同じ椅子に座った人


        1994.3  菊地 友則


 木々の緑は濃く、風はさわやかだった。そこは市の郊外にある、景勝地で名高い山の頂上だった。僕と君は山頂にある展望台の手すりにもたれ、木々の間からのぞく街並みをながめていた。
 二人はもう長い間そうやっていた。平日のせいか、観光客の数は少ない。二人とも何も言わなかった。何か言うべきなのは、僕のほうだったのかも知れない。なぜなら、僕は半年振りに君に会うために休暇をとり、就職先の東京からはるばる北海道までやってきたのだから。
 だが、最初の日から、僕と君の間には何かぎくしゃくとした空気が流れていた。僕にはその正体が分からなかった。それが、久しぶりの再会からくるぎこちなさとは違ったものであることだけは確かだった。
「私、卒業しても東京へは行かないかも知れない」
 長い沈黙を破ったのは君のほうだった。視線は眼下の街並みに向けられたままだ。風が揺れ、木々の葉がせめぎあうようにカサカサと乾いた音をたてた。
 僕は最初、風のせいで聞き違えをしたのかと思った。だが、振り向いた僕の視線から逃げるように君が顔をそむけるのを見たとき、それが聞き違えではなかったことを悟ったのだ。
「東京へは行かない」という君の言葉は、僕にとって「あなたとは結婚できない」と同じ意味を持っていた。
 卒業の時、僕が口にした「結婚」の言葉に、「私が卒業するまで返事を待って」と言われたときから、僕にはこんな日がいつか来ることが分かっていたのかもしれない。
 いや、違う。もっと以前から。そう、あれは君とつき合うようになってすぐのあの二年前の秋、君があの人と同じ椅子に座ったあのときから、こうなることは分かっていたことだった。
(これはお前のやってきたことへの報いだ)
凍りついた頭に、どこからかそんな声がくり返しくり返し落ちてきた。

 僕は夜の学生寮の裏庭に一人たたずんでいた。台風が迫っているせいか、風が黒い裏山の木々をざわめかせ、空には星も見えない。
 僕の手には分厚い手紙と写真の束が握られている。僕は小石を拾い集め、小さなかまどを作る。これから報われなかった僕の切ない片思いの葬儀をやるのだ。
 それは僕の一方的な恋だった。いや、「恋」と呼ぶべきものでもなかったかもしれない…。
 彼女は何十人もの中から公募で選ばれた、ラジオの深夜放送のDJだった。洗練された語り手が多い中で、地方の出身だという彼女の飾り気のない語り口に、僕は好感を持った。
 僕は投稿魔ではなく、ラジオに葉書を出したことなどない。だが、なぜか彼女には葉書を出す気になった。内容は僕の初恋に関する短いエッセイだった。
 次の放送でその葉書が読まれた。僕は有頂天だった。「続編もぜひ送ってくださいね」とラジオの彼女が言った。続きを書いた。またそれも採用になった。
 つぎつぎと葉書を書いては出す。そのほとんどが採用だった。いつの間にか僕は彼女の放送の常連になっていた。毎週投稿のネタを考え、それを送るのが楽しみになっていた。
「くだらねぇこと、よくやってるよ」
 友は冷ややかにそう言ったが、僕は意に介さなかった。

 数ヶ月が過ぎた。地味だった彼女の放送にも、じょじょに人気が出始めていた。僕の投稿は続いていた。そのころになると投稿用の手紙のほかに、プライベートな手紙まで同封するようになっていた。
 内容は、愛とか恋とかの甘ったるいものではなく、自分の人生観や宇宙観といった堅苦しいものばかりで、はたして彼女がそれを読んでくれているのかさえ疑問だった。でも、僕はただそれを彼女に書きたく、書かずにはいられなかった。
 突然、彼女から返事がきた。それは放送局の封筒ではなく、私用の封筒だった。美しい記念切手が貼ってあり、封を切る時、胸がはずんだ。
「いつもお便りありがとう。放送では読めないほうのお手紙も、いつも楽しく読ませていただいています。今度いつか、お会いして、『人生論』を戦わせてみたいですね」
そんなことが書いてあった。なぜそんな手紙をくれたのか、僕は彼女の真意を計りかねた。
「大事な常連さんとして、キープしておきたいだけさ」
 友は相変わらず冷淡だった。
「個人的好意だなんて思い違いすると、痛い目に会うぞ」
 友は重ねてそう言った。そう言われると、そうかな、と思った。だが一方では、(そうではない)という思いもある。その封筒には彼女の氏名のほかに、彼女の自宅の住所が書かれていた。
(単なる外交辞令の手紙なら、自宅の住所など書くはずがない…)

