第2部〜その3 楽しき外仕事
             /2000.4.11〜2000.8.31


材料のダメージ



 待ち望んだ春が街にやってきた。先送りしていた外仕事を始める季節到来である。だが、雪解けの時期は、私の本業でもある建築関係の仕事がいっせいに動き出す。日々の仕事に追われ、せっかくの家造りの意気込みも構想が頭をめぐるばかりで、現実にはなかなか手が回らない状況だった。
 冬の間外に放置したままで気になっていた木材の点検にようやくとりかかることが出来たのは、4月も下旬に差し掛かってゴールデンウィークの声が聞こえ出す頃だった。

 シートで厳重に覆っていたとはいえ、場所によっては2メートル近くも滞積していた雪によるダメージは大きかった。かなりの材料に水がかぶり、通気の悪い雪の中に長期間閉ざされていたせいか、一部にはカビまで発生している。
 そのまま建物に立て掛けて乾燥させようにも、まだまだ天候は不順でまたまた雨にやられかねない。ダメージの大きいものはとりあえず家の中に運んで室内で乾燥させることにし、他の材料は地面に高く台を敷いて再びシートで覆うことにした。雨による被害は比較的少ないはずだったが、とにかく一刻も早く材料を使い切ってしまうことが一番だった。
 厳しい冬の名残りはまだあちこちに残っており、庭や空き地にはまだ残雪が多く、土の部分もぬかるんでいて外仕事はまだ当分無理である。そこでとりあえず乾いている材料だけを使い、残っている室内家具を一気に作ってしまうことにした。



圧迫感のない靴箱



 まず、靴箱である。玄関はかなり広めにとったので、靴箱などなくとも生活に支障はなかった。だが、冬の間は一足のブーツで足りていた靴も、雪が溶けると何足かをはき分けなくてはならない。家のデザインに合わせた家族4人分の靴箱を作る必要があった。

 靴箱のデザインには相当迷った。最近の建売住宅などでよく見る天井まである扉つきの玄関収納を当初は考えた。ありきたりだが、収納力抜群だし、中段を開けて飾り棚を兼用させることも出来る。押入れや食器棚などで培った技術を活かせば、似たようなものは自分でも何とか作り出せそうに思えた。
 だが、熟慮のすえ下した決定は、背の低い扉なしのデザインだった。収納力を多少犠牲にしても、高さを低くおさえて(ちなみに、わずか48センチである)上部を開放的にし、圧迫感をなくする方を選んだ。
 特に狭い場所や人が多く集まる空間の場合、家具の高さを低くおさえることは重要である。居間には本棚兼用電話台や収納つきベンチなど、数多くの家具をしつらえたが、高さはいずれも40センチ以下に低くおさえた。当初から床に座る生活を続けようと決めていたので、高い家具だとどうしても空間に広がりが出ない。既製品だと対応はかなり難しいが、手作りの場合は簡単にこの問題をクリア出来る。

 靴箱の材料は例によって無垢のツーバィ材と床材の余りである。まず、長靴などのこの地の生活に欠かせない靴はすべて寸法を計って、ぴったり収まる場所を設ける。次に家族それぞれが4足までの靴をしまえる棚を設けた。棚はスノコ状になっているので、砂などは土間に直接落ちて中に溜らない仕組みになっている。これで収まりきらない靴は、段ボールに入れて玄関横の洋服収納の下段に収める予定だったが、出来上がってみると大半の靴はきっちり中に収まった。
 汚れを考慮し、靴箱は玄関土間にレンガを2段積んで載せた。すると一番下に手頃な空間が出来、普段よくはく家族分の靴が土間の奥にぴたり収まる。玄関が散らからず、出かけるときは瞬時に靴を取りだせる。使ってみると実に具合がいい。
 扉のたぐいは邪魔なので一切省いた。代わりに紺地の厚い生地を大量に買ってきて、天板から下へと暖簾のように垂れ下げた。テーブルクロスとカーテンを兼用したようなもので、こうすると玄関ドアを開けたときにも中の靴は直接見えない。靴の出し入れをするときにはめくるが、靴を取り出すと布の重みで自然に閉まるしかけである。
 同じ布は玄関横の洋服収納と、階段下収納の目隠しにも用い、視覚的な統一性をもたせた。


玄関土間の一隅にしつらえた靴箱。上部飾り棚を兼ねている



扉のない収納



 この靴箱に限らず、この家で作った家具には、扉のたぐいが全くない。越してきて最初に作った食器棚がまずそうだし、その後の押入れ、ベット兼用収納、本棚など、すべてがそうである。あるのはせいぜい手製の目隠し用暖簾かロールスクリーン程度で、これとて扉のイメージには程遠い。
 以前住んでいたマンションでは、すべての収納に戸があった。引戸はごくわずかで、大半は開け閉めのときに多くの空間を必要とする開き戸である。すでに触れたように、妻を筆頭にして我が家はズボラ人間ぞろいである。開けた扉を閉めることはもちろん、扉そのものを疎んじる資質の人間が多いのだ。そのせいでマンション時代には開けた扉におでこをぶつけたり、指をはさんだりの事故や怪我が絶えなかった。ズボラだから悪いのではなく、狭い空間にそうした無理な収納システムを強要していることにそもそも無理がある。
 この家では家具としてのドアも極力省いたことはすでに触れた。その思想を家具にまでとことん追求したのである。結果として家族は開閉のストレスや窮屈さ、そして怪我から解放された。この時期にたて続けに作った玄関横の洋服収納や居間側の階段下に作った収納などにも扉のたぐいはなく、あるのは収納物が目に直接入らぬよう視線を遮るための布製の暖簾だけである。布なので湿気や風はスムーズに流れ、結果的に家内空気の温度や湿度をむらなく均一に保つことが出来る。人間にとっても家にとっても、実に都合のいいシステムなのだ。

 家にある物を一切目に触れさせず、すべてを扉つきの収納に隠ぺいしてしまっている家も数多く見受けられる。体裁を気にしがちな日本人には、こうした考えのほうが受けがいいように思える。不特定多数のユーザーを対象にしている建売住宅やマンションの収納の大半にドアが備わっているのは、売り手にとってそのことがニーズの最大公約数だからだ。
 しかし、しょせん家は住む人間が主役なのである。画一的な押しつけではなく、住む人間にとって最も快適な暮し方と空間を探り当て、それに家のほうを合わせるべきだと私は思う。新築や改築にあたり、そんな生き方暮し方を見つめ直すのは何より主役である施主とその家族であり、その助けをするのは建築家の仕事であることは言うまでもない。



