親馬鹿サッカー奮戦記・第6話
 奇跡の決勝ゴール /'97.10



広がる波紋



 シーズン最初の公式戦「札幌北斗杯」を誰も予期しなかった3位の好成績で乗り切った我がチーム。この結果は新聞や地域のスポーツ雑誌にも華々しく掲載され、当時のサッカー少年団関係者に大きな波紋を呼んだ。いわく、

「どうしてあのチームはあんなに急に強くなったんだ?」
「コーチが代わったからじゃないの」
「そのくらいで強くなるかな、信じられんよ。ありゃきっとまぐれだ」

 当時、私はコーチとしては全く無名なので、大会などにいっても誰も私のことなど知らない。3位になったあと、私の目の前で他チームの指導者がこうした「噂話」に花を咲かせているのを、幾度となく耳にした。
 他チームから「まぐれ」と言われるのも無理なかった。当時、チームは結成9年目だったが、息子の学年以外は全市大会の経験がなく、区大会も出れば負けといった状態。
 練習用のグランドやゴールも極端に小さく、ユニフォームは使い古されたものが一種類だけ。団旗すらなく、毎年開催される総合開会式には、キャプテンは旗なしで手だけ上げて望む、という信じられないような貧乏所帯だったのだ。
 しかし、何やかやいながら、勝負は結果がすべてである。それ以来、我がチームには練習試合の申込が殺到した。近隣のチームはもちろん、一度も対戦したこともなく、何のコネもない遠くの区からも申し込みが舞い込んだ。



変則ツートップ



 5〜6月の息子の公式戦成績を調べてみると、11試合で10ゴール2アシスト。3度あったPK戦もすべて決め、修羅場での勝負弱さも一気に解消。このほか、数字には現われない、得点に直結する前線へのパスも非常に多く、キャプテンとしての重責は十二分にはたしていた。

 そのころとっていたフォーメーションは「変則ツートップ」というもので、当時全盛だった3トップの欠点を修正するべく、センターフォワードだった息子のポジションを5メートルほど下げ、バックスからのボールや中盤のルーズボールをトップへつなぐMF的な役割と、そのボールを決めるFW的な役割の両方をさせていた。
 そのためには最低限、息子の縦の激しい動きが要求される。「蹴ったら走れ」すなわちパスをトップに出したその足がすぐに次のスペースへのダッシュにつながっているという「パス&ゴー」は、「黄昏の猛特訓」で充分に鍛えてある。
 好調のときはこれが徹底され、チーム全体の動きもよくなるのだが、不調のとき、息子は決まって前線に立ったままのいわゆる「かかし状態」になり、そんなときは決まってボールが中盤で分断され、苦しい展開に陥ってしまう。よくも悪くも、息子の状態がチーム全体の鍵を握っていた。

 ところで、守備に関しては、はっきりいってお寒い状態だった。とにかくプレスをかけ、マイボールになればなるべく早く前線に大きく蹴る、という古いタイプの守備をあいかわらずやっていた。
 まだ「ボランチ」という言葉が定着しておらず、「守備的MF」という言葉はあるにはあったが、私の勉強不足でまだよく意味を理解出来ず、実際のチーム作りにそれを取り入れるまでには至らなかった。
(手探りで「ボランチ」を育て始めたのは翌年のチームから)



紋別に行こう!



 6月中旬に開催された全日本少年サッカー大会の区予選を4戦全勝で勝ち上がった我がチームだったが、全市トーナメント1回戦でまさかのPK負けを喫し、「今度こそ」と7月の全道大会札幌予選に雪辱を期することになる。
 その年の全道大会は道北の紋別での開催が決まっており、札幌からは8チームが参加出来た。めでたく予選を勝ち抜いてリーグ優勝すれば、3泊4日の楽しい北の旅へと出かけられる。もちろん、それまで全道大会には行ったこともないが、今年のチームの力からすれば、それも決して夢ではない。
 だが、6月の全日本大会予選でシード権を確保できなかったせいで、皮肉なことに監督が引き当てたクジはなんと「札幌北斗杯」で完敗したばかりの札幌SSSがいるグループだった。
(こりゃちょっと難しいかな)私はもちろん、選手や父母の誰もがそう考えた。だが、組み合わせの関係で、札幌SSSとは決勝までは当たらない。ここはひとつ紋別はあきらめてグループ2位ねらいで行くか…。

 札幌予選はわずか2日間の短期決戦で行われた。しかも土日の連続日程なので、流れに乗ってしまったチームが有利といえた。
 7/7に行われた1〜2回戦はそれぞれ、6:0、6:0の楽勝。息子は2回戦で1試合5ゴールの新記録を打ちたてて絶好調。さあ、問題は明日だ。この時点では、札幌SSSのいる別のグループの動向は分かっていない。試合が終わったあとの夕暮れのグランドで、私は子供たちにむかって何気ない調子でこうつぶやいた。

