恐怖の水神社


        1993.6  菊地 友則


 北国の夏にしては妙に暑苦しく、寝苦しい夜だった。どこかで酔った学生たちの歌う寮歌がとぎれとぎれに聞こえてくる。気にさわる程の騒がしさではなかったが、いざ寝つこうとすると、どうにもその歓声が気になってならない。ナチスの収容所に出て来るような、学寮の古びた二段ベットの上で、私は幾度となく寝返りをうった。
 ようやくまどろみかけたころ、木造の薄っぺらな隣室の壁ごしに、激しい物音が響きわたった。ズズンと何か重い物が落ちるような音。続いて押しつぶしたような人の声。それも一人ではなく、複数の声である。
「何だ、今の音は?」
 下の段でまだ起きていたらしい一年の吉岡が飛び出してくる。同室の他の者も、何事かとベットから顔をのぞかせた。
「どうやら、隣の部屋らしいな」
 私は時計を見た。夜中の二時すぎである。隣室からのものらしい大きな物音は止んだが、うなるような人の声は低く続いている。
「先輩、ちょっと見てきてくださいよ」
 吉岡が脅えた顔で言った。隣室には、同じ科の高田徹がいる。そのせいで、隣室に一番顔がきくのは私である。
「ちょっと見てくるか‥‥」
 私は不安を押し隠すように言った。お前も一緒にこいや、と部屋を出る時に吉岡の袖を引くのは忘れなかった。

 暗い廊下は、先程の歌声もすでに止み、人気はない。私は吉岡をうしろに従え、おそるおそる隣室の入口のガラス戸をのぞいた。
 こんな時間だというのに、ガラス戸からは部屋の光が漏れ、中の様子が伺える。部屋の中央にパジャマ姿で倒れている四年の横溝の姿が真っ先に目に入った。そばでは高田がひざまずき、呆然としている。ただならぬ気配だ。
「いったい、どうしたんですか!?」
 私はノックも忘れ、部屋に飛び込んでいた。見回すと、部屋の寮生全員が床のあちこちに、あるものは倒れ、あるものは座り込んでいた。どの目にも恐怖の色がありありと浮かんでいる。横溝の額からは血が流れていた。
「高田、いったい何があったんだ?」
 私は、一番目線のはっきりしている高田に尋ねた。高田は私の顔を見るなり、「首が、首が…」と泣きそうな顔ですがってきた。
「首?首がどうしたって言うんだ」
「息が出来ない、みんな…」
「落ち着け、落ち着いて話してみろ」
 高田の肩をおさえながら私は近くにあったヤカンを引き寄せ、中の水を飲ませた。それを一息ぐいっと飲み干すと、高田はようやく落ち着きを取戻し、「聞いてくれ」と言い、恐怖の出来事の一部始終を語り始めた。


〜高田徹の話〜

「夜の伏岳に登ろうぜ」と、最初に言い出したのは、四年の横溝だった。伏岳は、正式には「伏見岳」というのだが、この寮では短かく「伏岳」と呼んでいた。
「一年生はまだ伏岳、登ってないしな。当然、お前も行くよな?高田」
 横溝は徹の顔を覗きこむようにして言った。何かと先輩風を吹かせるくせに、それほど後輩の面倒見のよくない横溝が、徹はあまり好きではなかった。しかし、横溝もそのあたりは充分心得ており、こういうときには、真っ先に念を押してくる。
「ええ、はい。みんなで行くんでしたら」
 一年生から四年生までが同室に住む、という開寮以来のしきたりを守り続けているこの寮では、先輩の言うことは絶対である。この状況で断れば、部屋にいづらくなり、部屋代の高いアパートに引っ越さねばならない。なんとなく気乗りのしなかった徹ではあったが、上級生の強い言葉には従わざるを得なかった。

