《あの時ボクは若かった》
 黒き瞳



             1996.11  菊地 友則


 僕は必死で走った。遠くに均整のとれた彼女の姿が小さく見える。彼女は僕のバトンを受け取るために待っているのだ。急がなくては、急げ…。
 だが、足の遅い僕は次々と追い抜かれてしまう。やっとの思いでグランドを半周し、ビリで彼女にバトンを渡す。陸上部だった彼女は、素晴らしい加速で他を抜き去り、たちまちトップに踊り出た。見送る僕は、どうしようもなくみじめだった。
 僕が小五、彼女が小六のときの運動会の全学年リレーのこと。一学年上の彼女は女子の級長をつとめ、成績も一番。下級生の面倒も良く見、そして抜群に足が速かった。僕はほとんどの面で彼女にたちうちが出来なかった。
 気がついたら、いつも彼女の姿を追っていた。廊下で彼女の黒く澄んだ大きな瞳とすれちがうたびに胸がどきどきし、息が苦しくなった。最初は自分でそれが何なのか理解出来ず、僕はただうろたえた。僕にとって、初めての感情だった。それが「初恋」というものだと知ったのは、しばらく時が経ってからのことだ。
 彼女は「絹子」という名だった。それまでも、そしてそれからも僕はその美しい響きをもつ同じ名の人には一度も出会っていない。小麦色の肌をし、おさげ髪のよく似合う人だった。
 僕の初恋はこうして始まった。

 秋の遠足の日。五年生は六年生と同じく、隣町に出来たばかりの分校が行き先だった。昼休み、分校の裏庭にある手押しポンプの前に、長い行列が出来ていた。
 列の先頭で皆に次々と水を汲んであげている人がいる。彼女だった。僕はわざと列の一番最後についた。自分の飲むのは後回しにし、何の得にもならないのに数十人もの人の水を汲んでやる。彼女はそういう人だった。
 僕の番がきた。あたりにはもう誰もいなくなっていた。
「お水、飲むんでしょ?」
 水筒を手にしてモジモジしている僕を怪訝そうに見て、彼女はそう問いかけた。僕はただ「うん」と小さくうなずくだけだった。目線を合わせるだけで、彼女の黒い瞳の中に引きずりこまれそうな気がした。
 あとにも先にも、彼女と二人きりで言葉を交わしたのは、このときが最初で最後である。僕は今でもこのときのことを悔やんでいる。なぜ彼女と水を汲むのを交代してやれなかったのか。途中で変るのが無理としても、せめて彼女の分を汲んでやることくらい出来たのではなかったか…。
 僕と彼女との距離は、まだまだ遠かった。

 その年の冬がきた。毎年冬には町内対抗のスキー大会が隣町で開催される。校内予選で僕は距離競技に出ることになった。スポーツ万能の彼女は、すでに回転競技での出場が決まっていた。
 僕はその日、ある決意を胸に秘め、スタートに立っていた。
(今日は絶対に勝つ…)
 代表の条件は一位だった。
 彼女を意識し始めてからというもの、考えることは、
(どうしたら彼女に振り向いてもらえるか?)とそればかり。思いついたことは、あらゆる面で彼女に近づくことだった。
 苦手だった下級生の面倒を見るようになったのもそのころからだ。勉強も一番になった。町内の絵のコンクールでも、彼女と並んで一緒に表彰状を受けた。生活のあらゆる面で彼女が目標になった。
 学芸会の劇「よだかの星」で主役をとったとき、長いセリフのときは客席の彼女を目で追った。彼女の大きな瞳が輝くのが舞台の上からでもはっきりと分かり、僕はそれだけでとても幸せな気持ちになれた。
 どうしてもかなわないのが運動だった。しかし、冬は片道四キロの道を毎日スキーで通学していた僕は、距離競技なら自信があった。
(今度は勝てるかも知れない…)
 スタートのピストルが鳴る。雪を蹴って走る。疲れは少しも感じなかった。一分前にスタートした奴をすぐにとらえた。だが、後ろから追ってくるのは、クラスで一番足の速い奴だった。抜かれたら代表にはなれない。僕は必死で走り続けた。
 三キロコースの終わりが近づいた。ゴールの赤い旗が見える。後ろについていた奴の姿はもう見えない。僕は自分の勝利を確信した。
 雪まみれでゴールした。体中から激しく湯気がたち昇る。タイムは一位だった。信じられなかった。遅れてゴールした後ろの奴が、「お前、どうしてそんなに急に速くなった?」と怪訝そうな顔をした。
 走ったのは確かに僕だ。だが、自分にこの力を与えてくれたのはきっと彼女だ、と僕は思った。
 僕はそのとき、初めて彼女に追いつけたと思った。