「明日さあ、もし二つ勝ったら、紋別にいけるんだぞ」
「えっ、それ本当?」
「本当だ。みんなで3泊4日のバス旅行が出来る」
「よ〜し、がんばるぞ。絶対紋別に行くぞ!」

 私はにやにやしながらそれを見ていた。

(もしかして札幌SSSが負けていれば…)

 そんな他力本願の甘い期待が胸をかすめる。だが、(そんなはずはない)とすぐにそれを打ち消す声が聞こえる。すべては翌日に持ち越しだった。



運命の流れ



 翌日、準決勝と決勝の会場は春までチーム監督を勤めたN先生の新任校で、何度か練習試合で試合をしたことのあるグランドだった。知らないグランドよりははるかに戦いやすい。私はなんとなく運というか、ツキのようなものが自分たちに向いてきているのを感じていた。
 会場に入ると先に来ていた子供たちの様子がなんだかおかしい。

「コーチ、札幌SSSが負けてるよ!」
「なにい、嘘だろっ?!」

 あわてて張り出された前日の結果に見入る。本当だ。信じられないことに、あの強豪が1回戦で無名のチームに0:0からのPK負を喫していた。好事魔多しとはこのことか…。
 私は勝負の恐ろしさを思い知らされるとともに、運命の流れが音をたてて自分たちのほうに向かってくるのを強く感じていた。



トルネードボレー再び



 3回戦の相手は、皮肉なことに同じ区の白石少年団。このチームは区でも強豪で、当時区では2チームしか行ったことのない全道大会の経験があった。指導者の経歴、チームの規模、キャリア、どれをとっても我がチームとは数段格が上。なぜか息子の学年は一度も対戦がなかったが、他の学年が勝ったことなど一度もない。
 私は考えた。相手はある程度油断してくれるかもしれない。もしそうなら、そこに付け入る隙があるのではないか…。

 この日、ベンチには私ひとりだった。監督のK先生が本業のバレー協会の試合のため、欠席だったからだ。しかも当日になってストッパーのタローが39度の熱で欠場。苦肉の策で考えたフォーメーションは左サイドバックのイシチャンをストッパーに、空いた左サイドに本来はMFのダイスケを入れ、右サイドにも同じMFで守備のいいシバチャンを入れるという大胆なもの。
 北斗杯準決勝での惨敗にこりた私は、ただ蹴るだけでなく、ある程度つなぎの出来るバックスの養成を考え始めていた。本来はMFである二人をここで思いきって使った訳も、そこにあった。

 ホイッスルと共に、予想通りの激しい攻防。相手は(同じ区の格下の相手に負けてなるものか)という強い意気で押し寄せる。しかし、こちらも負けてはいない。どの選手からも(勝って紋別にいくぞ!)という意気込みが感じられた。
 一進一退の攻防の中、10分過ぎに例によって息子から右トップのヨウタにダイレクトパス。ヨウタ、例によって右深く切れ込んで折り返したボールが、中央に走りこんだ息子よりもかなり後ろへ…。

(まずい!あれじゃ打てない…、いやまてよ、このシーンは確か以前にもどこかで見た。そうだ、トルネードボレーだ!)

 瞬間的に私が思うのと、息子の身体がねじれ飛ぶのとが同時。ジャストミートされたボールは、ちょうど2ヵ月前の北斗杯のあのシーンの再現VTRのように、同じ軌跡を描いてゴール右へと突き刺さった。待望の先制点だ!
 こうした「芸術的」ともいえるゴールが決まると、ただの1点以上のダメージを相手に与えるもの。このあと、15分にもMFコッペの25mの弾丸フリーキックが直接ネットをゆすり、前半を2:0で折り返す。後半になって相手は必死で攻めてくるが、流れは変らず、結局試合は2:0のまま終了。ついに決勝進出となった。



さあ、決勝戦だ



 さて、決勝は札幌SSSと戦う気でいた我がチーム。その相手がいないので、いささか拍子抜け。しかし、代わりに決勝に登場した発寒西少年団は、無名ながら固い守備とカウンター攻撃で小差で勝ち上がってきた決してあなどれないチームだった。

 試合前の選手はもう半分勝ったような気でいるが、準決勝での相手の試合をつぶさに見ていた私は、相手の固い守りに一抹の不安を感じていた。

(あのバックスから点をもぎとるのは相当難しい…)

 しかし、攻撃に関すれば相手は右トップのスピードのある選手にあわせるカウンター攻撃くらいしかない。(余談だが、この選手がなんと紅一点の女子選手)この選手をきっちりマークすればなんとか接戦には持ち込めそうだ。
 試合前、私は左サイドバックに入れたダイスケを呼んでこうささやいた。