ニッチ本棚



 本好きな私と妻が長年買い込んだ文庫本と新書本が300册近くもある。過去数回の引越しで何度も捨てようかと思い悩んだが、色々な思い出が詰まっていたり、成長する子供たちが取り出して読むのを目にしたりすると結局捨てられず、いまに至っている。
 文庫本や新書本は安くてコンパクトという大きなメリットがあるが、こと収納に関しては始末におえない。小さ過ぎるのである。奥行きの深い本棚に2列に並べるなど、あれこれ工夫してはいたが、このやり方だと奥の本が結局死蔵されてしまう。挙げ句には空いた壁際にうずたかく積み上げる始末だった。
 今回の引越しでも大形本は仕事用も含めてすぐに専用書棚を作って収めたが、文庫本と新書本だけは段ボールの箱に入れたまま、半年近くも放置されていた。設計段階では2階吹抜けの手すりの一部にはめこむつもりだった。文庫本と新書本の奥行きは10センチ強で、手すりの奥行きとほぼ一致する。だから手すりの一部に本棚をしつらえる建築家も少なくない。
 ところがそうすると膨大な大工手間賃がかかる。そんな予算はもちろんない。引越し後に自分で細工しようとしたが、ちょうど光の通り道にあたる部分がすべて本でふさがれてしまうと、光と風の通りが極度に悪くなることが分かって施工をためらっていた。

 そんなあるとき、素晴らしい収納方法のアイデアをふと思いついた。階段の両側にはかなりの広さの壁がある。ここを本棚に出来るのではないか?
「ニッチ」という名の飾り棚がハウスメーカーのモデルハウスなどで大流行している。壁の一部をくり抜き、花びんや小物を飾って上から光をあてたりするしかけで、新しもの好きの奥様のハートを虜にしている。飾り棚など作る気はないが、それを応用して文庫本と新書本を収める空間が作り出せそうな気がした。
 何かの案に詰まって思い悩んでいると、こんなふうにふとしたきっかけで素晴らしい解決策が思い浮かぶことが多々ある。設計プランにはある程度の時間がやはり必要なのだ。

 手持ちの本の数から計算すると、90センチ角の面積があればすべての本が収まることが分かった。調べてみると、階段中程にちょうどその大きさの壁板がある。壁はクロス張ではなく、ボードを釘でただ止めてあるだけだし、構造上大切な壁でもない。もちろん、水道管や電気配線なども一切通っていない。迷わず外して邪魔な間柱を取り払い、4段の棚板をはめこんだ。
 最下段だけは新書本用に寸法を大きめにし、他はすべて文庫本が収まるサイズにした。壁の奥行きは10.5センチで、本の寸法とぴたり同じである。壁からは出っ張らず、階段の昇り降りにも支障がない。こうしてすべての本の落ち着き先がようやく決まった。
 階段上の梁には、足元を照らすためのスポットライトが取りつけてある。階段の昇り降りにふと目についた本を抜き出し、このライトを点けて踏板に座って本を読むと、妙に落ち着く。いわば第2の書斎の誕生なのだった。


階段途中に設けたニッチ本棚。光と風の通り抜ける気持ちのいい空間



小鳩村の動物たち



 家の敷地は2本の川に挟まれた地であることは以前にも書いたが、特に北側の川向こうは市街化調整地域で、開拓者が防風用に植えた雑木林が茫漠と広がっている。
 階段を降りるときにはこの広大な風景がいつも高窓から目に入るが、まだ木々も芽を出さない4月下旬のある日、その雑木林の方角から飛んできた一羽の鳥が近くの電線に止まり、元気よく鳴いた。

「デデッポ〜!」

 春の使者、山鳩である。都会に住む鳩は珍しくないが、山に本拠を置く山鳩との遭遇は、幼少時に田舎に住んでいたとき以来だから、およそ40年ぶりだろうか。物珍しく外に出て眺めていたら、人ずれしていない野生種のせいなのだろう、すぐに飛び立って逃げてしまった。

 鳩に限らず、この地には野生動物が数多く出没する。土手の穴蔵に巣を作っているらしいキタキツネは、季節を問わず母子で姿を見せるし、やはり春の使者であるカッコウは、5月の種まき時期に突然やってきて、童謡の歌詞そのままに、早朝から起きろ起きろと急き立てる。
 小高いポプラの木よりもっと高い上空では、トンビがグライダーのようにゆっくり旋回し、ピ〜ヒョロヒョロと自分の縄張りを主張する。おかげでこの地にはうるさいカラスがほとんど寄りつかない。
 夏の終わりには決まって赤ゲラ(キツツキ)の夫婦がやってきて、手作りのパーゴラテラスにむらがる害虫をくちばしでトントン突いて退治してくれるし、冬の終わりにはキジの夫婦が餌を求めて庭先まで挨拶しにくる。

 家にいながらにして年中野生動物ウオッチングが可能という、実に恵まれた環境なのである。いまでは彼らを観察するのもすっかり慣れた。机の上には倍率の高い双眼鏡がいつも置いてあり、ターゲットが現れるとすかさず手にとってブラインドの隙間からじっくり観察し、ときには望遠レンズつきのカメラで撮影を楽しんだりする。
 この地域は通称「小鳩団地」と呼ばれ、ゼンリンの地図などにもその名が記載されている。30年近く前に開発者がつけた名だと聞くが、その由来については土地の古老に聞いても分からずじまいだった。だが、住んでみて納得した。野生の鳩が毎年欠かさずやってくる自然に恵まれた街、だから「小鳩団地」なのだ。開発者は鳩の名に団地の未来を託したのだろう。



パーゴラ車庫の下作業



 4月末、居間の南側に長さ3メートル近くのベンチを作る。45ミリ角の通称タルキと呼ばれる構造材にていねいにカンナをかけ、間をすかして並べたもので、人が座る部分とテレビを置く部分、収納引出しを置く部分など、場所によってさまざまに使い分けられている。下には電話帳が楽に収まる空間があり、膨大な収納スペースが同時に完成した。

