第1部〜その7 着工までの長き道のり


諸届け全面変更開始 /99.7.5



 七転八倒しながらも、究極のローコスト設計「TOM CUME5」は闇に葬られることなく、どうにか日の目を見た。あとはトントン首尾よく事は進むはずである。ところが、コストダウンによる再度の図面変更箇所があまりにも多過ぎた。床面積や建築面積はもちろん、建物の高さ、配置、階数に至るまで、建築確認申請に関わる大事な項目の大半が、認可を受けたものとは大きく食い違ってしまっている。さまざな届出書類の変更手続きをしない限り、このまま工事を進めることなど到底出来ない。
 特に予算の厳しいローコスト住宅の場合、業者と仮契約を済ませるなり、概算見積を取るなりしてから確認申請に代表される諸届けを出すのが物事の順序であり、安全な手法である。しかし、今回の計画の場合、低利な公庫金利をぜひとも確保したいという至上命令が最初からあった。本来とは異なる手順で事を進めてしまったのである。

 業者が決まり、発注価格が決まったのだから、図面の変更はもうない。ホッと一息つく暇もなく、翌日からこれらの変更手続きをすみやかに解決するべく、ただちに行動が開始された。
 7月5日、すでに許可の下りている古い申請書と変更した図面一式とを抱え、まずは市役所の建築指導課に向かう。最初の確認申請で9ケ所ものチェックが出てしまったため、同じてつを踏まぬよう、どう変更手続きを進めればよいのか、まずはお伺いをたててみようと思った。
 わずか2ヶ月の間に、なぜか担当者は別の人に変わっていた。しかも、相手はまるで自分の娘のようなうら若き女性である。担当者が女性だからというわけでは決してなく、若いということで私は一抹の不安を持った。申請を出している私自身が年の割には経験に乏しい駆け出しの設計者、対する役所側の担当者までもが若い新人である。こんな初心者同志で面倒な変更手続きをうまくやりくり出来るのだろうか、と案じたのだ。

「確認申請の変更は特に必要ないです」
 こちらの事前相談に対し、担当のタムラさんはあっさりそう答え、完全な書類の差替えを覚悟していた私を拍子抜けさせた。公庫融資住宅なので、軽微な変更は中間検査(現場審査)のときに申し出ればいいと言う。ただ、工事金額が当初予定と変わってしまったので、その変更だけを公庫担当窓口でやるようにとの指示だった。
 あれだけの変更が手続き不要とは…。半信半疑ながらも、ここは担当者の言い分に従うしかない。言われるままに、公庫窓口へ設計変更の書類を出しに行った。

 公庫書類の設計変更箇所の欄には、合計7ケ所もの変更部分が記載されていたが、問題は建設費の項目である。先に書いたように、最初の書類には車庫等の工事費を含めて予定工事費1100万と記入されていた。業者の見積の裏付けのない、私の試算だけによる概算金額だった。ところがいざ業者が決まってみると、車庫を中止したというのに、工事費は当初予定よりもかなり上がってしまっている。
「車庫を中止して、総工事費がアップかね。いったいどんな予算を組んだの」
 担当者はそうあきれたが、事のてん末をここですべて説明するわけにもいかず、ちょっといろいろと手違いがありまして…、と冷や汗をぬぐいながら、ただ頭を下げるだけの私だった。



行ったり来たり /99.7.7〜14



 7月7日、市役所建築指導課のタムラさんから、いきなり電話があった。
「建物の配置が変わっているので、やはり確認申請の差替えをしてください」
 何度も窓口で念を押し、手続きが不要だったはずの話が、あっさり覆ってしまったのだ。やっぱり…。受話器を握りしめながら、思わず私はそうつぶやきそうになったが、嘆いても始まらない。この件はもともと全面差替えを覚悟していたことである。やむなく変更書類の作成にかかった。

 業者の詳細見積には不要でも、いざ確認申請の差替えとなれば、新たに図面や仕様書を数枚描き足さなくてはならない。忙しいスケジュールをやりくりし、数日でどうにか資料を整えた。
 7月12日、資料をそろえて再び市役所に出向くと、図面と仕様書はいいが、今度は「変更申請書」と「計画概要変更届」の書類が足りないと言う。結局その日は書類がそろわず、またまた出直しとなる。
 翌7月13日、毎日のように出入りしているので、担当のタムラさんともすっかり顔なじみである。今日こそ申請を受理して欲しいものだと意気込み、慎重に記入した書類一式を提出する。「工事施工業者届」の処理でもたつくが、変更手数料5000円を取られて、受付時間ぎりぎりの午後4時15分にようやく受理。さすがにタダで変更というのは虫が良過ぎたが、5000円程度の出費ならばやむを得まい。これでなんとか第一段階をクリアした。やれやれ…。

