第1部〜その8 真冬の引越し騒動


マンションの再査定 /99.10.22〜23



 上棟が無事に終わったあとの現場は、それまでのさまざまな騒動がまるで嘘のような順調な進行を見せた。秋の長雨にたたられることもなく、上棟の翌日の10月22日には屋根断熱材、屋根防水材、屋根鉄板の仮葺きまでが一気に終了した。大工による筋交い、窓台、窓、玄関ドアの施工も同時に進む。棟上げからまだ数日だったが、現場はすでにはっきりと家の形をなしつつあった。
 工事の進行にあわせ、いよいよ金融公庫の中間検査の期日を具体的に決めなくてはいけなかった。市役所の担当者への事前相談から、現場回りの期日は火曜か木曜にして欲しいとの要望がすでに出ていた。10月末のリミットから逆算すると、10月26日か28日のどちらかしかない。検査に落ちる心配はほとんどなかったが、万が一を考えると多少の余裕は欲しい。ヤマセさんと十分協議の結果、最終的に10月26日が検査日と決まる。

 現場は音をたてて動きつつあったが、ここにきて私にはもうひとつ大きな仕事が残されていた。いま住んでいるマンションの売却である。以前にも書いたように、土地探しに奔走していたころ、マンションの査定は一度試みたことがあった。(第2話参照)現状のままで800万円というのがその査定額だったが、そのときからすでに一年近くが過ぎている。すべてを最初からやり直す必要があった。
 上棟が終了し、中間検査の期日まで決まってからようやくマンション売却にむけて腰をあげたのにはわけがある。もしも予想より早く売れてしまって新居への引越し以前に明け渡しを要求された場合、2度の引越し費用、アパート代などが膨大な負担増となってのしかかってくる。それを恐れたのだ。しかし、あまり売り出しが遅いと、売却そのものが遅れ、資金計画が揺らぐ可能性もある。景気や季節、現場の進行状況などから熟慮し、慎重に決めたのがこの日の査定依頼だった。

 一年前に査定依頼をした不動産会社に連絡を入れると、当時の担当者はすでに転任していたが、査定記録は残っていたらしく、すぐに別の担当者がすっ飛んできた。売り出しにあわせ、数万円かけて汚れのひどい箇所の壁紙やふすまの張替えはすでに終わらせていた。物件を見にくる客に少しでも好印象を持ってもらえるよう、そして少しでも査定額がよくなるようにとの思惑からである。
 新しい担当者のイトウさんはざっと部屋を見回し、780万円という査定額をその場ではじき出した。一年前よりわずか20万円しか下がっていない。中古マンションの場合、1階はとても人気があるので、いい値段で売れるんですよとイトウさんは言い、750万程度の査定額を覚悟していた私たちを喜ばせる。さっそくその場で書類にサインし、売却を正式に依頼することにした。



まさかの一発契約 /99.10.25〜30



 不動産会社の動きは迅速だった。翌々日には早くも投げ込みチラシがポストに入った。簡単なコピー文と平面図が入っただけのものだったが、「鉄は熱いうちに打て」の鉄則は、どうやらここでも生きているらしい。
 新築、中古に限らず、不動産物件が売れる確率が高いのは、やはり地元だという。中古マンションの場合、当のマンションに集中的にチラシを配付するのが最も早く、確実な手段なのだと担当のイトウさんは言う。住んでいる人間が物件の立地条件、善し悪しなどを十分心得ているからで、こうした住人が潜在的需要を抱えていてるらしいのだ。

 チラシが入ったその日の夕方、イトウさんから連絡が入る。物件をぜひみたいという客が早くも現れたらしい。出来れば明朝10時に連れて行きたいが、都合はどうかと聞いてきた。チラシの入った当日、売却を依頼した日から数えてもわずか2日しかたっていない。あまりにも急な事態の展開に、さすがの私でさえも思わずたじろぎそうになるが、すでに現場は完成にむけて着々と進行しつつある。早く売れて困る理由など、何一つない。ふたつ返事で来訪に応じた。
 翌日、老若男女あわせて4人の客がどやどやと下見に訪れた。すると、妻がそのうちの一人の若い奥さんに見覚えがある素振りである。

「あら、確かこのマンションの方だったですよね」
「ええ、○○号室の者です。母が住むマンションをこの近くでずっと探していて、たまたまチラシが入ったものですから…」

 古い一戸建て住宅を売り払い、娘のなるべく近くのマンションに越したいのだと言う。さすがプロ、不動産業者の読みは適中である。きれいに使ってますね、ウチとは段違いです。1階だから年寄りにも安心だし…。相手は物件をすっかり気に入った様子。予め内装に手を入れておいた効果がてきめんだった。

 3日後の10月29日、不動産会社のイトウさんから再び連絡が入る。先方はすっかり乗り気ですぐにでも契約したいと言っているが、気持ちだけでも値引きしていただけないだろうか、との打診だった。もともとが750万前後の売却金額を予定していたこともあり、ここでいくばくかの誠意を相手に示せば、一発契約は間違いなさそうだった。

