親馬鹿サッカー奮戦記・第5話
 トルネードボレー炸裂! /'97.9



シーズン開幕



 1990年5月、シーズン最初の公式戦「札幌北斗杯」が始まった。当時、この大会は札幌地区サッカー少年団全128チームによるトーナメント戦で行われ、その年の各チームの力を占う意味で、非常に重要な大会だった。この大会でベスト16以内に入ったチームは、翌6月の全日本少年サッカー大会札幌予選のシード権も得られる。
 この大会でいい位置につけて、シーズンを乗り切りたい。チーム指導者なら誰もがそう考えていた。

 手探りながらなんとかチームの態勢を整えつつあった我がチーム。直前の練習試合ではレギュラー数人が休んだせいもあり、4:6の敗戦だったが、息子は3ゴール1アシストの活躍。こと攻撃に関すれば、私のもくろみ通りのいい形が完成しつつあった。



勝ち進む1〜2回戦



 1〜2回戦は5/7に行われた。運のいいことに、1回戦の相手は結成されたばかりのチーム。試合が始まると開幕戦の緊張からか、公式戦が初めての相手に選手は全体的に固い動き。しかし、力の差ははっきりしていて、前半を2:0で折り返してからはすっかりリラックス。後半にも5点を取って7:0の圧勝。

 続く2回戦の相手も全市大会には出たことのない無名チーム。無名といえば我がチームも息子の学年だけがたまに全市大会に出る程度で、それも出れば決まって緒戦負け。たいした差はない。

 しかし、1回戦の大勝で、選手には何となく気のゆるみが見られた。

「相手もひとつ勝っているんだ。特に前半は油断するな」

 そう釘を差して選手をグランドに送り出す。

 大勝にもかかわらず、1回戦での息子の成績は1ゴール0アシスト。彼本来の力からすれば、不本意だったに違いない。私は息子に何も言わなかったが、そのことで逆に息子は心中期するものがあったようだ。試合開始と同時に鋭い動きでチームを引っぱった。
 圧巻は前半の2点目の場面。中盤のボールをいつものパターンで右トップのヨウタにダイレクトパス。右サイド深く切れ込んだヨウタが鋭くセンタリング。浮き玉が走りこんだ息子にドンピシャ…、と思いきや、なんとボールが息子の位置よりもやや後ろ。

(まずい、これじゃ打てない…)

 思わずベンチでつぶやく私。応援席で声をからしていた妻もおそらくそう思ったはずだ。ところが…



トルネードボレー炸裂!



 てっきり後ろ向きでワントラップしてから打つものと決めこんでいた私を裏切って、なんと息子は身体を右に小さくひねり、ジャンプしながら上体を水平に倒して蹴り足を右後ろから左に巻き込むようにして、そのままダイレクトでシュート。(この時点で身体は横向きで空中に浮かんでいる)
 呆然とする相手バックスとキーパーをあざ笑うかのように、ボールはネットに突き刺さり、まさに「目のさめるような」会心ゴール!
 相手ベンチ、いや味方ベンチまでもが一瞬の静寂。応援席からはため息混じりのどよめきと歓声が…。
 この一発で相手は完全に意気消沈。チームはそのあとも得点を重ねて、6:0の完勝。息子も2ゴール1アシストと溜飲を下げ、チームもめでたく3回戦へとコマを進めた。

 さて、試合が終わってから私は息子に尋ねた。

「どうしてあそこで止めないで打ったんだ?」
「止めるとバックスにつぶされそうだったからね」
「あの体勢でよく打てたな。初めからああやって打つ気だったのか?」
「いや、何も考えてないよ。身体が自然に動いた」