 7月14日、休む間もなく、公庫窓口となる銀行に行く。設計変更に伴う公庫借入金額の変更手続きをするためである。「申込み銀行は原則として建設予定地に近い支店で」との決まりがあり、こんなときは片道30分以上もかけて出向く手間がいかにも面倒だが、愚痴をこぼしても仕方がない。
 窓口でお伺いをたてると、大幅な変更手続きと当初よりも増えた借入金額の審査とを、再度行う必要があるという。増えたといっても、借入希望金額は収入基準に充分足りており、何も問題はないはずだったが、いずれにしても具体的な話は市役所から変更の正式連絡がきてからとなり、連絡待ちということになった。結果的にただ事前報告に来ただけの、無駄足に近かったのである。
 せっかくだからと、車に待機させていた妻と帰省中の娘と共に、久しぶりに現地を訪れる。夏の盛りの荒れ地には人の背丈ほどの高さまでうっそうと雑草が生い茂り、私たちをたじろがせた。しかし、すっかり東京での都会暮しに慣れ切った娘の目には、そんな風景も物珍しく映るのか、「なかなか素敵な所じゃない」と、えらくお気に入りの様子である。まあ、ときどきは帰省して骨休めの場になるであろう娘が気に入ってくれるに越したことはない。そんな娘の言葉が、単純にうれしくもある。
 あたりを散策するうち、付近に都合4ケ所もの新築住宅工事現場を発見。次はいよいよ私たちの番だねと、一同思いを近い未来へと馳せる。



まだまだ終わらない /99.7.16〜28



 7月16日朝9時ちょうど。朝寝を決め込んでいた私を、一本の電話が叩き起こした。市役所宅地課からだった。 確認申請の変更をするなら、開発行為の変更届と地区計画の変更届も同時に提出しなくてはいけない、順番からいけばこちらが先だ、と電話の口調はご立腹の様子である。
 そのことは当然こちらも承知しており、事前に建築指導課でお伺いもたてていた。だが、そのときは後でいいだろうとの返答だった。宅地課の窓口で直接確認せずにうのみにした私も甘いが、お役所の横の連係がいかに当てにならないかを思い知る。
 相手の立場もよく理解出来たので、またまた図面一式を小脇に抱え、市役所にすっ飛んで行く。前回で懲りていたので、必要な書類も電話で充分確かめていた。その日のうちに担当部署を走り回り、午前中ですべての書類の差替えを何とか終える。担当者には、ひたすら頭を下げるのみ。「建築指導課では後からでいいって言いました…」などとは、口が裂けても言えない。

 7月22日、紆余曲折のすえ、ようやく確認申請変更の許可が下りた。(ちなみに、葉書による連絡である)ほとんどすべての図面を差替え、すべての申請書類を作り直したのだから、確認申請を二度出したのに等しい。前回で手続きのポイントは充分心得ていたので、今回の修正箇所はゼロである。
 さらにその5日後、銀行から公庫書類変更手続きの連絡がくる。市役所から正式に変更の書類が銀行に回ったらしい。翌日、再度銀行に出向き、さまざまな公庫書類の変更手続きをする。およそ1時間以上も費やしてしまうが、大事な建築資金を借りるためなので、ひたすら耐える。
 8月3日、公庫より借入金額の変更許可の正式な連絡が郵便で届く。最初に公庫の借入を申込んだのが3月2日であり、諸届けのスタート時期はこの日にあったと言える。都合5ヶ月もの月日を費やし、設計に関わるすべての手続きがいま、ようやく終わりを告げたのだった。

「最初の確認申請でこう面倒が起きると、ちょっとキツいよねぇ」
 エモトさんやK建設のオバタ専務は、口をそろえてそう私を気遣ってくれた。だが、試練は人に対してときに薬にもなる。これだけの難しい課題をどうにか乗り越えられたのだ、もう恐い物は何もない。そんな小さな自信らしきものが、いつしか私の中に育っていた。


3DCGで描いた「TOM CUBE5」完成予想図(セルフビルド部分の一部は未完成)