「10万値引きして、770万円ではいかがでしょう?」

 もしもこの価格で売れれば、こちらとしては万々歳である。その可能性は高かった。
 翌日、この価格での仮契約が首尾よく成立した。売出してわずか5日である。聞けば先方も売出した一戸建て住宅にさっそく買い手がついてしまい、出来れば年内にでも引っ越せるマンションを探していたという。工程に余程の狂いがない限り、こちらの年内明け渡しは間違いない。売り手と買い手の都合と思惑とがピタリと一致したのだ。
 あまりにも好都合な展開が信じ難いような気持ちだったが、私たち一家は我が身の幸運を、取りあえず手を取り合って喜んだ。



現場の声は神の声 /99.10.24〜25



 マンションの売却がトントンと進むなか、現場の工程も急展開で進行しつつあった。工事が進むにつれ、図面だけでは指定しきれなかった様々な収まりの不都合が生まれつつあった。基礎断熱材が厚過ぎて玄関ドアがうまく収まらなかったり、外壁下端の水切り材寸法が急きょ変更になったり、2階の照明の一部が直管蛍光灯に変わったりした。
 これらの変更の大半は、その場での即断である。現場には毎日顔を出していたので、これまた早朝から現場につききりのヤマセさんが指摘する問題点に、すぐに対応出来る。従って現場の工程が狂うことはない。
 工事監理契約を請負った専門の設計事務所の場合でも、毎日現場に顔を出すことなど、普通はない。だが、私の場合、性格的にそうしないと気が済まなかった。自分の住む家だからというわけではなく、おそらくそれが私の質なのだろう。宮仕えのころから、そうしたやや神経質とも思える現場に対する姿勢は変わることはない。

 現場との打ち合わせは臨機応変である必要があった。現場監督や職人からの要望や質問のたぐいは多岐に渡るが、たとえ資格を持った設計者だからといって、私は自分の強権を振りかざし、そうした声を踏みにじることは決してしなかった。
 父が職人だったことも私の心情に微妙に影響している気がするが、経験豊富な現場の職人の声は、ときに物事の本質をついていることが多々ある。それに耳を傾け、利用しない手はない。職人が単に楽をしたいだけのこともあり、慎重に見分ける目が必要だが、机に向かう紙とパソコン上だけでの作業では、決して把握出来ないものが現場にはころがっているのだ。

 外壁の鋼板の色がもめていた。現場担当の若く気概に燃えた板金屋の社長は、当初私の指定したツヤありのワインレッドに強く異義を唱えていた。最初はヤマセさん経由だった話が、いつしか私への直談判へと変わっていた。
 北欧の住宅の外壁をイメージして十分吟味したつもりの色だったが、もう少し黒っぽいくてツヤ消しの落ち着いた色がいいと彼は言い張る。それ以前にも外壁鋼板の止めボルトの工法について、いろいろ調べてくれた研究熱心な職人だという印象を彼には持っていた。そもそも鋼板の色など、どの色にしても単価は変わらない。彼の主張が金銭によるものではなく、純粋なデザイン面での動機からくるものであることははっきりしていた。
 私は自分の決めた外壁の色をいったん保留にし、彼の主張通りの濃いワインブラックの色に変えた外観パースを再出力して、ふたつを注意深く比べてみた。すると、確かに色が濃いほうが建物に落ち着きが出る。ツヤ消しの処理も、ギラギラ感が消えて好印象だった。

「どう思う?」

 ふたつの外観パースを妻にも見せて判断をあおぐ。気持ちは板金屋の社長の主張する濃い色に傾きつつあったが、家のイメージを大きく左右する外壁の色は、やはり妻にも了解を得ねばならない。

「そうね、やっぱり濃いほうが落ち着くみたい。私たちももう50歳、これから段々年を重ねてゆくわけだし…」

 こうして外壁の色は土壇場でワインブラックのツヤ消しに変更になった。のちにこの決断が大正解だったことを悟るが、現場の声は時に神の声に成り得るのである。



どんどん進む /99.10.26〜29



 10月26日、住宅金融公庫の現場審査(中間検査)が予定通り行われた。現場審査を受けるには、構造部分が完全に完成しており、それが目で確認出来ること。屋根がふきあがっていること。断熱材の一部が入っていること…等々の条件がある。あまり現場の進行が早いと検査を受けるまでに現場の進行を止める必要が出てくるし、逆に遅過ぎると、検査そのものが受けられなくなってしまう。
 天候に恵まれたこともあり、検査時間の午後3時ころにはちょうど壁内外部の断熱材を入れている最中だった。検査の重要なチェックポイントである壁筋交いの部分は当然後回しにしてある。屋根は前日までにすでにふき終わっていた。職人が遊ぶこともなく、検査に合わせて急かされることもない、まさにこれ以上ないドンピシャのタイミングだった。
 図面修正で何度も通った関係ですでに顔見知りの担当のタムラさんは、筋交いや火打ち梁のポイントを素早くチェックすると、「結構です」と言い、わずか10分足らずで検査は終了した。

