親馬鹿サッカー奮戦記・第8話
 選抜チームの壁厚し /'97.11



区選抜への抜擢



 全道大会ベスト8の快挙と息子の全道ベストイレブンのニュースは、 瞬く間に校内や地区を駆けめぐった。そして 、全道大会初出場の実績と活躍とが評価され、息子を含む4人がチームから区選抜に選ばれて、JFLチーム(全日空VS日産)の前座試合として各区選抜対抗のエキシビジョンマッチに参加することになった。

 夏休みの真っ盛り、場所は現Jリーグのコンサドーレ札幌が本拠地とする厚別競技場。対戦相手はなんと、区選抜の頂点に立つ、札幌では最強の札幌選抜だった。
 札幌選抜とはその名の通り、札幌地区の同学年の選手約2000 人の中から20人だけ選ばれるという超難関のチーム。もし選ばれたら、静岡や東京などの強豪チームが参加する全国レベルの試合に出場出来るという、親にとっても子にとっても大変名誉なものだった。
 実はこの札幌選抜チームに関して、息子と私はほろ苦い思い出を持つ。

 5年生の初夏のこと。チームから二人だけ推薦を受け、息子はこの札幌選抜チームのセレクションを受けたことがある。もちろん、チームからはまだ誰ひとり合格したことはない。
 その日、もう一人のH君は発熱で欠席し、受けたのは結局息子ただ一人。会場に詰めかけた受験者はチーム毎に絞られたとはいえ、優に200人は越えていた。息子は大いに意気込んで望み、80%が一気にふるい落とされる一次試験のミニゲームはなんとか通ったものの、 二次試験のポジション別ゲームでは 、次々と合格者が指名されてゆくなか、なかなか合格のお呼びがかからない。
 残りの合格者枠はとうとう一人となった。この段階でグランドに残っている選手は20人。息子は当然まだその中にいる。試験官は困り果てた顔でこういった。

「最後の一人はどうにも決められないので、50mダッシュをやって一番の人に決めることにする」

 要するに、残った20人はドングリの背比べ。たいした差はないんだよ、ということらしい。結果からいえば、息子はこのダッシュで3番だった。不合格である。あとに残ったのは、無念さといらだちと、そして疲労感だけだった。

 さて、そのときに選ばれた選手が中心の札幌選抜が相手だ。

「ここで一泡ふかせて、あのとき落とされた鼻を明かしてやろうじゃないか」

 息子も私も 、そう意気込まないはずがない。
 息子は選抜チームでもキャプテンをやらされていたが、監督とコーチは別チームの人。私は無料の招待券など貰い、この日が初回しのビデオカメラをスタンド中央に構え、気楽な高みの見物である。

 私の興味は勝ち負けは度外視で、一流の相手に息子の技術がどこまで通じるのか、ただそれだけだった。私は祈るような気持ちで、カメラを回した。
 細かい試合経過は省略する。結果は0:1の惜敗だったが、スコア以上にその差は大きいように思われた。区選抜とはいえ、しょせんは全市の選抜に落ちたか、試験すら受けられなかった選手の集まりである。スピード、技術、テクニック、精神力、どれもがわずかなのだが、相手より力が落ちるのだ。息子とて、その例外ではなかった。
 象徴的だったのが前半のまだ0:0のとき、中盤からのボールを息子が受け、一瞬フリーになった場面だった。それまでの息子ならこうしたボールは逃さない。最悪でもシュートまではもっていくのに、その日はなんと背後からくるデフェンダーに追いつかれ、あっさりコーナーキックに逃れられてしまったのだ。

(あそこは悪くてもボールをキープして、上がってくる味方につながなくては…)

 カメラをのぞきながら、私は思わず唇をかんだ。 かねてから私の胸の奥にあった息子の将来に対する一抹の不安が、再び私の胸をかすめた。



奇妙な虚脱感



 1990年9月。6年生最後の、そして少年団最後のトーナメント戦「札幌会長杯」が行われた。
(当時、まだ冬の室内サッカー大会は行われていない)
 全くの無名チームからシーズンをスタートし、春の「札幌北斗杯」での札幌地区3位、そして全道ベスト8の好成績を収めたことで、チームにはある種の虚脱感のようなものが漂っていた。簡単にいえば、もうめざすものは優勝以外になく、だがそれはたぶん難しいだろう、というあきらめのようなものである。
 自他ともに許す鬼コーチとして鳴らした私も、「今度こそ優勝だぞ」と子供たちの尻をはたくことはさすがに出来ず、この最後のトーナメント戦は静観を決め込むことにした。試合の行方を子供たちにまかせたのである。

 1〜2回戦はそれぞれ、5:0、3:0の楽勝。息子は2得点3アシストで自在な動き。私があまりうるさいことを言わないので、チームは完全にお祭りムードになった。
 そのせいか、3回戦はさほど強いとは思えない相手に、前半を終えて0:1の苦戦。だが、ここでも私はいつものようにハーフタイムで激を飛ばすことはなかった。トーナメントなので、負ければ試合はそれで終わり。それは同時に長かったシーズンの終わりを意味する。私はそれでもいい、と思っていた。
 すると子供たちは自主的に円陣を作り、打開策など講じている。夏の市民大会の敗戦後もそうだったが、指導者が突き放す素振りをみせると、その反動のように子供たちは勝手に団結してゆく。このチームが年間を通して良い成績をキープ出来た大きな鍵が、そこらあたりにあったように思う。

 さて、後半になってさらに1点取られ、事態は最悪とも思われたが、ここからがすごかった。すぐに1点取り返して1:2にしたあと、残り時間が5分を切ってから同点、さらに残り1分を切ってから、ついに3:2と逆転。またしても全市ベスト16の位置までたどり着いてしまったのだ。



