流れる夏



             1995.5  菊地 友則


 フロントガラスを鋭くかすめる鳥の影を見たような気がして、男は思わず車のブレーキを強く踏んだ。
 広い二車線道路の路肩に、タイヤの音を軋ませて車が止まる。男は車を降り、たったいま通り過ぎたばかりの道端を目で追ってみた。だが、鳥らしき姿は、どこにも見当たらなかった。
(目の錯覚だったか)
 男はすぐにそう考え直した。そもそも、都会の鳥が車にぶつかってしまうほど、のろまかどうかさえ、疑わしいことなのだ。
 男は気を取り直すつもりで空を見上げた。かたわらにあるニセアカシアの街路樹が、天に向かって枝をいっぱいに延ばし、薄黄色の花を咲かせている。
 久しぶりの仕事の打ち合わせの帰りだった。単純な図面のトレースで、頭を使う必要もない楽な仕事だったが、その分、単価も安い。景気の良い時なら、忙しさにかこつけて請け負わない仕事だったが、背に腹は替えられない。
 景気の長い低迷が続いていた。新聞を賑わす見出しは、ただ景気の高揚を期待するものばかりで、具体的な数値を示すものは、何ひとつなかった。
(いまが堪え時なのだ)
 そう自分に言い聞かせ始めてから、やがて五年がたとうとしている。もうすぐ楽になる。もうすぐ…。
 男は座席に戻り、ジャンパーのポケットからマイルドセブンを一本抜き取って火をつけると、胸深く吸い込んだ。
 煙草もやめなくてはいけない。だが、いつも思うだけでそれは終わってしまう。
「と言うことは、つかまえたホタルは逃がしてあげたほうが…」
 つけっぱなしのカーラジオから、聞き覚えのあるパーソナリティの声が流れている。
「そういうことになりますかねえ。お子様にとっても、育てて死なせてしまうより、自然に帰して外でホタルの光る姿を観察するほうが…」
「真の意味での情操教育だと?」
「そうですね。逃がしたそのホタルが子孫を増やして、来年の夏もまた光り輝いてくれるかも知れない」
 何かの相談室のようなコーナーらしい。どうせとるに足らぬ話だ…。男は聞き流そうとして、車のギアを入れた。だが、不意に耳に流れ込んできた言葉のひとつが、ひどく男の胸に引っかかっていた。
(育てて死なせてしまうより…、死なせて…)
 その言葉が、記憶の中の幾つかの微かな情景と重なり、男の胸の奥で小さな渦を巻き始めていた。

「ただいま」
「おかえりなさい。早かったのね」
 男が家に戻ると、珍しく妻が玄関まで迎えに出ていた。言葉の端に、最近とみに苦しくなってきた生活への、わずかな不安がにじみ出ている。
「安い仕事だ。数はあるけど」
 男は妻の気持ちを先取りするように仕事の内容を話して聞かせた。
「そう、でも良かったじゃない」
「そうだな」
 男は軽くうなずくと、まだ話を続けたそうな妻をそこに残し、仕事部屋へと急いだ。調べなくてはいけないことがある。

 その記憶は川べりの光景から始まっている。目を閉じた私の前に、陽光に輝く濡れた河原と、その間を縫うように流れる清流とが広がっている。
 視界を風のようによぎる黒く光る影。あれはいったい何だろう…。
 細く、広く、太く、長く、不規則にその形を変えながら、揺らいでは消え、瞬きながら移り変わる怪しい影の色。私の意識は宙を越え、懸命にその影を追っている。
 そうだ、あれは確かアゲハの影だ。そうに違いない。
 私は机上の図解辞典を開き、自分の細く、不確かな記憶の糸を、懸命にたぐり寄せようとした。
「ルリアゲハ」だったか、それとも、ただの「カラスアゲハ」だったろうか…。
 だが、「ルリ」の項にめざす「ルリアゲハ」の項目は見つからず、ただ、「ルリタテハ」黒地にルリ色の帯があるチョウ。開帳約六・五センチ、とあるだけだった。
 私の記憶の中の蝶は、小鳥ほどの大きさだ。これはめざす蝶ではない。ではやはり「カラスアゲハ」か?
 私はさらに辞典のページを繰ってみた。
『カラスアゲハ』
(黒色で羽根の表面は青緑色を帯びた、開帳十センチ以上の大形の蝶)
 やはりカラスアゲハだったのだ。私は辞典を閉じ、初夏の光りに満ちた窓辺に目を移した。
 薄紅色と水色とが滑らかに入り混じって、裏庭で紫陽花がたくさんの花を咲かせ始めている。私はじっとそれを見つめている。すると、私の意識は再び宙へと舞い上がり、揺らめく影は鮮明な形となって、光の中へと飛翔して行くのだった。