 この日の中間検査終了以降、現場の進行はさらに急ピッチとなった。検査当日には外部の断熱材と内部の断熱材すべてが入り、翌27日からは設備工事と電気工事が始まった。朝と夕方とでは建物の様相が一変してしまうことも多々あった。
 材料で隠ぺいされてしまう箇所をチェックし、写真などで保存しておくのは設計監理業務の大切な仕事のひとつである。また、現場の職種が多くなればなるほど、図面だけでは確認出来ない細かな打合せも頻繁になる。私はほとんど現場にかかり切りの状態になった。本業である建築パースの仕事がほとんどないのが幸いだった。当時の記録を調べてみると平日はもちろん、休日でさえも現場が動いている日は欠かさず顔を出している。しかし、どちらにしてもそれは楽しい忙しさだった。長年の夢がいままさに形になろうとしていた。


だいぶ家らしくなってきた10月26日の現場


 10月31日、近くに住む父がやってきて家の進行具合を尋ねた。今回の計画は両親に対してほとんど一方通告のような形で進められていた。その全てをここで語ることは出来ない。もしそうすれば、多くの人が傷ついてしまうからである。
 同じ市内で車で30分足らずの場所とはいえ、実の息子が自分たちだけの家を着々と進めつつある事実に、父が心中穏やかであろうはずがない。そんな遠慮もあり、それまで現場の進行状況はおろか、平面図さえも父には見せていなかった。
 父の訪問と問いに対し、私はなぜか素直な気持ちになって図面一式とそれまでの現場工程写真を見せた。するとかってプロの大工だった父は、時間をかけて図面と写真を丹念に眺めたあと、「うん、これは暖かくていい家になるな」とだけ言い残し、帰っていった。
「暖かい家」とは、かねてからの父の住宅に対する持論である。機能的に優れていることが寒地住宅に対する父の唯一無二の条件だった。私としては当然機能面での自信は持っていたが、その他のセールスポイント、たとえばエコロジーであるとか、ローコストであるとか、空間的な遊びであるとかの一面も指摘して欲しかったが、80歳も半ばに達しようとしている父にそれを要求するのは酷というものである。
 無骨な言い様ではあったが、「暖かくていい家になる」という言葉は、私が作ろうとしている家に対する父の最大級のほめ言葉に感じられた。



一人大工 /99.11.1〜7



 11月1日、内部階段の工事が始まった。同時に、1階床に4箇所ある点検口兼換気口の枠作りが始まる。どちらも難しい収まりの造作工事なので、棟梁自らの作業だった。一流のプロから学ぶことは多い。次回以降の現場監理に役立つのはもちろん、自分のセルフビルド作業の参考にもなる。私は棟梁の手元を注意深くながめ、作業の段取りや手順を頭に叩き込んだ。
 11月3日、祝日だったが私がいつものように現場に行ってみると、その棟梁がひとり黙々と点検口部分の仕上げをやっている。

「明日からよその現場に行くんで、難しいところを仕上げておきますわ」

 棟梁は問わず語りにそう話した。大きな現場が始まるので、一番腕のいい大工ひとりだけを置いて、棟梁以下がその現場に集結するのだという。私には寝耳の水の話だったが、もともと安く請負ってもらっている手前もあり、先の見えた現場にいつまでも縛りつけることなど到底出来ない。実際、現場の大工仕事はすでに山を越え、あとは単純な内装工事を残すだけとなっていた。

「以前にこっちの言い分を全く無視されたことがあってさ、それ以来設計事務所の仕事は請負わないようにしてたんだ。でも先生(私のこと)はちょっと態度が違ってたな」
 上棟が終わってしばらく経ったころ、棟梁が私にかけてくれた言葉である。私は自分が大工の息子であることを彼に打ち明けており、以来どことなく相通ずるものを私に感じていたようだ。

「世話になりました。たまには現場を覗いてください」
 そして、いつかまた別の現場でお会いしたいですね。私はそう棟梁をねぎらった。

「それじゃ会社の名刺を渡しておきます。でも、先生、先生が私らの言い分に耳を傾けてくれる人なのはよく分かったけど、予算のほうだけはひとつ、ちゃんとみてやってくださいよ」

 さり気ない棟梁の言葉に、私は思わず耳を赤らめた。棟梁は確かに私に心を開いてくれてはいたが、それと会社の経営とは別物である。意気に感じてはいても、予算面の釘をさすことは忘れない。予算がないからといって手は抜かないが、今後腕に見合うだけの予算はみてやって欲しい。つまりはそういうことである。そんな棟梁に、私は経営者としての気骨を垣間見たのだった。

 こうして棟梁以下の作業員は現場から去った。翌日から現場に通ってくるのは、マチダさんというその会社では棟梁の次に腕のいい大工ただひとりだった。マチダさんは一社員に過ぎなかったが、棟梁の相談なしに自分の判断だけで現場を進められる腕を持っている。実質的に棟梁と変わらない。
 手元(助手)不在にも関わらず、マチダさんはひとり黙々と作業をこなしていた。天井板の仮押え棒を現場でたやすく作り上げるなど、手元なしで現場を進めるのに慣れた様子である。
(本当にひとりで現場が進められるものなのか…?)と当初は一抹の不安を持っていた私だったが、そんな懸念はすぐに消し飛んだ。私自身も壁と壁の間に出来る目透かしの下地テープを止めて回るなど、自分でも出来そうな作業は自ら申し出て、極力手伝うように心がけた。