さあ、着工だ /99.8.18〜31



 変更だけで丸一ケ月も費やしてしまった新築計画だったが、この間の工事面での動きに特に目立ったものはなかった。役所の変更手続きが終わっていなかったのだから、動こうにも動けなかった事情もある。すでに正式な工事請負契約締結を済ませたいま、私としてはすぐにでも工事を進めて欲しかった。
 公庫融資で住宅を建てようとする場合、いくつかの「期限」がある。先に書いた申込み後の設計審査(確認申請)の提出期限、融資決定後の工事着工期限、そして最も重要なのが融資決定後の現場審査(中間検査)の合格期限である。それぞれに定められた期限を遵守しないと、場合によっては融資そのものを取り消されてしまうこともある。取りあえず低利の融資を申込んでおき、都合のいい時期にのんびりと工事をする、という行為を防ぐための措置だろう。税金を使い、「住宅に困窮している人に、良質な住宅を提供する」という住宅金融公庫の概念が、ここでもまた活きているのである。

 度重なる計画変更で余計な時間を費やしてしまったせいで、現場審査の合格期限が10月末に迫っていた。
 現場審査を受けるには、建物の骨組みが完成し、屋根がふき上がり、外壁の断熱工事までが終わっていなくてはならない。しかも、筋交いなどの補強が目で確認出来る状況にあることが必要だった。うまいタイミングで工事を進めないと、現場の職人が数日間遊んでしまう事態にもなりかねない。変わりやすい秋口の気象条件をもにらんだ、的確な工程管理が必要だった。
 工事を請負ったK建設では、予算が厳しいので本格的な工事は職人の手に比較的余裕の出てくる、秋から冬にかけてやらせて欲しいと言う。さんざん値切ってしまった負い目もあり、こちらもそう強気な要求は出来ない。現場審査の合格期限だけは守ってくれることを先方にお願いし、夏から秋へ季節が急ぎ足で移り変わってゆくのを、内心やきもきしながらも横目でただじっと眺めていた。

 8月末、K建設のオバタ専務から連絡が入る。なんとか職人の手配がつきそうなので、まずは基礎工事から順次進めていきたいとのこと。ようやく具体的に動き出した話に、思わず安堵の胸をなでおろした。



夫婦地鎮祭 /99.9.10〜13



 9月10日、敷地の草刈り、整地が本格的に始まる。人の背丈以上に伸びきった熊笹やフキ、キリン草などの雑草は、思っていたよりも地中深くに根を張っており、大量の農薬でも使わない限り、完全な除去は難しそうだった。エコロジー住宅を柱のひとつにした手前もあって、農薬を使う気はもちろんない。しかし、多くの雑草の根は完成後にも私たちを悩ませそうだった。
 事前の調査ではどうしても見つけ出せなかった敷地境界石が雑草の根の間から4ケ所とも見つかり、場合によっては他の基準点から測量して位置出しすることも覚悟していた私をほっとさせる。念のため前日に準備していた新しい敷地境界石は、結果的に無用となった。(この後、事情を話して購入店に返却した。少しの資金も無駄には出来ないのである)

 9月11日、敷地全周に木杭を打ち、幅広の板を横に打って敷地に対する建物の詳細な位置出しをする。前日に見つかった敷地境界石は、近くに正式な測量を終えたばかりの基準点から位置をチェックしてみたところ、それぞれ数センチだが微妙に位置がずれていた。土地が開発、販売されてからすでに30年近くも経っており、もともとは軟弱地盤なのだから、ある程度はやむを得ない。しかし、うまい具合に北西角の敷地境界石だけは誤差がゼロに近かった。
「この石を基準に建物位置を決めさせてくれませんか」
 オバタ専務は私にそう要望する。土地の境界に関する一切の責任は施主にある。境界に関わるのちのちのトラブルを避けるため、工事全体を請負った業者といえども、最後のゲタは施主に預けてくるのが普通である。
「いいですよ、これを基準にしましよう」心得て私は、すぐにそう結論を出した。

 9月13日、明日杭打ち工事をするとの連絡がK建設の工事部長、ヤマセさんから入る。ヤマセさんは二級建築士の資格を持ち、大手ハウスメーカーで多くの実務経験を重ねてきた信頼出来る人物である。この現場の特に木工事部分を、重点的に監督してくれる手筈になっていた。
「あそこ(K建設)は、オバタ専務とヤマセ君に任せておけば心配ないよ」
 契約に際して間に入ってくれたエモトさんもそう言ってくれていた。杭打ち工事の施工経験は私には全くなかったが、ここはエモトさんの忠告通り、手ほどきしていただくことにしよう。

