OPEN..LIVE..ROOM


2005秋・夕映えフォークコンサート
  "森の記憶"
/2005.11.19



 秋も深まりつつあった頃、訪問ライブや青空ライブのスケジュールに追われる日々のなか、(そろそろ外でのライブは難しくなってくるな…)と、ある日ふと思った。
 空いたスケジュールを新しい仕事の構想や休息にあてる考えも悪くなかったが、今年の初めから始めたさまざまな形でのライブ活動もすでに20を超え、それに附随して自然発生的に出来たオリジナル曲も20を超えている。この際、室内のどこかで今年の集大成のような形でソロライブが出来ないだろうか…。そんなことをぼんやり考え始めた。

「人生ははかなくて短い」「思い立ったら動け」が人生モットーなので、だいたいの場合、思い立つとすぐに行動に移す。
 まず考えたのは、どこかにアマチュアでも歌わせてくれるライブハウスか喫茶店がないだろうか?ということだった。音響設備は持込みでもよいが、少なくとも場を安く提供してくれる店を何とか見つけだそうと思った。
 素人のソロライブに1時間以上もつき合ってくれそうな聴き手の心当たりは、これまでの音楽活動のなかで自分の歌を好意的に評価してくれた妻の友人が数人。どなたも自宅近隣に住んでいるので、会場も自宅周辺が望ましかった。

 妻も含めてせいぜい4〜5人程度の集客で、場を提供してくれそうな店はごく限られていた。いくつか当たってみた近隣の喫茶店ではデモ音源すら受取ってもらえず、「前例がないので…」と、その場でやんわり断られたりもした。
 唯一デモ音源を受取ってくれたクラシック系ライブを多く手掛ける近隣のカフェからは、待てど暮せど音沙汰なし。じりじりと待つうち、しょせんは実績のない素人なのだと、弱気の虫が騒ぎだす。
 時だけが虚しく過ぎ去るうち、(いっそ気兼ねのない自宅でやってしまおうか…)という考えがふと頭をよぎり、その思いは日増しに強くなっていった。

 ときどき顔を出すライブ居酒屋のマスターが、日記等の情報から私の構想をキャッチしたようで、「私の店も候補のひとつに」との暖かい声をかけてくださった。しかし、プロのライブが中心のお店で、これといった実績も集客能力も自信もないただのアマチュアが、おいそれとライブをお願いするわけにはいかない。お店の場所が自宅からかなり遠いという事情も、特に集客面で大きな不安だった。
 涙の出るようなありがたい言葉だったし、マスターの好意を無にするようで心苦しかったが、身の程をわきまえ、「実績を積んでから、いつかきっと…」と、丁重にお断りした。

 さて、そうなるといよいよ自宅でのソロライブをやり遂げようと腹は決まった。最も負担をかけそうな妻も私の奔走する姿を見兼ね、「家でやりなさいよ」と、わがままを許してくれた。自宅開催の最初の大きなハードルは妻の暖かい理解で、まず乗り越えられた。
 機材はほぼ整っているつもりだったが、今後のことも考え、マイクと譜面台を新しく買い足した。
 問題は会場のことで、当初は1階居間を会場にするべく、いろいろ画策した。台所横の1坪ほどのスペースにスクリーンを吊るして区切り、照明を落せば何とかステージになるかと思った。だが、いろいろ試してみると、どうも客席の配置がすっきりしない。万が一聴き手が増えた場合、床に直に座って聴いていただくような形になり、あまり好ましくない印象がだんだんしてきた。

 そこで以前から簡単な録音作業などをやっていた2階を会場に出来ないかと考え始めた。我が家の2階は仕切りのないワンルーム形式になっていて、椅子の配置さえうまく収まれば、広さの面では1階よりもコンサートには適している。
 2階にはかって二人の息子が使っていた当時のベットなどが残っていて、スペース的にはやや手狭だったが、ここを思いきった発想で改造してやろうと決意した。