エコロジー危うし? /99.11.1〜7



 あるとき、いつものように現場に行ってドアを開けると、作業中の室内に妙な刺激臭が漂っている。
(ボンドの臭いだな…)と私は直感した。先に書いたように、今回の計画のコンセプトのひとつに「エコロジー」がある。いろいろな観点で、地球環境になるべく負荷をかけない安全な住宅を作る。それは重要な柱のひとつだった。
 建築の特に内装工事に多用される接着剤には、トルエン、キシレンに代表される有害物質が数多く含まれている。乾燥するまでの間、室内にそれらをまき散らし、人体に悪影響を与えるのだ。その接着剤の臭いがあたりにたちこめている。こいつは一大事だ!

 契約にあたってK建設に呈示した設計図面と仕様書には、接着剤の指定は特にうたっていない。壁も床も無害な材料を釘、あるいはビスで止めてゆく工法なのだから、接着剤に関する記述は無用だと考えた。ところが、ここに大きな落とし穴があったのだ。

「ひょっとして接着剤を使っていますか?」
 K建設の担当のヤマセさんがたまたま不在だったこともあり、私は大工のマチダさんにさり気なく尋ねた。

「うん、床材を止めるんでね。釘やビスだけだと、どうしても床鳴りがしてしまう。ボンドを使えばその心配はないからね」
「少しくらいの床鳴りなんて、私は気にしませんよ」
「でも、ヤマセさんがやれって言うからさ。材料もK建設の支給だよ」

 マチダさんはそう言ってあごをしゃくる。視線をたどって部屋の隅を見やると、数本のボンドが入った段ボールの箱が確かにあった。その1本を手に取って調べてみると、予想通り有害なトルエンが主成分として含まれている。やはり、刺激臭の元はこれだったのだ。さらにマチダさんを問いつめると、日本の住宅では完成後の床鳴りのクレームが異常に多く、特に仕様書にうたってなくとも、床材を止める際には補助的にボンドを使うのが半ば常識化していると言う。知らぬは未熟者の私ばかりなり。完全な勉強不足である。
(使うのをやめてください…)
 そんな言葉が喉まで出かかる。だが、私から直接ではなく、K建設から仕事を請負ってる大工にそれを言ったとしても、相手は困惑するだけだろう。では、ヤマセさんに直接言おうか…?しかし、床張り工事はすでにかなりの部分が済んでしまっていた。結局私は事態をそのままにした。

 ボンドの使用量は坪あたり300gほどで、30坪弱の今回の計画でも10キロ近い量になる。材料費や手間も馬鹿にはならない。仕様書にも書いていないそんな手間をあえてヤマセさんがかけたのは、施主である私に対するある種の好意からに他ならなかった。非は仕様書に接着剤の種類を指定しなかった私と、異常なまでに床鳴りにこだわる日本人の性癖にある。ボンドの有害対策は、別の方法を考えることにしよう…。
 ボンドに使われているトルエンやキシレンの溶剤は揮発性が極めて強く、工事終了後1ヶ月を経れば、大半は蒸発して無害化すると言われていた。この時点で引越しは12月上旬と決めていたから、ぎりぎり安全圏である。そして、出来れば入居前に暖房を数日間フル運転し、揮発性の有害物質を強制揮発させてやろうとも思った。(専門用語で、これを「ベークアウト」と言う)

 予期せぬこの接着剤問題以外にも、私のエコロジー計画にはいくつかの小さなほころびがあった。予算面の制約からやむなく採用した塩ビ製のサッシには廃棄時に有害なダイオキシンが発生する可能性があることは以前にも書いた。床下から下水管へとつながる排水管にも同じ塩ビ製のパイプが使われているが、現時点では代替品の調達は難しい。
 内部断熱材として使うグラスウールにも接着剤が使われており、微量のホルムアルデヒドを出すことが分かっていたし、外部断熱材として使うポリスチレンには廃棄時や燃えたときに有害物質を出す心配があった。断熱材の室内側には無害な防湿フィルムを張り、目貼りテープを厳重にして有害物質が室内に出ない配慮をしてはいるが、環境に何らかの形で負荷を強いる材料であることに変わりはない。
 これらの中には、差し迫った問題ではなく、いくつかの不確定要素がからんだときにだけ起こる問題も含まれている。どちらにしても、すべての面で完璧に安全な材料を使うということは、限られた予算の中では極めて難しく、行政を含めた建築界全体の対応が早急に必要なことを、今回の工事で思い知った。
 最近はどのハウスメーカーも、「エコロジー住宅」をまるで流行でも追うようにうたい文句にしているが、接着剤を始めとする施行中に使われる様々な化学物質については、ほとんど無頓着な会社がまだまだ多い。一般ユーザーにこれらを見抜くのは至難の技だが、見かけ倒しのエコロジーにはまってはならないのだ。