 午後、妻が勤める町中のスーパーに行き、予め頼んでおいた引越し用の段ボール十数枚を無料でいただく。家がまだ形になってもいぬうちに、手回しが良過ぎる気もしたが、少しでも安上がりな引越しにするため、やれるうちに出来るだけの準備はしておこうと思った。
 勤務の終えた妻を車に乗せ、その足で工事現場へと向かう。夕闇があたりに迫っていたが、妻と二人だけでささやかな地鎮祭の真似事をするつもりだった。
「地鎮祭とか上棟式とかはしょせん施主の見栄だよ。ローコスト住宅であえて無益な金をかける必要なんか、どこにもないさ」
 以前に上棟式のことで相談を持ちかけたとき、エモトさんから即座に返ってきた言葉だった。自分たちはともかく、実際に工事を行う業者側の立場はどうなのかが気がかりだったが、気になるなら上棟のときに気持ちとしてお酒の一本もあげればいい、とあくまでエモトさんは形式簡素化派の立場である。
 こと合理的な考えでは、この私も一歩も引けをとらない。エモトさんの心強い言葉に従い、工事中の大袈裟な儀式は一切やらないことにすでに決めていた。しかし、妻と二人だけで何かしらの儀式めいたことはやってもいいんじゃないか、とも思った。土地に何かしらの怨霊などが取り付いていないとも限らない。いらぬ金をかけずに記憶に残るセレモニーを二人だけでささやかに施す。それが私たちのたてた計画だった。

 日没の近い現地に着くと、作業員がなにやら慌ただしく動き回っている。杭打ち工事は明日のはずだったが、業者はすでに基礎杭のすべてを現場に搬入し終え、杭打ち機械のセットにかかろうとしている。明朝一気に事を進めるべく、事前の準備に怠りない様子だった。
 誰もいない敷地で静かに儀式を執り行うつもりでいた私たちは、予想外の展開にしばしたじろいだが、ぐずぐずしていると陽が落ちる。すでに実質的に工事は始まっているのだから、一刻も早く儀式を済ませてしまおうと準備にかかった。
 用意してきたペットボトルの水を境界石にふりかけ、線香を立てて手を合わせ、工事の無事を祈願する。よく見ると境界石にはすでに塩で清められた跡がある。どうやら私たちよりも一足早く、K建設のオバタ専務とヤマセさんが独自にお払いのようなものをやったようだ。しかし、施主としてのセレモニーはそれとはまた別である。儀式を二度やったからといって、災いが降り掛かることもあるまい。私たちは四つの境界石に次々と線香を立て、自分たちだけの地鎮祭を厳粛に執り行った。
 すべてを終えた帰り道、敷地を取り巻く広大なタマネギ畑の向こうに、見事な夕焼けが空一杯に広がっている。まるで私たちの未来を祝福するような、茜色に染まる夕空だった。


秋空の下にのどかな田園風景が広がる着工直前の現地



待望の杭打ち /99.9.14



 翌9月14日、早朝から杭打ち工事が行われた。K建設のヤマセさんが現場につききりで杭打ち業者にてきぱきと指示を出している。
 打ち込む杭の数は全部で20本。これを強固な地盤まで打ち込んで、積雪1mまで考慮した建物の全重量54トンを支える。長さは事前のボーリング調査で11mと出ていた。11mの杭をトラックで搬入することは不可能なので、5mと6mに分け、打ち込みながら途中一ケ所を専用金物で継ぐ。
 使用する杭は、最も安価なH型PC杭である。安価といっても、一本当たりの耐力は8トン以上あることが事前の計算で分かっていた。20本では160トンまでの負荷に耐えられることになる。実際の建物重量の約3倍もあり、木造住宅ならばこれで充分な性能なのだ。
 空は青く高く晴れ上がっている。赤トンボが飛び始め、ナナカマドの実も赤く色づき始めていた。気持ちのいい秋空だった。前日に地面にマーキングした杭の場所を一本ずつ慎重に確認しながら工事は進められた。午前10時過ぎに早々と杭打ちは終わり、その日の工事予定は完了した。

 暇に任せてあたりを散策してみると、徒歩15分の場所に思いがけず大規模スーパーを発見する。出来たばかりで、手持ちの地図にも掲載がなかった。冬の買い物を案じていた妻にとって、大きな朗報である。
 郵便局や市役所の出張所などもその近くに発見する。以前から知っていた市のコミュニティセンターもすぐそばだ。遊ぶ場所は何一つないが、生活に必要な施設は徒歩15分圏内にすべて整っている。暮らすには取りあえず不自由はなさそうな街で、都会の中での不自由な田舎暮しをある程度覚悟していた私を、ひとまずほっとさせる。
 この日の午後、工事資金の一部をK建設の口座に振り込む。工事代金の80%は金融公庫分を予定していたが、公庫の借入金が口座に入ってくるまでには、かなりの間がある。(最速でも現場審査に合格した1ヶ月後)先方は公庫のお金と一括支払いで構わない、と言ってくれてはいたが、こちらの気持ちとして少しでも早く手持ちの現金を支払いたかった。たとえ金額はわずかでも、誠意は間違いなく相手に伝わる。以前にも書いたように、そうした些細な誠意の積み重ねは、円滑な人間関係を進めていくうえで、とても大切なことだった。