 ベットや不要な棚などを解体し、使える材料は再利用して合計5人くらいが座れるベンチを二つ作った。ベンチを二つ合わせると、ベットとしても使えるマルチ家具である。
 たまたま仕事が切れていて、居間のテーブルを作り直した時期にでた多量の残材を再利用し、小振りの椅子を4つ作る。既存の物をあわせ、屋内用の椅子だけですでに12個。これにベンチの分をあわせると17席となって充分過ぎるはずだったが、同時に傷みが激しかったテラスの椅子を3つ作り直した。このあたりは単なる勢いである。
(この勢いで作り直したはずのテラス用椅子が、皮肉にも本番で役立つことになるとは、この時点では夢にも思っていない)

 ステージの場所は部屋の各方向からまんべんなく見え、出入口にも近くて客と動線がぶつからない場所に必然的に決定。背景の壁が無愛想なので、歌い手の顔が引立つよう、暖色系で濃い目の布を天井から垂らす。
 照明にはかなり苦心したが、コストを最低限に抑えるため、工事現場用のスポット照明を流用した。客席との陰影を考え、これまた手製のシェードをつける。

 音響や会場設備のハード面の準備はこうして徐々に固まっていった。直前には前述のライブ居酒屋のマスターご夫妻に来ていただき、実際に会場で歌ってみて不都合の微調整を行った。

 残る大きな問題は集客であるとか、当日の運営などのソフト面である。ここで活きたのは、前年に手がけたプロ歌手のコンサート主催の経験だった。熱意だけで始めたど素人による怖いもの知らずの企画だったが、これと思い立ってやることに、人生無駄なものなど何一つない。
 来てくれそうな方々にハガキで案内するためのフライヤー(チラシ)とその配付方法、当日のプログラムや案内板の構成など、あらゆる面で当時の経験が役立った。

 コンサートの曲目は当初から全曲オリジナルでいこうと決めていた。それがアマチュア・フォークシンガーとしての自己の世界を、最も強く打ち出せる手段と考えたからで、楽曲の完成度は別にし、何かが少しでも聴き手の心に届けばそれでいい、と単純に考えた。

 コンサート告知はそう大々的にはやらなかった。コンサートの主旨が「自分たち夫婦の生き方暮し方をありのままに見せる」というものだったから、来ていただくお客様も「数さえそろえば誰でもよい」ということには当然ならない。
 他から見ればごう慢に思われるかもしれないが、たとえ数は少なくとも、これまでの、そしてこれからの自分たちの生き方暮し方を理解してくれるであろう方々をお招きしようと考えた。

 メールを4通、ハガキを8通だけ出したが、仕事などの都合で来れない方が数人いただけで、大半の方々から「ぜひうかがいます」との暖かい返事が届いた。
 1通の案内で複数の参加を予約してくださる方々も相次ぎ、本番にはまだ間があったが、席数の都合で急きょ予約を締切らざるを得なかった。
(4〜5人くらいの参加で…)と考えていた当初には予想もしなかった展開に驚き、ちょっと慌てる。幸いだったのは、これが本番のかなり前だったことで、変なプレッシャーや無用の気負いを落着かせる充分な時間があったことだ。

 さて、いよいよ本番当日である。玄関ホールには譜面台を利用した案内板を設置し、小さなスポット照明を当ててムードを盛り上げた。外はあいにくのみぞれ混じりの雨。悪天候が気になり、いつもより早めにボイラのスイッチを入れ、傘立ても多めに準備する。
 ホステス役の妻はプレッシャーからか、朝から落着きがない。「まあ、そう構えないで肩の力を抜いて」と、歌い手である私がなだめる始末。
 椅子やPAに代表される会場の準備は前夜すでに終えていて、遠方に住む知人のSさんから前日届けられた花篭が、ステージ前を美しく彩ってくれている。Sさんとはあるライブで一度お会いしただけだが、ネット配信しているオリジナル曲をいつも聴いてくださっている、とてもありがたい方なのだ。