 私は思わずうなった。考える前に勝手に身体が動く。そしてそれを結果につなげられる…。私は再び考えた。

「やはり私の息子には天賦の才能があるのでは…」

 私はその日の息子の会心ゴールに密かに名前をつけ、家族の中で吹聴しては悦にいった。その名とは当時近鉄に入団し、大活躍していた野茂投手の変則投球フォームにならって「トルネードボレー」。身体を右後ろにひねって、巻き込むように打つ形が、とても似ているように感じられたのだ。
 それにしてもサッカー漫画の世界じゃあるまいし、自分の息子のシュートに名前をつけるなど、まるで子供じみていてお笑いだが、私の親馬鹿ぶりに免じて、どうぞお許しいただきたい。



全国大会経験チームと激突



 一週間後の5/12、3回戦が行われた。相手は優勝候補の一角にあげられていた当時、札幌市内でも超強豪の真駒内南少年団だった。
 このチームは全市大会は常連であることはもちろん、2年前には全国大会にも駒をすすめ、しかも北海道チームとしては初めて決勝トーナメントまで進んだという、まさに輝くような実績を誇るチームだった。
 私は考えた。リーグ戦にたとえると、予選リーグを勝ち抜いて、ちょうどここらが決勝トーナメント1回戦に進んだあたり。いつもこうした強豪が出てくると、それなりに善戦はするけれど、結局はやられてしまう。ここをなんとかして乗り切るのだ…。

 試合前、私は選手を地面に座らせ、こう激を飛ばした。

「いいか、お前等はいつもこのあたりで負けているんだ。ここをなんとか乗り切れ。そうすれば道は必ず開けてくる!」

 といっても、根性論だけで勝てるほど甘い相手ではないことははっきりしている。そこで私は兼ねてから考えていた「プレスデフェンス」というものを初めてここで試すことにした。
 当時、守りといえば体格が良くてキック力のある子を後ろに並べ、大きく蹴り返すのが主流であり、FWはドリブルとシュート、MFはパスでのつなぎ、という風に役割分担がはっきりしていた。この考えを改めさせ、すべてのポジションで「守り」の考えを植え付ける。すなわち、「全員攻撃、全員守備」のようなサッカーをやろうとした。
 ただし、あまり難しいことを急に言っても選手は面喰らうだけなので、試合前に言ったことは「ボールが相手のものなっても、あきらめずにしつこく取りにいけ、邪魔をしろ」の一言。

 試合が始まると選手は言いつけ通り、よく相手にくらいつき、よく走ってよく守った。 試合中、少しでもボールに寄るのが遅れると、「プレッシャーをかけろ!」と私の怒鳴り声が響く。
 前半を終わってスコアは奇跡的とも思える1:1。「気を抜くな、抜いたらやられる!」ハーフタイムでの私の激は続く。

 後半になっても一進一退の激しい攻防。強豪相手に押されながらも、得点を許さない。
 逆に残り1分になって、カウンター攻撃から息子が一瞬フリー。(もらった!)思わず腰を浮かせた私をからかうように、鋭く飛び出すキーパーのタイミングに合わせてアウトサイドでちょこんと流した息子のシュートは、無常にもゴールポストをかすめて外へ…。直後に終了の笛が鳴り響き、ついに課題のPK戦へと突入した。



さあ来い!PK戦



 以前にも書いたように、このチームは息子を初めとしてPK戦が大の苦手である。応援席からもこの時点ですでにあきらめの声が上がっている。しかし、逆に私には内心(しめた)という思いが沸き上がっていた。

(ついに特訓の成果を試すときがやってきた…)

 主審の指示で、キャプテンである息子がベンチにPKの蹴り順を聞きにやってきた。その顔はこわばり、緊張の色がありありと見て取れる。隣を見れば、監督のK先生は初のPK戦の緊張で青ざめて声もなし。しかし、どういうわけか私はこの緊張を逆に楽しむというか、(さあ、来い!)という非常に好戦的な気分になっていた。PK戦になれば勝てるという勝算というか、確信のようなものが胸の内にあったからだ。
 まず息子をベンチ前に座らせて落ちつかせ、なだめるように言った。