責任と自負 /99.9.22〜28



 1週間後の9月22日、建物基礎コンクリートを施工する準備が整い、資材が現場に搬入された。基礎コンクリートを組む型枠、鉄筋などは図面に合わせ、予め工場で加工してから搬入される。現場で行うのは基礎用の溝を機械で掘って砕石で転圧することと、この加工済みの型枠と鉄筋を組み立てることだけだ。
 掘った穴、加工済みの鉄筋や型枠などが寸法通りかどうか、図面をにらみながら、ひとつひとつチェックしてゆく。私は施主であるが、この建物を設計監理する建築士でもあるので、工事のすべてに立ち会い、図面や仕様書通りに施工が行われているか、厳しく監理する義務と責任がある。役所に提出した諸届けにも、その旨がはっきり記入されている。
 万一自分の監理不行届きで建物に問題が生じた場合、施主の立場としてももちろん困るが、監理建築士としては道義的、社会的責任が我が身に降り掛かってくる。場合によっては建築士事務所の営業停止、建築士資格のはく奪ということもあり得る。肝心な部分での手抜きや妥協は、一切許されないのだ。
 現場監督のヤマセさんやオバタ専務からは、逐一作業予定の連絡がきていた。ローコスト住宅の場合、短期間に一気に工事を進めることが肝要である。だらだらと時間をかければかけるほど、余分な経費がかさむ。この鉄則に従い、いったん動き出した工事の進行は速かった。9月24日には早くも基礎コンクリートの水平部分が打たれ、28日には壁部分のコンクリートが打たれた。

 コンクリートが打ち終わると、職人はそそくさと帰ってしまった。しかし、すべてに立ち会っていたオバタ専務だけは現場から去ろうとせず、左官用の金ゴテで天端をひとり黙々と均し始めた。ここは建物の土台が接する非常に重要な部分なんです、完全に水平でなくてはいけない、と言いながら手を休めない。
 普通の業者なら棒でざっと均すだけで、あとは固まってからモルタルで高さを調整する。公庫の標準仕様書にもそう書かれている。だが、専務はコンクリートが固まる前に、一発で均してしまったほうがあとあとの精度は格段に上がると言い張る。モルタル調整では結局ひび割れが出来てしまい、隙間だらけ誤差だらけの建物になりかねないというのだ。
 確かにそうだ、と私は彼の言葉に強い共感を覚えた。建物を厳重に監理するのが建築士の役目なら、より精度の高い建物作りをめざすのが、施工業者としての責任とプライドだろう。「たいして儲からない現場だから、まあ適当にやっておこう」では駄目なのである。
「私も手伝います」
 オバタ専務の心意気に自分に通じるものを感じた私は、思わず手を貸していた。専務は数ミリ単位で天端の誤差を調整しようとしていた。全長7280ミリの長さの基礎に対する数ミリだから、そのこだわりのすごさが分かる。

 秋の早い夕暮れが迫っていた。二人の中年男の作業は続いていた。両手はすでにセメントまみれである。どうしても2ミリほど低い場所があった。しかし、コンクリートが徐々に固まり始めていた。辺りが薄暗くなり始め、作業を続けるのがもはや困難になってくる。
「このへんでよしとしませんか」
 ここらが潮時と見て私のほうからそう声をかけた。そうしなければ、専務はいつまでも手を休めようとしなかったろう。2ミリならば土台と基礎の間に挟む予定のゴムパッキンで、充分調整が利く。専務は笑ってようやく静かに金ゴテを置いた。その穏やかな表情や物腰からは、物作りに対する損得抜きのひたむきな姿勢と自負とがひしひしと伝わってくる。K建設に任せてよかったな、とそのとき私はしみじみ思った。



デザインの本質 /99.9.29〜10.3



 コンクリートが硬化するには、ある程度の養生期間が必要である。ここであせってしまうと、強固な基礎は出来上がらない。コンクリートが充分固まり、壁部分の型枠を外せるまで現場作業は中断となるので、この時期を利用して自分の力で施工する予定だった車庫用パーゴラ、外部ウッドデッキなどの設計検討にとりかかった。
 セルフビルドといっても外部で使うものだから、風や地震、雪などに耐えられる構造でなくてはならない。得意の構造計算を駆使し、部材の寸法を決めてゆく。建物全体を「縦の美学」として統一させようと思っていたので、これらの施設も「縦」を充分意識し、松の幅広板を目透かしで張るデザインで統一させた。
 外部に使う木材なので塗料仕上げは必須だが、エコロジー住宅を売り物にしているので、環境に負荷をかける塗料は使いたくない。価格面や施工のしやすさなどから総合的に判断し、たどりついたのはヨーロッパの環境先進国と言われているドイツのオスモ社製「ワンコートオンリー」だった。自然素材だけを使い、乾いたあとも木材の呼吸を妨げない。一回塗るだけで済み、素人でも簡単に施工出来るのが魅力だった。
 これら外部施設の設計とあわせ、ガーデニングの設計も同時に行う。ガーデニング設計は建物が完成してからになりがちだが、このあたりから着手しないと統一感のある庭にすることは難しくなる。