 室内の作業が一段落した頃、外気温がぐんぐん上がり始めた。うまい具合にゴールデンウィークに突入し、心置きなく外作業にまい進する環境が整った。
 地面はすっかり乾いているので、まず外回りの掃除にとりかかった。2ケ所に別れていた材木置場を1ケ所にまとめ、散らかっていたゴミや残材を根気よく拾ってゆく。融雪水ででこぼこになっていた敷地をスコップでならすと、建物周りが見違えるように片づいた。
 外作業の第1号は、パーゴラ車庫と早くから決めていた。最も手間がかかり、最も材料を使い、そして最も暮しに役立つものだからである。室内作業の第1号を食器棚にした経緯とちょっと似ている。材料の加工は作冬の引越し直前に一部済んでいたが、ペンキ塗りや組立て加工までを考えると、ほとんど何も手がついていない状態と言ってよかった。
 一部の材料にカビが発生しており、このままだと強度に影響しかねないので、そんな材料はすべて室内に運んでカンナがけをし、強制的にカビを取り除いた。本来なら不要な手間だが、作業を半年も遅らせたツケだから仕方がない。むしろこの程度で済んだと喜ぶべきだろう。

 カンナがけの終わった材料に、再び保護塗料を塗る。塗料は外部木壁や玄関ドアに塗ったのと同じドイツ製のオスモワンコートオンリーで、外壁のワインブラックに似合うよう、木材のピースに何度も試し塗りをして慎重に色を決めた、レッドシダーという赤茶色である。
 以前にも書いたが、この塗料は非常にねばりが強く、ただ刷毛で塗るだけでは均一に仕上げることは出来ない。専用ローラーで強くこするように塗りつけるのだが、当初はそのコツがつかめず、一部の外壁には大きなむらが出来てしまっていた。
 その後工夫を重ね、余った材料と端切れで自分専用の強力な塗りごてを作って、ようやくむらなく塗り上げるコツをつかんだ。いずれは外壁もこの専用ごてで塗り直さなくてはならないだろう。



パーゴラ車庫の上棟



 3日かけてすべての材料、すなわち4本の柱と4本の大梁、そして6本の小梁の加工と塗装が終わった。いよいよ材料をボルトで組立て、棟上げをする番である。
 実はこの棟上げが最大の難関だった。車庫を自分で作ると私が言い出したとき、K建設のオバタ専務やヤマセさんが猛反対したのは、何も自分の会社の儲けが薄くなるからではなく、棟上げ作業が素人では無理だとの危惧からだった。

「あれは機械なしでは無理だよ、やめときなよ」
 何度もそう脅かされたものだった。車庫の寸法は幅4メートル、奥行き3.5メートル、高さ3メートルもある。その棟上げを私の陣頭指揮で、家族4人で何とか成し遂げなくてはならない。何度もスケッチを描き、機械を使わずに部材を立ち上げる綿密な計画をたてた。全体をいくつかのパーツに分け、組み立てる負担をなるべく軽くしながらパーツ毎に組み上げていくのが私の作戦だった。

 まず、4本の柱の基礎となるコンクリートの束石を固定する。車庫にあたる場所にはあらかじめ4本の杭が打ってあり、K建設でコンクリートを打ってきちんと水平を出してくれてた。私はその場所を掘って束石を置けばいいだけなのだが、この場所の直角が少しでも狂っていると、その後のすべての作業に狂いが生じる。まず南東の石の位置を決め、これを基準にピタゴラスの定理を駆使して残りの石の位置を慎重に決めた。周りを再度砂利で埋め戻し、棒で堅く突き固める。
 次に長さ3メートルの柱2本と長さ4メートルの大梁を鳥居のような形にボルトでがっちりと止めた。ピタゴラスの定理をまたまた使って厳密に直角をチェックする。とんだところで中学校の数学が役立つ。やはり学校の勉強はおろそかには出来ない。

 このパーツを建物側と道路側に立ち上げ、その間を別の梁で止めてしまうのが作業の最初にして最大の山場だった。計算してみると、パーツの重さだけで100キロ近くになる。計算ミスかと何度やり直しても間違いはなかった。最初は妻と二人で何とかなるんじゃないかと軽く考えていたが、100キロではちょっときつい。しかも相手は幅4メートル、高さ3メートルのバランスが悪いいびつな形状の部材である。
 試しに妻と二人で持ち上げてみると、なんとか柱の基礎の場所までは運べたが、そこから壁まで二人で立ち上げるのはとても無理だった。やむなく家で寝ていた長男を叩き起こし、急きょ手伝わせる。眠そうな目をこすって現れた長男の姿を見ると、なんとパジャマ姿にサンダルばきという間抜けないでたち。
(お前、大工仕事をナメんじゃねぇよ!)
 そう怒鳴りそうになる気持ちをじっとこらえ、とりあえず妻と息子を組ませて右側の柱、残る左の柱は気丈に私一人で支え、かけ声もろとも一気に壁まで起こそうとした。



危機一髪!



 ところが、ある角度からどうしても部材が上にあがっていかない。いくらかけ声をかけても、駄目なのである。そうこうするうち、右側、すなわち妻と息子の側の柱のバランスが大きく崩れた。どうやら束石から柱が外れたらしい。部材の重さがすべて私にのしかかってくる。梁が折れては一大事だ。転びそうになる部材を私は必死で両肩で支えた。
 気がつくと肩に激痛が走っている。部材は無事だったが、肩は大きく皮がむけ、赤くはれあがっていた。だが、ここで作業を止めるわけにはいかない。

