最終話
  人生は二度ある



私は職人だ



 金もなし、コネもなし、経験もなしのナイナイづくしから始めた手探り事業も、2003年夏でいつのまにやら二十一年目を迎えた。バブルの誘惑や夫婦の危機、そして幾度かの不況の荒波を乗り越え、よくぞここまで続けてこられたものと、しみじみとした感慨に包まれる。
 私の場合、独立の動機は「一発当ててやろう」といった山師的な発想からではなかった。単なる意地、へそ曲がり、反骨精神、そんなものだけでさっさと組織を離れてしまい、仕方なしに始めたようなものだ。ある意味ではかなり無謀だったが、そんなやり方でも、多くを望まなければ自分と家族の力以外何も頼らず、それなりにやっていけることが分かった。

 江戸時代、「士農工商」の身分階級の中で、最も生きやすかったのは「工」すなわち、職人たちだったという話をいつか歴史の本で読んだ。
 身分の高い武士は生活は楽だが、宮仕えの厳しさと、いざとなれば詰め腹を切らされる辛さとがあり、武士の次に身分が高いはずの百姓たちも、凶作のときは飢餓に苦しみ、豊作となれば重い年貢にあえぐ。商人は身分が低すぎて、ストレスに苛まれたらしい。
 比べて職人たちは身分もほどほどであり、手に持った技があるからお上から保護もされ、収入もそれなりにあって生きやすかったというのだ。この図式はおそらくいまの世にもあてはまるのではないか。
 考えてみれば、私の事業の象徴ともいえる家内制手工業的経営体質、技一本での勝負、仕事に対する偏屈な姿勢等々、どれをとっても江戸時代に数百種あったという職人たちの気質に、限りなく近い。そうだ、紛れもなく私は現代の職人だ。そしてこの気質が、私にはとてもよく合っている。

 さて、そんな気ままな「職人」の生き方は、大きく事業を展開して人生勝負に賭けてみよう、という野望をお持ちの方には、おそらくたいした参考にはならないだろう。だが、煩わしい組織からいつか抜け出したい、あるいは、抜けざるを得なかった。そしてたとえ小さくとも、誇りを持って粛々と事業を進めて行きたい、家族と向き合って暮らして行きたい。そんなことを密かに思い、願っている方には、もしかすると何かの参考になったかもしれない。
 最終話を迎えるにあたり、そんな方々へのエールの思いをこめ、この二十一年間、いや、宮仕えを含めた三十年間の様々な体験の中から、独善的に「脱サラ金言集」としてまとめてみる。



ブームに乗り遅れろ



 独立したいと漠然と考えている方も、すでに具体的な行動を始めた方も、「独立して何をやるか?」は大きな問題である。万一この選択を誤ると、せっかくの努力も水の泡、せっせと貯めた独立資金も使い果たし、残されたのは借金と無職の自分だけ、という哀れな結果にもなりかねない。
 独立後、一年以内の脱落率(失敗率)はおおよそ90%程度とよく言われるが、いろいろ見聞きすると、この脱落者の多くに共通しているのが、事業内容の選択ミスのように思われる。

 多くの人々は「独立するなら、いま脚光を浴びているものがいい」と考えるだろう。ところが、そこに大きな落とし穴があるのだ。
 たとえば健康ブームである。そこで、健康食品の販売を始めたとする。だが自分独自のオリジナル製品でもない限り、あなたがどこかで仕入れてきた健康食品が、そう簡単に売れるだろうか。仮にある程度売れたとして、利幅の薄い商品から、どれだけの利益をはじき出せるだろうか?
 たとえばインターネットブームである。パソコンやインターネット関連の仕事に手を出したくなるのは人情だが、これも攻め方を誤ると血を見る。パソコンやインターネットはあくまで道具のひとつであり、決して打ち出の小づちではないのだ。この認識を忘れると、高価な設備投資がすべて無駄になってしまう。これらはほんの一例で、私の知人の中にもブームに飛びついて失敗した例は数多い。

