親馬鹿サッカー奮戦記・第4話
 親がコーチで子がキャプテン /'97.8



チーム解散?の危機



 1990年、息子はチーム最上級生の6年生になった。シーズンオフの特訓の成果を試すときがついにやってきたのだ。息子も私も、雪解けを今や遅しと待っていた。ところが、3月の末の終業式の日に、予期せぬとんでもない問題が持ち上がってしまったのだ。

「監督のN先生が転勤だってよ!」

 その日学校から戻るなり、息子は息せき切ってそう叫んだ。当時、息子の所属する少年団の指導は、同じ小学校の二人の先生が担当していたが、なんとまるで示し合わせでもしたかのように、二人同時に転勤だという。

「おい、少年団はどうなる?」

 私は思わず息子をそう問い詰めた。だが、息子の答えはそっけない。

「知らないよそんなこと。とにかく、これを読んでくれって」

 息子が差し出すプリントを、私は食い入るように読んだ。そこには監督の先生の見慣れた文字で、こんな文章が並んでいた。


 急なことで誠にもうしわけございません。後任の指導者をただいま鋭意、探しておりますが、思わしくない状況です。つきましては父母の皆様にたってのお願いがございます。皆様の中でチームの指導を引き受けてくださるかたはいらっしゃらないでしょうか?サッカー経験の有無、性別、年齢は問いません。サッカーに対する熱意さえあれば…。
 万一どなたもお引き受けいただけないことになりますと、最悪の場合、チーム解散という事態にもなりかねません。私としてもそういうことだけは、なんとしても避けたいと思っております。曜日や時間を限定し、「日曜の午前だけ」という形でも結構です。なにとぞ子供たちのために、皆様のご協力を…。

 文面はそんな悲痛な「叫び」とある種の「おどし(^^;」に満ちていた。さらに末尾には、「勝手ながら勤務の都合でお申し出は3月中にお願いいたします」とある。カレンダーを見やると、もう数日しか残っていない。



はたして引き受け手はいるか?



 妻と息子と私の三者による緊急会議が開かれた。息子は、

「チームがつぶれないなら、父さんでもいいよ」

 と当然のように言う。妻の意見は、

「これって、暗にあなたの申し出を期待しているのじゃないかしら。他にやれそうな人っている?」

 とやや疑心暗鬼だった。
 その動機が親馬鹿にせよ何にせよ、確かにそれまで私はチームに協力的だった。後援会長も引き受けたし、監督の先生とも懇意だ。ともかくも、息子をここまで「育てた」ことも衆知の事実だった。妻が言っているのはそのことだ。だが、だからといって「はい、やります」と安易に申し出ていいものか…。
 それからの数日間、私は悩みに悩んだ。いくらサッカーが好き、教えることが好き、そして時間がある程度自由になる自由業の身とはいえ、100人近い団員の指導がそう簡単に勤まるとは思えない。自分はしょせん素人だ。しかも、いったん引き受けたら、途中で投げ出すわけにはいかないのだ。

 結局、私をゆり動かしたのは、「子供のために」などというよくある理由ではなく、「ここでチームをつぶしてなるものか」という意地のようなものと、自分のいままで培ってきた「コーチ学」のようなものが、はたしてチームという集団に対しても通用するのだろうか?という強い好奇心だった。
 いま考えてみても、吾ながら思いきった決断をしたものだと思う。私がもっとサッカーを知っている人間だったら、もしかして後込みしてしまっていたかもしれない。「意地」や「好奇心」は時に人を駆り立てるものらしい。



お父さんコーチ誕生



 1990年4月、私は40歳で東白石サッカー少年団のコーチになった。転勤する先生は、まるで私を待っていたかのように事務処理その他の引き継ぎをする。さらに先生はこう付け加えた。

「実はキャプテンのH君も家の都合で東京に越すんですよ。それで私の希望としては、タクヤ君(息子の本名)にチームのキャプテンを引き受けて欲しいのです」

 私は思わず絶句した。自分のコーチ問題でさえ、夜も眠れないほど悩みぬいて決意したばかりというのに、今度は息子をキャプテンに、という。親としてはやりにくい面のほうがはるかに多そうに思えた。
 息子はそれまで、学年の副キャプテンを勤めていた。息子には今までの連載でもお分かりのように、大舞台なると少し臆するところがあり、それが得点力はチーム一でも「副キャプテン」という立場になって現われていたように思う。親としても、そのほうが息子の力が充分に発揮出来ると踏んで納得していたのだ。
 それがキャプテン、しかも最上級生ともなれば、同学年だけでなく、少年団全体をまとめて行く力が必要だ。精神のやや脆弱な息子に、そんな重責がはたして勤まるのか…。
 しかし、結局私たちは押し切られた。あまりぐずぐずする時間がなかったことも決断を急がせる要因になった。こうなれば親子で引き受けるしかない。私はシーズン始めの夜、息子を呼んでひとつの「約束」をさせた。