 実は私のガーデニングに関する知識は素人に近い。しかし、建築の勉強だってもともとは素人に近い場所から出発してここまでやってきた。デザインに関して本当に大切なのは、立派な学歴や豊富な知識などでは決してなく、対象を深く愛し、本質を見抜く確かな目である。私はそう信じていた。だからガーデニングについても、同じ様に独学でやり抜こうと考えた。
 計画の基本は先に書いた「縦」のコンセプトと、建物の屋根に用いた50%勾配(約27度)の三角屋根である。落雪や内部空間の広がり、外見の美しさなどから慎重に決めた屋根の角度だったが、建物全体に統一感を与えるためには、この27度の角度を随所に使ってやればいい。今回の計画では、ウッドデッキ上のパーゴラ、石油タンクの目隠し、ぶどう棚などを同じ勾配でそろえようと考えた。

 次に考えたのは、色と素材の統一感である。以前、アメリカ人の建築家に数週間ホームスティしてもらった折、「日本の住宅はToo muchですね」と批判された記憶があった。直訳すると「やり過ぎ」ということになるが、要は素材や色があまりにも多過ぎ、全体の統一感に欠けた品格のない建物が街中に溢れている、というのだ。いかにもアメリカ人らしい率直で手厳しい指摘だが、言われてみると確かにうなずけるものがある。
 感覚的には、建物と付帯設備の素材や色は、外部だけでも合わせて3〜4種類までが限界である。ナチュラルな素材やモノクロ調の色ならば多少増えてもケンカはしないが、それ以外の色や素材がこれ以上増えると、たいていはうるさい印象になる。今回の計画でもそれは例外ではなかった。建物本体に鉄板と木材とコンクリートがすでに使われているから、外部設備で使える素材や色はあと1〜2種類が限度である。
 ここで私は素材の切り札としてレンガを使おうと考えた。表面処理の一切していない素焼きのレンガは、土から出来た安価なエコロジー素材である。通路や花壇、バーべキューコーナーなどその用途は広い。色はレンガ本来のエンジ色のものだけを使う予定だった。人工着色材を使わない、文字どおり素の色である。

 最後に、建物内部から外部への流れを意識した自然な動線計画があった。動線計画は建物内部だけのものではなく、内部から外部へと無理なく自然につながっていくもの、というのが私の持論だった。
 今回の計画では、居間〜玄関〜パーゴラ車庫〜庭、前面道路という内から外へと二つの枝に別れた流れ、そして居間、台所〜ウッドデッキ〜庭という内から外へと二つの枝が合体した流れをメインに考えた。
(連載第6回分に掲載の建物と庭の平面図を参照)
 この二つの流れは外部と内部とでそれぞれループしてつながっている。生活の中でのさまざまな形態の変化にも、充分耐え得る設計だ。(現実に生活してみて、その考えに誤りがなかったことを後に知る)



技へのこだわり /99.10.4〜13



 天までが味方してくれたのか、10月上旬まで晴天が続き、基礎コンクリートは頑強に固まった。10月4日に基礎壁の型枠を外し、同時に地中深く埋もれる設備配管の埋設を行う。
 10月7日、基礎内部、すなわち建物の床下にあたる部分がきれいに整地され、防湿シートが全面に敷かれた。この上に鉄筋を並べ、厚さ10センチのコンクリートを流して固めるのだ。これで床下からの湿気は完全に押さえられる。
 普通の住宅の基礎なら床下は土のままで、1階床下に防湿シートと断熱材を用いる。今回計画したパッシブ換気では床下を完全な内部空間としなくてはならない。基礎壁外周の断熱材の施工とあわせ、極端な言い方をすれば、床下で寝ることも可能なくらいの周到さが必要だった。