「もっとしっかり持てよ!」
 ついに大声が出てしまった。怒鳴っても始まらないことは分かっていた。予期せぬ私の怪我を妻はさかんに気遣うが、問題は息子だ。力の弱い妻はともかく、私よりもはるかに体格のいい息子がまるで能無しであることが無性に腹立たしい。そもそもまるでやる気のないその情けない格好はなんだ…。
 愚痴をこぼす前に、なんとかこの部材だけは立ち上げなくてはならなかった。そうしないとすべての作業が行き詰まってしまう。気を取り直し、もう一度試みる。どうも柱の位置に誤解があるようなので、「この四角い石の上に柱が載るんだ。だから途中でずれないように注意しつつ部材を壁まであげてくれ」そう念入りに説明する。
 きつく叱咤したせいか、はたまたかんで含めるように説明したせいか、今度は気合いもろとも一気に壁まで立上がった。成功だ!
 脚立に昇り、素早く部材を壁に止める。長さ10センチのビスで壁を貫き、建物の構造材まで深く止めたのでもう転倒の心配はない。ここでパジャマ姿の息子には、速やかにお引取りいただいた。怪我のこともあり、残り2本の柱と大梁を組み終えたところでその日はひとまず作業を終了した。



段取りの重要性



 翌日、昨日の反省を踏まえて入念な下準備をした。昨日立ち上げた部材は壁という支えがあったからまだいい。だが、今日立ち上げる予定の道路側にはそんな支えがまるでない。まさに天空に向かって真直ぐに部材を立ち上げなくてはならないのだ。もしも作業に失敗すれば、100キロの部材が身体を打ち、それこそ大怪我をしかねない。
 考えたすえ、束石の上に少し大きめの仮固定用木枠を作ってかぶせることにした。それに柱を差し込むようにすれば柱の下端は束石から外れず、立上がったときも真直ぐ鉛直を保ちやすいのではないか。

 長男はほとんどあてにならないことがはっきりしたので、今日は次男に作業の手伝いをするよう言い含めた。準備が整い、昨日と同じように妻と次男に一方を持たせ、もう一方を私が持ってまず柱の下端を束石の木枠にはめこんで立ち上げてみると、今度はあっけないほど簡単に立上がる。どうやら柱の下端が仮固定されていないことが全体のバランスを悪くし、すべての作業をやりづらくしていたようだった。
 風で倒れてしまわぬよう、筋交いを部材に仮固定して一方を建物に止める。これで部材はひとます安定した。次に脚立に乗って支えとなる大梁を2本つなぎ、水平と垂直を微調整してボルトを本締めする。組立て作業はわずか15分で終了した。段取りひとつで、こうも勝手が違うものかと、ただ驚く。

 家族で大騒ぎしているのが近所にも聞こえていたとみえ、たくさんの人たちが何事かと見物に訪れる。「車庫を作ってるんです」と説明すると、「えっ!」と皆一様に絶句。そりゃ、そうです。こんなものを自分で作ろうという酔狂な人間は、そうはいません。
「プロに頼むお金がないもので…」と妻が余計なことを言い添えている。まあ、事実なんだから仕方がないと、黙っている。もちろん真似をする気はないが、無味乾燥なスチール製の組立て式車庫でさえも、外注すれば30万は下らないはずだから。
(ちなみに今回の場合、費用は1/10程度)

 翌日、間に入る6本の小梁を妻と二人で組み立てる。半日ですべての作業が終わってしまう。屋根にスノコ板を止める作業がまだ残っているが、あとは暇をみながら私一人で出来る仕事だった。紆余曲折のすえ、こうしてパーゴラ車庫の骨格は家族だけの力で見事に完成した。


建物側パーツが組み上がった状態。中央赤い旗の下にある仮枠がポイント


柱と大梁がすべて組み上がった状態。ここまでの道程がいかに長かったことか…



菜園作り開始



 北の行楽シーズンが始まるゴールデンウィークの時期は、同時に畑作りが始まる時期でもある。気温の上昇に伴って大地の温度も徐々に上り始めるから、カッコウが鳴き始める5月中旬頃までには畑の準備を整え、種まきに取りかからねばならない。
 地下鉄駅まで徒歩9分の都会のマンション暮しから、周囲にはほとんど家がない田舎の戸建住宅にせっかく越したのだから、わずかばかりある空き地には何かしらの花や庭木、そしていくばくかの野菜をぜひとも栽培しようとかねてから考えていた。
 私がやろうとしたのは、一言で言うと完全無農薬有機農法である。なるべくではなく、絶対に農薬を使わず、しかも化学肥料も一切使わずに野菜を育てあげようと考えた。そのこだわりは、家作りにおけるキーワードのひとつである「エコロジー」とも符号が一致する。

 私には12歳まで畑仕事の経験がある。父親は出稼ぎの大工だったが、勤勉だった母親は夏の夫の留守中に五反歩(約5000平方メートル)の畑をせっせと耕し、日々の野菜はもちろん、ジャガイモや小麦、大豆、小豆などを栽培していた。他から買っていたのは米だけで、自分の家で食べ切れない分は農協に売り、かなりの現金収入に結びつけていたものだ。
 当時の母は化学肥料を一部使っていた。農薬も多少使っていた記憶がある。だからといって母を責める気はない。化学物質の弊害がまだ社会問題にはなっていなかった時代だった。おそらく使うと使わないとでは、収穫量にかなりの差があったのだろう。
 そんなわけで4人の子供たちは否応なしに畑仕事の手伝いにかり出された。だから稲作以外のすべての農作業には、一通りの心得がある。山鳩の鳴き声と同じように、40年ぶりにそれを記憶の引き出しから取り出してみたかった。

 まず畑を掘り起こすのが畑作りの第一歩である。最初の畑は陽当たりのいい南側の空き地に決め、掘り起こす範囲を杭と縄で囲う。準備しておいた剣先スコップ(先の尖ったスコップ)でなるべく深く掘り起こす。目安は30センチ以上。ところがこの場所が工事業者が念入りに機械で固めた場所らしく、ものすごく堅い。しかし、いい野菜を作るには、とにかく掘り越さなくてはならない。妻や次男にも手伝わせながら、1時間以上もかかってようやく2坪分を掘り起こした。同時に、土の中のゴミや石を丹念に拾い出す。
 次に、掘った土の上に石灰をまく。冬の間にすっかり酸性になってしまっている土を中和するためで、この作業は欠かせない。さらにケイフン(鶏のふん)をまく。いちおう有機肥料だが、「有機飼料を食べた鶏のふんでなければ有機肥料とは言えない」という厳しい意見も一部にはある。だが、予算の都合でさすがにそこまではこだわれない。
 石灰とケイフンが畑になじむまで、この状態でしばらく放置する。