セルフビルド全開 /99.11.8〜16



 11月7日にはすべての外壁が完全に張り上がった。1階南側だけにあしらった木の縦張りと、板金屋の社長の強い主張で変更したワインブラックの鋼板とが絶妙のバランスで、気をもんでいた私を喜ばせる。屋根はすでに完成していたから、外部工事はこの日でほぼ終了した。
 建物の全容が明らかになるにつれ、現場には近所の人々の見学が相次いだ。外壁の大波鋼板張りや内部のハードボード張仕上げが珍しいらしく、通りすがりに立ち止まって見上げる人はもちろん、「中を見学させてください」と、わざわざ家の中にまで上がり込んでゆく人さえ数多くいた。
 一般のハウスメーカーでは決して手掛けない様々な工夫を随所にこらしたこともあり、そんな人たちが訪れるたびに、どことなく誇らしい気分になってゆく単純な私だった。

 建物内部の工事はすでに天井が張り上がりつつあり、電気配線工事がすべて終わって、暖房工事が始まろうとしていた。完成はもはや時間の問題である。
 ここにきて私自身もコンセプトの3本目の柱であるセルフビルドにムチがはいっていた。先に書いたように、自分で手掛ける予定の工事には、小物の郵便ポストから始まって、車庫やウッドデッキなどの大物に至るまで、その内容は実に雑多で多岐に渡っていた。内部の収納などの完成後にゆっくり仕上げても差し支えないものは別にして、急がれるのは工事と同時進行でなければ現場の工程に差し障りのあるものだった。具体的にあげると以下のようなものである。

●玄関土間のレンガ敷き→土間モルタル施工前に終了している必要あり
●外部の木壁の塗装→外部足場を外す前に終了している必要あり
●床木部の塗装→キッチンや洗面台などで隠れる部分は事前に塗装しておく必要あり
●壁や天井目地下のテープ貼→防湿シートが貼り終わり次第、随時貼る必要あり
●玄関ポーチ工事→外部基礎廻りのモルタル塗り終了後、入居前にはどうしても仕上げたい

 外部基礎廻りと玄関土間のモルタル仕上げが迫っているということで、11月12日に玄関土間のレンガ敷きをやることになった。土間は当初の設計では、単なるモルタル仕上げだけのつもりだった。急に一部にレンガを並べる気になったのは、ほんの思いつきに過ぎない。
 家の材料の一部にレンガを使おうとはかねてから考えていたが、あくまで外部だけのつもりだった。しかし、玄関ポーチから内部に入る過程で、土間に何か心理的ガイドになるような細工がしたくなった。それが「土間に一部レンガを埋める」というアイディアである。作業は材料だけ支給して左官屋に頼むつもりだったが、「レンガ職人ではないので仕上がりに責任がもてない」とやんわり断られ、初体験のレンガ積みをやむなくやる羽目になったのである。
 素レンガ26個と水平器、モルタルなどをDIYの店で購入し、床と玄関ドア枠のレベルを基準に慎重に位置と高さを決めてゆく。レンガとレンガの間は薄いベニヤ板を挟んで並べ、目地をすっきりさせた。並べ方は事前にあれこれ試行錯誤した結果、「ドアから玄関ホールへとL字形に導く」という形状に決めてある。作業は都合2時間ほどで終了。多少の目地ズレはあるものの、なかなかの出来映えにひとり満足する。


日だまりの中の玄関。余った材料で作った椅子が気に入っている


 外部工事のうち、残っているのは窓廻りの防水工事だけである。足場の解体が迫っていた。外部の木壁の塗装も急がなくてはならない。外部木部の塗料には、安全無害で木材の呼吸を妨げない、ドイツ製の「オスモワンコートオンリー」という製品に早くから決めていた。その名の通り、一度塗るだけで済む極めて素人むきの塗料なのである。
 寒風吹きすさぶ11月13日、用意した2.5リットルの大缶を持って足場に昇る。木壁は高さ3.5メートルまでなので、作業は比較的容易である。専用のコテで少しずつ塗り進む。ペンキ塗りは日曜大工で何度も経験しているが、初めて使う材料はねばりが強く、薄める溶剤もないので、塗りこむのに予想以上の強い力が必要だった。
 とまどいと試行錯誤の中、半日でなんとか作業終了。本当はもっと気温の高い日に塗りたかったが、差し迫る工期の合間をぬって素人がやるのだから、ぜいたくは言えない。雨が降らないだけましだった。缶の中はまだ半分以上も塗料が残っている。これから作る予定の車庫の分まで十分ありそうだ。
 実はこの「ワンコートオンリー」には有機溶剤が15%だけ含まれている。それでも従来の塗料に比べると1/4以下という少なさなのだが、塗布後に蒸発することは間違いない。主成分は植物油のみで、使う場所が屋外でもあり、乾燥してしまえば何ら問題ないが、「有機溶剤は一切受けつけない」という厳格な方にはお勧めしない。