 ある人は情報誌ブームに乗じ、ある地方都市でイベント情報誌を出版したが、思っていたほど売れず、数ケ月で事業は破綻した。その都市での情報誌の需要分析が甘かったのだ。
 ある人はエコロジーブームに乗じ、廃油のリサイクル事業を企てたが、処理機械の設備費負担が思いのほか大きく、事業として割に合うものではなかった。減価償却試算の失敗である。
 ある人はバブル景気に乗じ、ブームの終わり近くに不動産の企画会社を設立したが、ほどなくしてバブルがはじけ、すべての資金を失った。景気の持続性を読み違えたのだ。
 これらの例に共通するのは、冷静な分析を怠り、安易にブームに乗ってしまったことである。「何が流行っているか?」も確かに大事だが、それよりもっと大切なのは、「その仕事が自分に向いているか?」なのだ。

 実はかくいう私も、一時はブームに乗ろうとしたことがある。私が独立を考えていた80年代初めは、太陽熱ブームの走りだった。建築士の資格があり、元来が機械屋でもある私は、「これは私むきの仕事だ」と決め込み、多くの資料をそろえた。住宅の屋根につく太陽熱温水器の企画、制作と販売をもくろんだのである。折しも「省エネルギー」が声高に叫ばれており、将来性も申し分ないと思った。
 だが、いろいろと調べるうち、結局私はこの計画を断念した。個人事業としての太陽熱温水器の将来性に一抹の不安があったこともあるが、企画、制作、販売という総合的な仕事が、自分には向いていないと最終的に判断したのである。
 偏屈で人づきあいの下手な私が、対人関係の多いこうした仕事をもし選択していたなら、おそらく早々と脱落していただろう。じっと部屋に閉じこもって一人でコツコツ何かを創り出すのが好きだった、そんな幼きころからの習癖があったから。それが自分に一番合っていることを知っていたから。だからこそいまの仕事を何とかここまで続けてこれたのだと思う。



桂馬で攻めよ



 では仮に自分の性格を充分に知りつくしていたとして、(実はこの自己分析が最も難しかったりするのだが…)いくつか絞り込んだ選択肢の中から、具体的に何を選ぶかである。
 ごく一般的なのは、宮仕え時代にやっていた仕事を、そのまま踏襲する手法である。建設会社の工事課に勤務したいた人が工務店を開業する、食品会社の配送を担当していた人が運送業を開業する、等々である。
 それまでやっていたことの延長だから、仕事自体に大きな戸惑いはない。業界にも精通しているし、うまくゆけば、辞めた会社から仕事を貰うことだって出来る。いいことづくしで、何も問題がないように思える。(実際、このやり方で事業に成功している例も多い)だが、ここにも小さな落とし穴がある。
 慣れているということは、見方を変えれば、どこかに緩みが出がちであるということ。事業が軌道に乗ってからの慣れならいざ知らず、出発時点からの慣れは、一歩間違えば失敗につながるのだ。

 学生時代に大学の近くに、一軒の喫茶店が開業した。マスターは別の店で十年近く修行したベテラン。客が来てから一杯ずつ落とすコーヒーの味が格別で、店は一時大繁盛したが、わずか一年で閉店してしまった。
 予想外に事業がうまく運んでしまったため、「こんなものか」と甘くみてしまったマスターが、夜遊びにふけったせいである。午前十時に開くはずの店が午後になってようやく開いてみたり、多忙を理由にコーヒーの「落としだめ」をしてみたり、あげくのはてには何も出来ない素人従業員にコーヒーを落とさせるなどして、店の評判が急速に落ちてしまったのだ。
 もしもこのマスターに喫茶店勤務の経験がなく、一介のコーヒー好きのサラリーマンに過ぎなかったなら、ここまで気を緩めることはなかったのではないかと思う。

