第15話
  押し寄せるデジタル化の波



マック導入



 1995年、パソコンを高性能のマックに買い換えた。当時デザイン業界では圧倒的にマックが使われていたので、いつか仕事で本格的にパソコンを使うようになったとき、同機種なら有利だろうと考えた。マック独特の可愛らしさ、遊び心のようなものにも惹かれた。
 それまでも低価格のパソコンを十年近く使い続け、ワープロ、ゲーム、音楽、パソコン通信と広範囲に楽しんでいたから、上位機種導入に対してもとまどいはなかった。

 価格はプリンタ込みで20万円強だった。設備投資としては決して小さくない。この頃、仕事量は年毎に増えたり減ったりを繰り返す不安定な状況で、もちろんバブル景気の再来など望むべくもない。それでもあえて踏み切ったのは、特に仕事面で、高性能の機種がすぐにも必要となる時代の強い予感がしたからである。
 それまでの機種では性能面でいずれ遅れをとるのは目に見えていた。時代に取り残される前に、少しでも高性能の機種に慣れておきたかった。いわばマックの導入は、この時期の事業展開における数少ない攻めの意味を持っていた。

 導入直後に、建築平面図をパソコンで描いてみようと思い、いろいろと試した。物件によっては、建築パースと同時に1/100スケールの平面図を要求される場合がある。手が回らないことが主な理由で、それまでそうした注文はほとんど断ってきた。だが、不況のさなか、少しでも業務を広げたいという思惑がある。
 当時、平面図はすべて手作業(トレース)に頼っていたが、版下としても使える精度の高いCADソフトとプリンタが世に出始めていた。パソコンで描いた平面図ならバラつきがなく、誰が描いても同じグレードの作品が完成する。事業専従者を解除はしたが、手の空いたときは従来通り、妻は私の仕事を手伝ってくれていた。私が多忙のときは、妻に作業を任せられるかもしれない…。そんな虫のいい論理を打ち立て、手をつくした。
 努力の甲斐あって、一応は商品として納められるレベルの平面図が出来上がった。だが、ここで大きな問題が起きた。作業時間を比較した結果、手描きのほうが速いくらいなのである。もっと問題だったのは、頼りにしていた妻が、いくら特訓を繰り返してもCADソフトを使いこなせないことだった。妻の手助けなしで、うかつに仕事を広げるわけにはいかない。
 こうして初期のCAD作戦はあえなくお蔵入りとなったのだが、このときの経験は決して無駄にはならず、数年後に3D-CADとして形を変え、商品として立派に実を結ぶのである。

 これらの作業と平行し、仕事に関連するさまざまな台帳類をパソコンソフトに変換し、いわゆる業務全体のOA化を試みた。最初は住所録などのデータベースやワープロの定型文の整備が中心で、業務用の納品台帳や税金の確定申告書、請求伝票にいたるまでを完全にデータベース化したのは1996年末、導入後一年余を経てからだった。



インターネットデビュー



 1995年末からは当時まだそれほど注目を浴びてなかったインターネットを始めた。パソコンと電話回線を使った文章のやり取り自体が、まだまだ一部のマニアの支持しか得ていない時期である。画像やテキスト、音声や動画等の情報を同時に表示可能である点にまず注目した。特別な付加料金なしに、世界中のサイトが瞬時に閲覧出来るという面でも画期的なシステムだった。インターネットが世界を席巻する時代がいずれ確実にやってくる、そんな予感をここでも強く感じた。
 当時はまだ数少なかった情報を頼りに、初めてモニタ画面に映し出されたアメリカのホワイトハウスの画像を見たときの感激は、いまも忘れられない。