 私は白い昆虫網をきつく握り締めていた。目の前をふたつの青く、黒いビロードの影が舞っている。私の心臓はいまにも張り裂けそうに、激しい動悸を繰り返している。
 私は影を見失うまいと、懸命に目を凝らしている。陽の光は厚みを増し、木々の緑はますます色を濃くして、私を取り巻いていた。
 耳に入るのは、川のせせらぎだけだった。普段は耳に心地よいはずのその音が、今日は嵐のあとの濁流のように、激しいざわめきを繰り返す。
 頭の中を、ひとつの思いだけがぐるぐると駆け巡っていた。
(今日こそ、カラスアゲハを捕えるのだ…)
 野山を悠然と舞う、怪しいその影に魅せられてから、どれほどの月日が流れたろう。私はその輝くビロードの羽根を、どうしても手中にしたかった。
 彼等はモンシロチョウのように不用心ではなく、アキアカネのように群れをなして飛び交うこともなく、ギンヤンマのように、ただ敏捷なだけでもなかった。
 彼等は夏のある時期に忽然とあらわれ、わずかの間、その青く光る羽でただ怪しく、優雅な舞を存分に見せつけ、そして秋の気配が訪れると、また忽然と姿を消してしまうのだった。
 夏になると毎年、私の虫篭や標本箱には幾つもの昆虫が収められたが、その中にカラスアゲハの姿を見ることは、かってなかった。
 目の前の影の瞬きが、止まっていた。二匹のカラスアゲハは濡れた川石の上にいた。触角を長く延ばし、止まったままの姿勢で、緩やかな羽根の舞を続けている。いまだ、いまを逃すな…。
 私は息を詰め、足音をたてずに蝶に迫る。やがて手を延ばせば届きそうな位置に私は近づいた。
 だが、あせるな。いつもここでしくじっている。彼等の精密な複眼の罠にかかってはいけない。唯一の死角である、真後ろから襲うのだ。
 私は自分に近い方の一匹だけに狙いを絞り、川面に顔をすり付けるほどに姿勢を屈めて、さらに間合いをつめた。
 勝負は一瞬のことだった。危険を察した蝶が舞い上がるよりもわずかに早く、私の振り降ろした白い網は、蝶の全身を捕えていた。
 網の隙間から必死で逃れようともがく蝶。そうはさすまい。私は網の上から蝶の羽根を押さえつける。びくびくと指に伝わる蝶の脈動。青い鱗粉が舞い上がる。私はついに蝶を手中に収めた。
 穏やかな川のせせらぎが徐々に耳に戻る。周囲の緑は濃く、むせるように息づいている。私の回りにはまだ、まとわりつくような、ひとつの影があった。
 それは二匹のうち、難を逃れた方の蝶なのだった。もういい、お前に用はないんだ。あっちに行け。私は一匹で充分だ。
 だが、黒い影はそこをいつまでも去ろうとはせず、以前にも増して激しい舞を踊り続けた。それに呼応するかように、捕えた蝶が篭の中でばたばたと羽根を動かす。
 そうか、そうだったか。きっとお前たちはつがいだったんだな。それでつい油断してしまったのか。そうだよ。こんなのろまな私の術中に、お前たちがそうやすやすとはまるはずはないのだ。
 だが、私はお前を逃がしてやることは出来ない。なぜなら、お前は私の大切な獲物なのだから。お前を逃がしてしまえば、もう私は二度とカラスアゲハを手にすることは出来ないのだから。
 鱗粉にまみれた手のひらを、私は陽の光にかざしてみた。
 光の輪郭で縁どられた手のひらから、一筋の鋭い痛みが差し込み、身体の芯を駆け抜けてゆく。
 私は自分のてのひらを、爪先が食い込むほどにきつく握り締めた。