 翌14日、今度は内部床のオイル塗装を始める。まさに毎日がセルフビルド、毎日が職人である。塗料は外部とは異なり、同じドイツ製だが溶剤を一切使っていない100%自然塗料のリボスである。揮発性のある溶剤を少しでも含む塗料は内部には避けたかった。こちらはボロ布に浸してこするだけなので、外部よりははるかに作業は楽だ。30分ほどで台所とユーティリティの隠ぺい部の床塗りが完了。
 このリボスの塗料にも、薄めて塗るための有機溶剤(商品名「スバロス」)が別売されている。リボス社のカタログにはその安全性に関して詳しい記述があり、「アレルギー面で天然の溶剤よりも人体に影響が少ない」とある。関心のある方は取り寄せて参照されたい。私の場合は溶剤を一切使わず、天然素材100%の本体のみを塗布した。この手法がより安全である。

 11月16日、吹く風がやけに冷たいと感じていたら、夜半過ぎから雪になる。少し早めの冬将軍の到来だ。外部工事は前日までにすべて終了しており、これまたピッタリのタイミングである。天候の流れをいち早く読んだ的確なヤマセさんの現場管理に、感謝と最敬礼。



先が見えた /99.11.17〜27



 冬の到来と共に、セルフビルド作業も一段落した。それから数日間、部屋にこもって内部の家具の設計にいそしむ。入居後に仕上げる予定の内外部のセルフビルド分で、かなりの木材が必要であることが分かった。現場終了前にその数と種類を詳細に割り出し、K建設に発注しておかなくてはならない。
 11月18日、3日ぶりに現場を訪れる。外部の足場がすでに外れ、家はすっきりとした印象に仕上がっていた。テレビアンテナもすでに取付けられている。心配していた木部塗装もしっかり雨雪をはじき、完璧な仕上がりである。低温下の施工で硬化の遅れを心配していた外部基礎モルタルも、何とか乾いていた。
 中に入ると、台所や洗面台などの什器類がすでに設置されていた。半分ほど仕上がった内壁のハードボードは、思っていたより濃いめの色である。段ボールと似たような材料なので同じような色合いを予想していたのが、防水剤(ちなみに、無害である)を浸透させているため、どうしても濃い色になってしまうらしいのだ。だが、実際に仕上がってみると、窓枠や床の色が完全な白木の色なので、普通の家とは明暗が全く逆転した、実に不思議な空間がそこに浮かび上がっている。しょせんは趣味の問題だが、予想外の「ひと味違った感覚の家」の出現に、またまた気分が浮き立つ。

 11月20日、たった2枚だけの内部ドアがあっという間につく。翌21日、唯一残っていたセルフビルド作業の玄関ポーチ工事に取りかかる。この工事は高さ45センチ、寸法150×150センチのポーチをレンガとブロックだけで作るという、かなりの難物である。
 珍しく早起きし、いつものようにDIYショップで材料を買いそろえ、午前中から作業に入る。基礎は凍上しないよう、地中深く埋める必要があった。慎重に水平を出しながら、コンクリートのブロックを積んでゆく。外枠にあたる部分にはモルタルを詰める。夕方5時までかかり、土台部分がようやく終わる。
 翌22日、またも朝からポーチ作り。枠の中にブロックと砂、砂利を詰め、沈下しないように水平を出す。最上段にレンガを66個並べ、あたりがすっかり暗くなった夕方6時、2日がかりの作業はようやく終わった。連日のレンガ積みに、気分だけはすっかり職人。「プロ並みの仕上がりですね」とのヤマセさんのほめ言葉が、まんざらでもない。この日、引越しの期日を12月5日の日曜日と正式に決める。竣工はいよいよ秒読み段階に入った。



まずは竣工 /99.11.28〜12.3



 引越し荷物の梱包、引越しトラックの予約、売却したマンションの諸手続き、詰めの段階に入った毎日の現場通い、手作り家具の準備等など、目の回るような忙しさに謀殺されているうちに、数日間が瞬く前に過ぎ去った。
 11月26日、K建設に頼んでおいた車庫やバルコニー、内部家具などの材料が現場に届く。何やかやで合計10万円もの出費だが、外注にもし出せば、軽く100万円は超えるであろう工事である。これくらいの出費はやむを得ない。

 家はすでに天井も張り上がり、下水道の接続も終わって、いまにも住めそうな様子である。引越し前になんとか車庫の枠くらいは取りつけておきたいものだと思い、材料のカットに取りかかる。部材が多く、寸法も4メートル近いものもあるので、作業は困難を極めた。身体はくたくたに疲れているが、昨年土地の購入前に調査済みだったこの地区の厳しい冬の到来を考えると、どうしても玄関廻りの車庫枠は仕上げておきたい。
 プロによる現場の仕上げ作業が着々と進むなか、11月29日までに部材のカットが終わり、ただちに保護塗料塗りにとりかかる。寒さが厳しく、また部材の数が多く、作業はさらに難しくなる。
 この日、北側外壁近くに取付けられた470リットルの大型石油タンクが、なんと隣地に40センチも飛び出していることに気づく。現場に張りついてすべての作業に目を光らせているつもりでも、早朝の作業などには、どうしてもチェックもれが出てしまう。基礎はコンクリート束石だったので、翌日すぐに修正し、事なきを得た。