 翌春にはインターネットを使ったホームページを開設し、本格WEBデビューを果たした。いまをときめく検索エンジン、Yahoo!への登録サイト数も、当時はまだ数百しかなかった。「時代に乗り遅れてなるものか」という変な意気込みが、いつも私を急き立てた。
 ホームページの構成は、開設後七年を経たいまも、当時とほとんど変わっていない。それまで遊びでやっていた配付形式のパソコン同人誌で培ったさまざまな編集テクニックが、ここで随分役立った。
 基本的にホームページで何かしらの金儲けを企てる気はさらさらなく、単に自分の趣味を通じた情報発信と仲間作り程度の軽い気持ちだった。だが、その後好奇心のおもむくままにたゆみなく情報を発信し続けた結果、数多くの雑誌や新聞などに自分のサイトが紹介され、ついにはサイト内で連載していた作品が地方文芸賞に輝いたり、本として出版されるまでに至った。
 最近では本業の建築パースや住宅設計に関わる情報を発信するまでになり、期せずしてホームページが多くの顧客を生み出す重要な営業基地となっている。

「遊びのつもりでやっていたことが、いつの間にか収入につながる」

 長い間のSOHO生活で、知らず知らず身についた人生訓のひとつだった。



CGパースへの転換



 1997年秋、長年取引きのあるふたつの広告プロダクションから相次いで、衝撃的とも思える引き合いがきた。

「おたくではCGのパース、やってる?」

 電話の声は、いますぐにでも発注したいような口振りである。マック導入時にCADによる平面図導入に失敗して以来、CADのたぐいには一切手を出してなかった。
 ちょうどその時期、老舗の大手証券会社と地元大手銀行が相次いで倒産し、いわゆる経営破綻の大波が北海道を襲っていた。世間は天地をひっくり返すような大騒ぎで、仕事の電話はまるで鳴らない状態だった。そんなとき、久々に鳴った電話の内容がこれである。
(自分は時代に取り残されかけているのではないか…?)と、私は少々あせった。

 あわててCGパースに関する情報をインターネットで集めた。ほどなくいくつかの関連サイトを見つけ、多くの情報を得た。
 ここで分かったことは、手持ちのパソコンでCGパースを描くのは、能力的に逆立ちしても無理だという衝撃的事実である。最新機種を買ったつもりでも、三年近くたてばパソコンは時代遅れの旧機種に過ぎなかった。CGパースを支障なく描くことが可能な機種をそろえる場合、最低30万は必要だった。これに高価な3DCGソフトの価格を加えると、総投資額は少なく見積っても50万は下らない。
 情報収集と同時に、業界でCGパースがどの程度評価されているのか、実際にクライアントを探訪して意見を聞いてみた。すると意外にも、四十代以上の担当者はニュアンスの違いこそあれ、全員が否定的な意見である。

「CGのパース?ありゃダメだよ、つるっとした感じがどうもいやだね。クライアントの指定だからいやいや使ってるけど、人間の住む家って感じがしない。まあ、ロボットの住むマンションの広告ならばぴったりなのだろうが…」

 とその評価は手厳しい。わずかに二十代の担当者一人だけが、「いいんじゃないんですか。データがすべてデジタルでやりとり出来るってところがいかにも現代的ですよ。いますぐはともかく、将来はあれが主流になるはずです」と肯定的な意見。CGパースの印象が、作品そのものよりはパソコンとかデジタルという最新技術に対する抵抗感に支配されている可能性が大きいと推測された。

 私は悩みに悩んだ。総額50万近い金額は私にとって大金である。投資は不況時における、究極の攻めの姿勢といえた。だが、果たしてCGパースが主役となる日が、本当にやってくるだろうか…?
 何か新しい流れがひとつの世界に押し寄せるとき、それが将来どの程度の位置を占めるのかの見極めは非常に難しい。判断をひとつ間違えば、命取りになることさえあるのだ。だが、いったん流れがある方向に傾きだしたとき、それはもう誰にも止めようがない。タイプからワープロへの移行がそうだったし、レコードからCDへの移行もしかり。建築パースに関しても、開業時に下した「筆を捨てて全面エアブラシへ」の英断が、結果的に私を救ったではないか。同じ様に、パース業界におけるデジタル化の波は、もはや避けては通れないはずだった。
 多くの否定的な意見があるなか、結局私はCGパースの導入を決意した。



