八月の記憶
1993.3 菊地 友則
教室の窓から見える体育館前の大きな山桜の木はまだ固いつぼみのままで、寒々としたたたずまいを見せていた。校庭のあちらこちらには、まだ黒ずんだ雪が残っており、そこから流れだす雪解け水が、地面に黒い水溜まりを作っていた。
「ですから、田島さんは札幌の小学校から一年遅れで、この小学校に転校してきたわけです」
首をゆっくりと回しながら、教壇の上で五年の担任の今村先生が、東京訛の特徴のあるアクセントで生徒達に話しかけていた。先生の横には、白いブラウスの上に、薄黄色のカーディガンをはおった、おさげ髪の女生徒が、少しうつむき加減で立っている。うつむいていてもまばたきをするのが、はっきりと分かるのは、彼女の長い睫のせいだった。
出口の近くには、見覚えのある阪口の伯母が、朝の仕事着のままなのだろう、モンペ姿で少し窮屈そうに立っている。
「ちょっと、あの人のスカート、少し派手でない?」
後ろの席で、丸岡トミ子が隣りの生徒にささやく声が聞こえた。田舎の小学校で、何年ぶりかの転校生、しかも、同性ということで、彼女独特の対抗意識が目覚めたようだ。
田島由起子という名のその転校生の服装は、札幌育ちというせいなのか、同級の女生徒のものに比べ、確かに垢抜けていた。
トミ子が気にするスカートにしても、赤と黒と黄色の線が格子状に混じりあったもので、地元農協の売店などでは、絶対に見かけないものである。
「それにさ、なに、あの由起子とかいう気取った名前」
「雪子」ならいいが、「由起子」は駄目だと言う。トミ子の話は一方的だった。直人は窓の外に目をやり、昨夜の母のツヤとのやりとりを思い出していた。「したからね、阪口のおばちゃんとこに来る由起ちゃんのこと、年がひとつ上だからって、いじめたら駄目だよ。もし、他の子がいじめてたら、お前が真っ先にかばってやるんだよ」
姉二人の下の末っ子として生まれた直人に対し、ツヤの母親としての躾はことさら厳しかった。直人は、ただ黙ってうなずくしかなかった。
父親があまり家にいない、という環境もツヤの心を頑なにさせる理由のひとつだったのかもしれない。
直人の父、利雄は、農業が主体のこの辺の家にしては珍しく、出稼ぎの大工が仕事だった。貧農の次男坊に生まれた利雄は、親から田畑を受け継ぐこともなく、若いうちから大工の見習奉公に入り、金を貯め、独立していた。
大工の仕事は地元にもないではなかったが、町に出た方が金になる、と言い、普段はほとんど家にはおらず、帰って来るのは暮れも押し詰まったころ。そして、雪解けを待ちかねたように再び出稼ぎに出る。それがここ数年の習慣になっていた。
ツヤの頭の中には、父親代わりになって立派に子供達を育て上げる、という自負心があったに違いない。それは、ツヤが口にせずとも、直人が敏感に感じとってきたことだった。
「なんも、一年後れたからって、頭悪かったからでないんだよ。病気で半年も入院してたんだもの、しょうないわ」
ツヤは珍しく機嫌がいい。
「お前の従兄弟の子なんだから、姉さんみたいに思わないとね」
阪口の伯母と直人の父親は、腹違いの姉弟だった。阪口の家は川向こうの、直人の家と学校とのちょうど中程にある。農繁期になるとツヤは、毎日のように阪口の家に手伝いに行った。ツヤは伯母と馬が合うこともあり、何かと阪口の家を頼りにしていた。
ツヤの話を総合すると、阪口の伯母のところに来る子供は、直人の従兄弟の子供であること。直人よりもひとつ年上だが、病気のため、五年生をもう一度やらねばならぬこと。事情があって、札幌から祖母の家のあるこの土地に引っ越してきたこと、などだった。
だが、なぜ札幌からこんな田舎に来たのか、の直人の問には、
「子供は、そんなこと知らんでいい」
と答えようとしなかった。しかし、直人が床についたあと、それについて姉達とツヤとが密かに話しているのを、直人は布団の中で聞いてしまっていた。どうやら、由起子の両親の離婚が原因のようだった。由起子の母親は、心労が重なり、隣町の病院に入院しているらしい…。「わかりましたか?山元君」
今村先生のよく通る声が教室の中に響いていた。ぼんやりと窓の外を見つめていた直人は、自分の名を急に呼ばれ、反射的に立ち上がっていた。
「立ちなさい、なんて言ってないわよ」
教室に、クスクスと笑い声が広がった。由起子もうつむいたまま小さく笑っている。白い顔に、ほんのり紅みがさしていた。
(顔の色が白っぽいのは、入院してたせいなんだ)