アスカにやられた



 一週間あとの4回戦。9月も末を迎えて、吹く風も一段と冷たさを増し始めている。くしくも4回戦の相手は、全道大会札幌予選の決勝で劇的な勝利を収めた、あの「発寒西少年団」だった。そして、この試合にもし勝てば、春の北斗杯の準決勝で苦杯をなめた「札幌SSS」が待ち構えている。

「よ〜し、発寒西にもう一回勝って、今度はSSSを叩くぞ!」

 子供たちはそう言って勝手に盛り上がっている。私はただ「そうか、そうか」と言いながら、相変わらず静観を決め込んでいた。
 私はなんとなく、この試合がシーズン最後の試合になるような強い予感がしていた。前日、「明日の試合は全部撮っておいてくれ」と妻にビデオカメラを渡したのもそのせいである。私はそれまで、自分の采配する試合の記録をとったことがない。

 やがて試合開始。選手には(夏に勝っている相手だから…)というゆるみがあるせいか、あまり動きは良くない。まして、この相手に勝ったとて、別にどこかに行けるというわけでもない。
 15分に1点を取られて前半終了。後半に入っても、相手デフェンスの固い守りが崩せない。息子にも決定的と思われるチャンスが幾度か訪れるが、いずれも相手の身体を張った守りに阻まれていた。
 逆に25分に、中央から右へいいパスを出され、相手右トップ(第6話にも書いたように、アスカという名の女子選手)が一瞬フリー。キーパーの足元をグランダーで抜く鋭いシュートを左隅に決められる。
 0:2になって相手も一瞬安心したのか、その固い守りに出来たわずかな隙を逃さず、直後に左からのスローインからのこぼれ球を息子が押し込んで1:2。その後は押しぎみの展開が続き、同点になるのは時間の問題かと思われたが、相手も必死の守りでそれを許さない。

 残りが数秒になって、もはやこれまで…、と覚悟を決めたとき、激しいボールの奪いあいから、MFオザワがふわりと相手ゴール前に落としたボールに、息子が鋭く反応して中央に同点ゴール。直後に終了の笛が鳴り、まるで夏の試合のビデオを見るかのような幕切れに、応援席は大騒ぎ。
 私は勝利の女神のいたずらに、呆然とする思いだった。しかし、幕切れが劇的なのは同じだが、夏の試合と違っていたのはこれで勝ちではなく、これでようやくPK戦に突入、ということだった。アスカにやられたやらずもがなの2点目が、選手の肩に重くのしかかっていた。



すべてが終わり、そして始まる



 やがてPK戦が始まった。シーズンに入ってのPK戦の成績はここまで2勝1敗で、決して悪くない。だが、このときになっても、なぜか私は勝てる気がしなかった。理由は特になかった。強いて言えば、それまで数々の修羅場を潜り抜けてきた「勘」とでも言えばいいのか。

 PKの蹴り順は不動である。相手もこちらも1〜3番が続けて決め、相手4番のキックを長身GKダイスケが見事な読みでキャッチし、ベンチも応援席も一気に盛り上がったが、直後にラインズマンの旗が大きくあがり、なぜか蹴り直し。どうやら立つ位置がラインの少し前だったらしいのだ。
(負け惜しみを言うようだが、私が同じ位置でラインズマンをやる場合、もしキーパーがラインを踏んでなければ、蹴る前に注意するだろう。それが子供を指導する立場としての大人の役目だとも思っているし、ファウルを事前に防ぐのが真の審判の役目だと思っている)
 私の胸に嫌な予感が再びよみがえった。しかし、ルールはルール。GKは気落ちの色が隠せず、蹴り直しの一発はあっさりゴール。この後、双方が続けて3人決め、9人が連続で決めるという、内容の濃いPK戦。このままサドンデス突入か?と思わせた。
 そして運命の5人目がやってくる。キッカーはいつもの通り、MFのオッチャンだが、彼はここ一番での精神面でのもろさを持っている。不安の中で蹴ったボールは、無常にも右上のバーに当たり、グランドを点々…。
 この瞬間、チームの長い長いシーズンは、ついに終わりを告げたのだった。

「あのときのボールがバーを叩いた『カキ〜ン』って音、いまだに耳に残っているんだよな…」

 いまでも息子がふとそのときのことをもらすことがある。彼にとってその音は、どうやら少年団の終わりを宣告された運命の音のようだ。



 このシーズンの息子のすべての記録を書くと、以下のようになる。

■公式戦:28試合、35ゴール(1試合平均1.25)12アシスト(1試合平均0.43)
■練習試合:6試合、9ゴール(1試合平均1.50)3アシスト(1試合平均0.5)

 練習、本番ともムラがなく、1試合あたりのゴール、アシスト数も4〜5年を大きく上回っている。6年生になって初めて経験したキャプテンの重責を、立派に果たしたといえよう。

 続けて、私のコーチ一年目のチーム成績も書いておこう。

■公式戦:28試合、22勝6敗、勝率0.786(勝敗にはPK戦を含む)
■練習試合:6試合、1分5敗、勝率0

 練習試合は全く勝ち負け度外視で望んだので、参考にならない。公式戦の1敗は、全道大会での消化ゲームでB編成で望んだ試合も含めている。

 こうして改めてながめてみると、全くの手探りの状態で息子も私も実によくやったものだな、と我ながら感心してしまう。息子が卒業してやがて7年の月日がたつが、この年に打ち立てた最強チームとしての数々の記録と、息子の個人記録は、未だに破られていない。

 さて、ともかくも、少年団としての息子の活動はこうして終わった。そして晴れて中学生となった息子は、私の手を離れ、新たな活躍の場を求めて大きくはばたこうとしていた。



(感動の巨編は第9話『悩んだ末のクラブチーム』へと続く)