親馬鹿サッカー奮戦記・第3話
 黄昏の猛特訓 /'97.3



最強チームへの道



 1989年、息子は5年生になった。シーズン開幕の5月、息子は6年生が主力の最強チームへと選抜された。選ばれた5年生は二人だけである。
 上級チームに入れられた子供と親の気持ちはとても複雑なものだ。「選ばれた」といううれしさの反面、上級生を押し退けてレギュラーをとったということで、やって当り前、出来が悪ければ子供は落ち込み、親は肩身が狭いという具合になってしまう。

 最強チームでの息子のポジションはオフェンシブハーフ。中盤のつなぎ、前線へのラストパス、そしてシュートと非常に高度な技術、戦術を要求される場所だった。
 今でこそ息子は176cmの上背だが、当時はまだ小柄で、体格のいい上級生の中ではかなり見劣りがした。上級生のパワーとスピードの中で、息子の技術がはたしてどこまで通用するのか、一抹の不安があった。
 だが、いざ蓋を開けて見ると、そんな不安は吹き飛んだ。息子の武器は天性の身体の柔らかさだった。その柔らかいボールタッチから繰り出されるパスやドリブル、シュートは上級生の中でもそれなりに機能したのだ。
 例によって当時の最強チームでの息子の記録を調べてみると、公式戦8試合に出場し、5ゴールでアシストはゼロとある。

 最強チームの試合のほかに、5年生の試合もあるため、息子は非常に忙しい身となった。もちろん、つきっきりで「追っかけ」をしている親も忙しいのだが、こればかりは正直いって「うれしい悲鳴」というやつである。



プレースタイルの転換



 ところで、5年生チームとしての息子の記録を調べてみると、19試合で21ゴール、8アシストである。
(すべての試合を通してだと、27試合で26ゴール、8アシスト)
 これらの数字を見ると、1試合あたりの得点率が4年生よりもやや落ちてきていることに気付く。そうなのだ。4年生のころは通用していたドリブル、フェイントが、体格のよいバックス相手だと通用しなくなってきていることに私自身も気付いていた。そこで私は考えた。

「ひょっとすると今が息子の転換期ではないか?」

 技術的なことはともかく、戦術面のセンスがいまひとつ物足りないことが素人目にも分かる。そこで私はいろいろなサッカー専門誌を読みあさり、たくさんのサッカービデオを見、多くの試合を見て、これはと思う練習方法や戦術に出会うと息子を試験台に研究を重ねた。このときの独学が結果的に自分の中で貴重な貯金となり、のちに私を深くサッカーの世界へいざなうことになる。

 最も力を入れたのは、中盤でのポストプレーだった。息子のポジションは真ん中のやや前で、4年生の頃はここでもらったボールをドリブルで抜いて決めればよかったのだ。だが、いまは厳しいマークがある。そこで私が考えたのは、敵に背中を向けた状態で味方からボールをもらい、そこから左右のトップにいったんボールを散らすというものだった。「ゲームメイク」というやつである。
 ボールをもらったトップはサイドに深く切り込み、もし中に入ることが出来たらそのままシュート、悪くてもセンタリングまでは持ち込める。パスを出した息子はただちにゴール前に突進し、シュートのこぼれ玉や、センタリングを決める、という作戦だった。
 私たちは暇さえあればこの作戦を成功させるための練習にあけくれた。幸い、息子は敵に背中を向けたまま、グランダーでも浮き玉でも、ダイレクトで左右のトップにボールを散らすことが出来た。(つまり、左右のインサイドキックで斜め後ろのスペースにボールを出す)
 問題はハイボールだったが、これもヘディングで同じ位置に散らす、という練習を繰り返すことで対処した。これが出来るようになると、欲の深い私は、上背のある敵に競り勝たせるため、同じことをジャンプの頂点で出来るように息子をしごいた。(いわゆるジャンピングヘッド)
 こうした地道な特訓の成果は、じょじょに試合に現われ始めていた。



黄昏の猛特訓



 あるとき、息子のことで監督と話す機会があった。

「最近、私が教えていないプレーをするんですよ」

 監督はそう言って小首をかしげる。当時の私たちの特訓は誰もいなくなった黄昏時のグランドや公園でやるのが通例だったので、監督が知る由もない。

「暇なときに、私がときどき練習の相手をしてやってますから」
「なるほど、そうでしたか」監督が大きくうなずく。
「息子や近所の子に、個別指導をしても構いませんよね?」

 遠慮がちに私は尋ねた。親とはいえ、無断で息子に技術や戦術の指導をしたことが監督の気にさわったのではないか、という懸念がある。話が出たついでに、この際監督の了解を得ておこうと思った。

「ええ、別に構いませんよ。私も一人でやってますので、とても個別指導までは手が回らないですから」

 こうして監督のお墨付きも得た私の特訓は、より激しさを増した。教えた成果がプレーの結果として現われることに、私は至上の喜びを覚えた。いま振り返ってみれば、私は根っからの「コーチ」だったのかもしれない。
 二人の練習はいつもPKで締めくくられた。私の頭には、幼稚園や4年生のときの息子の勝負弱さがこびりついている。
 私の考えたPK作戦は、目と足でキーパーを混乱させる、というものだった。息子はキック力があまりなく、コースが甘いとPKはほとんど止められる。そこで通常と全く同じ足のスィングでボールをアウトフロントに引っかけ、キーパーの反応しにくいゴール右上をねらわせるようにした。
 これだけではまだ甘いので、蹴る前にキーパーとの駆け引きを覚え込ませた。つまり、実際に蹴る方向とは反対の(左に蹴るぞ…)とキーパーに思い込ませるのである。アプローチの仕方、視線の動かしたなどで具体的な「演技」の方法を教え込んだ。
 息子のPKは上達し、(これならいける…)という確かな感触を私はつかんだ。本番での機会が訪れることを私は心待ちにしたが、皮肉なことに、5年生のときに限って、息子がPKを蹴る場面は一度も訪れることはなかった。

 このときの充実した一年間を私はいまでも懐かしく思い出す。夕暮れ時の誰もいないグランドは、私と息子のものだった。息子は素直で私の言うことをよく聞き、吸収していった。私と息子はことサッカーに関すれば、一心同体であり、深い絆で結ばれていた。そしてこのときの猛特訓は、一年後に見事花開くことになる。



(感動の巨編は第4部『親がコーチで子がキャプテン』へと続く→もう止まりません!)(^_^;