直人は由起子を見つめながら考えた。
「さあ、座って、山元君。先生は、田島さんの家は君と帰る方向が同じだから、お掃除当番は君のグループに入ってね、って言ったの。ちゃんと話聞いててよ、班長さん?」
直人の通う学校は登校範囲が広く、帰宅方向の同じ者同志が同じグループを作る慣習がある。
「そしたら先生、どうぞよろしくお願いします」
頭に巻いた手拭をはずし、何度も頭を下げながら、阪口の伯母が教室から出て行く。由起子はそのままの場所で、少し視線を上げ、それを見送る。眼を隠すようにしていた睫が上がると、その下から、今まではっきりと見えなかった瞳が現れた。細い顔に少し不釣合いな、ぱっちりとした、それでいて切れ長の大きな瞳。
その視線がふいに自分に向けられた時、直人は、まるでその中に吸い寄せられるかのような錯覚にとらわれた。それは、今まで感じたことない、不思議な感覚だった。それが何であるかを直人が理解出来たのは、ずっと後になってからのことだった。五年の組に由起子が入ってからしばらくの間、教室はその話題で持ちきりだった。住んでいる家と本人の名字が違う、ということは主に女子の間で話題になったが、日がたつにつれ、それも次第に治まっていった。子供達にとっては、結局、由起子の家庭環境よりも、由起子そのものに強い関心があった。
由起子は勉強が出来、学級会などでも、誰も思いつかないような意見を発表し、たちまちクラスの信望を集めた。
トミ子は、あいかわらずそんな由起子に対抗意識を燃やし、自分の取り巻き連中とのつながりを、より強固にしようとしていた。由起子の回りにも、休み時間になると取り巻きが出来たが、それは由起子自身が望んだものではなくて、自然に出来た集団といってよく、そこがトミ子達のグループと根本的に違っていた。
週に一度ある掃除当番の日。その日が来ると、直人の心は浮き立った。誰もがいやがる教室の掃除当番。由起子はそれを気にするでもなく、くるくるとよく働いた。直人は、そんな由起子の姿を見るのが好きだった。
直人は、班長であり、級長でもあったので人の嫌がる仕事を進んでやらねばならぬ立場にあった。それは母のツヤから、日頃厳しく諭されていることでもある。
由起子が班に入って何度目かの掃除当番の日、もうすぐ五月というのに、外は小雪がちらついていた。
掃除が終わったあと、汚れたバケツの水を外の洗い場まで捨てに行く仕事は、皆が嫌がる仕事だった。寒い日は特に行く者がなかった。直人がいつものようにバケツを一人で持ち、引きずるようにして教室を出たその時、
「山元君、待って。手伝う」という由起子の声がしたかと思う間もなく、もうその手がバケツの片方にかかり、直人の手の負担はスッと軽くなっていた。
年がひとつ上でも、由起子の背丈は直人とそれ程変わらない。直人の胸を浮き立つものが流れた。
「今日、寒いね」
息を白くして由起子が言う。非常玄関の横にある洗い場までの寒く、長い廊下を二人はバランスをとりながら歩いた。由起子が息をはずませると、白いセーターの下の薄い胸が小さくふくらんだ。
「あ、私が捨てる」
洗い場に着くと、由起子はそう言って直人の手からバケツを受け取る。その拍子に、長いおさげ髪の片方が揺れ、直人の頬に軽く触れた。干したばかりの麦わらのような由起子の体臭がふんわりと匂った。
「先に帰ってて。私、バケツを洗ってから帰るから」
そう言われて、直人は素直に一人で教室に戻った。教室では、ほうきとチリトリを使ったちゃんばらごっこが始まっていた。
職員室に掃除終了を告げに行く途中、不意に直人は、「先に帰ってて」という由起子の言葉の真意が分かった気がした。それは「二人でバケツの水を捨ててきた」という事実を他の連中に悟られぬための、由起子の配慮ではなかったのか。農業用水から水を汲み上げるポンプの音が間断なく響いていた。汲み上げられた水が太い蛇のようなパイプを通り、みるみるうちに乾いた田を満たしていく。人々は皆、忙しく働いていた。どこの農家でも、田植の準備の真っ盛りだった。
ツヤは、朝早くから阪口の家に、手伝いに行っていた。厳しい母も、さすがに他の家の手伝いをやれ、とまでは言わなかった。
「おい、直人。お前、田島がなんで名字の違う阪口の家にいるか、知ってるか」
下校途中の川辺りで、汲み上げポンプから生き物のように流れ出す水を、ぼんやりと眺めていた直人の背後から、不意に聞き覚えのある声がした。同じ学年の信夫だった。信夫の家は直人の家に近く、直人とは幼友達である。