 最初のお茶と終了後の茶話会の準備は妻にまかせ、2時頃から最終リハを始めた。
 季節の変わり目で喉の調子はいまひとつだったが、前夜にいつもの喉の調整薬、ショウガの蜂蜜湯を飲んだおかげで、かなり回復している。曲の細かいコード進行が気になり、いつもなら1番だけで済ませるリハを、ついフルコーラス歌ってしまう。
(この判断が実は誤っていたことを後で思い知る)

 開始の1時間前には妻の職場仲間のNさんがいち早く訪れ、予め依頼してあった車での送迎を引き受けてくれる。車のない方が4人いて、都会の辺地である我が家を徒歩で訪れるのは非常に厳しいのだ。
 このNさんの車で、ボランティア雑誌の取材で知り合ったMさんたち3名と妻の友人のGさんが現れる。Gさん以外は初めての訪問で、ライブより何より、木材や手作りを多用した一風変わった我が家の造りに、興味津々の様子。
 やむなくまるでモデルルームの販売員のように、家の説明に応じる。今回のコンサートは歌も含めた私たち夫婦の暮らしぶり全体を見ていただく主旨もあったから、これもごく自然な流れだった。

 最初に席についた4人の方々のためにマイクテストを兼ね、「さくら」(森山直太朗)「雨が空から降れば」「黄昏のビギン」の3曲を短かめにはしょって歌う。10日前のライブ居酒屋のマスターご夫妻を前にしたリハでは、なぜか上がってしまって声が震え、ギターを押さえる手もおぼつかなかったが、この日は腹が座ったのか、そんなことはなかった。

 そうこうするうち、バタバタと続けざまに客がやってきた。この日の朝にも二人の予約が入り、結果的に客は私たち夫婦を除いて17名となった。椅子もコーヒーカップもコースターも家中のものを総動員。妻が機転を利かせ、洋風の湯のみ茶碗にコーヒーを注いで配っている。
 コーヒーと同様にリクエストが多かったのが、自家製の無農薬有機農法で育てたカモミールティーだったそうで、なんとなくこの日の客層をうかがわせる話だなと妙に感心した。

 挨拶や案内などに追われているうち、あっという間にライブ開始時刻の4時半になった。直前まで走り回ったせいか、喉がやたら乾いている。主催者から歌い手への気持ちの切り替えが難しかったが、予め準備しておいた水を一口のみ、会場の照明を消してスポットライトだけにすると、ようやく気分が落着いてきた。
 定刻より3〜4分遅れてライブの開始。ライブは休憩をはさんで前後半に分け、それぞれ7曲ずつ40分、合計14曲歌う予定だった。


 前半40分のセットリストは以下の通り。(末尾は曲完成年月日)


「展 開」... 1973.9.6
「秋の日に」... 1974.9.12
「街染まる」... 2004.6.10
「愛しき日々」(オリジナル作詞)... 2005.5.18
「森の記憶」... 2005.7.28
「コンドルは飛んで行く」(オリジナル訳詞).. 2005.5.17
「初恋の来た道」 ... 2005.6.8


 全曲オリジナルではあるが、プログラムには曲完成までの簡単なエピソードを添え、特に前半は耳になじみのある既存の曲に手を加えた作品を2曲入れた。

 曲を作り始めた初期の作品を2曲まず歌う。
「展 開」はストローク奏法のアップテンポの曲で、1曲目だから短くてコードも平易、しかも明るくて乗りのいい曲を選択した。無難にこなしたが、妻と私を入れて19人が入った2階14畳の空間は、リハの時とは音の反響が微妙に違う感じがした。前日に弦を替えたばかりのギターの音も、やたら大きく聴こえる。
 不安になって会場の最後尾に座っていたマスターに確かめてみると、案の定、少しボーカルの音が小さいという。以降、ギターのボリュームをもう一ランク下げることにする。予告なしにMCで振ってしまったマスターには申し訳なかったが、入りの部分で聴き手と直接会話のキャッチボールをし、会場全体の雰囲気を和らげたい、そんなねらいもあった。
 2曲目の前に、沢田研二が歌ってヒットした「危険なふたり」をMCの延長のような形でいきなり歌った。サラリーマン時代に会社でさんざ歌わされた曲で、プログラムにはない構成だったが、こちらも場を和らげる工夫である。