 そこで私からの提案である。「香車ではなく、桂馬で攻めよ 」と。私が「建築パース」という仕事を選択したのも、この「桂馬で攻める」という視点からだった。
 将棋に詳しくない方に説明しておくと、「香車」はひたすらまっすぐ前に進む駒である。障害物さえなければ、一息に敵陣に侵入することも難しくない。だが、動きが単調な分、いったん障害にぶつかると敵の餌食にもなりやすい。
「桂馬」は将棋の駒の中でも、その変則的な動きで異色といっていい。桂馬が進めるのは、「ふたつ前で、なおかつどちらか左右ひとつ横の陣地」なのである。私が勧めるのはこの「桂馬」の動きにも通ずる動き、すなわち、「自分の得意分野の延長にはあるのだが、少しだけ方向の違っている分野」への展開である。
 かってスチール家具の配送問屋に勤めていたいまは亡き義兄は、ふと思いついてスチール家具の組立て業を開業し、成功させた。これなどは桂馬で攻めてうまくいった典型である。我田引水になるが、汚水処理プラントの設計開発をしていた私が、建築士→建築パースと業種を変えてなんとか軌道に乗せたのは、さしずめ桂馬で二駒斜(はす)に進めたというところか。

 桂馬のような動きなら、前に進みつつも、障害物をひょいひょいと乗り越えられるし、横の動きを繰り返すことで、時代の変化に応じた柔軟な動きが出来る。まさに激動の時代にぴったりの生き方ではないか。
 何より、「以前の仕事と全く関連がないわけではない」という安心感と、それでいて「以前の仕事と少し違っている」という少しの戸惑いと緊張感こそが、事業を継続維持していくうえで、必要なことではないだろうか。



先駆者に学べ



「先駆者」と書くと、パナソニックの松下氏や、ソニーの井深氏などの大御所を思い浮かべるかもしれないが、私がここで言いたいのは、もっと身近でどこにでもいる市井の人々のことである。
 どんな小さな規模でも、たとえ数ケ月で沈没してしまった経歴の持ち主だとしても、いったんは一人で事業を興し、展開運営した経歴の持ち主であれば、これすなわちすべて大先輩、先駆者、先生と考えるべきだ。そしてこうした人々から、成功不成功に関する小さなヒントをたくさんいただくのである。そんな人たちの話は、すべて光り輝く「金言」なのだ。

 これまでの連載の中でも、多くの例を書いてきたので、詳細は省く。はっきり言えるのは、こうした先駆者の話を聴くことなしに、決して事業など企てるな、ということだ。「他人の失敗談など聴かずとも、自分のやり方だけでやっていける」という姿勢そのものに、すでに何かしらの奢りの姿勢があり、落とし穴が待ち受けていることを悟るべきである。
 たとえば何かの客商売を企てているなら、床屋にでも行ったとき、そこの主人に店を始めたときの苦労話やら、維持していくノウハウなどを聴いてみるといい。率直に疑問を投げかければ、誰でも惜しみなく情報を提供してくれるだろう。
 こうして先駆者の声に耳を傾けることで、単に貴重な情報を得られるばかりでなく、「人の話に耳を傾ける」という謙虚な姿勢が自然に身につく。そうした心構えは、事業の運営にいずれ有形無形に活きてくるのだ。



小さく作って大きく育てる



「どうせ事業を始めるなら、きちんと会社の体裁を整えて」と考える人は少なくない。工夫をこらした名刺や封筒を作ったりするのはまだしも、莫大な経費を要する法人化を開業当初から試みたり、分不相応な事業所や店舗を構えたりする。こうしたやり方は、家を建てるときに「一生に一度のことだから」と、無理をして高価な家具調度品をそろえたりするのと、どこか似ている。
 気持ちとしては理解出来るが、まだ何の保証もない事業の初期段階としては決して得策とは言えない。