 11月30日、いよいよ日程が押し詰まってきた。引越しまで残すところあと5日である。家のほうは大工工事と設備や電気工事が、同時進行で進みつつある。通常の現場なら大工工事が終わってから入居までには数週間かかるのが普通だが、仕上げの内装工事が全くない今回の計画では、すべての工事がほとんど同時に終了してしまうという、極めて珍しいフィニッシュになりそうだった。
 この日、2階の床が貼り終わり、大工工事の大半が終了した。暖房配管が終わり、ボイラが取り付く。外部タンクに石油が入り、電気さえ通ずれば、いつでも室内の暖房が可能な状態になった。私のセルフビルドも大詰めを迎えようとしていた。部材の塗装と同時進行で、乾いた部材に組立て用の穴開け加工が始まる。しかし、身体がだるく、作業がなかなか思うように進まない。

 12月1日、午前中ですべての作業を終わらせた大工のマチダさんが今日で現場を去る。厳しい工程のなか、たった独りでよくぞここまで仕上げてくれたものだと、ただ感謝。
 12月2日、水道がようやく通ずる。室内の美装工事(清掃作業)が始まり、残っているのは電気の通線工事だけとなった。外は風が異様に冷たく、まだ残っているセルフビルド部材の塗装工事は、とても出来そうにない。温湿度計で測ってみると、外気温-3度、室内+8度、内部湿度60%である。これでは寒いはずだ。
 12月3日、引越しまであと2日。照明機器の据付けを残して電気通線工事が終わる。実質的な工事終了である。明け方から札幌地区は積雪45センチの積雪に見まわれ、私たち一家をあわてさせたが、どういうわけかマンションから10キロほど北に離れた新居周辺に雪はほとんど見られない。天気予報によれば、あまりにも強い北風のせいで、雪が南方に吹き飛ばされてしまったらしい。これぞまさに神風、天の助けである。
 設定温度を最大にし、朝から新居のボイラを焚きっぱなしにする。施工からおよそ1ヶ月近くは経っているが、多少残っているであろう接着剤の有害物質を強制揮発させるためである。いわゆる、「ベークアウト」を試みたのだ。夜11時、長男と二人で新居に出かけ、深夜2時までかかって残った床のオイル塗装に黙々と取り組む。現場にかかり切りだったせいで、いつもは簡単に済ませてしまう引越しの片付けが、いまだに終わっていない。



引渡しという名のセレモニー /99.12.4



 雪も止んだ翌12月4日、10時にすべての電気工事が終わる。工事の完了だ。9月14日の杭打ち工事以来わずか2ヶ月半の短期決戦、土地を入手した日から数えてもわずか11ヶ月の早業で、大いなる新築計画の幕は下りた。
 工事終了と同時に、K建設のオバタ専務や監督のヤマセさんらの立ち会いのもと、引渡しのセレモニーがおごそかに行われる。それはまさに「セレモニー」と呼ぶにふさわしい儀式だった。
 それまで現場に一度も顔を見せたことのない設備や電気、暖房の担当者が、背広姿で突然現場に現れ、にぎにぎしく機器の取扱い方法など説明し始める。そもそも私は格式ばったセレモニーや会議のたぐいが大嫌いな質だ。サラリーマンをとっとと辞めて、こうしてヤクザな稼業をやっているのも、もしかするとそうした儀式めいた行為に、とことん嫌気がさしたせいかも知れない。
 先方はさもそれが当然のように長々と分かり切った説明を続けているが、私自身はどちらかと言えば、現場を直接担当した職人にねぎらいの言葉をかけ、現場の締めとしたい気分だった。

 さて、四の五の言いながらも、13時にめでたく儀式は終わった。ヤマセさんからずしりと重い家の鍵五個をいただき、本当に家が自分たちの物になった実感がじわりと湧く。だがまて、ローンの返却はいよいよこれからじゃないか。工事の幕は確かに下りたが、そこに生きて暮らし続ける新たな劇は、まだ開幕のベルが鳴ったばかりだぞ。
 丸2日に及ぶベークアウトの成果で、室内には残っていた揮発物質の刺激臭が多少漂ってはいるが、同時に充分に検討を重ねた「パッシブ換気」も見事に機能し、室内は1、2階とも床からのほどよい暖気が柔らかく立ち込めている。これで首尾よく刺激臭が屋根排気孔から抜け出てくれたら、パッシブ換気は大成功なのだ。
 早過ぎる冬の到来と、雑多な作業に追われたことによるセルフビルド作業の遅れ、そして何より疲れ切った自分の健康状態から考え、この冬の車庫の完成は困難であるとの断をこの日下す。加工した材料を一ケ所にまとめ、シートで厳重に覆う。セルフビルドの大きな目玉だった車庫をここで断念するのは忍びないが、どう考えても身体のほうが大事である。この冬の雪は家族みんなの協力でどかすことにし、車庫の完成は来春に期することにしよう。