 一週間後、カッコウの初鳴きを聞く。種まきの時期到来だ。なぜカッコウなのか定かではないが、おそらく土の温度がちょうどいい具合になる時期と、カッコウの飛来の時期とが一致するのだろう。
 さっそくトマトの苗を4株植える。同時にネギや枝豆などの種をまく。40年ぶりの野菜作りだし、今年はあまり欲張らず、夏の間のビールのつまみくらいになってくれたらいい、と控えめに考えることにする。



庭作り同時進行



 畑作りと庭作りはほぼ同時に進行した。第1部で触れたように、家の設計段階で庭のイメージはすでに出来上がっていた。パーゴラ車庫や居間から続くウッドデッキなどは完全に図面が完成していたし、だいたいどのあたりに何を植えようかとのアイデアも、何枚かのスケッチが残してあった。
 家の設計にあたり、内から外、そして外から内への自然な動線処理を重要視したことはすでに書いた。外部の構成は当然この動線計画に沿った形で行われたが、それ以外で最も気を配ったのは、居間と台所からの見通しだった。四季を通じて何らかの形で目を楽しませるような庭木や草花、野菜の配置の工夫が必要で、そのためには行き当たりばったりの計画では駄目である。庭木の枝振りや高さ、花の色や咲く時期などを綿密に考慮して植える場所を決めなければならない。

 家のシンボルツリーとなる木は、高さ1メートルほどの楓の木だった。家族キャンプのときに道端に落ちていた小さな枝を拾って育てた思い出深い木で、引越し前に南西の角地に移植してすでに根づいていた。落葉樹だが、美しい葉の形と鮮やかな紅葉で目を楽しませてくれる。
 この木を中心に囲むような形でレンギョウとドウタンツツジを植えた。楓よりやや低く、枝ぶりがそれぞれ違っていて、楓を中心に互いを引き立ててくれる。どちらも可憐な花を春に咲かせるので、好きな木だった。ドウタンツツジは秋の紅葉も美しいし、西南の角に植えたレンギョウの黄色の花は、風水でも縁起よしとされている。
 これらの木々は居間から座った状態でも見えるように慎重に位置を決めた。実のなる木が何か欲しいと思っていたところ、ピオーネという種類のぶどうの苗を安くみつけ、さっそく買ってきて楓の西に植えた。余った構造材で屋根の勾配にあわせたデザインのぶどう棚を作る。葉が繁ってくると、広い居間のガラス窓の目隠しにもなってくれるだろう。

 台所の前には札幌の市花でもあるライラックとエゾヤマザクラの苗木を植えた。その北側には、やはり家族キャンプのときに拾ってきてドングリから育てたミズナラの木がすでに根づいている。ミズナラは大きくなり過ぎるので、庭木にはあまり向いていない。でも、いまは家を出た長女が小学校のときに自分で植えた木だから、剪定しながらでも何とか育ててやりたかった。本当はサツキやイチイも欲しかったが、狭い庭にあまり一度に植えて収拾不能になってしまうのが怖く、一年目はこのへんで様子をみることにする。
 ライラックの横には、昔から好きだった撫子の種をまいた。花の時期が長く、台所の正面の窓から赤や白を中心としたさまざまな色で目を楽しませてくれるだろう。同じ理由でその南側にはルピナスの種をまく。撫子よりも少しだけ開花の時期がずれる。どちらも宿根草で寒さにも強く、育てやすい。予定にはなかったが、妻の好きなスズランの苗を安くみつけ、空いていたミズナラの根元に植える。
 草花は大半が手入れの少なくてすむ多年草か宿根草で、唯一の例外は西側敷地境界に目隠しに植えたヒマワリだけとなった。

 野菜たちはこれらの庭木や草花の間に隠すように植えた。幅30センチくらいのスペースを見つけると、すかさず掘り起こして野菜の種をまく。こんな繰り返しで、控えたつもりでも結局10種類近くの野菜を仕込んでしまった。まあ、何とかなるだろう。



車庫崩壊の危機



 大工工事を保留にして畑仕事に勤しんでいた矢先のある夜、突然の衝撃音が家中を揺るがした。地震か落雷か、はたまた隕石の衝突かとあわてて外に飛び出してみると、バックでもろに車庫の柱にぶつかって止まっているのは、見覚えのある息子の青い車だった。あわれ車庫の柱は基礎の束石から半分外れ、束石は基礎から浮いて大きく傾き、見るも無惨な姿をさらけ出している。

「おい、いったいどこ見て運転しているんだ。建てたばかりの家をぶちこわす気か!」
 たいした手伝いもせず、壊すしか能のないバカ息子に、またまた怒りが爆発する。そもそも10センチもある柱が見えないとは、いったいどんな運転教習を受けてきたのか。あわてて降りてきた息子は、血相を変えた私の顔を見て、ようやく事の重大さを察知したようだった。

「明日からバックで入れようなんて大それた気は起こすなよ」とだけ言い残し、おどおどする息子を置き去りにして家の中に戻る。もう、顔も見たくない気分だった。
 その夜は一晩中修理の方法を考えた。基礎から浮いている束石をとにかく元に戻さねばならないが、上には柱を始め、合計数百キロもの部材が、すでに完全に組み上がっている。すべてを分解してやり直すのが最も安全な手法だが、死ぬ思いで組立てた部材をもう一度やり直すのだけは絶対に避けたかった。
 そうなると部材を組んだまま、何とか束石と部材の水平と鉛直を取り戻し、車庫を元の形に戻さねばならない。とにかく束石の周囲を掘ってみるしかなかった。