 事業の運営は決して外見とかお体裁ではなく、もっと泥臭い本音の部分にあると思いたい。見てくれや構えで人を判断する人々は確かに多い。だから体裁にこだわるのだ、という考え方も理解出来る。だが、ちょっと待って欲しい。そんな人達を相手にして、果たしてあなたは長く安定した仕事を続けられるだろうか?
 最初は背伸びをせず、たとえ質素でも身の丈に合った等身大の構えで勝負をしたい。そのことで、もしかするとあなたはいくつかの仕事を失うかもしれない。だが、きっとそれでいいのだ。そんな人々は、おそらくあなたを長く支えてはくれないだろう。

 私の高校時代の級友に、Hという男がいた。私も無口で変わり者だったが、Hも私に負けない変わり者で、互いにどこか相通じる部分でもあったのか、クラスの中では割と親しいほうだった。Hには野心があり、「俺はいつかHコンツェルンを作ってやる」と親しい者には豪語していた。
 そのHが大学在学中に自宅2階で学習塾を始めた。卒業後も就職せず、そのまま塾を運営。受験戦争という波にうまく乗り、事業は次第に拡大。ついには市内に自社ビルを建て、いまや東証一部上場企業である。ついに夢をかなえたのだ。「小さく作って大きく育てた」典型である。

 自宅の一室から事業を始めたところまでは私と同じだが、Hはその後が違った。私の場合は幾度か大きくするチャンスはあったが、私自身にあまり欲がなかったせいもあって、結局のところは「小さく作って小さいまま」である。だが、「大きく作って尻すぼみ、とどのつまりは海の藻屑」より、はるかにましである。
 事業をどう展開していくかは個人の趣味嗜好としても、成功者の事例を調べてみると、大半は質素な形でスタートを切っている。巨大な後ろ盾でもあるならいざ知らず、無名の一個人が「大きく構えて大きく育てる」のは、どうやら至難の技らしい。



甘くて苦いぞコネの罠



 事業内容や形態が整い、具体的に事業を始めたとする。得意先の開拓にあたり、誰もがコネ(縁故)を利用しようとするだろう。脱サラのノウハウ本の中でも、「コネは大いに利用すべし」とおそらく書いてあるに違いない。だが、ここにも落とし穴があることを忘れてはならない。
 私の場合、開業にあたってコネは全くあてにしなかった。業種がサラリーマン時代とあまりにもかけ離れていたため、したくとも出来なかったのである。先に書いた「桂馬攻め」をやった場合、これはどうしてもつきまとう運命のようだ。 だが、いまは逆にこれで良かったのだと思っている。

 私がコネを嫌う訳にはいくつかある。コネにつきまとう人間関係の煩わしさがその第一。何らかのミスをすれば紹介先に迷惑をかけるし、仮に取引先と金銭的なトラブルが起きても、紹介先は何も責任はとってくれない。いろいろ気ばかり遣って言いたいことも満足に言えず、かえって仕事がやりにくいだけである。
 かってサラリーマンだったころには、私自身が発注者だったことがあり、コネでやってきた業者も数多くいた。上司や得意先の紹介の場合、むげには出来ず、おつきあいしたものだが、同じ理由で非常にやりにくかった。

 理由の二つ目は、コネを頼ることによる心理的な弱味だった。連載の最初のころにも書いたように、「飛び込み営業の恐怖を味わわずに事業を始めるな」という警句がある。一匹狼で事業を始めようとするにあたり、いきなりコネに頼るようでは、先が思いやられるというものだ。コネはあくまで紹介者の信用であり、自分自身の信用ではないことを思い知るべきである。
 私の場合も事業開始当初、行く末を案じた親類縁者がいろいろ気を遣って取引先を紹介してくれたこともあった。父親までが頼みもしないのに、以前勤めていた工務店にかけあって、パースの仕事を紹介してくれたりもした。このこと自体は大変ありがたかったのだが、二十一年たったいま、こうしたコネ関係の取引先はなぜかすべてつき合いが途切れた。
 結局いまも脈々と取り引きが続いているのは、自分の力だけで開拓し、信用を積みあげた得意先ばかりである。自分をよく理解してくれているこうした相手が、結局のところは長続きするものなのだ。