 16時にマンションに戻るが、依然として引越しの片付けは終わっていない。どうやら当初の見通しが甘かったようだ。前夜の睡眠が3時間足らずなので体調は最悪だが、自分にムチをふるって片付けにいそしむ。夕方、友人のコヤマ夫妻から明日の引越しの手伝いの申し出があるが、すでに次男の友人二人に助っ人を依頼していたため、好意だけありがたくいただくことにする。
 夜、残っている新居の床のオイル塗りがどうにも気になってならないが、疲労でもはや身体が動かない。そこへまるで神様のような長男の申し出。
「ボクが代わりに行って塗ってくるよ」
 免許取り立ての長男をひとり夜道に送りだすのはやや不安が残ったが、結局任せることにする。エンジン音を響かせて遠ざかってゆく長男が、この日はひどく頼もしく思えた。



雪中の大移動 /99.12.5



 早朝6時に起床。またまた3時間睡眠で、倒れないのが自分でも不思議なくらいだ。当てにしていた次男の友人がクラス会の二日酔いだとかでいつまで待っても現れず、急きょ昨日電話をくれたコヤマ夫妻に図々しくお手伝いを再度お願いする。20年来の家族ぐるみのおつきあいということもあり、スケジュールを変更して快諾していただいた。ありがたくて涙が出そうになる。
 天候は小雪で路面状態もまずまず。2日前の大雪が少しでも遅れてやってきていたらと考えると、ぞっとする。搬出第1弾の大物の準備が何とか整い、予定よりも30分遅れで近くのレンタカー会社にトラックを借りにゆく。2トントラックだが、トラックはトラックだ。いつものライトバンとは勝手が違う。前回の引越し以来、トラックは20年近くも運転していない。しかもこの雪道である。慣れぬハンドルに何度もエンストをくり返しながらも、どうにかマンション横の国道までたどり着いた。
 ちょうどいいタイミングで、手伝いのコヤマ夫妻がそこに現れる。コヤマさんのご主人は仕事柄トラックの運転には慣れていた。地獄で仏の境地で、新居までの運転を頼み込む。

 30分ほどで第1回の積み込みが終わる。思っていたよりも積めた荷物の量が少なく、2往復で終わると踏んでいた私を不安にさせる。本当はすべてを引越しのプロに頼めば作業は楽なのだ。それは分かっている。だが、10万は下らないであろうその引越し代の余裕がない。体力が落ちているせいもあり、そんなつまらない事で萎えそうになる気持ちを、なんとか奮い立たせて身体を動かす。
 結局マンションと新居を3往復。長男もライトバンに積めるだけのものを積み、同じ回数を往復するが、それでも若干の積み残しが出てしまった。大いなる見積ミスである。常日頃から用心し、要らぬ物は買わない、不要なものはすぐに捨てる。そんなスリムな生活を心がけてきたつもりでも、20年近くのマンション住まいは、どうやら予想以上の生活の垢を溜め込んでいたようである。
 レンタカーの返却時間が目前に迫っていた。もうすぐ6時、作業開始からすでに12時間もの時間が過ぎている。コヤマ夫妻にもこれ以上の迷惑はかけられない。最後の荷物を降ろし、新居の片付けを妻と次男に頼んで、6時1分前に近くの営業所にトラックを返す。なんとか間に合った。その足でコヤマさんを自宅近くまで送り届ける。強く拒むコヤマさんのポケットに、強引にお礼の入った封筒を押し込む。本当に助かった。ありがとう。終わった…。

 そこからまたまた新居まで戻らねばならないが、車を運転する気力がもう我が身には残っていない。連日の作業で蓄積した疲れ。肉体はとうに限界を越えていたが、精神だけがギラギラ研ぎすまされ、崩れ落ちそうな自分をどうにかここまで支えてきた。だが、もうその気力すらも限界である。
 すでに水分以外は喉を通らない状態で、朝からほとんど何も食べていない。引越しの途中で何度も胃液を吐く有様。ふと横の長男を見ると、さすがは若さ、まだまだ余力がありそうだ。
「運転代わってやるよ」
 そんな申し出を、素直に受け入れる。息子がまたまた頼もしい。途中のダイエーで、寿司とビール、コーラなどを買う。今夜は家族で乾杯といくか。車の中で少しでも眠ろうとするが、なぜか眠れない。学生時代に初めて野宿で自転車旅行をやったとき、緊張と不安とでほとんど眠れなかった最初の夜をふと思い出す。まさに疲労の極致だった。

 20時過ぎにようやく新居にたどり着くと、前夜取付けたばかりの白熱灯の光がまだカーテンがついていない窓からこぼれ、あたりの雪をあかあかと照らし出している。
 暖かく、そして穏やかな光だった。それを目にしたとたん、一年余りに及んだ苦難と奮闘と努力の日々がすべて報われ、深く静かに癒されていく自分を感じたのだった。


(生活実践編、第2部「本音で暮らす手作りハウス」へと続く)