 翌日、起きるとすぐに傾いた柱の根元を掘った。全体のバランスが狂ってしまっているので、一刻の猶予も出来ない。周囲の砂利をすべてどかし、全体をさらしてみると、衝撃で柱と束石がくの字に折れ曲がっている。かろうじて外れずにいるのは、束石についていた小さな金属板を、柱にボルトでしっかり止めてあったからだった。
 束石の下の土や砂利を指ですべて出し、大量の水を流して邪魔物をまず除去する。その後、折れ曲がったほうの柱の角を足で軽く蹴飛ばしてみると、ゆらゆら動く。これならなんとか元に戻りそうだ。思い切って力を加えると、地響きと共に柱と束石は真直ぐに戻った。良かった…、ほっと安堵の胸をなで下ろす。
 スコップをてこに使ってずれた束石の位置を少しずつ微調整し、ともかく車庫は衝突前の形を取り戻した。だが、いつまた何時ふていの輩が車をぶつけ、すべてを台なしにしかねない。こうなればぶつかった車のほうが壊れてしまうよう、車庫全体を強固に補強するしかない。
 基礎の上に束石が載っているだけ、という構造にそもそも問題があるのは確実だった。束石と基礎とをコンクリートで固めてしまえば、相当の衝撃にも耐えうる。そう結論を下すと、すぐに基礎の回りに木枠を組み、いつでも使えるように準備している砂とセメントと砂利を水で練り、流し込んだ。やれやれ、これでひとまず安心だ。

 それにしても、家作りで張り切っているのは結局私だけではないのか?とつい勘ぐってしまうような車庫騒動だった。作るときも協力的だったのは妻くらいのもので、二人の息子はまるで無関心である。車庫が出来れば冬の雪かきが格段に軽減されるのは目に見えているし、雨の日に玄関ドアを開けたらいきなり濡れる、という心配もなくなる。家族全体が恩恵を受けるのだ。それなのに…。
 そもそも新築計画の時点から、二人の息子は家作りには無関心だった。家族愛などと面倒な理屈を持ち出す以前に、たぶん物を作るということに、喜びを見出せないタイプなのだろう。正月に帰省して三日だけしか家にいなかった娘のほうが、余程好奇心に溢れて家中を探索してくれた。物作りのDNAを受け継いだのは、結局娘だけだったということになる。
 少しばかり寂しい気持ちにも陥ったが、たとえ息子といえども、過大な期待や趣味の押しつけは禁物である。どうやら家作りは私の大いなる道楽のようであり、こうなれば何でも独りでやるのだと腹をくくるしかなさそうだった。



基礎固め



 ボイラの火を完全に落とした5月末、ぽかぽか陽気に誘われるようにネギと枝豆が相次いで芽を出した。少し遅れて青ジソも芽をふく。いよいよ大地の活動が活発化してきた。
 仕事と天気の様子をみながら、のんびりと車庫の屋根張りをする。屋根といっても、幅10.5センチ、厚さ1.8センチのヌキ板に保護塗料を塗り、すのこ状に間を開けてこつこつビスで止めていくだけである。通路と車の真上だけはポリカーボネードの透明波板を同じくビス止めした。
 市販の車庫のように完全に閉じた空間にせず、あえて開けた場所を設けたのだった。一部雨や風は入るが、光も同時に入り、開放的な車庫が出来る。玄関から道路、あるいは庭へとつながる動線の中で、いわゆる「内でも外でもない空間」の完成である。冬の雪はすのこの間が雪で凍りつき、下には落ちてこない計算だった。あくまで計算であり、もしも使ってみて不都合が生じたら、またそのときに対応策を考えるつもりだった。
(このあと、11月に入って結局全面的に透明波板を張った)

 車庫の工事が終わったので、すぐに居間のウッドデッキの作業準備に入った。こちらは車庫よりかなり規模が小さく、ほとんど独りで作業が可能である。
 まず基礎作りである。こちらは雪の荷重があまりかからないので、節約のため杭は打っていない。建物側は家の基礎を利用するが、反対側は充分掘り込み、砂利とコンクリートで固めて、頑丈な基礎を作らねばならない。掘る深さが浅いと冬期の凍結により地面が持ち上がり、デッキが持ち上がってしまう。これを避けるには、その地区の凍結震度以下(札幌の場合は45センチ)まで掘り下げてやればいい。

 基礎材料には束石ではなく、縁石と呼ばれる道路材を使った。値段が束石の半分だが、荷重の少ない場所ならこれで充分だ。基礎の下にあたる部分の砂利は、車庫下から一部もってきたものを使う。こういうものをいちいち買っていると、お金がいくらあっても足りない。突き固めは土地に落ちていた古い角材を使う。力を入れて充分に突く。
 この上にコンクリートを流す。砂とセメントの配分は3:1。(重さでなく、容積)バケツに適当な量を入れ、水を加える前に充分混ぜる。次に水を少しずつ足し、耳たぶくらいの柔らかさになればOKである。あまり水が多すぎると強度が落ちる。これがいわゆるモルタルで、レンガなどを固めるならこのままで良いが、コンクリートとして強度を出したい場合、さらに砂利を加える。量は砂とセメントと同量くらいだ。

 丸2日かかって6ケ所の基礎固めがようやく終わった。建物でもそうだが、とにかく基礎に手を抜くと痛い目にあう。息子が壊した車庫も、甘い基礎対策が原因だったと言えなくもない。



外囲炉裏



 コンクリートは固まるまで少し時間を置く。この時間は長いほどよいが、DIYレベルの基礎工事ならば3〜4日といったところか。この時間待ちの間、ふと閃くことがあった。デッキの中央に、囲炉裏(いろり)もしくはかまどのような物を最初から取りつけられないだろうか?
 デッキの用途は大工仕事の作業場はもとより、洗濯物干場、布団干場、漬物用野菜の干場、畑仕事の作業場など、多岐に渡っていた。中でも重要だったのは、居間の延長としての位置づけ、いわば「第2の居間」としての役目である。
 陽気のいいときにはここにバーベキューコンロを持ち込み、焼肉パーティを楽しむのが当初からの構想だった。家族キャンプで使う組立て式のコンロもちゃんとある。だが、この「組立て式」というのが結構曲者だった。その都度出したりしまったりするのが意外に面倒なのだ。油汚れがつくと掃除も大変である。もしもデッキの中央に、レンガ製の囲炉裏のようなものが初めからついていたなら、この煩わしさから一挙に解放されるのではないか…。

 そう考えつくと、さっそく具体的な検討にとりかかった。DIYは作るプロセスも楽しいが、こうして思いついたアイデアを形にする作業も大きな楽しみのひとつだと私は思う。
 デッキは幅3.6メートル、奥行き2メートルあって、結構な広さである。本当は奥行きはもっと広くてもいい。だが、そうすると西の庭が狭くなり過ぎるので、ひとまずこの大きさに落ち着いていた。この中央に囲炉裏をしつらえるとどうなるか?あまり大きいとデッキが狭くなり、場所も中央だと予想されるさまざまな作業の邪魔になる。材料もすべてレンガだと、かなり費用がかさむことが分かった。

