顔のない美女


        1993.9  菊地 友則


 焼肉のいい匂いが、薄青い煙と共に狭い店内にたちこめていた。通称「屋台」と呼ばれるその店の中は、秋の定期試験から解放された学生たちで混み合っていた。
 粗末な木製のカウンターの向こうでは、小柄なおばちゃんがてきぱきと注文をこなしている。私と同室の柴崎も、カウンターの端でラム肉を焼きながら杯を重ねていた。開け放たれた引戸から、ときおりひんやりとした秋風が吹きこんでいた。
 その店は大学の寮から伏別川と呼ばれる細い川沿いの道を歩き、十分ほどの所にあった。むかし畜舎だったという噂のある古い木造の建物には、店の看板すらかかっていない。「屋台」という店の名さえ、常連の学生たちが勝手につけたものだった。
 昼間は固く閉ざされている粗末な建物はとても飲食店には見えなかった。だが、あたりが薄暗くなるといつのまにか中には灯りが点り、どこからともなく集まってくる腹を空かせた学生たちでいつも賑わった。
 皆が「おばちゃん」と呼ぶ店の経営者の名前も素性もはっきりしなかった。普通なら当然店内に掲示されている筈の「調理師免許証」や「保健所の許可証」すら、どこにも見あたらない。
 しかし、そんなことは学生たちにはどうでもよかった。そこに行けばわずかの金で酔い、空腹を満たすことが出来る。貧しい学生たちにとっては、それだけで充分だったである。

 杯を重ねるうち、夜はふけていった。時計が十二時を回ったころ、客足はぱたりと止まり、店内の客は私たちの他に数名だけになっていた。騒がしさが収まったせいか、遠くからかすかな川のせせらぎの音と、チリチリという虫の鳴き声が聞こえていた。
「さてと、そろそろ締めのいなりずしといくか?」
 その店では、小さなガラスケースにおばちゃん手作りのいなりずしが並んでおり、飲み飽きた後の腹ごしらえに食べて帰るのが常連客の決まり事のようになっていた。
「はいはい、二つずつでいいの?」
 おばちゃんが残り少ないいなりずしを小皿に盛り、我々の前に差し出した時、入り口の引戸を騒がしく開け放ち、数人の客がどやどや店に入ってきた。ほとんどが見覚えのある顔だった。同じ寮に住む柔道部の連中である。
「いやー、おばちゃん。今すんごい美人にあったさ」
 席につくなり、主将の横田が上気した顔で言った。上気しているのは「美人」とやらのせいだけなく、すでに出来上がっているせいもある。どうやら二次会流れの様子だった。
「ええ?まあ落ち着いて座んなさいよ。コンパでもあったの?」
 おばちゃんが丸い目をクリクリさせ、諭すように言う。ここにくるとさすがの柔道部の猛者もおとなしくなってしまう。おばちゃんの人柄に、ある種の母性を感じるからに他ならない。
「うん、まあそんなとこ。それよりさ、美人なんだよ、美人!」
 横田は美人にこだわる。他の連中も口々に、あんな美人見たことないよなあとか、どこに住んでるんだ、などとわめいている。
「そんな美人にいったいどこで会ったのさ」
 二級酒の瓶をコップに移す手を休めず、おばちゃんが尋ねる。
「え?そこの曲がり角の橋の所だよ。いきなりあんな美人に道聞かれてさ、俺どぎまぎしちゃったよ。なあ」
 そう言って横田は仲間に賛同を求めた。そうだそうだと言う声が返ってきた。店のあちこちで、美人を肴にした酒盛りが始まっていた。
「その話ちょっと変だよ」
 不意におばちゃんが言った。目からは笑いが消えている。
「変って、何がさ」
「あんた、さっき『曲がり角の橋のところ』って言ったよね」
「ああ、言ったけど。それがどうしたのさ」
「あそこに橋なんてないでしょ?」
 ざわついていた店内が一瞬凍りついたように静まりかえった。焼肉を焼く音だけがジュージューと響く。
「だ、だって、あの人は確かに橋を渡って来たんだよ!」
 角刈り頭のいかつい横田の顔がひきつっていた。酔いが回ったせいか、それとも「美人」とやらに気をとられていたためか、おばちゃんにとがめられるまで誰も気づかなかったが、確かにその曲がり角に橋などない。
「ちょっとみんな、そこの戸閉めて、もっと詳しく話してごらん」
 いつになく真剣なおばちゃんの様子に、店内の学生たちは互いに顔を見合せ、ただ従うしかなかった。