 黒い蝶の記憶は、そこで途切れている。だが、男の耳から、川のせせらぎの音は消えてはいない。
 男の住む家は、交通量の多い環状通に面していた。だが、平日の午後という間延びした時間帯のせいか、車の流れは少なく、男の記憶の波がそれに邪魔されることはなかった。
 男は仕事部屋の回転椅子に座り直すと、煙草に火をつけ、緩やかなその波に再び身をゆだねた。

「チカコ、昼から桑の実を採りにこないか」
 橋の手前の別れ道で、少年は思いきって少女に声をかけた。
 土曜日の掃除当番の帰り道で、少年と少女は二人きりだった。陽が頭上で輝いていて、風は熱を蓄えていた。少年と少女にとって幾度目かの、短い夏が訪れていた。
「うん、夕方までならいいけど、でも…」
 少女は細い顔をわずかに曇らせる。
「でも、なんだ?」
「桑の木って、どこにあるの?」
「あるさ。おれだけの秘密の場所にある」
 少年は得意そうに鼻をひくつかせた。山辺に住む少年の家の近くには、幾つかの桑の木があり、夏が来ると黒く、甘い実を大量につけるのである。
 少女は村にひとつだけある澱粉工場の技師の娘で、隣町からこの春、越してきたばかりだった。おそらく、生っている桑の実など、見たこともないはずなのだ。
 少年は誰にもその木のありかを教えたことはなかったが、少女となら、その秘密を共有しても良いと考えていた。
 少年は少女の誰よりも紅く、小さな唇と、黒く澄んだ瞳とが、とても好きだった。
「じゃあ、ご飯を食べたら行くわ」
「浅瀬を渡って来いよ。橋からだと、遠回りだから」
「うん」
 少女はうれしそうにうなずいて白い歯を見せた。

 ゆるく蛇行する川の浅瀬で、少年と少女は水遊びにふけっていた。
 強い陽射しが照りつける川辺で、少年と少女が戯れ始めてから、もうどれくらいの時間が流れたろう。
 熟れた桑の実をたらふく食べたあと、山辺に沿って流れる川で、水遊びをしようと言い出したのは、少年の方だった。
 夏の陽はすでに西に傾き始め、細い冷気の帯が、ひっそりと地表に降り始めている。だが、少年も少女も、それに気付く様子はなかった。
 間近に迫る山々から、夕暮れを告げる山鳩の低い鳴き声が微かに響き始めたころ、少年はようやく我に返った。
「おれ、もう帰る。羊を小屋に入れなくちゃならないんだ」
 草地に放してある羊を小屋に追い立てるのは、少年の大切な夕方の仕事だった。
「そう…。じゃあ、また明日。じゃなくって、月曜に」
 少女はそう言って、ぺろりと小さな舌を見せる。
 少年は忘れ物でも捜すように、空を見上げた。西の空が茜色に染まり始めている。本当は少女ともっと遊んでいたかった。
 少年は茜色の空の下をねぐらに戻る、何百羽ものカラスの群れを少女と一緒に数えたいと思ったが、どうやらその願いはかないそうにない。
「さよなら」
 少女はそう言い残すと、浅瀬の縁に立った。二人が遊んでいた川べりから、少女の帰る向こう岸まで、流れを横切って大きな石が並んでいる。
「あれっ、いつの間にか水が増えている」
 少女がやって来た時はごくわずかだった川の水量が、石の表面を覆うほどに増えていた。
「きっと上流でダムを放水したからだ。でも、ゆっくり渡れば平気さ」
 少年は少女を励ますように言った。頭の中を羊の群れがちらつく。
「ねえ、送っていってよ」
「えっ?」
「家の近くまででいいわ。送っていって?」
 少女は濃い眉を潜めて、心細そうな表情を見せた。
「うん、でも…」
 怒った母親の顔が、少年の頭に浮かんでは消える。
「チカコ、一人で帰れよ。おれ、ここで見ていてやるからさ」
 少女から嫌われてしまうかも知れない、と少年は思った。だが、帰宅が遅れて母親に叱られるのは、少年にとってもっと恐ろしいことだった。
 少女はあきらめて、そろそろと川を渡り始める。少年は小石で埋った川辺を離れ、一段高くなっている堤防の上に立った。少女を見送るつもりだったが、気持ちはすでに家路にある。
「あっ」
 幾つ目かの石で少女は大きくバランスを崩し、あやうく流れに落ちそうになった。だが、かろうじて両手を濡れた石でささえ、少女はそろそろと立ち上がる。
「大丈夫か、チカコ」
 少年の呼びかけに少女は何も答えず、振り返るとその黒い目で、少年を責めるようにただじっと見た。
 滑った拍子で白いワンピースの裾が濡れ、少女の細い腿に、それがぴったりとまとわりついている。
 強ばった眼差しで少女は少年を見つめ続けている。少年は少女の視線から逃れることが出来ずに、その場に立ち尽くす。川は流れることを止めない。
 残光に照らされて光る少女の白い横顔と、黒い瞳の色を、少年は記憶の底に留めなくてはいけない。たとえ少女が月曜日にそのことを忘れてしまっていても。たとえ川のせせらぎが枯れてしまう日が来たとしても。