 こうして建物の土台部分はほぼ完璧といっていい出来映えに仕上がった。本業である建築パースの仕事が秋口には極端に暇になるという幸運、いや考えようによっては不運なのかもしれないが、ともかく、何かしらの作業がある日は欠かさず現場に顔を出した。
 サラリーマン時代から私は現場が好きだった。いや、机に座ってあれこれ計画を練るのも好きだったから、「現場も好き」と言い換えなくてはいけない。要するに私は、物を造り上げるのが理屈抜きで大好きな人間なのだ。
 幼いころの私の記憶に、骨組みの出来上がった住宅の屋根で、鎚をふるう父の姿がある。私の父親は腕のいい大工だった。現場で父はよく口笛を吹きながら作業をしていた。そしてそれは父が上機嫌であり、手仕事をこよなく愛している何よりの証しだった。私の中に物を造ることの喜びが知らず知らず育っていたのは、おそらくそんな父の姿を見て私が育ったからだろう。

 順調そうに見えた現場の工程に、ある異変が起きつつあった。大工が決まらないのである。木造住宅の場合、大工の質は極めて重要である。設計当初よりはかなり減らしたとはいえ、今回の計画では表し部分が非常に多い。クロスやペンキで仕上げてしまえば、多少の粗ならたちまち隠れてしまうが、そうはいかないのである。
 建築家の自邸、しかも私との初めてのつきあいということもあり、K建設では採算度外視で腕のいい大工を当初予定してくれていたらしい。だが、その棟梁が急病でいきなり入院してしまったのだ。公庫の現場審査の合格期限は目前に迫っている。ピンチだった。
「ざっくりとした山小屋のような仕上げでいいですよ。最初から予算もないわけですし」
 私は自らそう申し出て、K建設を気遣った。どうも棟梁の入院の間が良過ぎる。専務ははっきりとは言わなかったが、あまりの予算の厳しさに恐れをなし、棟梁は病院へと逃げ出してしまったのではないか、と勘ぐったのだ。(ちなみに、K建設と棟梁との契約は請負い制だった)
 K建設では大手ハウスメーカーに顔の利くヤマセさんを中心に、次なる大工を精力的に探している様子だった。私としては多少腕は落ちても、自分にこだわりのある大工に担当して欲しいと願っていた。施主としては少々虫のいい要求だが、最終的な価値判断が金ではなく、自分の腕、引いては自分の技に対するこだわりにあって欲しいと…。

 やきもきしながら待つうち、1週間ほどがたちまち過ぎ去った。K建設では大工による現場での木材の切り込み(組立てるためのほぞ穴加工)をあきらめ、木工場によるプレカット加工に切り替えたようだった。図面を見ながらオペレータが数値を打ち込み、機械が自動的に木材を加工してゆく最新技術である。すべての木材が切断穴明け加工されて搬入されるため、あとは大工が現場で組立てるだけで済む合理的手法である。
 10月中旬、ヤマセさんから連絡が入る。近郊の街で安い構造材をうまく使った木造の建設事務所があるので、一緒に見にいって欲しいと言う。どうやらその事務所に出入りする大工の手が、ちょうど空いているらしい。一も二もなく承諾した。
 ヤマセさんの車に同乗して訪れたその事務所は、私の描いていたイメージにぴったりの造りだった。ツーバイ材や下地材をたくみに使い、粗いがその分素朴でいい味わいを出している。私はぜひともその業者に工事を請負って欲しいと思った。
 私がすっかり気にいってしまったので、その場でいきなり具体的な工程の話になる。下旬になると大工の手が空くと言うので、木工事着工が10月18日から、公庫の現場審査を10月28日あたりに行うということで話が決まる。ぎりぎりだが、何とか公庫の期限に間に合いそうだった。



セルフビルド開始 /99.10.14〜17



 18日の木工事開始までまたまた少しの間が出来たので、造園計画に従い、住んでいるマンションの庭から少しずつ木を移植にかかった。住み始めて17年も経つと思いのほか深く根は張っていて、掘り起こすのに往生する。根を縄で巻いたりビニールでくるんだりして、楓やらイチイやらレンギョウやらを長年の愛車であるライトバンに積んで運びだす。こういうときには、見栄えは多少悪くとも、つぶしの利くライトバンはたいそう便利である。あとは首尾よく根がついてくれることを祈るのみだ。
 並行してセルフビルドに必要になってくるいろいろな工具類を少しずつ買い集めた。電動ドリルや電動ノコなどの工具類は以前から持っていたが、いざ大物を手掛けるとなれば、とてもそれでは足りない。掘削用のスコップ、アルミ製の脚立、電動カンナ、電動プレーナーなどを次々に購入した。