男は夢を喰い、女はパンを喰う



 自営業、自由業を営む者にとって、家族、とりわけ妻との関係が極めて重要であることは、この連載の中でも繰り返し触れた。自宅で事業を展開しようとする場合、特にそれは重要である。
 私の場合、自宅の一室を事業用の部屋として占拠し、なおかつ妻を「事業専従者」として税務上の従業員扱いにし、現実にも実務を手伝ってもらっていたのだから、妻にしてみれば二重三重の手かせ足かせをかけられたようなもの。夫婦の強い信頼関係なくしては、とても成り立たない話である。

 事業を始めるにあたり、どういった形態をとるかを、家族、特に妻との話し合いなくして絶対に決めてはならない。このあたりをいい加減にして見切り発車してしまうと、事業以前に内部から計画が破綻してしまうのは目に見えている。さらに、こうした形での事業破綻は、即家庭内不和→離婚へとつながるケースも多々あり、現実にそうした具体例も数多く見聞きしているので、余程の覚悟が必要だ。
 どうしても事業を始めたいのだが、家族を巻き込むことについて妻の了解が得られない場合はどうしたらいいのか?この場合、家族には一切迷惑をかけない方向で計画を見直すしかない。運営面ではかなり制限が多くなるが、仕方がない。裏を返せば、家族を巻き込むという最もリスクの少ない私のような形で始めたい場合、物心両面での妻の協力が得られなければ、事業計画そのものを断念せざるを得ないことになる。

 サッカー少年団の指導を長く続けていたせいで、私は世の奥様方とおしゃべりする機会が非常に多かった。話が脱サラに及んだとき、きまって出る言葉がある。

「夫が脱サラするのは構わないけど、家族が巻き込まれるのはごめんだわ。それと、サラリーマンのときよりも収入が減ってしまうのもちょっと困るわね…」

 いやはや、女というものは…、などと嘆いてはいけない。協力的だと思っていた我が妻でさえ、この話を聞かせたところ、「う〜ん、女ってそういう現実的なところがあるかもしれない。もちろん私にもね」と軽くいなされ、今度は私がどきりとする始末。
 男は脱サラに夢を託そうとするが、女はあくまで現実的であるらしい。化粧や服や宝石にはまるで無関心で、男性的な性格と思っていた我が妻でさえ、その例外ではなかった。

 思うに、これは子供をはらむことを宿命づけられた、女の性ではあるまいか?およそ子供を十月十日宿し続けるほど、現実的な行為はあるまい。だとすれば、ただはらませるだけの性である男が立ち入る隙間はない。ここらあたりの方程式は、そう簡単に覆るものではないらしいので、ゆめゆめ忘れるなかれ。
(余談だが、こうした雑談を交わしていた奥様のご主人の一人が、事務所を外に構えて本当に脱サラしたのだが、半年であえなく沈没した。幸いに家庭崩壊だけは回避したが、妻側に運命共同体意識の薄い場合、事業形態の如何を問わず、成功の確率は低いようである)



不景気で攻めて好景気で守れ



 なんとか事業を軌道に乗せたとする。たいていの場合、景気がいいときは仕事は多く、悪いときは少ないだろう。サラリーマンなら多少の景気変動の波は会社側が吸収してくれ、たとえ景気が悪化しても、いきなり年収が30%も減らされることはまずない。反対に景気が上昇しても、年収が倍になることもあまりないはずだ。それが宮仕えというものである。
 ところが、いざ自分一人で事業を進めるとなれば、こうした景気の波がもろに自分に降りかかってくる。それが自営業、自由業の宿命でもある。以前にも書いたように、たいていの場合、いいときは短く、悪いときは長いものだ。そう考えたほうが無難である。
 そこで、この景気の波、言い換えれば収入の増減に対する対策が、事業を滑らかに進めてゆく上で、極めて重要な要素になってくる。