「ええ?親戚だからかな」
直人はしらを切るつもりだった。
「へっへ、違うね。夕べ、父ちゃんと母ちゃんが話してるの、俺聞いたんだ。田島の家は夫婦別れだ、って言ってたぞ。だから名字が違うんだ。あいつの母ちゃんは、阪口の名字に戻したいんだけど、田島がいやなんだってよ」
「嘘だ」
直人は反射的に叫んだ。「お前がかばってやるんだ」というツヤの顔と、「先に帰ってて」という由起子の白い顔とが交互に目に浮かんだ。
「嘘でない。嘘だと思ったら、明日、田島に聞いてみれや」
信夫は直人と由起子が親戚関係にあることをまだ知らない。
「聞く必要ないさ、嘘だもの」
そう言いながら直人は、信夫をその場に残して走り出した。
今日は風呂を沸かさねばならぬ日だ、家への道を走りながら直人は考えた。隣町の高校に通う二人の姉達の帰宅は遅い。ツヤと姉達が戻るまでに、一通りの家の仕事をするのは直人の役目だった。
大きな浴槽に、手押しポンプで水を貯めるのは、骨の折れる仕事である。重いポンプの取っ手は、水をはらむと子供の力では容易に動かない。直人は力まかせに取っ手を上下させた。ポンプの口から、どぶどぶと、勢いよく水が溢れだす。
「僕は、人間ポンプだぞ」
誰もいない家の中でそう叫びながら、直人は先程の信夫の言葉を思い出した。水を汲む手は、少しも緩めてはいない。明日の学校のことを思うと、手は次第に重くなっていった。翌日、休み時間や昼休みは、信夫のことをことさら避けた。そんな直人に信夫は、授業中自分の席から由起子の方をあごでしゃくり、聞いてみろ、とばかりに、さかんに挑発してきた。直人はひたすら無視し続けるしかなかった。
五時間目はホームルームの時間だった。
「みんな、静かにね」と言い、先生は西洋紙の束を机の上でトントンとそろえた。
今村先生は東京生まれである。東京の小学校にいくらでも勤務先はあったのに、「僻地で教育したい」と、自ら希望し、わざわざこんな田舎町に来ていた。耳慣れぬ言葉のアクセントは、自分の町と隣町くらいしか知らぬ直人にとって、新鮮な都会の匂いであった。それは、由起子とも共通する匂いでもある。
「今日はいつもと少し違うことをしますからね。今から全員に、自分の好きな人の名前を男女一人ずつ書いてもらいます」
まだ先生が言い終わらぬうちに、教室の中は騒然となった。
「先生、それ、絶対に書かないと駄目なんですか」
丸岡トミ子が、立ち上がって言った。
「そうね、必ず書いてください。そして、その理由も一緒に。先生は、もっとみんなのことが、知りたいの。だから」
教室内は、ますます騒がしくなった。
「お前、山元って書くんだべ?」
回りの女子を大声でひやかす信夫の声が響いた。教師としてクラスを把握するために、きっと必要なんだ、と直人は考えた。
「ちょっとちょっと、みんな勘違いしてもらっちゃこまるわ。『好き』って、チョコレートや野球が好き、と同じ意味で考えていいのよ。あんまり、変にとらえないでね」
ざわつきが少し治まった。なーんだそうかあ、という声が聞こえた。構わずに、先生は紙を配り始めた。教室の中は急に静かになった。
「それと、みんなの名誉のために、ひとつ約束します。この紙は先生だけしか見ませんし、誰にも内容を教えたりしません。だからみんなも、本当のことを書いて欲しいの」
直人は誰の名を書こうか、一心に考えていた。回りでは、自分の手で紙を隠しながら、書き始めている者もいる。由起子も書き始めている。
(由起子は誰の名を書くだろう?)直人にはそれが気になってならない。
男子は信夫の名を書くにしても、問題は女子の名前である。丸岡トミ子は活発で成績も悪くないが、意地の悪い性格が好きになれない。直人には、由起子以外の名前がどうしても思い浮かばない。
さんざん迷ったあげく、覚悟を決め、女子の欄には「田島」と、名字だけを記した。理由の欄では少し考えてから、「学級会などで、活発に発言する」と書き、一度紙を二つ折りにしたあと、思い直して、理由の欄に「まじめだから」と、小さく書き加えた。
たったこれだけのことに、随分時間が過ぎており、その日のホームルームは、それだけで終わりとなった。
普段なら、しばらくはクラス中がこの話題でもちきりになるはずなのに、意外にこの「好きな男女」の話を皆の前で口にする者は一人としていなかった。全員が当事者だけに、もし口にすると、自分の書いた内容にも触れなくてはいけない、という警戒心が働いたせいかもしれない。