天がくれた時間



 まず手始めに能力不足であるパソコンを買い換えた。機種は業務用ファイルの互換性を考慮して、従来と同じマックにした。
 私が高額な設備投資をしたことを聞きつけると、「この不景気に設備投資ですか?!」とたいていの人は驚いた。だが、「不景気だからこそ自分に投資しろ」「金は寝かせておいてもたいして増えないが、使えば不思議に利子がついて戻ってくる」という私の常日頃の持論がある。景気がよくなって誰もがやり始めたときに、あわてて真似をしてみてもすでに手後れのことが多々ある。不景気で暇ないまこそ、先を見越した投資が必要なのではあるまいか…。

 次に私を悩ませたのは、ソフトの選択である。3DCGソフトには数多くの種類がある。だが、最初にOSを使いなれたマックに決めたこと、そしてパースが描けるというふたつの条件で絞り込んでいくと、使えそうなものは限られていた。本格的なものは価格も20万を軽く越え、もし買ってしまったあとで万一使えこなせなかったことを考えると、容易に決断を下せない。いろいろ調べるうち、3DCGの体験版ソフトと解説本がセットになった安い製品があることを知り、さっそく取り寄せた。
 これらを使って本格的に3DCGの勉強を始めたのが、1998年の初夏からである。むせるようなアカシアの白い花が咲き乱れ、北の街には短い夏が訪れていた。吹き荒れる不況のせいで、例年七月になるとぴたり仕事の依頼が止まる。過去にもこうした経験が幾度かあり、最初の頃のように慌てふためくことはなかった。逆に突然出来たこの膨大な時間こそが、天がくれた大切な時間に違いない。そんなふうに楽天的に考え、来る日も来る日も3DCGソフトの習得に励んだ。

 一ケ月後には、早くも実際の家の画像作成に入っていた。いろいろな話を聞くと、どうやらこれは異常に早いペースらしい。普通3DCGを勉強する場合、まずは数値によるデータ入力法を会得し、次に色づけ法を会得という具合に手順を踏んでいくもののようだ。だが、生来せっかちの私がやった方法は、両方を同時進行形で学ぶという、常識外れのものだった。
 しかし、しょせんは安価な体験版ソフトである。「データセーブ(保存)が出来ない」「連続使用制限二時間」という厳しい制限のなかで、やれることは限られていた。夢中で作業を続けるうち、いきなりメッセージとともにソフトが終了という悲哀を何度味わったことだろう。わずか二時間ですべてをやり遂げることなど、到底不可能だった。
 しかしそうするうち、自分がいつの間にかこのソフトを理解し始めていることに気づいた。時間を忘れるほど夢中になれるのが、その何よりの証拠である。

(これならなんとか放り出さずに使えそうだ…)

 そんな確かな自信のようなものが、徐々に自分の中に芽生え始めていた。



微かな見通しと自信



 八月になってついに私は3DCGソフトの製品版を買う決意をした。すでにかなりの投資をハードにしてしまったので、ここでのさらなる投資はきつい。だが、3DCGをめざす限り、最低限の投資はどうしても必要だった。
 時間制限からようやく解放され、心ゆくまで作業にふけった。最初のサンプルは表現の難しい総タイル張のアパートである。始めは何も模様のない単純な建物が簡単でいいのかもしれない。だが、どうせやるならいきなり面倒なものから始めたかった。これが意地っ張りでへそ曲がりな私の性分だった。
 紆余曲折のすえ出来上がった記念すべき第一号作品は、タイル目地もぴったり合って、自分でも納得のいく出来映え。壁のグラデーションもばっちり効いて、最初に自分が頭に描いていたイメージに、かなり近いものに仕上がった。
 手描きパースのときと同じように、喜々としてまず最初に妻に見せると、「思ってたよりいいじゃない、空がきれいね」とまずまずの評判。いい気になって設計者のところにまで持ってゆくと、「ガラスとアスファルトの写りこみ表現がすごい。手描きではとても出来ない技だ」と、それまでCGには批判的だったはずの四十代の担当者が、これまた予想外にいい評価。自分の技術と将来に、微かな見通しと自信を得た。