「星霜さりて、幾春秋〜」
 列の先頭を行く横溝のがなる寮歌が、暗い山道にこだましていた。真ん中に一年生をはさみ、二年生の徹は列の最後尾につく。
 伏岳は大学のすぐ裏手にあって標高六百メートル足らず。山と言うより、丘という名がふさわしかった。
 寮を出たのが、夜の一時すぎ。それまで部屋の中央では、「伏岳コンパ」と称した、正体不明の酒宴が延々くり広げられていた。酔った勢いで山に登り、頂上で夜明けを迎えて下山する、というのが横溝の計画だった。
 部屋の他の連中は、酒の勢いで山道をどんどん登ってゆく。もともと気が乗らず、酒もたいして飲めぬ徹は、ついて行くのがつらかった。細い月あかりが足元を弱く照らしていた。
「おーい、高田。おいてくぞぉ。オバケに食われちまっても知らんからな」
横溝達の歓声が闇のむこうで響いた。道は少しゆるやかになり、地元の人が「水神社」と呼ぶ湧水地に近づいていた。
「おお、水だ、水だ」
 先に着いた者たちが、争うようにして湧き水を手ですくって飲んでいる。徹も水を少し口にした。冷たさが乾いた喉に心地よい。
「いやー、汗をかいた後のこの水は、こたえられないせ、まったくよぉ」
 大声でわめきちらしながら、横溝は傍らの小さな赤い鳥居を蹴飛ばした。かなり酒が回っている様子だ。
「横溝さん、その鳥居は…」
 その鳥居は、むかしここが水源として地元の人たちから重宝されていたころに祭られたものであり、決して汚してはならない、と先輩たちから語り継がれているものだった。
「なんだ、高田。文句あんのか?この鳥居がどうしたって言うんだよぉ」
「だって、たたりが…」
「たたりだと?なんだお前、そんなこと本気にしてるのか?そんなもん、迷信に決まってるじゃねえか。なんでえ、こんなもの」
 横溝は、さらに鳥居を蹴った。鳥居がぐらり、と揺れたように見えた。迷信だ、迷信だ、と言いながら他の連中もざぶざぶと水の中を歩き回った。
「やめたほうがいいですよ!」
 徹は思わず叫んでいた。迷信かも知れないが、昔の人々が祭ったものを土足でふみにじってはならない、と真剣に思った。
「おい、まだ文句つける気かよ。よぉし、そんなら迷信だってこと、俺がみんなに証明してやる」
 そういうなり横溝は、鳥居の根元にいきなり小便をかけだした。じゃばじゃばという水音と共に、生臭い匂いがあたり一面にたちこめた。これが本当の清めの聖水だあ、と誰かが笑った。徹には、もう止める術がなかった。
 徹の不安に反して山登りにはその後何事も起こらず、一同はなんなく頂上にたどり着くことが出来た。
 山頂の夜明けは美しかった。やっぱり迷信だったのかも知れない。あたりを茜色に染めて昇ってくる朝日を見つめながら、徹はそんなふうに考え始めていた。

 翌日(正確には山に登った日)は日曜だった。山登りの疲れもあり、部屋の一同は早々と床についた。
 どのくらい眠ったのだろう。自分の体を重く締めつける不快な気配に徹は気づいた。首が苦しい。息ができない。思い切り息を吸い込んでも、少しも楽にはならない。いったいどうしたって言うんだ…。
 夢うつつの中で、赤いものがゆらゆらうごめいている。それは徹の意識と共に、次第に輪郭をはっきりとさせた。 鳥居、鳥居だった。そうだ!それは、あの「水神社」の鳥居だった。しかも鳥居のむこうには、白装束を身につけた神子(みこ)が、悲しげな顔で立っている。
 徹は起き上がろうとした。しかし、どうにも身体がいうことを聞かない。これは夢なんだ、懸命にそう言い聞かせようとする。しかし、夢か現実かの区別すらはっきりしない。息はますます苦しい。
 誰かの白い手が延びていた。その手が首にからみつく。苦しいのはそのせいだった。いったい、誰の手なんだこれは…。
 ドスッと言う鈍い音が響いた。徹はようやく目覚めた。息苦しさは幾分和らいでいた。ベットのカーテンを開けると、上の段の横溝が床にころがり、うなっていた。額からは血が流れている。どうやら、ベットからころげ落ちたらしい。部屋の他の連中も似たような状態だった。
「大丈夫ですか、横溝さん!」
「と、鳥居だ。赤い鳥居だ…」
 横溝の声は悲鳴に近かった。その目は恐怖に脅えている。
「ひょっとして、横溝さんも見たんですか?」
「お、お前も見たのか…」
 俺もだ、俺もだと言う叫びが部屋のあちことから響いた。伏岳に登った全員が同じ時刻に、同じ夢を見たのだ。しかも、その時刻とはまさにあのとき鳥居を、そして湧き水を汚した時刻ではないか!
 恐怖が部屋中を襲っていた。
「神子が俺の首をぐいぐい締めてきて、俺、息ができんかった」
 ぶるぶる震えながら横溝が言った。いつもの居丈高な様子はどこにもない。あれは神子の手だったのか。徹はそのとき、やっと手の主が誰なのかを悟った。
 もう、とても眠る気にはなれなかった。もし眠ると、きっとまた神子の手が延びてくる。そして首にまとわりついてくる…。
 真夜中の部屋で、徹たちは途方にくれていた。


〜その後の水神社〜

 この話は、私が学生時代に隣室で起きた話です。先祖が祭ったものを意味もなく冒涜すると、ひどい目にあうという典型的な例です。規模は違いますが、ピラミッドのたたりなども同じ種類でしょう。
 ところでその後、横溝たちはどうしたのでしょうか?月曜の朝、横溝たちは講義が終わるのもそこそこに、部屋の皆から金を集め、神主を呼びました。そして事情を話し、部屋の中で丁重に「おはらい」をしてもらったといいます。そのおかげで、神子の霊が夢枕に立つことは二度となかったとのこと。
「言い伝えは、やはり本当だった」
 横溝たちの恐怖の体験は、当時の学内をまたたく間に駈けめぐりました。いまでもこの話は、どこかでひっそりと語り継がれているはずです。


 この作品は(株)同朋舎発行、合田一道著「北の幽霊」に「水神社の祟り」として掲載されました。