 暇を見つけ、まず手始めに郵便ポストを作り始めた。新居のドアは北欧フィンランド製の高性能木製断熱ドアに決めていたが、断熱性能を上げるためとコストを下げるため、ポストがついていない。ドアを開けたすぐ左手の取り出しやすい場所に、郵便ポストを取りつけてやる必要があった。
 デザインは建物のイメージに合わせ、「ミニTOM CUBE」のようなものを木で作ろうと思った。つまり、これから出来る建物とほぼ同じデザインの郵便ポストを作るのだ。
 新聞入れも兼ねているので、外形寸法はかなり大きい。屋根を鉄板で巻き、蝶番をつけて開閉式の取り出し口にする。ポスト口は表札を兼ねたものにし、窓を模した明かり取りもつけた。外壁に相当する部分には細い木を縦に張り、ここでも縦のイメージを貫く。いざ作り始めると元来の作り好きの虫が騒ぎだしてどうにも止まらなくなり、記念すべきセルフビルド第1弾である郵便ポストは、こうしてわずか一日のうちにたちまち完成した。

 10月15日から長い雨が続き、17日はそれが雪に変わった。平年よりも8日も早い初雪である。思いがけない冬将軍の来襲に気はあせるが、木工事開始が後にずれこんだのは、むしろ不幸中の幸いだったのかもしれない、といいほうに考え直す。



上棟に感無量 /99.10.18〜21



 10月18日、空はからりと晴れ上がった。杭打ち工事や基礎工事のときもそうだったが、肝心なときの天気にだけは随分と恵まれている。現場にはすでに加工済みの材料が山積みとなっていた。土台の組立てがその日のうちに終わり、ユニットバスも据え付けられた。ユニットバスは寸法が大きいので、骨組みが立ち上がる前に設置しなくてはならない。
 土台に多少の加工ミスを見つけるが、現場での修正でなんとか済ませる。コンピューター制御の工場で加工されたといっても、図面を読んでデータを入力するのは人間だから、当然ミスもある。建築士が現場監理に決して手を抜けない所以が、このあたりにもあるのだ。

 翌日、翌々日とまたまた天気に恵まれ、作業は順調に進んだ。棟上げが終わって野地板(屋根の下地板)をふくまでに雨が降るかどうかは施主の日頃の行い次第だ、と職人の間ではささやかれているという。もしもこの時期に大雨が降ってしまうと、せっかく乾燥させて運び込んだ大事な木材が湿ってしまい、大きなダメージを食らう。そんな目に会わぬよう、まさに神に祈りながらの毎日が続いた。
 明日でいよいよ上棟は完了という10月20日の夕方、骨組みのほとんどは完成し、建物のイメージはより具体的な形となって姿を見せていた。帰り道、何か心に引っ掛かるものを感じながら車を走らせていると、空がにわかにかき曇り、大粒の雨がフロントグラスを叩き始めた。そのとたん、引っ掛かっていたものの正体にようやく気づいた。
(いまのままでは屋根がうまく収まらない…!)

 私は道端に車を止め、まだ現場に残っているはずのヤマセさんに携帯電話で連絡をとった。話があまりにも専門的なので詳細は省くが、私の描いた屋根伏図(屋根の骨組み図)に誤りがあり、そのまま加工された部材では、屋根が正常に組み上がらないのである。
「どうします?」
 私の説明でヤマセさんもすぐにその矛盾に気づいたが、結論を出すのはあくまで私である。しかも、その日のうちに結論を出さないと、翌日早朝からの作業が止まってしまう。ここでの長時間の中断は、目前に迫る現場審査の期限のことを考えると、命取りにもなりかねない。私は頭の中で素早く考えを巡らせ、すぐにその場で結論を出した。
「妻側(建物の側面)の屋根のひさしをなくしましょう」
 雨や雪による壁の痛みを最小限にするため、建物側面にも30センチのひさしを設けていた。だが、いまのままではどうしても屋根が収まらない。大工の手間と材料の損害を最小限にする解決策は、それしかなかった。壁の痛みは外壁材を屋根と同じ鉄板に変えたことで、それほどの心配はなくなっている。

 こうしてミスによるダメージは最小限で済んだ。雨は幸いにも通り雨程度で済み、翌10月21日、現場は無傷に近い形で野地板までが一気にふきあがった。待望の上棟である。目を上げると、屋根の登梁が空に美しい造形を作り出していた。自分の頭の中に長い間暖め、思い描いていた家のイメージが、ついに目の前に形となって現れた感慨に、しばしの間私は浸っていた。
 夕方、お世話になったK建設と大工の棟梁に、気持ちをこめて日本酒二本ずつを差し上げる。エモトさんもお祝にかけつけてくれ、長く苦しい道程だった新築計画は、大きな山場を無事に乗り越えられたのだった。


(第8話「真冬の引越し騒動」へと続く)