 悲しい別れの日が突然やってきた。六年生の八月、僕の家は急に札幌に引っ越すことになった。「初恋は実らない」と本で読んではいたが、僕は子供心にも真剣に彼女との結婚を考えた。だが、しょせんそれはかなわぬ願いだった。たとえ精神は早熟であっても、僕にはまだ何の力も備わっていなかった。
 僕のささやかな初恋は、こうして終わりを告げた。

 月日が流れた。一学年上ということで、彼女の噂は札幌までは流れてこなかった。だが、僕の意識の原点には、常に彼女があった。
 それからも色々な人を好きになった。どの人も黒く、大きな目をしていた。僕はその訳を知っていた。
 あるとき、彼女をモデルにした小説を書いた。なぜだか、突然そんな気になった。僕はすでに人生の半ばを過ぎていた。ほとんどがうそっぱちだったが、彼女への思いや、彼女が僕に与えてくれたものはうまく書けたと思った。
 その小説が小さな賞をもらった。彼女がその賞を僕にくれたのだ、とまた僕は思った。僕はこの小説を彼女に読んでもらいたかった。彼女にはその権利がある。たとえそれが、僕の身勝手な理屈だったとしても…。
 その年、故郷の町がちょうど開基八十周年の年に当たり、八月末に記念誌が送られてきた。巻末には同窓会名簿もある。これを見れば、彼女の今の居場所が分かる。僕は自分の小説が掲載された文芸誌を、そっと彼女宛に送るつもりでいた。
 震える手で住所欄をめくる。だが、そこには信じられぬ文字が並んでいた。

××絹子/『死 亡』

 何度も読み返した。読んでも読んでも決して変わることのない、冷酷な文字だった。彼女がすでにこの世にはいないという事実を、僕は容易に受け入れることが出来なかった。
 そうだ、記念誌に彼女の写真があるかもしれない。学年が違うために、彼女の写真が僕の手元には一枚もなかった。
 すがる思いでページをめくる。あった!修学旅行の団体写真の中に、確かに彼女らしき姿がある。それはごく小さなものだったが、彼女の潤んだような黒い瞳は、あの分校の裏庭や、よだかの星の劇でじっと僕を見つめてくれたあの時と少しも変らぬ輝きで僕に迫ってきた。
 思いついて僕は、仕事部屋から拡大ルーペを持ちだし、彼女の姿をもう一度確かめた。彼女の陰影は一層鮮明になったが、拡大されたモノクロの印刷の網点が、まるで急ごしらえの遺影のように僕には感じられた。
 確かに彼女はもうこの世の人ではない。彼女の無言の視線がそう語っている…。
 言いようのない深い悲しみが僕を襲った。心の奥底にいつも大切にしまっておいた小さな宝石を、僕は永久に失ってしまったのだ。

 一年後の秋、僕は三十数年振りに故郷の町を訪ねた。「たまには墓参りでも」がその口実だったが、彼女との記憶の糸を少しでも手元にたぐり寄せたい、という気持ちがなかったと言えば嘘になる。
 僕はどうしても彼女の亡くなった訳が知りたかった。
 高台にある墓地に行き、先祖の墓に手を合わせたあと、僕は同じ墓地にある古い墓をくまなく調べ歩いた。何か彼女に関する手がかりがみつかるかもしれないと思ったのだ。
 だが、彼女と同じ名字の墓はどこにも見当たらなかった。もしかすると、一家でどこかに引っ越してしまったのか、それとも、嫁いだあとに亡くなってしまったのか…。調べようにも、すっかり過疎化してしまった町に彼女の消息を知る人は誰もいず、僕は彼女の死に関する手がかりを失っていた。
 彼女の面影を追い、僕は以前、自分の家が建っていた川の岸辺に行ってみた。川の周囲の景色はすっかり変り果てていたが、川は昔の流れの速さを失ってはいなかった。
(夏になると紺色の水着で身を包み、伸びやかな手足を動かせて、彼女はよくこの川で泳いでいた。泳げない僕は、いつも橋の上からそれを見ていたんだ…)
 僕が生きている限り、彼女の面影が僕から消え去ることはない。僕の初恋は永遠に終わりはしないのだ。僕は書き留める。彼女が僕に残してくれたものを。僕がそれを忘れてしまわないように。
 不意に降り始めた雨が勢いを増し、まるで彼女の死を弔うかのように、川面に細かい波紋を造って急速に広がっていった。
                               (了)