「いいか、あの右トップから絶対目を離すな。女の子だからって油断してると、一発でやられるぞ」

 不安と期待の中、キックオフ。試合前の予想通り押し気味の展開で、試合の大半は相手陣内で行われるものの、相手ストッパーに息子が完全に封じこまれ、サイドへのパスは出るが、そこでも厳しいチェックにあってシュートが打てない。
 相手の守りは横や縦のカバー、連携ともよく、キーパーの守備範囲も広くて、想像以上の難敵である。これといった決定的場面もないまま、前半終了。ベンチに戻ってくる選手の顔も、心無しか強ばっていた。はたして打開策はあるか…?
 このとき、それまで応援席にいてじっと戦況を見ていた前監督のN先生が近寄ってきて言った。

「どうも右からの攻撃が弱い。このままだと厳しい。どうだろう、右トップのヨウタを下げて、代わりに左トップのヨウイチを入れては?」
「でも、彼は左ききですよ。それに、左からの攻撃がもう一歩のところまできている」

 正直にいえば、私は準決勝でいい動きをみせていた選手と心中する覚悟でいた。負けているならともかく、まだ同点である。ここで小細工などしたくない。それに、本来の監督が不在のいま、(いまのチームの指導責任は自分にある)という強い自負もある。私は前監督の「忠告」を前に、ただ黙りこくった。
 ベンチのそんな雰囲気を察してか、普段はまったく采配には口出ししない父母のひとり(お母さん)が近づいてきて、まるで私の心情を代弁するようにこう言った。

「ここまでやったんですもの、もう勝ち負けはいいですよ。このままで行きましょう。このままで…」

 私はこの言葉に深く感謝した。後援会の方々は、私を信頼してくれている。私も子供たちを信頼しなくては…。



奇跡の決勝ゴール



 結局そのまま後半が開始。なぜか自分ではあまりよく覚えていないが、選手をグランドに送り出すとき、私はある「名言」を吐いたという。

「さあ、泣いても笑ってもあと20分だ。お前等も苦しいだろうが、相手も苦しい。あとは勝ちたい気持ちがどっちが強いかだ。勝って紋別に行くぞ!」

 この「泣いても笑ってもあと20分…」のフレーズが、10年近くたっても耳にこびりついて離れない、と息子は言う。そしてこの言葉に、身が奮い立ったということも…。
 グランドでの攻防は相変わらずだった。ボールを奪った相手は時折長いボールを右トップに送ってカウンター攻撃を試みるが、ワンツーマークにつかせたダイスケが相手トップの女の子(名前を確か「アスカ」といった。サッカーにかける姿勢がひたむきで、いまでも鮮やかにそのプレーを思い出す)に仕事をさせない。

 これといった活路を見い出せないまま、時間だけが刻々と過ぎる。手元の時計は19分を回っている。このまま延長戦か…。
 だが、延長になれば体格的に劣る我がチームは明らかに不利だ。万一、延長戦で決着がつかなければ、魔のPK戦である。今年に入ってのPK戦は2勝1敗だった。だが、思わぬPK負けで緒戦に姿を消した札幌SSSのことが頭をかすめる。なんとか20分で決着はつけられないか。

 さらに時間が迫る。残り数秒しかない。審判が時計を見ている。私は延長戦を覚悟した。そのとき、左MFのオッチャンから左トップのヨウイチにいいボールが出た。得意のドリブルで左サイドに切り込むヨウイチ。私は中央の息子を見た。マークはついているが、少し引き気味のいい位置で息子はねらっている。前にわずかのスペースがある。いまだ、そこに出せ、そこに…。
 相手サイドバックを振り切って、ヨウイチが左足で鋭くあげた球はベンチにいる私のイメージ通りの場所に。一瞬はやく相手マークを振り切った息子がそこに飛び出す。相手キーパーも判断よくつぶしにくる。身体を投げ出してセービングにくる。きわどいタイミングだ。私は思わず両手を握り締めた。

(打て、打て!)

 相手キーパーの手よりも、息子がボールをハーフバンドですくいあげるのが一瞬はやい。ゆるい弧を描いたボールはキーパーをあざ笑うように、無人のゴールへスロービデオのようにゆっくりと吸い込まれた。両手をあげて躍り上がる息子。駆け寄るイレブン。同時に試合終了の長いホイッスルが鳴る。勝った!勝った!
 沸き上がるグランドとベンチ。まるでドラマのような劇的な幕切れに、会場内は騒然とした雰囲気。私はこぶしをふって選手を迎かえ入れた。
 緊張の糸が切れたせいか、いきなりのスタメン器用で大役を果たしたシバチャンとダイスケがうれし泣きしている。多くの選手や父母の目からも涙が。私の頬にも熱いものが伝い落ちた。
「初の全道大会進出」というチーム始まって以来の快挙と同時に、選手と父母とそして息子との強い信頼関係という、かけがえのないものを私は同時に手にいれたのだった。



(感動の巨編は第7話『涙のベストイレブン』へと続く)