あの信夫でさえ、クラスの中では決して触れようとはしなかったが、二、三日たったある日の帰り道、二人きりになったのを見計らうかのように、
「おい、お前、好きな女の名前なんて書いた?」
としつこく尋ねてきた。直人は、嫌な奴だ、と思いつつ
「丸岡だ」
と咄嗟に、心にもない嘘をついた。
「へえー、そうかい。俺はまた、てっきり田島かと思ってたよ。よーし、このこと丸岡にバラしてやる」
と見透かすように言う。そんなことをされてはたまらないので、今のは嘘だ、と直人はあわてて取り消した。
「本当は、なんて書いた?俺のも教えるから、教えろ」
「誓うか?誰にも言わないか?裏切ったら絶交だぞ」
「よし、誓う。嘘ついたら、殺せ」
直人は信用して、本当のことを教えた。
「やっぱりな」
信夫は、少し下を向いて道端の石ころを蹴とばした。
「僕と田島は、親戚なんだ。だから‥‥」
だから好きになるのは、不思議ではない、と続けるはずだったのに、うまく言葉にならない。
「お前は、なんて書いたんだ」
「俺か?丸岡だよ」
信夫はつまらなそうに言うと、親戚かあ、と大きな溜め息をついた。翌朝、教室に入るなり、トミ子が近づいてきた。後ろには、いつもの取り巻き連中を従えている。
「ちょっと、あんた。田島さんと親戚なんだって?」
(裏切ったな)直人は唇をかんだ。信夫が上目づかいに、ちらちらと直人達のやりとりに聞き耳を立てているのが分かる。
「ああそうだよ。それがどうした」
「へえー、本当だったんだ。なるほどねえ」
トミ子は、大人びた口調でそう言うと、それ以上追及することもなく、席についた。しかし、信夫からすべてを聞いたことは間違いない。トミ子に知れれば、たちまちクラス中に知れ渡るだろう。当然、由起子の耳にも入る。直人はそれでも構わないが、由起子は嫌かも知れない。
(言うんじゃなかった)直人はまた唇をかんだ。
その日の授業は一日中気乗りがせず、直人は先生に幾度となく注意を受けた。やっと六時間目が終わり、帰りの会になった。
「ちょっとみんなに相談なんだけど、校内放送に出てみたい人、この中にいますか?」
教室を見渡しながら先生が皆に言った。直人達の小学校は中学校と併用校であるため、校内放送は主に中学生が取り仕切っている。
「五年もそろそろ出てみないか、って話が職員会議で出たんだけど、みんなのやる気が知りたくて、ちょっと待ってもらっているの。朗読をやってみたいんだけどね」
何人かの手が挙がった。国語は自分の得意科目である。直人も手を挙げた。挙げながら教室を見回すと、信夫や由起子の手も挙がっている。
「はい、皆さんのやる気は分かりました。実は、出られるのは男女一人ずつです。出てもらう人には、あとで先生の方からお願いしますから、出られない人も応援してあげてね」次の日の昼休み、直人は先生に職員室に呼びだされた。由起子も一緒だった。
「昨日の話だけど、山元君と田島さんにやってもらおうと思って。一発勝負だから、失敗許されないしね。これよく読んでおいて」
手渡されたのは。去年の六年生が学芸会でやった、宮沢賢治の「よだかの星」の台本だった。男役と女役の二つに分かれ、朗読劇のような形でやるのだ、と言う。
「放送は、あさって金曜の昼休み。ほとんど練習出来ないけど、君達二人なら、まあ大丈夫だわ」
最後の方をわざと北海道訛にし、先生は朗らかに笑った。金曜の昼休みが来た。直人と由起子は昼食を後回しにし、四時間目が終わるとすぐ、放送室に入った。練習なしの、ぶっつけ本番である。
初めて目にする放送の機器に囲まれ、直人はいつになく緊張していた。だが、由起子にはそんな素振りは見られない。
「田島さんは、前の学校で放送委員やっていたから、大丈夫ね。山元君は初めてだから、いろいろ教えてあげて」
付添いの今村先生が声をかける。放送委員などと言うものがあるのか、さすがは都会の学校だ、と直人は妙なところで感心した。
細長いテーブルの中央にマイクが置かれ、それをはさんで由起子と直人が、向かい合って座る。放送の時間が迫っていた。
機器のスイッチが入り、今村先生の声が校内中に響いた。先生が二人を紹介したあと、人差し指の合図で朗読に入る手筈だった。
指が降られた。最初は由起子の割当てである。由起子の落ち着いた声がスピーカーから流れ始めた。一語一句かみしめるような読み方だった。
由起子が読み終わる。今度は直人の番だ。教室の中での朗読なら直人にも自信がある。しかし、今日は勝手が違う。(落ち着け)と自分に言い聞かせ、直人はゆっくりと読み始めた。