「変に冷えるわね」
 妻がコーヒーを手に部屋に入って来ている。
「いまどきはいつもこうじゃないか?」
 男はもらってきたばかりの図面を、さも忙しげに作業台に貼りつけながら受け流す。
「忙しそうね」
「忙しいさ。納期だけは結構きついんだ」
 男は製図ペンの調子を見るふりをした。
「じゃあ頼んじゃ悪いかな…」
「なんだよ」
 妻がこういう口のきき方をする時は、たいてい男に家事を頼む時だった。仕事が暇な時ならいざ知らず、今日はいささか具合が悪い。
「駅向こうのスーパーで、お米が特売なの。いつもより、八百円も安いのよ」
「買い物か?」
 妻は車の運転が出来ない。
「やっぱりいいわ。あとで一人で自転車で行くから。ちょっと遠いけど…」
 だったら最初から何も言わなきゃいい、という言葉を、かろうじて男は飲み込んだ。
「買い物は私の仕事よね。あなたはしっかり働いて」
 妻は一方的にそう言い残すと、仕事部屋を出て行った。
 八百円、八百円と取り残された男はつぶやく。妻にとって、いや、いまの家計にとって、それがおそらく重大な価格であることは、男にも充分分かっていた。だが、仕事さえあれば、それはとるに足らぬ額なのだ。仕事さえあれば…。
 気を取り直して、男は机に向き直る。だが、いまひとつ気乗りがしなかった。仕事の途切れた日々が長く続いたせいかも知れない。男は机の前で製図ペンをもてあそび、ただ時間をやり過ごした。
 男の耳からは、まだ微かに川の流れの音が響いている。男は繰り返されるせせらぎの音に、再び耳を澄ませた。

「子猫の始末はお前の仕事だよ。うちではこれ以上、猫なんて飼えないんだから」
 野良着姿の母が、きつく眉を潜めている。ぼくは何も反論出来ず、身を震わせている。半紙大に区切られた台所のガラス窓から、強い西日が差し込んでいる。母はトウキビの皮をむく手を休めない。
「でも、川に捨てるなんて、いくらなんでも可愛そうだ」
 ぼくはひたすら母の情に訴えようとする。だが、そんなことでひるむ母ではない。
「じゃあ、穴を掘って、ひと思いに埋めでもするかい?やり方はお前の好きでいいんだから」
 それは川に捨てるよりも、もっとおぞましい光景だった。
「そんなのいやだ」
「だったら、川に捨ててきなさい。これは猫を飼う時の約束だったね。生まれた子猫の始末は、お前がちゃんとするって。だから言ったでしょう。雌猫は必ず子猫を生むものだって」
 勝ち誇ったように母は言った。ぼくは一言も返す言葉がなかった。猫を飼おうと言いだしたのは、確かにぼくだったから。
 知り合いの家から、全身が真っ黒の子猫を貰い受けたのは、ついこの前のことのはずだった。
 ぼくはその子猫をとても可愛がっていた。なのに、ぼくの意思とは全く無関係に、いつの間にか子猫は母親になっていた。
 でもお前が悪いんじゃない。みんな橋向こうの雄猫のせいなんだ。納屋の藁の中に生みつけられた四匹の子猫の中に、雄猫と同じ黒と白のぶちの子猫を見つけたとき、ぼくはそれを確信した。
 お前は確かに拒んでいた。雪解けの頃、縁の下での雄猫とお前との激しい争いを、ぼくは息を潜めて聞いていた。あの夜、確かにお前は子猫たちを宿したんだ。
 でも、本当にお前は嫌だったのだろうか?怖れ、おののいて逃げ惑っているように聞こえたのは、ただのぼくの思い込みに過ぎなかったのではないだろうか?
 目を細めて子猫たちをなめ回し、身を投げ出して張り詰めた乳房を含ませているお前の姿を眺めていると、ぼくはなんだか、確信が持てなくなってくる。
「お前に捨ててもらったほうが、きっと子猫も喜ぶよ」
 しょげ返るぼくを見て、慰めるように母はつけ加えた。
 命を奪われて喜ぶ子猫がいるのだろうか。それはきっと、大人の勝手な理屈だ。では他に何か子猫の命を救う術があるのだろうか…。
 考えても、何も思いつかなかった。しかし、自分が捨てなくても、いつか誰かが子猫を処分してしまうことだけは、ぼくにも想像出来た。そうなると、母の論理も、あながち的外れとは言えない。
「明日、学校から戻ったら、ちゃんと捨てに行くんだよ」
 母は駄目を押すようにそう言った。ぼくは小さくうなずくしかなかった。