 僕は彼女の誠意を信じ、手紙を書き続けた。彼女からはきちんと返事がくる。すぐにそれは分厚い束になった。あるとき、「放送局にぜひ、会いにきてください」と手紙に書かれていた。僕の住む町と放送局とは汽車で二時間ほどの距離だったが、僕は迷わず会いに行こうと思った。
 約束の日と時間に合わせ、僕は放送局に向かった。その日、彼女は放送の準備のために局に来ているはずだった。待ち合わせの場所は局のロビーだった。
 何時間も待った。だが、いくら待っても彼女は現れなかった。僕は茫然としたまま、ふらつく足取りで駅へと向かった。
 来るときは期待に満ちていた列車の明るい窓が、今は黒い縁どりの絶望の窓に変わってしまっていた。
(やっぱり自分は裏切られたのだ)
 そんな虚しい思いが僕を打ちのめした。
 憔悴しきって戻った僕に、「だから本気にするなって言っただろ」と、珍しく優しい口調で友が言った。僕は何も言葉を返せなかった。

 数ヶ月が過ぎた。しばらくたって彼女から手紙があり、双方に行き違いらしきものがあったことが分かった。 「今度は間違いがないように」と、手紙には自宅の電話番号が書かれていた。だが、どういうわけか僕の気持ちはすっかり醒めてしまい、もう彼女に会うことはもちろん、手紙を書く気すら失せていた。そんな自分がよく分からなかった。
(僕は自分で作った偶像に勝手に恋をしていただけなのかもしれない…)
 僕はそう自分に言い聞かせ、そんな夏の陽炎のような自分の想いを捨て去るのには、彼女からの手紙の束をすべて焼き捨てるしかない、と考えた。

 闇の中にチロチロと小さな炎が舞っている。それは二年間の僕のかすかな彼女への想いが、ひとつひとつ消されていくための、送り火だった。消えゆく赤い炎を見つめながら、(これで彼女を忘れられる)と僕は思った。そうしなくてはならなかった。
 そのとき、僕には新しい女友達がいた。
(気持ちの中で、二股をかけるのは嫌だ…)
 僕は男女の仲をそんなふうに考える質だった。

 翌日は日曜日だった。その日は新しい女友達と会う約束があった。朝起きると、外は激しいどしゃぶりだった。北国にしては珍しい大型の台風の上陸をラジオが告げていた。
(今日会うのはとても無理だな…)
 そう思いながらも、すぐに連絡をする気にもなれず、未練たらしく雨のたたきつける窓の外をながめていたとき、僕への電話を告げる寮内放送が入った。今日会う予定の女友達からのものだった。
「今日はちょっと会うの無理ね。また来週にしない?」
 僕は承知し、少しの間雑談を交わしたあと、電話を切って部屋に戻った。しばらくして、再び僕に電話が入った。それがまた女性からのものであることは、呼び出しのサインで分かった。
 当時、女性からの電話だと「…さん、お電話です」という具合に、「電話」の前に「お」をつけるのが寮の習慣だった。
 今し方の女友達が何か言い残したことがあり、もう一度電話をかけ直してきたものと僕は思いこんだ。
「もしもし」と軽い調子で受話器を取ったとき、その向こうから信じられぬ声が響いてきた。
「私、…ですが、分かりますか?」
 一年振りのあのDJの彼女の声だった。僕は懐かしさと驚きのあまりに体が震え、しばらくは声を出せなかった。
 どうしたの…。
 かすれた声でやっとそれだけ言った。昨夜、焼き捨てたばかりの手紙の炎が、まぶたの裏にちらついた。
「いま、…駅にいるんです。会えますか?」
 一年前にラジオから流れていたころと変わらぬ声で彼女は言った。駅とはもちろん僕の暮らす街の駅である。彼女がすぐ近くに来ている…。
 数分前、台風を理由にあっさり女友達との約束を延期したばかりというのに、僕にはそのとき、彼女の誘いを断わることがどうしても出来なかった。