 不景気で収入が少ない場合、たいていの人は設備投資などをやめ、事業拡大も抑えて守りの姿勢に入るだろう。反対に好景気のときは人を増やし、事業拡大に努める。それが人情であり、世の常だ。
 ある程度の人を使い、ある程度の規模で事業を運営している場合は、これでいいのかもしれない。おそらくそうせざるを得ないのだと思う。だが、こと一匹狼的に事業を運営するならば、必ずしもこの公式は当てはまらない。いや、それどころか、私の場合は全く逆のやり方をとってきた。

 好景気のときは「この景気は長くは続かない」と手綱を引き締め、高率のローンなどの「不良債権」の整理見直しに努める。一般的に好景気のときには金利も高いはずだから、余剰金はいざというときのためにリスクが少なく、なるべく有利な貯蓄に回す。現実に儲かってはいるのだから、ある程度の家族還元はするが、決して無駄使いに走ることはない。
 不景気のときは底打ちの時期(下降から上昇へ移行する時期)を見極め、下降中と判断したなら、新規分野の情報収集、新技術の修得などの内部充実に努める。底からの上昇時期と判断したなら、設備投資を行う。なぜなら、不況のときは例外なく諸物価は安い。好況のときに蓄えた資金を運用すれば、好況時よりもはるかに有利な価格で手に入れられるだろう。
 問題は景気動向の見極めだが、これは新聞やインターネットなどで情報収集に努めれば、自然に分かってくるはずである。

 もし事業を開始する絶好期があるとしたら、それは間違いなく景気が底を打ったころ、すなわち、不況の真っ只中と言われているまさにそのときである。誰も新規開業など考えない時期こそが、競争相手も少なく、スタート時期としては最適なのだ。やがて景気が上向いてきた頃、事業は軌道に乗るであろう。そう信じたい。



自分の仕事は沈黙のセールスマン



 事業を進めて行くうえで、営業活動は欠かせないものだ。黙っていても断りきれないほど仕事がある順調な時期は何もしなくてよいが、いったん不況ともなれば、同業種異業種あい入り乱れて、なりふり構わぬ仕事の奪いあいである。それが競争社会の宿命であり、逆にそれがあるからこそ、一個人でも勝負に打って出られるのだ。
 事業開始当初は、知恵と汗を振り絞って営業活動にいそしむのは当然だが、いつまでたっても同じような手法を続けるのは効率が悪いし、精神的にも辛い。そこで考えた方を変え、自分のやった仕事そのものを、物言わぬセールスマンにしたてあげよう。そして自分の身代わりとして営業させるのだ。

 なんとなくからかわれたような気分になるかもしれないが、現実にそういうことは多々あるから不思議だ。特に技術に依存する要素が強い業種ほど、その傾向は強い。

「あそこのラーメン屋はオヤジが無愛想だが、味はいい」
「あのヘアサロンのカットは安くて上手だ」
「あの人のデータ入力は、納期が正確でミスが少ない」
「あのパース屋は少し偏屈だが、安い割にはいいセンスをしている」

 誠実な仕事を続けてさえいれば、人は何らかの形でその仕事に価値を見いだし、認めてくれるものだ。そしてこちらからお願いせずとも、勝手にそれを第三者に伝え、広めてくれる。「沈黙のセールスマン」の誕生である。
 私の場合、こうした経緯で幾つかのクライアントから次々と枝葉のように延びた多くの人脈があり、それらはすべて自分の仕事そのものが作り出した、いざというとき頼りになる貴重なネットワークである。



問題は自分で作れ



 日本人はおしなべて与えられた問題を解くのは得意だが、無から有を生み出す、すなわち、自分で問題を作って解くのが苦手である。おそらくこれは、偏差値教育に振り回されたことによる創造力の欠落、そして「みんなと同じがいい」という横並び主義のもたらした弊害に違いないが、自営業、自由業に関する限り、この横並び主義に翻弄されてしまうと、たちまち事業解体、一家離散という憂き目に見舞われかねない。
 自営業、自由業とは元来非常に孤独なものだ。いざとなって頼りに出来るのは、結局自分一人である。(ちなみに、家族は心の支えにはなるが、問題にぶち当たったときにあてにするものではない)
 安室奈美恵やスピードを生んだ沖縄アクターズスクール校長のマキノ正幸氏が同じ主旨のことを言っているが、本来問題は自分で作り、そして自分で解くものなのだ。困ったときにも安易に人に頼らず、自分の頭で考え、工夫して独自の答えを導き出したい。およそ脱サラなど志すならば、宮仕えのときからその習慣をつけて欲しい。