直人は自分の読む間、向かい側の由起子の柔らかな視線を感じていた。見守るような視線。直人は徐々にいつもの自分を取り戻していた。
朗読は、よどみなく続き、やがてクライマックスのよだかと母親の別れのシーンに差し掛かっていた。この部分は今村先生の脚色部分で、原作にはないが、母親役の由起子と、よだか役の直人が掛け合いで読まねばならぬ、難しいシーンである。
「母さん、僕はあの空に向かって飛び立たねばなりません。そうして、空にいて、いつも輝きを失わない星になるんです‥‥」
直人は出来る限りの感情を込める。読み終えて視線を上げると、それが由起子の視線と交わり、次は由起子が答える番になる。
そうしたやりとりが続くうち、由起子の表情が少しずつ変わり始めた。
由起子は泣いていた。あの、大きな瞳から今にも涙を溢れ落ちそうにさせ、由起子は泣いていた。
朗読は、終わりにさしかかっていた。
「そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。今でもまだ燃えています」※
震える声を抑え、由起子が最後の一行を締めくくる。先生がマイクのスイッチを切る。直人は、長い緊張から解放された。
「二人とも、すごく良かったわよ。先生、感動しちゃった」
立ち上がった二人の肩をポンポンと叩きながら、今村先生が声をかけてくれた。
「五年生も、やるじゃないか、ねえ、今村先生」
放送担当の中学部の男の先生が、放送室のドアを開けるなり言った。あの二人は、優秀だから。今村先生が放送機器を片付けながら応じている。
直人は、涙顔の由起子のことが気掛かりでならない。だからといって、由起子にかける言葉が思い浮かぶわけでもない。
「大丈夫か、田島」
そう出口で声をかけるのが精一杯だった。由起子は目尻を指でこすりながら、こっくりとうなずき返す。直人は少し安堵した。「明日、学校の帰り、阪口のおばちゃんとこ寄ってくれんかい」
忙しく朝食をかきこみながら、ツヤが言った。
「由起ちゃんの弟で、健ちゃんって子が来るんだけど、由起ちゃん一人だと子守だけで家の手伝い出来んしょ。だから」
だから、お前が由起子を手伝ってやれ、とツヤは命じた。弟がいたのか、どうして離れて住んでいるのだろう。直人は、尋ねようとしたが、聞けばまた叱られるに決まっている。
「明日の学校の帰りは、由起ちゃんと一緒に帰るんだよ」
阪口の伯母から、由起子にもそう言ってある、とツヤはつけ加えた。
翌日の放課後、校門の出口で、ビニールの手提げ鞄を下げた由起子が、少し不安げな表情で直人が出てくるのを待っていた。トミ子に服装のことで何か言われたのか、この頃はあまり目立つ格好はしていない。
「あ、直ちゃん。今日、ばあちゃんが一緒に帰りなさいって」
由起子は、直人を名前で呼んだ。
「知ってる」
直人は、わざとぶっきらぼうに答えて足速に歩き出す。本当は嬉しいのだが、気恥ずかしくて素直にそれを表せない。由起子は少し遅れてついてくる。
阪口の家のマサ拭き屋根が見え始めた頃、背丈ほどに延びたイタドリの木の蔭から、不意に信夫が飛び出してきた。二、三人の同級の子を従えている。信夫とは、あれ以来口をきいていない。
「やーい、山元が女と歩いてるぞ。女だ、女だ」
信夫が、歌うように冷やかす。女だ、女だ、と信夫達は二人の回りをぐるぐると遠巻きにしてはやしたてる。もう我慢ならない。
「うるさい!女と歩いて、何が悪いんだ。くやしかったら、お前等も歩いてみろ!」
肝が座っていた。直人は運動神経は鈍く、けんかも弱い。まして、多勢に無勢である。しかし、(ここで逃げると、由起子を守ることが出来ない)という強い意識が働いていた。めちゃくちゃにやられてもいい。直人は由起子の前に立ち、身構えた。
直人の血相に、信夫達は明らかに鼻白んでいた。互いに顔を見合わすと、
「へーん、俺達は女なんかに、興味ねぇよー」
と強がりを言いながら去って行く。本当は信夫も由起子が好きなんだ。不意に直人はそう思った。
「さ、はやく帰ろう」
直人は、強張った顔の由起子を促した。そこからは二人並んで歩いた。恥ずかしいという気持ちは、もうどこかに消えてしまっていた。
阪口の家に来るのは、由起子が転校してきてから初めてだった。伯母が小さな男の子の手を引き、二人の帰りを待ちかねていた。
「やれやれ、やっと帰ってきたかい。したら、ばあちゃんは田んぼ行ってくっから、健坊の子守り、頼むよ。直ちゃんも頼むね」
