親馬鹿サッカー奮戦記・第2話
 親子のサッカー武者修行 /'96.7



息子の才能



 幼稚園の対抗サッカー大会で思わぬ緒戦負けを喫してから半年が過ぎ、息子は晴れて小学校に入学した。小学校には学校の先生が指導をするサッカー少年団がある。だが、入団は3年生になってからでなければ許されなかった。それなら3年生までは私が息子をマンツーマン指導するまでだ。どこまでも親馬鹿な私はそう決意した。
 仕事の暇をみては、毎日のように空き地でのサッカートレーニングは繰り返された。息子はメキメキと力をつけてくる。特にドリブルとスピードにのったフェイントがうまかった。(これなら少年団に入っても遅れをとることはない)と私は喜んだ。だが、そんな私にもひとつの気がかりがあった。

(息子には本当にサッカーの才能があるのか?)

 そうなのだ。私はサッカーは素人なので、本当のところは分からない。だが、親の欲目抜きにして冷静に判断しても、見るべきものはあると思えた。そう信じたかった。最後にはどう転ぶか分からないとしても、ここは息子の才能を信じて突き進むしかない。さあ、それから3年生になるまで私の息子を連れての武者修行がはじまった。
 東でサッカー教室があると聞けば車で走り、西で女子サッカーの練習があればどさくさにまぎれて飛び入り、といった具合。不思議なもので、サッカーをやっている人たちは、そんな「サッカーおたく親子」を、どこでも暖かく迎えてくれたのだった。
 ときには空き地で見知らぬ人々とミニゲームに興ずることもよくあった。月並な言葉だが、「サッカーをやる人間は皆ともだち」なのである。



それでも練習



「僕、知らない人となんかサッカーしたくない」

 最初のころ、せっかく連れていったグランドで、息子が突然こんな言葉を言いだしたことがある。「セルジオ越後のサッカー教室」というイベントに参加したとき、集まった子供たちで臨時のチームを作ってミニゲームをやろう、という話になったときのことだった。私はこれを聞いて頭をかかえた。親の心子知らずとはまさにこれだ。

「お前な、本当にサッカーが好きなのか?」

 いっしょに行った娘はけろりとしているのに、しまいには息子は泣き出す始末。 見知らぬ上級生に混じって、息子がどれほどの力を見せるのか密かに期待していた私は、どこか裏切られた気持ちだった。幼稚園の対抗サッカー大会で、ここ一番のチャンスを逃したときのことが脳裏をかすめた。

(やっぱりコイツは大物にはなれないのではないか…)

 だが、いやだという子供に無理に尻をはたいてやらせるほど、私は冷酷な父親にはなれなかった。他の子供たちの歓声が響くなか、私たちは寂しく会場を去ったのだった。

 私はこりなかった。息子と私はいっしょに練習しているので、スピード以外は息子と私の技術は同じようなもの。息子だけでなく、私はつとめて自分も混じってボールを蹴るようにつとめた。
 そんなこんなの武者修行が続くうち、息子も次第に見知らぬ人とサッカーをすることに慣れ始めた。無理もない、サッカーはど素人の私自身が、見た目にもはっきりうまいと分かる人々に混じって、平気でサッカーに興じていたのだから。

「お前、チビだけどすごいじゃないか!」

 そんな声がかかったのは、確か息子が2年生の夏だった。新聞の掲示板に載っていたサッカーコーチ依頼の記事に、わけもなく便乗し、「応援団」の名目で練習に参加させてもらっているうち、息子は全国大会に行ったことのある、札幌でも有数の高校サッカーチームOBの方から、そんな声をかけられた。
 3:3のミニゲームで、混じっている子供は息子ただひとり。回りは私を除いては、すべてそうそうたるメンバーの大人だった。
 そのときの息子のプレーを、私は今でもはっきり覚えている。その某有名高校OBの人が裏のスペースに出したパスに息子が鋭く反応し、スライディングでゴールを決めたときにその言葉はかけられた。

「お前、うまいよ〜、名前なんていうんだ?」
「タクヤ」
「そうか、タクヤか。よ〜し、よく覚えておこう」

 息子のうれしそうな顔。

(やはり私の目は狂っていなかった…)

 言葉にこそ出さなかったが、私はひとりほくそえんだ。



サイは投げられた!



 やがて息子は3年生になった。待ちに待った少年団に入るときが来たのだ。巷ではすでにサッカー人気が高まり始めており、同時期の入団者は30人近かった。レギュラー争いは激しい。
 ここで3年のときの試合の記録を調べてみたが、なぜか全く載っていない。
(ちなみに、息子は自分のサッカーの試合記録を克明につけている)
 聞いてみれば、どうやら3年のときはひたすら練習ばかりで、公式試合はひとつもやっていなかったようだ。

 さて、それでは4年生だ。親の期待通り、息子はめでたくレギュラーをとった。ポジションはぶっちぎりのセンターフォワード。(当時はまだ3トップが全盛)背番号は11番をもらった。
 私は小学校時代の息子の試合を、ほとんど見ている。デビュー戦も確かに見ていたはずなのに、なぜかあまり記憶にはない。サッカーノートを開いてみると、

「7/10(日)市民大会第1回戦/2:0で勝ち、1得点1アシスト」

 と記されている。ううむ、そうだったのか…。(^^;
 とにかく、区大会レベルでは息子のサッカーは順調だった。4年生のときは区では無敗で、すべて全市トーナメントまで勝ち進んだ。息子はほとんどの得点にからみ、名実ともにエースの名を欲しいままにした。
 当時の1年間の記録を見ると、「13試合で16得点5アシスト」とある。してやったりだ。ところがここで大きな問題が起きた。トーナメント2回戦の壁が破れないのである。区のリーグ戦ではすべて優勝し、トーナメントでも緒戦は勝てるのに、2回戦あたりになると決まって接戦になり、最後は結局PK戦で負けてしまうのだ。
 チームエースのはずの息子は、格下の相手には得点を重ねるのに、強豪相手のここ一番の場面になるとなぜか得点出来ない。しかも、PK戦では全て外してしまう勝負弱さ。これは大問題だ。私の胸を幼稚園のときの悪夢の決戦がよぎる。あのときも息子は決定的な場面で決められず、PKも外していた…。

(このままでは大物にはなれないぞ)

 私は直観的にそう思った。息子にはサッカーに大切な何かが欠けている。それを見つけて埋めてやらない限り、息子はこの壁をつき破ることができない。
 息子が10歳、私が39歳のときの秋。北のサッカーシーズンはすでに終わりを告げ、やがて季節は冬に入ろうとしていた。私と息子は厳しい冬に向かって、新たなる挑戦の旅に出ようとしていた。



(感動の巨編は第3部『黄昏の猛特訓』へと続く→まだやる気?)(^_^;