 その後、マンションの外観やエントランス、いくつかの戸建住宅の外観など、次々とサンプル作りに励んだ。仕事の電話はほとんど鳴らない。どうやら私はいま、未曾有の不況のまっただ中に孤立しているらしい。秋までにはなんとか目鼻をつけ、サンプルを抱えて営業回りに入りたかった。風もめっきり肌寒くなり、ふと見上げると、うろこ雲がわらわらと空いっぱいに広がっている。時間はあまりない。
 いろいろな人の意見を総括すると、ゼロからスタートした場合、商品として使える3DCGを会得するには、最低でも一年は必要だという。電話やメールで相談に乗っていただいた方の中には、そのために一時他の仕事をすべて断った人さえいた。わずか数ケ月でそれをやろうとしている私は、無謀そのものなのだ。



屋号を変えて心機一転



 サンプル作りが軌道に乗り始めた頃から、あるひとつの考えが頭に閃いていた。3DCGを使った新事業を展開するにあたり、いっそ屋号(事務所名)も変えてしまおうか?という大胆なものがそれである。脱サラで始めた事業も十六年目に差し掛かり、気持ちの中にも慣れと惰性からくる緩みのようなものが育ち始めている。ここで心機一転、人生の後半戦にむけて出直したいと思った。
 長年の相棒、妻に打ち明けると、「ふうん、好きにすれば?」と意外にそっけない。それでは、と密かに胸に暖めておいた新屋号、「TOM工房」を愛用マックで名刺に刷り上げ、「どうだ!」と大威張りで差し出した。
 それまで使っていた「アート建築工房」という屋号の中から「工房」という職人の部屋のイメージだけを残し、「建築」の文字をあえて外して、生活全般に関する幅広いデザインワークを今後展開しようとする意気込みを、「TOM」という自分のイニシャルに託した会心の案だった。
 すると、好きにしろと言っていたはずの妻が、

「ええ、それにするの?なんか変」

 と首をかしげる。俺の名前を事務所の名前にするんだ、いいじゃないか。家族の評判はいまいちだったが、結局私はこれで押し切ることにした。

 さて、いざ事務所名を変えるとなると、これが結構大変だった。ありきたりとはいえ、曲がりなりにも十六年使ってきたものだし、設計事務所の正式名称として、ちゃんと知事登録もしてある。取引先への挨拶状、法的な変更手続き、表札や名刺、封筒の作り換え、伝票の変更など、予想外に作業は多かった。これらをサンプル作りの合間にこなさなくてはならず、まさに目の回る忙しさ。
 しかし、この挨拶状の中に一緒に新規営業品目であるCGパースのことをアピールしてしまえ、と思い立ち、いろいろな都合から九月七日をもって事務所名の変更、同時にCGパースの正式営業開始日と決めた。



十六年振りの営業回り



 こうして奮闘努力のすえ、最低限の営業資料が整った。 新しい名刺とサンプルを持って、普段世話になっている広告代理店や広告プロダクションを次々と訪れた。十六年振りの営業回りである。十六年前と違っているのは飛び込み営業ではなく、得意先のすでに決まったルート営業であることだ。
 さてその評価だが、結論から言えば、「素晴らしい!」と激賞されるというものではなかった。サンプルとしてプリントしたパースの色が、モニタ通りに正確に表現されていないのがまず問題だった。まだ一度もCGパースを使ったことがない会社がほとんどで、作品自体の評価が難しい、という基本的な問題もあった。
 私はあせった。資本はすでに投下してしまっている。ここで引き下がるわけにはいかない。この不景気に、「おお、こいつはいい!すぐに使いましょう」などといううまい話がそうそう転がっているはずがなく、のれんに腕押しの反応はある程度予期していたものだったが、やはり現実は厳しかった。

