したようです。
サッカーは決して捨てたわけではなく、2年近いブランクにもめげずに、息子はいまも大学のグランドで元気にボールを追っています。ただ、以前のような「上をめざすサッカー」ではなく、尊敬する先輩のM君が言っていたように、「自分で楽しくするサッカー」に目標は変わったように見えます。私の長い「親馬鹿サッカー奮戦記」は終わりを告げましたが、私も息子もサッカーを通じてたくさんの人々と出合い、多くの貴重な経験を重ね、さまざまなことをそこから学びました。口幅ったい言い方ですが、サッカーはやはり、世代や性別、地域、人種、言葉を越えた共通言語と言って間違いないでしょう。
混迷する現代社会の中で、大好きなサッカーを通した対話で深い信頼関係を築き、人間性を回復することがもし出来るとしたら、こんな素晴らしいことはありません。そんな意味でも、私はこれからもサッカーを愛し続けたいと思っています。全世界のサッカーを愛する人々に、幸多からんことを祈っています。長い間のご愛読、ご声援、どうもありがとうございました。