 たとえば景気の動向を読むにしても、学者の意見などうのみにせず、自分で集めた情報と分析力を信じたい。仕事がぱたりと途絶えたとき、また、滅多やたらに仕事が多いとき、決してあわてず騒がず、何が原因かを自分で分析し、判断しよう。
 そんなとき役立つのは決してエライ人のお言葉なんかじゃなく、自らは何も語りはしないが、偽りなく何かを訴えかけてくる数々の基礎データである。その意味で、自らの資料収集と蓄積、そしてそのための多くのアンテナは、事業を円滑に進めて行くうえでの非常に大切な要素なのだ。



人生は二度ある



 むかし、井上陽水という歌手が「人生が二度あればいい」と歌で嘆いたが、「いやいや、人生考えようによっては、二度も三度もあるじゃないか」と私は言いたい。
 私の場合、独立した三十二歳までの人生が一度目の人生とするならば、さしずめいまは二度目の人生真っ只中である。もし運良く平均寿命まで生き長らえることが出来たなら、あとまだ二十五年近くもの時間が残っている。私の頭には、まだまだやりたいことが詰まっている。第三、いや第四の人生だって決して夢ではない。
「余生」という言葉がよく使われるが、私が欲しいのは余った人生などではなく、死ぬまで現在進行形の能動的な人生である。そうありたいと願っている。

 もしあなたに何かの志があるのなら、年齢や周囲の評価などに頓着せず、準備万端整えて思い切ってトライして欲しい。人生思い立ったが吉日、いつだって出発出来るのだ。
 万一計画が思うようにいかなくとも、決して悲観しないで欲しい。準備怠りなく事を執り行ったとしても、時の運が味方してくれないことだってある。やり直しのチャンスを待とう。
 もしも二度とチャンスが訪れなかったなら、それもまたよし。何もなかった人生よりはずっとましだったと、いつか懐かしく振り返るときがくるだろう。生きてさえいれば…。

 さて、長い間の私の繰り言も、とうとう終わるときがきた。
 金銭的には決して豊かではなかったが、ときには傷つけあい、励ましあいながら家族と共に過ごせたこの二十数年間にわたる二度目の人生を、私は少しも後悔していない。何者にも束縛されず、気ままに過ごせる時間と空間は、私にとってどんな物にも代え難い大切な宝だ。私はこの宝を生涯誇りに思い、そして大切にしたいと思う。

 私の人生は、まだ続いている。

〜完〜




あとがき



 二年半の長きにわたって連載してきました『脱サラSOHO日誌』(原題『僕の脱サラ日誌』)、諸般の事情で中断したこともありましたが、皆様の励ましと応援のおかげで、無事完結させることが出来ました。連載中に寄せられた皆様からの数多くの共感メールや応援メールに対し、この場を借りて深くお礼申し上げます。
 当初は単なる脱サラのノウハウ物を書くつもりでしたが、途中から夫婦や家族との在り方、果ては生き方そのものにまで言及することになってしまいました。その意味では連載のタイトルを、『脱サラ人生日誌』と入れ替えたほうがいいかもしれません。

 いろいろな方々の参考になるよう、文中にはなるべく多くの具体例、各種数値などを入れるよう努めましたが、見落としや書き忘れもあるかもしれません。連絡いただければページ上、または個人的メールにてお答えします。
 また、この連載を読み終えての皆様の感想もあわせてお寄せください。感想メールにはお名前またはペンネームをどうぞお忘れなく。リライト版に関する感想もお待ちしております。