「まあ、ここまで来たんだからもう負けたっていい。その代わり、PKは失敗を恐れずに思いきって蹴れ。みんなにもそう伝えるんだ」
「えっ、負けてもいいの?」

 ほっと安堵の色を浮かべる息子。かたわらのK先生を見やると、そうだそうだとただ頷くだけで、何も言わない。私はもしや、と思って前夜から密かに決めておいたPKの順番を息子に託した。

 コイントスはうまい具合に後攻。PK戦はなんといっても1番が大事だ。相手1番がまず決めたあとのこちらの1番は、いつもならば息子のはずが、私が指名したのは精神にやや不安のある息子ではなく、転校してきたばかりだが度胸のすわったMFオザワだった。
 期待に応えて難なく決めて意気上がるベンチ。(いける…)このとき私は勝利を確信した。
 2本目は共に外して、相手は3番が決め、いよいよ同じく3番に指名した息子の出番。蹴る前にキーパーのほうにちらりと目をやる息子。どうやら教えこんだ「駆け引き」をしている様子だ。笛の合図で蹴られたボールは、特訓と同じ軌跡を描いて、注文通りにキーパーとは逆方向の右上へ…。

(よし、決めた!)

 してやったりと思わずこぶしを握り締める私。なんと、これが息子が公式戦で決めた初めてのPKだった。
 このあと、双方4番が決めて互いに譲らぬ3:3。しかし、勝って当然のノーマークの相手に善戦され、気持ちの中にあせりがあったのか、相手5番が大きく上にはずして、チャンス到来。

(決めてくれ…)

 祈るベンチと応援席の熱い期待に応えるかのように、PKは初めてという我がチーム5番オッチャンのキックがゴールに突き刺さり、ついにチームの歴史に残る、まさかの大金星をあげたのだった。



気がつけば札幌地区3位



 名門相手に奇跡の3回戦突破をなしとげた我がチーム。このあとの戦いは、まさに付き物が落ちたかのような快進撃。4回戦を0:1から2点を取り返して2:1の逆転勝ち。5回戦をこれも優勝候補の伏古少年団相手に、0:0のPK戦を再び4:1で制して、ふと気がつけばシーズン前には誰も予想しなかった128チーム中ベスト4の高位置にまで登り詰めていた。

 さて、準決勝の相手は当時、札幌では2チームしかなかったクラブチームの札幌SSS(スリーエス)。このチームはブラジルのプロ経験選手をコーチに招き、チーム専用バスなどを備えて市内から有望選手を多く集めた本格的クラブチームだった。
 選手からは「ここまでこれたらもういいかな…」という、なんとなくあきらめのムードが漂っている。私のほうも、まさか優勝まではないだろう、そこまでは望むまい、という思いが確かにあった。
(3位決定戦はなく、この時点で3位はすでに確定していた)

 決して負ける気で望んだわけではなかったが、相手はとにかく強かった。早く正確なパス回しで、それまで有効だったプレスデフェンスがまるで機能しない。息子からのサイドへ回すボールも、中央に折り返す前にことごとくつぶされ、シュートすら満足に打たせてもらえない。
 サイドからの細かいパス回しで2点とられて 前半を終了。ハーフタイムで息子に、捨て身ともいえる最後の手段を託す。

「ボールをキープしてもすぐにサイドには出すな。パスを出すとみせかけて、自分でサイドに切り込んでみろ」

 後半になってこの攻撃がいい形を作り始める。息子の中盤からサイドへのドリブル突破が利き、ラストパスまでは出るのだが、いかんせん今度は中央で決める選手がいない。

(もうひとり息子がいたなら…)

 思わず私は心の中でないものねだり。

 後半は0:0でしのいだものの、前半のビハインドは大きく、結局試合は0:2の力負け。
 とはいえ、ここで負けたからといって一ヵ月近い戦いを勝ち抜いて得た札幌地区3位の栄冠が消えるわけでもなく、表彰式でもらった初めての大きなカップを胸に、選手の笑顔は大きな自信と誇りとなって、その年の輝く成績のプロローグとなったのだった。



(感動の巨編は第6話『奇跡の決勝ゴール』へと続く)