 このふたつでおよその場の空気はつかんだ。悪天候のせいで外はもうすっかり暗く、会場からステージが照明でぽっかり宙に浮かんだような感じで、集中しやすい環境がさらに整っていた。
 曲作りの30年近いブランクを埋める記念碑のような「街染まる」を3番目に歌ったが、このときもMCの延長でさらりと「時計台の鐘」の唱歌を歌う。唱歌は得意なので、自分のペースに乗せるにはもってこいで、このあたりはグループホームの訪問ライブで会得した技である。

 4曲目の「愛しき日々」は、やはりカバー曲にオリジナルの詞をつけたもの。ワルツの早いアルペジオなのでサムピックはつけず、指だけで弾いた。この曲はうかつに歌うと自ら泣いてしまう危険な曲だったが、この日のリハでもやはり最後で声が詰まった。本番では何としてもそれを避けようと、情に流されないよう懸命にこらえた。
 苦心のかいあって、「『愛しき日々』がとてもよかった」とあとで妻の友人から言われ、単純にうれしかった。

 この日の歌は全体的に出来がよく、終えたあとの色々な方からの反響でも、心に残った曲はかなり分散した。ある人は「愛しき日々」が良かったといい、ある人は「初恋の来た道」が、また別の人は後半に歌った「夕映えの髪」が、いや「もっと」や「流れる」も耳に残ったと、実に様々な感想が飛び出した。
 このように具体的な曲名がボロボロ出てくるのは実にうれしく、励みになる。全曲オリジナルともなればなおさらだ。
 反対に、感想に具体的な曲名が何も出てこないのは歌い手としてはちょっと寂しい。それは歌い手の実力でもあるので仕方がないことなのだが、私が誰かのライブに行き、感想を送るときは、必ず数曲の心に残った曲を添えるよう心掛けている。それは相手がプロであろうがアマであろうが、魂をこめて歌っている方への気配りだと思っている。

 MCと歌う時間のバランスは、最後の「2005赤れんが広場〜青空ライブ」で妻の友人であるGさん相手に試し、ほぼつかんでいる。だいたいこれくらい話せば曲と合わせて5分消化、といったあくまで感覚的なものだったが、予定通り5時10分に前半を終わらせるためには、スタートで遅れた3〜4分のロスを少しずつ曲間にちらし、後半のMCをおよそ1分ずつ縮める必要があった。
 5曲目の「森の記憶」が終わって時計を見ると、5時ちょっと過ぎ。調整がうまく運んだようだ。話が前後するが、この「森の記憶」はこの日のコンサートのサブタイトルにした曲でもある。この年のいろいろな思いをこめて作った歌で、ラストに歌うべきかどうか、かなり悩んだ。
 最終的にこの位置に収まったのは、前半の小さな山を早めにここで作り、ラストは同時期に出来た評判の高い曲「流れる」に譲ったのである。二つの曲の奏法とテーマがやや似通っていて、「あの2曲はなるべく離して歌わなきゃダメよ」と、マネージャー役である妻から事前に釘をさされてもいた。

「初恋の来た道」を歌って前半を終える。時計はまるで計ったようにぴたり5時10分だ。この曲は当初、後半に歌う予定でいた。永遠の夫婦愛をテーマにしていて、前半はどちらかと言えば森羅万象(自然)、後半は中年世代の愛をテーマに組立てていたから、本来なら後半の位置に収まるべきだった。
 直前で変えたのは、所用のために前半だけで帰るかもしれない、という方が複数いたからで、「自然→愛」という切り替えを、二つの要素を持つこの曲に託した。つまり、「後半はこのような歌が中心です」というメッセージを、後半を聴けない方のために、予告のような形で示唆したのだ。