 小さなミカン箱の中に、四匹の子猫が横たわっている。まだ目が開かないので、見ただけでは眠っているのか、起きているのかさえも分からない。母猫の姿を捜しでもするように、ただぴくぴくと小さな四肢を動かしている。
 母猫が目を放すのを見計らい、ぼくは子猫たちを藁の中からそっと盗み出した。今日も西の空は血の色のように紅い。
 今日が雨だったら良かった。昨日、母に言いつけられてから、ぼくはずっとそのことを願っていた。もしも雨が降っていたなら、子猫を捨てる儀式は、もう一日だけあとに延びたかも知れないのに。
 ちきしょう。ぼくが何かいいつけられたときは、いつだってこうなんだ。雨なんぞ降ってくれたためしがない。
 ぼくは紅い夕焼け空にひどく腹がたち、ミカン箱を抱えると、川への道を一息に駆け出した。
 ぼくは休まずに駆けた。もし少しでも休めば、子猫の失踪に気付いたあの母猫が巨大な牙をむき、ぼくに襲いかかってきそうな気がしたからだ。
 やがてぼくは、いつも学校の行き帰りに必ず通る、川沿いの道にたどり着いた。
 深い葦原を抜け、流れが一番早い川岸にたどり着く。よし、ここまでは母猫も追って来まい。
 箱の中から、そっと子猫を掴み出す。ぐにゃりとした頼りない感触。母猫を求め、子猫たちは、か細く、弱々しい悲鳴をあげる。その身体は暖かだった。
 ぼくは黒くうねる深い川の流れをにらみつける。強く握り締めた手の中で、ぴくぴくもがく子猫の肢体。ひるむな。ぼくは立派にお前たちの断罪人になる。
 外野から野球のボールを返球でもするように、ぼくは腕を大きくひと振りして、最初の子猫を宙に投げた。
 血の色の夕空を背景に、緩いカーブを描いて子猫が飛ぶ。
 最初の猫が落下する水音を聞く前に、ぼくは狂ったように次々と子猫たちを水に投げ込んだ。鳴き叫ぶ暇もなく、子猫たちはたちまち黒い水に飲み込まれ、そして速い流れの底深くに消えていった。
 深い葦に囲まれたその場所で、ぼくは子猫たちが消えたあとの川面をみつめた。空の色が次第に陰ってくる。
 子猫たちの残した小さな棺を両腕に抱え、血の色の空が青く、そして黒く変わってしまうまで、ぼくは川縁の草むらに立ちつくしていた。