 結局場所は中央やや奥、大きさも人の通行に支障がないぎりぎりの寸法で、しかも多人数が座れる長方形。基礎部分の材料は安いブロックとし、この寸法から全体寸法を割り出す。大筋が決まると、さっそく作業開始である。買い足す材料はブロックとレンガだけで、あとは余った材料を活かせる。
 デッキ基礎と同じように土を深く掘り、順にブロックを積んで2日で予定の高さ、すなわちデッキの床プラス40センチの位置まで積み上げた。一番上の段と通気口だけがレンガ積である。ブロックのグレーと素レンガの赤茶色が絶妙のコントラストで、一人喜ぶ。



洗濯物の居場所



 思いがけない寄り道はしたものの、当初の予定よりも格段に進歩した形でデッキ作りは進んだ。床は車庫屋根と同じ要領ですのこ状にし、通水と通気をよくする。木材を長持ちさせるコツである。材料の間をわずかに開け、いわゆる目透かしにする手法は私の好みであり、この家の随所に使った必殺テクニックだった。材料の節約が出来、木材特有の寸法狂いを吸収し、風や光が微妙に通り抜けて、柔らかな空間をそこに造り上げる。
 デッキの両側の柱は床面よりかなり高くし、洗濯用のポールを間にぴったりはめこんで頑丈な洗濯干場にした。ポールは新しく買うつもりでいたが、以前から使っていた鉄製のポールはたいして傷みもなく、まだまだ使えそうだった。経費節約の至上命令もあってペンキを塗り直して再生し、再利用することにした。問題はこのポールの色である。

 ポールのもともとの色は青緑だった。どういうわけか、洗濯ポールにはこの青緑色が多い。この色はあまりにも派手過ぎて、どんな家の外観にもなじまないと断言してもいい。どんなに立派な家、あるいはセンスのいい家だったとしても、無神経にこの青緑色の洗濯ポールが使われていたりすると、それだけで興ざめである。
 なぜ青緑なんだろう?とよくよく考えてみると、どうやら大昔に使われていた青竹の名残りのようだ。いまは竹の洗濯ポールなど皆無に近いが、私の少年時代には確かにまだ存在した。時が流れてその材料が鉄に代わっても、青竹のイメージだけはいつまでも市場に残っているのではないか。
 この予測が適中していたなら、いわゆる「似非(えせ)」「まがい物」のたぐいということになる。DIYショップをよく探してみると、最近では銀のステンレス製ポールも見られるようになった。だが、両端のキャップはまだ青緑色のままだ。私は室内用にこのステンレス製ポールを買ったが、両端は金ノコですっぱり切り落として使っている。

 さて、まがい物の青緑をそのまま使う気はさらさらないが、ではどう塗り替えるかだった。銀の塗料を買ってきて塗る方法も考えたが、それでは節約の意味がない。しかも、塗料の銀はしょせんステンレスのきらめきにはかなわない。手持ちの古い塗料を調べてみると、黒や茶は残っている。これらを調合し、何とか外壁のワインレッドに近い色を造り出したいと思った。
 わざわざ壁の色を造りだしたのは、遠くからみて建物になじませるためである。以前にも書いたが、外回りの色として使えるのはせいぜい3〜4色が限度で、ここで新たな色の追加は禁物である。そうなると使えそうなのは外壁のワインブラックか屋根のチャコールグレーぐらいしかない。
 洗濯ポールは建築物の処理としては非常に難しい。本当は洗濯ポールなど何もないほうがデザインの処理としてはやりやすい。実際、洗濯ポールはもちろん、外の洗濯干場そのものを全く考慮に入れていない住居さえある。高名な建築家が設計したモダンな建物ほど、そんな傾向が強かったりする。
 だが、洗濯は文明人の生活では欠かせないものだ。台所や風呂、トイレを省略出来ないのと同様に、洗濯物の居場所に目を向けようとしない建築家は、少し疑ってかかったほうがいいかもしれない。

 当然ながら外の洗濯干場は洗濯機置場からなるべく近く、しかも陽当たりが良くて乾きやすい場所、そして急な雨や下着ドロなどに備えて、居間や台所から管理しやすい場所がいい。この家の場合、それは自動的にウッドデッキということになる。
 完成後、妻の評判は上々だった。中段の手すりと合わせ、都合4枚のシーツが広げて干せる巨大空間だ。我が家では細いハンガーにかけて多くの洗濯物を干すが、それに合わせて中央の梁に15センチ感覚で小穴を開け、ハンガーがぴったりはまる細工を施した。風に吹かれても洗濯物が飛ばず、しかもハンガーが互いにくっつかないので、ものすごく早く乾く。おかげで洗濯物を干す時間はいつも2〜3時間で済んでしまう。

 余談になるが、この家には室内のユーティリティー、すなわち洗濯脱衣洗面コーナーにも長さ2.6メートルの洗濯ポールが2本取りつけてある。同じ部屋にボイラが2台あるので、冬でもよく乾く。ポールは壁際に沿った暗くて目立たない場所にあり、暮しの中で目障りになることはほとんどない。同じ部屋には家族分の下着やタオルなどがしまえる収納タンスが造りつけてあり、洗濯〜乾燥〜収納の作業が一連の流れの中で完結する工夫をこらした。
 洗濯機置場から近く、目立たないがボイラなどの熱源に近くて乾きやすい。乾燥した水蒸気を排出できるファンなどがあり、しかも完全に乾くまで洗濯物をあちこちと移動させる必要がない。これらが冬の長い北国の室内洗濯干場の条件か。
 とかく余されものだが、我が家に限っては生活に必要不可欠な洗濯物とこうしてうまく共存している。