 ところが、前半を終えても、帰るのはなぜか30年来の古い友人のYさん一人。(この理由は確かめていないので、よく分からない。前半が予想よりも良かったので、つい残ってしまったと考えるのは、虫が良過ぎるだろうか?)
 玄関先で彼女を見送ったが、「素晴らしい歌だったわ。昔よりなぜか上手くなっている。どうして?」とうれしいことを言ってくれた。30年前の私の歌を何度も聴いている生き証人のような方だったが、歌にも「年季が入る」ということが起こるのかもしれない。
「途中で帰るのがとても残念だけど、今度は友達も連れてくる。また呼んでね」そう言って彼女は名残惜しそうに去った。
 歌うにつれ、徐々に乗ってくる自分と、それに呼応するような確かな会場の手応えを感じてはいたが、長いつき合いのある彼女のこの言葉は、後半に向おうとする私を大いに勇気づけ、励ましてくれた。

 10分の休憩のあと、後半を始める。普段よりも早めに暖房をつけているせいか、喉がやたら乾く。
 リフレッシュ後の後半40分のセットリストは以下の通り。(末尾は曲完成年月日)


「バンダナを巻く」... 2005.4.14
「向い風」... 2005.10.12
「メガネを買う」... 2005.1.23
「夕映えの髪」... 2005.1.1
「もっと」... 2005.10.5
「新しき世界」(オリジナル作詞)... 2005.5.17
「流れる」... 2005.6.25
 〜アンコール
「里山景色」... 1975.1.15(2004.6)


 後半1曲目にはやはりアップテンポの曲を選択したが、こちらはギターにハイコードのBやCをやたら使っていて、非常に弾きにくい。前日にフレッドの一部に印をつけたのが効を奏し、ノーミスで乗り切る。
 続く「向い風」は30年前に作った同名の曲のタイトルだけを活かした作品。私小説風なラブソングで、10日前のリハでは不覚にも涙をこぼしたが、この日は際どくこらえた。

 前後半を通して、最近会得したばかりのサムピックを本格的に使ったが、使った場合とそうでない場合とではかなりギターの音色が変わる。曲調にあわせて使い分けると、同じアルベジオ奏法でも単調にならずに済むことが分かった。
 些細なことだが、下手なギターに少しでもメリハリをつけるべく、小節毎に何も音を出さない空白をあえて作ったり、ストロークを部分的に入れたり、リードギターで弾くべき間奏や終奏をスキャットで補ったり、さまざまな試みをした。終了後の感想でそれらのことを指摘してくださった鋭い方がいたので、それなりに機能していたのだろう。

 3曲目以降も中年むけの新しいタイプのラブソングを連発したが、会場の反応はとても良かった。実は前半の数曲では、私の歌をあまり聴き慣れてない一部の方に、多少の飽きがあったように感じていた。
 聴き手のサインは目や表情、身体などに如実に現れる。たとえ暗い会場であっても、楽譜を見、時にはギターコードを確認し、なおかつそうした会場の様子をしっかり確認しながら歌っている。聴き手が曲に入り込んでくれているときは、目も顔も身体も動きがなく、そうでないときはどことなく落着きがなくなる。ひどいときは隣人と小声で話していたりする。
 歌い手はステージでそれに気づいても、ひたすらMCや歌そのもので場を作るしかないが、それが叶わないときはかなり惨めなことになる。

 この日は前半の半ばあたりから会場の反応が徐々に良くなり、それに応えるように喉の調子も尻上がりに良くなっていった。多くの場合、歌い手と聴き手は互いに呼応しあう。聴き手に恵まれていたのだ。これに関しては終了後の妻との反省会でも意見が一致した。