 通りを走る車の群れが、あわただしさを増し始めていた。男の家の向かいにある、事務所ビルのガラス窓に西日が反射し、仕事部屋の出窓から、弱い陽射しの影が差し込んでいる。
 男は甘く、長いまどろみから、ようやく目覚めた。作業台の上に貼りつけられたトレーシングペーパーは、白いままだった。
「千夏子」
 男は急に思い立って、妻の名を呼んだ。
「千夏子、出かけたのか」
 仕事部屋のドアを開けてみると、取り込んだ洗濯物を両手いっぱいに抱え込んだ妻が、南側のテラス窓から入ってくるところだった。
「呼んだ?」
「ああ…」
 格別な用事があったわけではない。ただなんとなく、妻の居場所を確かめたかっただけのことだった。
「かけようか?」
「え?」
「洗濯物だよ」
 室内の物干し竿と、妻の抱えた洗濯物を交互に見比べながら、男は言った。
「乾いてしまったからいいわ。もうすっかり夏だもの」
「そうだな」
 男は妻が入ってきたばかりのテラス窓からバルコニーに出た。荒れ放題の庭にも、名前の知らない花々が、いっせいに咲き始めようとしている。
 妻が傍らに並んでいた。
「あら?これって、あなたが直したんだっけ…」
「直したって、何が」
「ここよ、ほら見て」
 屈みこんだ妻が、バルコニーの手すりの根元を指差している。よく見ると、細いスチールの鉄パイプに、確かに修理が施された痕跡がある。
「さあ、おれは知らないな」
「きっとお義父さんよ」
 近くに住んでいた男の父はまめなたちで、頼みもしないのに、よく男の家に通っては、細々とした庭仕事に精を出していた。時には妻にも男にも声をかけずに、仕事だけを済ませて帰ってしまうことさえあった。
 男が近づいて確かめると、錆び落ちた手すりの一本が、別の材料で巧妙に差し替えられ、固定されていた。コゲ茶色のペンキまでが、元の色とほとんど変わらぬ色で塗られている。
「確かに親父の仕事のようだ。黙って直して帰ってしまうのが、いかにも親父らしいな」
「ちっとも気付かなかったわ。器用な人はさすがに違うわね」
「それが親父の唯一の取り柄だったからな」
「あら、じゃあ、あなたの取り柄って何?」
 妻は黒い目を少し大げさに開いて、男を見る。
「こうして立派に独立して、仕事をやっているじゃないか」
 小役人で一生を終えた親父とは違うんだ、と胸の内でつぶやいた。妻の前では、つい虚勢を張ってしまう自分が滑稽だった。
「でも、こういうことって、女の人は苦手だから…」
 だからうれしいって言うのか、女は。男は、今度は妻が飲み込んだ言葉のあとを継いでみる。
「お義父さんて、本当は私たちと一緒に暮らしたかったんじゃないかな」
 その通りだったのかも知れない。だが、同居を頑なに拒んだのは、父の方だった。
 男は父親が直したに違いない、手すりの修理跡を、目を凝らして見つめ直した。
 役所勤めだった父親らしい、職人のように律儀で丁寧な仕事だった。固定された小さなボルトのネジ山にまで、きっちりとペンキが塗りこめられている。
(私にこんな芸当は出来ない…)
 だが、きっとそれでいいのだ。無理をすることはない。鉄棒を指でゆっくりとなぞりながら、男は考えた。
 頬をなでる風が、いつの間にか冷たさを増していた。
「お義父さんが亡くなってから、庭の手入れをしてくれる人もいなくなったわね」
「おれも千夏子も、庭いじりには、とんと興味がないからな」
「そう、根本的に花よりダンゴなのよ、私たちって。それが私たちの唯一の接点だったりしてね」
「言えてる」
 ふっと頬が緩んだ。妻もつられて笑う。久しぶりに妻と笑った気がした。
「なあ、駅向こうのスーパーに行こうか」
「え?」
「コメが安いんだろ」
「乗せてくれるの?」
「ああ」
「でも、仕事が…」
「仕事は夜中にやればいい」
「米は夜中だと買えない」
「That's right!」
「わあ、うれしい。トイレットペーパーも買ってこれるわ。暗くなる前に、行ってこなくっちゃ」
 妻はうきうきと身支度を始めた。
「先にエンジンかけてるよ」
 男は妻に言い残して外に出た。
 路地に夕闇の気配が薄く迫っていた。低いエンジン音を響かせ、表通りを車の列が忙しく行き過ぎて行く。(了)


(この作品は、札幌市民文芸・第13号小説部門「優秀賞」を受賞しました)


作家・小檜山博氏評 (札幌市民文芸・第13号より抜粋)

 こうした詩的な場面をつなげ、かつ詩的に近い文章を展開する小説もあっていいということに、この作品を読んで気づいた。
 一つの特殊な才能を見る思いで感心した。



あとがき

 今回の作品は書き始めてから六作目くらいの作品ですが、自分なりにいくつかの新しい試みをし、それがある程度評価されてうれしく思っています。
 三話のオムニバス風展開はともかく、人称の概念をあえて無視したこと、随所にちりばめられた詩的表現などは読み手によっては意見の分かれるところだと思います。
 でも、もしすると今回の作品は、今後私の進むべき方向を示唆しているのではないか?そんな気がしてなりません。