外囲炉裏デッキの出来映え



 デッキ両側の柱の間は梁でつなぎ、その上に屋根と同じ勾配でパーゴラをかけ、視覚的な統一を図った。このパーゴラに構造的な意味はなく、いわばただの飾りである。その後の訪問者の評価も、「バーベキューの煙が抜けにくくなる」「部屋が暗くなりそう」などと、あまり芳しいものではなかった。だが、これがあるとないのとでは、ぱっと見たときの家の印象度が大違いだと私は思っている。デッキに座ったときに視覚的に上空が囲われた感じになり、どことなく安心感があるのだ。
 その後、このパーゴラを一時的に外してみたことがある。だが、すぐに復活させた。これがないと外から見ても内から見ても間が抜けていて、空間にまるで締まりがないのだ。居間と外の緩衝地帯として、欠かせない存在であることを改めて認識したのだった。

 捨てずにとっておいた端材をやりくりし、デッキ専用の椅子を4脚作った。室内にはやはり端材で作った予備椅子が2脚あり、キャンプ用のパイプ椅子も3脚あるので、家族はもちろん、かなりの来客があっても充分に対応可能な準備が整った。
 2年目にはデッキ周囲の手すりを目透かしのヌキ板で隠し、座ったときに外部からの視線を遮る工夫を施した。来客時には広い作業テーブルが必要なことが分かり、やはり2年目には可搬式のテーブルを作った。


幾度かの修正を経て完成したウッドデッキと外囲炉裏。左端に居間からの出入口がある


 完成後、約1年半を経てのウッドデッキの評価である。ものすごくいい!物干し場として常用している妻は「広くて使いやすい」と大満足だし、カンナ屑やノコ屑の掃除を気にせずに大工仕事に専念出来る私も非常に重宝している。(ちなみに木屑は風で勝手に運ばれ、庭の土壌改良材となる)
 思い立ったらいつでもすぐに火をおこし、野菜や肉や魚を焼いて食べられる環境は家族はもちろん、訪問客の評判も上々である。火おこしに必要な炭や焚きつけ、うちわ、軍手のたぐいは、デッキ横に置いたポリバケツの中からいつでも取りだせるようにしてある。車庫の片隅や屋上ではなく、居間と台所の延長にそうした場があることが大事なのだと思う。出来た当初は炉が大き過ぎて炭をおこすコツがいまひとつつかめず、手間取ったが、いまではすっかり慣れて15分ほどでたちまち真っ赤な火がおきる。
 跡片づけの必要もほとんどない。通気口にむけて炉の中にゆるい勾配をとって仕上げたので、翌朝に炉の上からバケツで水をザバッとかけてやれば、灰は隙間から勝手に地面に流れ、土に還ってゆくのだ。
 身近に火のある暮しは実にいい。赤い炎を眺めてボ〜としていると、ただそれだけで何となく心がなごむ。原始に還ったような不思議な気分になってくる。いずれは真冬にもバーベキューをやろう。家の中にも何らかの形で炎を持ち込みたいとも考えている。



収穫第1号!



 6月末、庭の菜園の記念すべき収穫第1号として、小松菜を収穫した。種をまいてからわずか一月余、なかなかの優等生である。さっそくスープの実となって食卓をにぎわした。7月に入ると成長が著しく、食べきれいほどの量が採れ始めた。トマトの実も5センチほどまで成長し、成熟はもはや時間の問題だ。
 これまで手をかけたことといえば、トマトの風よけにビニールの袋をかぶせたことと、支柱を立てたこと、そして毎日の草取りくらいで、たいしたことはしていない。それでも植物は文句ひとつ言わず、たゆみなく成長を続けている。自然の持つひたむきさと力強さに、思わず敬服してしまう。

 7月末、枝豆がサヤを膨らませ始めた。強風と連日の雨で青ジソが2本倒れ、トマトの実も2個落ちた。トウモロコシも大きく傾いているが、それでも必死で大地にしがみついている。仕事が忙しく、気分転換をかねた草取りが精一杯だが、農薬を全く使ってない割には、害虫がほとんど寄ってこないのが救いだった。
 8月に入ってすぐ、トマトが真っ赤に色づき、2個を収穫する。夕方、そのトマトを肴に、完成したばかりのデッキにビールジョッキを持ち出し、風呂上がりの一杯を楽しむ。沈みゆく夕日をながめつつ、外で飲むビール。まさに究極の味である。少し大袈裟だが、人間に生まれた喜びを心から感じる、そんな一瞬だ。
 それにしても、とれたてのトマトや枝豆、そして細ネギがこれほどうまいものだったとは知らなかった。無農薬有機野菜というせいもあるのだろうか。来年はスペースの許す限り、庭いっぱいに作ることにしよう。
 そういえば農家の人は出荷用には農薬を使った見栄えのいい野菜を作るが、自家用には無農薬の野菜を別の畑で作っていると聞いたことがある。野菜作りのプロだから、本当においしくて身体にいいものを、ちゃんと知っているのだろう。


夏のある夕げの食卓、ほとんどが庭で採れた食材だ


 このところ連日36度を越える記録的な猛暑で、野菜たちには絶好の条件に違いなかったが、人間、特に涼しい北国の夏に慣れ切ってしまっている我が身にはちと辛い。断熱を効かせて日射による温度上昇を最小限に防いだつもりの家も、2階は32度近い暑さである。関東や四国の夏も私は経験しているが、クーラーは嫌いで一切使ったことがなく、当然この家にもクーラーなどない。あくまで建物の構造で暑さを凌ぐつもりでいた。
 風さえ吹抜ければ、多少の暑さは気にならないものだ。風は基本的に南北に抜ける。1階には南北方向に窓があるが、2階北側には冬の北風対策のため、一切窓をつけなかったことが少しばかり悔やまれた。それでも東西南すべての窓を開け放つと、風が一気に仕切りのないワンルームの部屋を吹き抜け、なんとかクーラーなしでも過ごせそうだった。

 秋の漬物用にと、収穫の終わった小松菜のあとに秋大根の種をまく。その横にカラシ菜の種もまいた。畑作りの魅力にすっかり取りつかれ、少しのスペースも見逃さない。大地の恩恵を、とことん受けてやろうというのである。
 8月も中旬を過ぎると、急に風が涼しさを増した。トウモロコシの実がヒゲを出し始め、食卓を彩ってくれた枝豆が終わりに近づく。秋が迫っていた。2年目の冬にむけて、そろそろ準備を始めなくてはいけない時期だった。

(第4話「冬よ来い!」へと続く)