「これからグランドでは俺を父さんと呼ぶな」

 グランドでは俺はもう父さんじゃない。お前と、そしてみんなのコーチなのだから…。
 私と息子は差し向かいながら、大真面目な顔でこんな会話を交した。黙ってうなずく息子。彼の目は心無しか潤んでさえ見えた。(;_;)
 こうして書き並べると、まるでかってのスポ根漫画のクサいセリフのようで赤面ものだが、こうした厳しい「約束」を親子で交すことで、私は自分と息子自身とに、なんとしてもこのシーズンをいい結果で乗り切るんだ、という暗黙の決意を促していたように思う。



手探りコーチング



 さて、こうしてシーズンは始まった。4月の上旬にやってきた新任の若い先生が、これまた周囲に強引に押し切られる形で指導者に加わることになったが、なんとこの先生が10数年間バレーボール一筋で、国体にも出たことのあるというつわもの。それでは運動神経抜群で、サッカーもさぞかし…、と思いきや、なんと最初の挨拶で出た言葉は次のような「期待」を裏切るものだった。

「僕、接触プレーのあるサッカーはきらいなんです。バレーのように、敵味方の陣地がはっきり分かれていないと…」

 しかも、自分はバレー協会の役員もやっているので、試合等の日程が重なった場合、バレーのほうを優先させるつもりだ。練習方法などもよく分からないので、よろしく頼む。
 ようするに、グランドの貸し借りなどの事務面での学校側窓口にはなってくれるが、実務面はやってくれ、ということらしい。

(やはり自分でやるしかないのだ…)

 私はそう決意せざるを得なかった。最初の公式戦は5月上旬にある。ぐずぐずしている暇などない。私はひとりで各学年の練習計画をたてることにした。

 集団でのおおよその練習方法は分かっていた。基本練習のメニューはそれをベースにしたが、当時の私のビジョンとして、いまでいう「プレスデフェンス」があり、ボールをもっている相手に対する「寄り」を素早くさせるためのいくつかのメニューを追加することにした。
 応用練習については、息子をポストにしたサイド攻撃を基本に考えていたので、当然それを主眼に置いたものにする。

 こうしてど素人の手探りコーチングが始まった。練習日は月、水が3時半〜6時。土曜が1時〜4時の週3回。朝が苦手な私だから、朝練習は当然のようにない。監督は一応、若い先生のほうだったが、多忙のせいでグランドに現われるのは5時ころの紅白戦の時間が多かった。それまでは実質、80人の子供たちを、私一人で仕切らねばならない。
 たちまち私は忙しさに追いたてられることになった。サッカーのコーチを引き受けたからといって、仕事が減るわけではない。練習が終えたあとはぐったりし、ひと寝入りして深夜にならないと仕事をやる気は起きない。私が次第に「夜型人間」に変身し始めたのは、この頃からだ。

 そんな私を救ってくれたのは、子供たちの熱いエールだった。低学年のころ、草サッカーで遊んでやった(もらった?)せいで、たいていの子は顔見知り。「おじさん、おじさん」となついてくる。これに乗じて、しまいには監督の先生までもが「おじさん」と呼び出す始末。
 私はうれしさの反面、この「おじさん」という呼び方には多少の抵抗を感じた。確かに私は立派なおじさんだ。それはいい。だが、仮にももうコーチである。息子とも「約束」を交したことだし、ここはけじめをつける面でも「コーチ」と呼ばせるべきだ…。
 といっても、誰もそのことを切り出さないので、仕方なく私はある日のミーティングでみずから

「今日から『コーチ』って呼んで欲しい」

 と子供たちに申し出たのだった。
 こうして私は名実ともに「コーチ」となり、指導に励んだ。もともと息子を中心に、私と子供たちとは強い信頼関係で結ばれている。攻撃と守りのパターンも徐々に浸透しだし、チームは次第に結束し始めた。最初は不安だらけだった私も、一ヵ月が経過する頃には、ある種の手応えを感じ始めていた。

 私の指導者としての手腕が試される最初の公式戦、「札幌北斗杯」が目前に迫っていた。



(感動の巨編は第5話『トルネードボレー炸裂!』へと続く→連載が俄然急ピッチ)(^_^;