 この後、プリンタを色ずれのない高価な製品に買い換えたり、新たなサンプルを追加したりして、新事業へのさらなる攻勢をかけ続けた。ほどなくしてCGパースの第一号注文が舞い込み、気をもんでいた私をひとまずほっとさせた。休日も返上して長期間研磨に励んだ成果である。
 その後もCGの技術習得と営業展開は休みなく続けられたが、当時CGパースはまだまだ黎明期だった。仕事は散発的に舞い込んだが、初期投資額にとても見合うものではない。CGパースが事業の中で本格的に定着し、タッチとして主流となるまでには、その後数年の月日を要したのである。



遊び感覚のCGパース



 手描きとCGパースの比率は2001年頃に逆転し、現在ではほぼ100%がCGパースである。2002年暮れにはインターネットの接続速度が飛躍的に速いADSLを導入し、家にある複数のパソコンをLANでつないだ。同じ時期、CGパースのタッチも写真画像を活かしたリアリティあるものに全面変更した。刻々と変化するデジタル環境への素早い対応は、事業を円滑に進めていくうえで、もはや不可欠の条件だった。
 いまでは下図のチェックはもとより、作品の納品までもがインターネットを使ったメール納品にとって代わり、その都度クライアントまで行ったり来たりする煩わしさと時間から、すっかり解放された。パソコンやインターネットを使った在宅事業がもしSOHOの必須定義とするなら、ようやく私もその領域に達したと言えよう。
 手描きパースにこだわり続け、パソコンとデジタル技術の早期導入を怠った同業者の数人が事業から撤退したと風の噂で聞いた。もしも「衝撃の電話」を受けたあの日あの時の決断が少しでも遅れていたら、私も同じ身の上になっていたかもしれない。

 CGパースの台頭は、私の中に奇妙な感覚をもたらした。やっていることは紛れもなく仕事に違いないのに、マウスをくりくりさせてポインタを操っている感覚は、限りなく遊びに近い。その証拠に、図面台でする手描き作業の場合と比べ、集中度がまるで違うのだ。しかも、パソコンだとなぜかあまり疲れを感じない。最初はサンプル作りという気楽さのせいかと疑ったが、実際にお金をいただく仕事の場合でも、それは同じだった。
 いつの間にか私も五十代半ばに差し掛かり、視力の衰えは隠せない。パソコンだと細かい部分をいくらでも拡大して作業が進められるというのも、疲れない理由のひとつだろう。だがそれより何より、おそらく私は年に似合わず、限りなくパソコンが好きなのだ。そんな大好きなもので、死ぬまで生計を立ててゆけるかもしれない。だとしたら、これほど幸せなことがあろうか。



縄文生活



 1999年十二月、私たち一家は長年住み慣れたマンションから、郊外の戸建住宅へと引越した。設計者はこの私自身で、「ローコスト」「エコロジー」「セルフビルド」をコンセプトにした、遅まきながらの建築家デビュー作である。これら三つのコンセプトは、これまで私が人生で培ってきた様々な処世訓と、ぴたり符号が一致する。その意味で新居は、私の人生の集大成とも言えた。
 建築家としてのデビューや創作者としての大いなる気分転換も転居の理由のひとつだったが、出口の全く見えない不況から何とか逃れる究極のリストラ対策という位置づけが、実は最も大きな比重を占めていたかもしれない。
 それまで十六年住み続けたマンションに、とりあえず不満はなかったが、私が最も恐れたのは、平均寿命まで生き長らえた場合に巻き込まれそうな、マンションの建て替え騒動のことだった。有無を言わさず取り立てられる管理費、駐車料、修繕費のたぐいも年々上昇を続け、そうでなくても苦しい家計を容赦なく圧迫する。それとは反対に市場金利は下降を続けていた。もし何か事を起こすなら、まだ身体が自由に動き、ある程度のローンも組めるいましかない。そう思いたつと、持ち前の探究心で綿密な「一戸建移住シュミレーション」を試みた。