〜柔道部、横田の話〜

「屋台」で飲み直そう、と言い出したのは俺だった。金もあまりなかったし、飲み足りなかったからだ。時計は十二時を回っていたが、あの店なら大丈夫。俺たちは四、五人の仲間と、いつもの夜道を大騒ぎしながらおばちゃんの店へ向かっていた。
 学生寮の裏を抜け、道が伏別川のほとりにさしかかったときだ。不意に俺たちの前に、黒いワンピースを着た妙齢の美女が現れた。その人は、伏別川をすう〜っと渡って来たように見えた。
 酔いにまかせて騒いでいた仲間が、急に静かになった。なぜってその人が見たこともないような美人だったからだ。
 その人は、この近くでは見かけない人だった。もちろん、ここの学生なんかじゃない。まる四年もこの街に住んでいる俺が言うのだから間違いない。
「すみません、ちょっと伺いたいのですが…」
 その人はいかにもその顔や身体つきに似合った、か細い声で俺たちに道を尋ねてきた。その人の捜す家は、俺たちの知らない家だった。
「さ、さあ。よく分かりませんが…」
 俺はしどろもどろだった。酔っていたせいもあるが、なにより、俺たち柔道部にとっては女、まして美人などにはおよそ縁がない。
「そうですか…」
 その人は悲しげな声でそうつぶやくと、俺たちに礼を言い、また川を渡っていった。俺たちは呆然とそれを見送っていた。そのとき、俺の目には確かにその人が川を渡って行くのが見えたのだ。
 その人が見えなくなった後、俺たちはまた大騒ぎになった。もちろん話題は、たったいまの美人のことだ。
「おいおい、こんな夜中に彼氏の下宿でも捜してるのかな」
「しっかし、すごい美人だぜ。おい、このこと、さっそくおばちゃんに報告しに行こうぜ」

「ああ、やっぱりねぇ」
 横田の話を聞き終えたおばちゃんが、何度もうなずきながらつぶやいた。
「何がやっぱりなのさ、ねえおばちゃん」
 横田の目は脅えている。私と柴崎もおばちゃんの次の言葉を待った。店の中の学生たちは、いつのまにかおばちゃんを中心にひと固まりになっていた。
「まだ浮かばれてないんだねぇ、かわいそうに」
 おばちゃんは、十数年前のことだという、あるひとつの悲しい話をポツリポツリと語り始めた。


〜おばちゃんの話〜

 その人がつきあっていたのは、卒業を間近にひかえたここの学生だった。二人は愛しあい、将来を誓いあっていた。少なくとも、彼女の側からはそう思えた。
 しかし、男のほうの本心は違っていた。彼にとって彼女はただの遊び。目的は若い女の身体だけである。
 就職は遠く離れた東京だったし、「あとで連絡するから」と言って消えてしまえば、何の後腐れもなく別れてしまえる、そんなふうに軽く考えていた。
 卒業の日が迫っていた。あれこれと理由をつけ、転居先の住所をいつまでも教えぬ男に、彼女は男の本心を疑い始めていた。最近の男の様子にも、以前とは違うものを感じていた。
「落ち着いたら必ず連絡するから」
 そういう男の言葉も、もはやその場を取り繕うものとしか受け取れなくなっていた。
 卒業式の当日。この日を逃すと、もう男とは永久に会えぬ気がした。業を煮やした彼女は、旅行鞄を片手に卒業式会場の出口で男を待ち構えた。そのまま男と一緒に東京までついて行く覚悟だった。
 待って待って、そして待った。男はついに姿を現さなかった。悲嘆の涙に暮れた彼女は、男が住んでいたという伏別川の近くの下宿を尋ね歩いた。もちろん、男の姿があるはずもない。
 月日が流れた。男からの連絡はない。彼女の選んだ答えは「死」だった。彼女の変わりはてた姿は、男の住んでいた下宿が見下ろせる、伏別川の裏山の中で発見された。若すぎる、むごい死だった。

 おばちゃんの話が終わった。店の中は静まりかえっていた。
「何年か前にも、似たような話があってね。どういう訳だか、学生さんの前にしか姿を現さないらしい。ここんとこ話聞かないから、やっと成仏したのかと思ってたんだけど…」
「だ、だけどその人が、たったいま俺たちが出会った美人だなんて、なんで断定出来るのさ」
 誰かが、震える声を押し殺して言った。誰も呼応する者はいない。
「だってその人は、橋のない川を渡ってきたんでしょ?それに、あんたたちさっきから美人、美人って大騒ぎしてるけど、いったいどんな目鼻立ちの美人だったか、誰か説明出来る?横田君、どうなのさ」
「えぇーっと、それは…」
 横田は答えに窮した。とにかく美人なんだ、と言い張るばかりで具体的な顔立ちを思い出せた者は、誰一人としていなかった。
「ほら、やっぱり。その人には『顔』なんて、最初からなかったんじゃないの?」
 ひえっ、と言う悲鳴が上がった。もう酔いはどこかに吹き飛んでしまっていた。柔道部の連中は、皆一様に青ざめ、震えている。もちろん聞いていた私たちも例外ではない。
「おばちゃん、俺怖いよ。もう、あの道通れないよ。今晩どうやって帰ったらいいんだよ…」
 秋風が店の戸をカタカタとゆすった。いかつい男たちは、小さな店の中で途方に暮れていた。


〜その後の「屋台」〜

 この話は私がそのおばちゃんから直接聞いた話です。結局、その夜もそれからも、夜は二度とその道を通ることが出来ませんでした。幸い、遠回りですが逆方向の道もあったのです。
 その後、「そんな話をずっと以前に先輩から聞いたことがある」と、部屋の先輩から教えられました。
「お前らも、女だましてこの街から逃げようなんてさもしい考えは起こすなよ」と、諭されもしました。
 私はもちろんこの教えを守り、後輩にもおなじ「教え」を伝授してきました。
 数年前、大学を十数年ぶりに訪れる機会がありましたが、あの「屋台」の建物は既になく、ただ伏別川のせせらぎだけが昔のままでした。いまもあの「教え」は、後輩たちに粛々と引き継がれているのでしょうか。