伯母はそそくさと出かけてしまう。広い家には由起子と直人、そして伯母が健坊と呼ぶ男の子だけが残された。何も話すことがない。直人は黙って土間に腰をおろした。気まずい空気が流れた。
「健一って言うの。五才なんだ」
そんな雰囲気を察して、由起子が話し始める。視線は健坊に向けられたままだ。
「弟なんだって?」
「そう。でも、ここのばあちゃんのところだと、畑仕事のじゃまだから、旭川のばあちゃんのところに預かってもらってるの」
「旭川?」
「そう、父さんのほうのね」
そう言うと由起子は、目を伏せた。
「うちの父さんと母さんのこと、知ってるんでしょ?」
直人はうなずく。健坊がオモチャの電車を持って近寄って来る。
「これ、トッキュウ電車。ブゥーッ」
「あーあ、また父さんや母さん、みんな一緒に暮らしたい」
直人には、由起子の境遇が想像もつかない。だから、黙って話を聞くしか能がない。
「さあ、薪割りしよっと。健坊見ててね」
ふっきるように由起子が立ち上がる。僕がやるよ、と直人は由起子を押さえるように立った。
「ほんと?よかった。あれ、私苦手なの」
由起子の目が嬉しそうに輝いた。
納屋に案内されて、薪割り台を見ると、直人の家のものとは、かなり様子が違う。小さいのだ。しかも、「はい、これ」と由起子が差し出した道具は、直人がいつも使っているマサカリではなく、もっと刃渡りが長くて柄の短い、いわゆるナタだった。
「使ったことある?」
由起子が心配そうに尋ねる。
「大丈夫」
直人は強がって見せた。本当は、自信がない。
「札幌にいたころは、薪割りなんてしたことがなかった。少し慣れたけど、この手伝いが一番嫌。でも、入院してる母さんのこと考えたらね。がんばらなくちゃ」
「まだ、退院出来ないの?」
「うん、肝臓だから、秋までかかるかも知れないって、ばあちゃんが言ってた」
ビューン、ビューンと、健坊が由起子の背中を線路代わりにして遊んでいる。直人は、必死でナタと格闘している。マサカリと比べてナタは短すぎ、どうしてもバランスがとれない。
「痛てえ!」
人差し指に、激痛が走った。強く握りしめて打ちおろした拍子に、ナタの刃の付け根に指が食い込んだらしい。
「大丈夫?ごめんね!」
由起子が駆け寄ってくる。それよりも早く、割ったばかりの薪の切り口の上に、ポタポタと鮮血が落ちていた。血だあ、血だあ、と健坊がわめく。直人はどうしていいのか分からない。
咄嗟に、由起子が直人の手を引き寄せ、強く握りしめた。あっと思う間もなく、血だらけの指が由起子の口の中に含まれる。ごめんね、ごめんね、と言い、由起子は吹き出す直人の血をきつく吸い続けた。由起子の黒い瞳から直人の手の甲に、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
直人はじっと痛みをこらえた。そうすることで、由起子の心の痛みが少しでも共有出来る気がした。由起子は指を吸い続ける。直人の痛みは、次第に薄らいでいく。水田の稲が、青々と背丈を延ばし始めていた。人差し指の傷は既に癒え、傷痕は赤く固まっていた。直人は、学校での日々が楽しくてならなかった。学校に行けば、由起子に会える。そう考えるだけで、心は浮き浮きとときめいた。
夏休みも間近の七月の上旬。突然、父利雄が出稼ぎ先の札幌から戻った。盆前の帰宅は極めて珍しいことだった。
「いよいよ決まったぞ」
普段あまり酒は飲まない利雄が、珍しくコップ酒を片手に上機嫌でツヤと話している。ツヤも何やら嬉しそうだ。直人は学習雑誌を読むふりをしながら、聞き耳を立てた。
「子供達の教育のこと考えたら、いつまでも田舎にいるってのもねえ。社宅に入れるなんて、渡りに舟だわ、全く」
「これで俺も、札幌でもう一旗上げられるってもんよ」
社宅?札幌?いったい何のことだろう。直人は、必死に考えを巡らせる。
「したら、今村先生ところにいって、早めに転校手続しないとね」
「うち、引っ越すの」
たまりかねて、直人はツヤに尋ねた。利雄が代わりに応えた。
「おお、そうだ。春先にも、ちょこっと言っといたろ。今働いてるところでな、父さんを社員として雇いたいんだとよ。社宅もちょうど空いてるのがあるんだ。いかったべ、直人」
「僕、嫌だよ」
直人は即座に言った。由起子の笑顔が目の前に浮かんでは消えた。
「嫌だ?なしてだ。こんな田舎より、ずっと札幌の方がいいぞ。学校だって立派だし、自動車もいっぱい走ってる」