 駅前のアーケードの二階にある「みなみ」という喫茶店で、僕たちは会った。そこは新しい女友達といつも待ち合わせている喫茶店だった。
 本来なら同じ喫茶店で別の女性と待ち合わせるという行為は、避けたほうがよかったのかもしれない。だが、動転した頭の中で咄嗟に口をついたのは、やはりその喫茶店の名だった。
 僕は彼女の顔を放送局のパンフレットで知っていたが、彼女は僕の顔を知らない。何しろ、手紙ではあれだけ語りあっていたはずなのに、会うのはその日が初めてなのである。
 台風のせいで喫茶店の人影は少なかった。階段を駆け上ってすぐに、僕は彼女の姿を見つけた。なぜか彼女も、初対面のはずの僕のことが、すぐに分かったようだった。
 そこでいったい何を話したのか、あまり覚えてはいない。だが、一年前にあれほど好きだったはずの彼女が、手をのばせば触れられるほど近くにいるというのに、僕の気持ちはなぜか固く冷えたままだった。
 そんな空気を察知したのか、彼女もあまり多くを語ろうとしない。雨と風は一層激しさを増し、喫茶店の広いガラス窓をバチバチと打った。
「僕はこの一年ですっかり変わってしまった」
 そのとき、そう言ったことだけははっきりと覚えている。彼女はうつむいたまま、顔を上げない。彼女の細い肩が小さく震えている気がし、そのことが僕の胸を締めつけた。
 しばらくして僕たちは店を出た。風雨はいよいよ激しく、歩道には洪水のように水が溢れ出していた。

「近くに親戚の家があるので、寄っていきます。今日はそこに泊るつもりです」と彼女が言った。
「送っていくよ」と僕は言い、タクシーを止めた。道はすいており、僕たちはすぐに目的地についた。
「私はここで降ります。あなたはこの車で帰って」
 そう言うと彼女は一人で車を降りた。車を待たせ、僕は彼女に続いた。僕にも彼女にも傘がなかった。
「それじゃね」
 そう言う彼女も降り立った僕も、激しい雨のためにずぶぬれだった。彼女の白い頬を伝わるものが雨だけではないことが分かり、僕の胸はさらに痛んだ。
 走り始める車の窓から振り返ると、彼女は雨に打たれながらたたずみ、じっと僕を見送っていた。雨にかすんでだんだん小さくなる彼女の姿を見、僕は本当にこの恋が終わったのだと思った。

 二ヶ月が過ぎた。彼女との別れの日から、僕と新しい女友達の仲は急速に進んでいった。
 大学祭の日が迫っていた。僕は卒業の記念に、コンサートに出ることになった。出し物は、以前の彼女との出会いから別れまでを、詩とギターの弾き語りで物語風に構成する、というものだった。
 なんのためにそんな出し物をする必要があったのか?と問われると、僕はたちまち答えに窮する。以前の彼女を忘れるための「儀式」として必要だったと書くと格好が良すぎるし、失恋悲話を感傷的に弾き語って、単にいい思いをしたかっただけとも言いきれない。
 彼女との出会いと別れ、そして再会があまりにも劇的であったため、誰にも話さずにいると、縛りつけられそうになる自分がただ怖かったのかもしれない。
 いずれにしても僕の女性に対する節操のなさを象徴するような出来事だが、そうせざるを得なかったのには、何かしらの運命のいたずらを感じずにはいられない。
 ともかく、僕はコンサートに出た。内容をかなりアレンジしていたとはいえ、それをいまの女友達に聞かせるのは、さすがにためらわれた。僕が出ることは新しい彼女には内緒にした。僕はずるく、そして卑屈な男だった。
 その発表はうけた。コンサートのあと、「あの話は本当か?」と何人かが尋ねてきたが、僕はただ笑ってごまかした。だが、あまりに評判が良かったそのことが、逆に僕にとって災いとなってしまうとは…。

 大学祭が終わってしばらくして、新しい彼女から電話がきた。いつもの喫茶店「みなみ」で会おう、という。
「歌、上手なのね」
 僕が腰を下ろすなり、先に来ていた彼女がつぶやくように言った。口元は笑っていたが、目は笑っていない。
(コンサートの内容を知ったのだ…)
 僕はそう直観した。そのとき、彼女が二ヶ月前の台風の日にやってきたあのDJの彼女と、全く同じ椅子に座っていることに、僕は気づいた。
(この人は、いつもはこの席には座らないはずだ)
 その店は比較的大きな店で、幾つもの席がある。いつもの席が埋まっているのだろうか…?僕は窓際の席をそっと目で探った。店はそれ程混んでおらず、いつも彼女の座る席は空いていた。
 背中を冷たいものが走り抜けた。こわばった表情のままの彼女の背後に、もう一人の別れた彼女の生霊が貼りついているように僕には思えた。
 僕はそのとき、この人ともいずれは別れてしまうかも知れない…、という漠然とした不安に捕らわれていた。

「もう帰ります。さよなら」
 山の頂上のタクシー乗り場から、そう言って君は車に一人乗り、あわただしく走り去った。駅まで送る、という僕の言葉を振りはらうかのように。
 そのさよならは、その日だけのさよならではないことが、僕には分かっていた。
 茫然と見送る僕の脇を、また初夏の風がさわさわと吹き抜けた。小さくなるタクシーを見送りながら、僕はどこかで同じ風景を見たような気がしてならなかったが、それがいつのことだったのか、どうしても思い出せずにいた。