 5曲目の「もっと」を歌い終えたあたりから、徐々に疲れを感じ始めた。この歌はこの日のライブのために書下ろした作品だったが、非常に熱の入る歌で、消耗する。終了後の評判も非常に良かったのだが、その分疲れも増大したようだ。
 別の理由に、前半にMCの延長としてのカバー曲も含めると9曲歌い、その前にはマイクテストで3曲、リハでは17曲を歌っている。合計ですでに30曲を軽く超えており、明らかに歌い過ぎだ。どうやら万全を期してリハを完璧にこなしたのが裏目に出たようで、しまったと気づいたが、時すでに遅し。
 客席で聴いていた妻も危険信号を敏感に察知したそうで、(最後まで声が持つかな…)と不安でたまらなかったそうだ。

 1曲毎に水を口に含み、悲鳴をあげつつある喉をなだめる。激しく歌いあげたあとの熱冷ましとも言うべき「新しき世界」を、何とか無難にこなす。
 あとである方から「曲の構成に変化がある。かなり考えたのでしょうか?」と問われたが、まさにその通りで、聴き手が飽きないよう、ストローク奏法とアルペジオ奏法を交互に演奏する曲順を原則的に選択した。なおかつ全体が自分のこれまでの音楽人生を語るストーリーのような構成にしたから、相当考えたことは確かだった。

 ラストの「流れる」を歌い終えると精魂尽き果て、その場に崩れ落ちそうになった。だが心優しき会場からは「アンコール!」の嵐。実は当初の予定ではアンコールを2曲歌うつもりでいた。だが、もはやそんな余力は残っていない。手元の時計を見るとちょうど6時5分前。
 この日のライブの主旨や謝辞を簡単に述べたあと、「この後お仕事の方もおられるので…」と、ネット配信でダントツ一位の閲覧数を誇る「里山景色」を歌い、予定の6時ちょうどにお開きとさせていただいた。

 すべてが終わって同時録音したはずのMDを見ると、なぜか録音が止っている。それを見て思わず青ざめた。普段はライブの録音にはそうこだわらないが、この日は記念すべき最初の自宅ソロコンサートである。その音源がないのは、いかにも惜しい。
 調べると前半部はかろうじて残っている。どうやら休憩中の無音状態で、機械が勝手にオフになってしまったようだ。
 聴き手には直接迷惑をかけていなかったが、この日最大のミスである。「無事に音源がとれたらCDに焼いて送ります」と約束していた二人の方に、申し訳なく思った。この日の後半部の歌を仮に誰もいない場で歌って録音したところで、ライブと同じ歌には絶対に成り得ない。だからこそ悔やまれるのだ。

 運営と歌の両方を完璧にこなすのは、やはり不可能なことなのだろうし、「また次をやりなさいよ」と天が示してくれたものと、前向きに考えるしかない。
 小さなミスはいくつかあったが、全体を見ればすべてが手探り手作りの企画としては、大成功と評価していいと思う。長年の目標だった「音楽を介した大人の遊び場作り」への第一歩は確かに記された。二歩目は一歩よりもきっと楽になる。

 終了後にJRで帰る方々を車で駅に送り届けたあと、帰り道で左の指全体がつってしまい、ハンドルをまともに握れなくなった。コードをきつく押さえ過ぎたせいだろう。まるで初めての経験だった。ハイコード連発のギターを大きなミスなしにどうにか乗り切ったが、やはり相当力が入っていたのだ。

 仕事のある方が多く、茶話会は私たち夫婦を含めて7人のささやかなものだったが、ライブの感想を含めた音楽談話でかなり遅くまで盛上がった。
 お客様が帰ったあとの夫婦だけの反省会もまた夜半まで続き、夫婦ともどもおよそ2ケ月近くかけて周到に準備し、夕映えに赤く燃え上がった熱は、なかなか覚めようとしなかった。