「だって、信夫ちゃんと別れるの嫌だもの」
直人は、また嘘をついた。友達なんていくらでもできるさ、と利雄はとりあわない。直人は、二階に駆け昇り、畳の上に、ごろりと横になった。階下からは、新しい生活についての父母や姉達の楽しげなやりとりが聞こえてくる。
札幌、札幌、と直人はつぶやいた。まだ一度も訪れたことのない未知の大都会。そこはあの由起子達一家が、一時は楽しく暮らしていたに違いない町だ。
直人の心は、未知への強いあこがれと、由起子と離れ離れになってしまう現実との挟間で、激しく揺れ動いた。あの時の人差し指の傷痕が、ぴりぴりと痛んだ。
利雄は用事を済ませると、一晩で札幌に戻っていった。
引っ越しの話は、大人達の間でどんどん進んでいた。残された問題は家とわずかな野菜畑の処分くらいで、それもたいしたことではなかった。二人の姉達は、札幌の高校に編入するつもりではしゃいでいたし、直人のことなど気にする大人は、誰もいなかった。
札幌への引っ越しの話は、利雄がいる冬の間の話題のひとつではあったが、それはいつも話だけで終わっていた。しかし、今度ばかりは様子が違う。直人は覚悟を決めねばならなかった。
「山元君、札幌に引っ越すんだって」
「二学期には、もうこの学校にはいないんだってよ」
直人の転校の話は、夏休み前の教室にまたたく間に広がった。中には真偽を直接確かめにくる者さえいたが、直人は曖昧に返答をぼかした。
由起子は当然、阪口の伯母から事情を聞いているはずなのに、何も尋ねようとはしない。直人も何か由起子に言わなくては、と思うのだが、いったい何をどう言えばいいのかが分からない。
「母さん、僕、大きくなったら年上の人と結婚してもいい?」
引っ越しが確定的となりつつあったある夜、姉二人が風呂に入っている間を見計らい、直人はここ数日思い詰めていたひとつのことを、思い切ってツヤに尋ねた。叱られるのは覚悟の上である。
「姉さん女房かい?別に構わんさ。私等夫婦は、六つも離れてても、会うとけんかばっかりさ。『ひとつ年上の女房は、金のわらじはいても捜せ』って、昔の人は言ってるくらいだし」
「金のわらじ?」
「そうだ。それくらい、いい夫婦になれる、ってことだ」
直人の心はときめく。
「そしたら、従兄弟同志って、結婚できるの?」
本当は従兄弟の子供、と尋ねたい。だが、そう言うと、直人の由起子への思いがツヤに見抜かれてしまう。
「ええ?今度は従兄弟かい。そうだねえ、法律では許されてるけどねえ、あれは駄目だよ。『血族結婚』って言って、血が濃すぎるんだわ」
「血?」
直人の心に不安が広がる。
「そうだ、血だ。信夫のオヤジがそうだよ。あそこは、両親が従兄弟同志だから、息子がろくでなしだ」
信夫の父は、あまり真面目に仕事もせず、バクチ好きの乱暴者で通っていた。
「だから直人も、大きくなったら、年上は構わんけど、親戚のものだけは、嫁にしたら駄目だよ」
いつになく優しい口調でツヤが言った。ツヤはすでにこの時、直人の心を見抜いていたに違いない。しかし、ツヤはそれ以上直人を追及しようともしなかった。直人にはそれがありがたかった。
そうするうち、引っ越しの話は本決まりとなった。引っ越しの日は、雑事の処理や、札幌の学校の新学期などの関係で、八月中旬の盆休み後、と決まった。
由起子に何も言い出せぬまま、一学期の終業式は終わった。直人はちょうど四カ月前の由起子の時のように教壇の前に出され、教室の皆に別れを告げた。「ごめんください」
引っ越しまであと数日という八月のある日、玄関に聞き慣れたか細い由起子の声がした。直人の家に由起子が訪ねて来るのは、初めてのことだった。
「あれえ、由起ちゃん、どしたの」
直人より早く、ツヤが応対にでる。直人があとに続く。
夏の強い逆光線の中に、薄青い花模様のワンピースを着た由起子が、すらりと立っていた。いつものおさげ髪を解いて一本に束ね、頭にはリボンのついた麦わら帽をかぶっている。
「これ、ばあちゃんから」
そう言って由起子は、紙包みを差し出した。
「あれま、なんだろか」
「餞別だそうです」
大人びた口調で由起子が言う。
「こないだ言ってたのだね。なんも、気を遣わんでいいのに」
由起子が持ってきたものは、伯母からツヤに託された品物だった。
「由起ちゃんも、すっかりいい娘さんだね。元気でね。ほれ、直人。橋のところまで送ってってやんなさい」
でも片付けが、と言いかけると、そんなもの後からでも出来るからいってこい、とツヤは言う。直人は素直に従った。