 札幌の土地の相場調査から始まり、いま住んでるマンションの中古価格、家計の資産と収支、今後の仕事の見込み、二人の息子の学費、借入金の利率、そして家族四人が住める家の概算価格の算出…、これらの作業を根っからの凝り性の力を借りて、またたく間にやり終えた。収入と支出の出入りは五年後まで念入りに弾いた。
 こうした家計の総合診断の結果、そこからあるひとつの結論が導き出された。

「500万の土地を買い、1000万前後で家を建てること」

 いくら私が建築士の資格を持ったプロでも、かなり無謀な計画だった。だが、可能性はゼロではなかった。私はその「ゼロではないわずかな可能性」に向かい、言葉につくせないほどの試行錯誤と苦労を重ね、ついに夢を実現させた。
 前年に亡くなった妻の母親が残してくれた遺産と、売り払ったマンションの金を自己資金にし、残金は極力負担のかからないローンを組んでまかなった。五十歳という年令から考え、戸建住宅移住へのまさにラストチャンスだった。

 新しい家は建設費と維持費とを極度に抑えたローコスト住宅だった。それまでのマンションに比べて床面積は30%以上増えたが、総エネルギー消費量は逆に30%近くも大幅にダウンした。駐車場代や管理費もかからず、家の手入れはすべて自分でやるので、修繕費も気にしなくてすむ。質素だが、地球環境にも充分配慮した実に私たちらしい住まいである。
 移住によって月々の生活費は大幅に減少し、不況に合わせた身軽な家計運営が可能になった。自宅の空き地では無農薬野菜作りに励み、周辺の雑木林や土手からはたくさんの野草がとれ、一年中食卓をにぎわす。ゴミや雨水も無駄にせず、少しでも生活に役立てる工夫をしている。
 こうした現代においては究極とも思える耐乏生活の形態を、私は古代の縄文人になぞらえて、「縄文生活」と自ら名づけた。
 現状では景気の飛躍的回復は当分望めず、このまま低空飛行の経済情勢が延々続くと考えたほうがいい。だとすれば事業を頓挫させず、細く長くつないで継続させるには、収入にあわせた低空飛行を当分続ける以外にない。そして私たちにはそれが充分可能なのだ。



それでも生きている



 数々の困難な状況に遭遇しながらも、私、いや私たちと言おう、ここまでくれば妻も子供たちも運命共同体である。私たち一家はサラ金に走ることもなく、夜逃げすることもなく、ましてや一家心中することもなしに細々と生き延びてきた。
 ここ数年、親しい友人に宛てる年頭の賀状の末尾に、決まって書き添える言葉がある。

「厳しい世情ですが、まだしぶとく生き延びています…」

 大昔、巨大隕石の衝突による環境の激変に対応しきれず、あえなく滅びてしまった恐竜たちの陰で、環境に柔軟に自分を対応させて生き延びたのは、身体が小さくてエネルギーロスの少ない哺乳類の先祖たちだったという。
「組織」という重い図体を一切持たない、持とうとしない、いや持ちたくとも持てない私のような経営体質が、もしかすると混沌としたいまの世に、最も適応しやすいのもかもしれない。

 ときには脱線しながら気ままに書き綴ってきたこの連載も、どうやら終わりが近づいてきた。私の人生はまだまだon the way(途中)であり、振り返るにはちと早すぎるが、それでもあえて言いたい。
 いいときの流れに乗って流されて行くのは比較的たやすいことだが、悪いときにどう持ちこたえるかは非常に難しいということを。そして、この悪いときにどうするかこそが、その大小を問わず、およそ事業を営む者にとって真価を問われるときなのだ。
 いいときの夢におぼれずおごらず、悪いときにもあわてず騒がず、一息ついて周囲を見回し、常に堅実な資産の運用と事業展開の見直しに努めたい。