二人きりになっても、なにも話がない。ただ黙って歩くだけだった。日ざしが強かった。汗が背中を流れ落ちた。由起子がしきりに額の汗をぬぐった。すぐに橋についた。
「足がほこりだらけだから、洗っていく」
橋のたもとで由起子が言う。直人はうん、とうなずいて、川岸に通じる小道を先に下りた。
川岸には、川が大きく蛇行して浅瀬を造っている場所がある。暑い日は信夫達と一緒に水遊びをする場所だが、午前中で皆、手伝いに忙しいのか、人影は見られない。
「冷たい水。市民プールより冷たい」
木製のサンダルを脱ぎ、浅瀬に入った由起子が切れ長の眼を細める。
「市民プール?」
「うん、札幌の川は泳げないから、暑い日はプールにいくの。前に住んでたところは、プールに近かったから、よくいったよ。父さんが買ってくれた水着で。もうちっちゃくなって着れないけど」
由起子は、また少し悲しい眼を見せた。
「札幌って大きい?」
「うん、大きいよ。ビルがいっぱい建ってるし、学校だって一学年五クラスもあるし。でも、直ちゃんは勉強できるから大丈夫よ」
そう言って由起子は、麦わら帽をぬいで汗をぬぐった。日ざしがますます強くなった。
「もっと深い方にいってみたい」
一緒に、と由起子が誘った。でも、服を濡らすと叱られるから、と直人が決めかねていると、全部脱げば濡れないし、叱られないで済むよ、その代わり私も脱ぐから、と言うなり、川岸の柳の木の下に行き、むこう向きになって、つるつると服を脱ぎ始めた。
直人は、そんな由起子を呆然と眺めていたが、素裸になった由起子が近づいてくるのを見、あわてて自分も服を脱いだ。
色白の由起子の身体は、いつか本で読んだことのある妖精のように、光輝いて見えた。不思議に、恥ずかしさはなかった。
二人は並んで、浅瀬に入った。向こう岸のほうは流れが早いが、こちら側はよどんでいる。足元の小石は水苔だらけですべりやすく歩きにくい。二人は、そろそろと用心深く足を進めた。
きゃっ、という短い叫び声がしたかと思うと、後ろにいた由起子が大きくよろめき、しがみついてきた。由起子の薄い胸板の上でふくらみ始めた小さなふたつの突起と、すらりと延びた両足の間の、まるでむきたてのゆで卵のような優しいふくらみとが、直人の背中に強く押し付けられた。
由起子は少しの間、動かずにそのままじっとしていた。風がざわざわと川岸の柳をゆすった。直人は眼を閉じた。頭の中で、ぐるぐると地球が回る音を聞いた気がした。
しばらくして、二人は水から上がり、手早く身支度を整えた。遠くからは、夏を惜しむ蝉の鳴き声が、やかましく響いていた。
「ばあちゃんに叱られるから、もう帰る」
橋の上に出ると、由起子はそう言うなり、麦わら帽子をおさえ、ワンピースの裾を翻して小走りに駆け出した。
「由起ちゃん」
由起子の顔が見えなくなる前に、直人は由起子の名を呼んだ。由起子は振り返り、小さく手を振ると、さよなら、と言い、また走り始める。次第に小さくなっていく由起子の後姿を見送りながら、直人はこの光景を決して忘れぬよう、自分の記憶の奥底に、深く刻みこんでおこう、と心に誓っていた。
(了)
(※部分は、宮沢賢治著「よだかの星」最終節より抜粋しました)(この作品は、札幌市民文芸・第10号小説部門「優秀賞」及び平成5年度(1993)札幌市民芸術祭奨励賞受賞しました)
(1995.1 第二稿改定)
あとがきこの小説は私にとって記念碑的な作品です。私が始めて小説らしきものを書いたのは、確か28歳くらいの頃でした。70枚くらいの作品で、習作のはずだったのに、書き終えてみたら無性に自分の力が知りたくなり、大胆不敵にも、中央レベルの大きな文学賞にいきなり投稿してしまったのです。
結果は一次選考にも残らない無残なもの。その文学賞は、芥川賞作家をごろごろ輩出している超難関の賞でしたから、最初からちょっと無茶な話だったようです。
しかし、一度では懲りずに、一年後に100枚の作品を書き上げ、再投稿。これまた相手にされずで、その後は小説とは、とんとご無沙汰の日々でありました。
それから月日は15年、43歳の時にふと思い立って一気に書き上げたのがこの作品です。かなり自伝的要素の強いもので、関連する逸話は、たくさんあるのですが、それらを語るのは別の機会ということにします。
ちなみに、「札幌市民文芸」は1983年に創設された札幌地区だけで発行されている非商業系文芸誌で、審査員は小檜山博氏を始めとする、札幌在住の作家三名です。