第14話
  夢の終わり



下降のきざし



 1990年、空前の好景気は三年目に突入していた。仕事のペースは相変わらず嵐のようで、好景気の追い風はいつまでも吹き続くかのように思われた。
 冬が過ぎ、いつものように雪解けの春がやってきたとき、仕事の流れに微妙な変化が表れた。ごくわずかだったが、鬼のような仕事の波がペースダウンしてきたのである。小さなその変化を、私は見逃さなかった。

 開業以来の習慣で、私は毎日のスケジュールを逐一カレンダーに記録している。その日やり終えた仕事の種類と数、打合せなどに出向いたクライアント名と時間等を、克明に書き留めておくのだ。過去数年分のカレンダーは、いつでも取り出せる場所に保管してある。
 仕事の流れがおかしくなったとき、すなわち急な増減を感じたときなど、すかさずこの資料を取り出し、過去数年分の同時期の動向を比較検討するようにしている。だから、たとえわずかな仕事量の変化でも、すぐにキャッチ出来るのだ。

 数値は明らかに仕事量の低下を示していた。果たしてそれが一時的なものなのか、あるいはこのまま景気の下降を示すものなのかは、難しい判断だった。経済学者は相変わらず楽観論を展開していたが、私は後者であると読んだ。景気はもはやピークを越えた。しばらくは下降を続けるに違いない、と。
 私はこの好景気の実態のなさを、かなり以前からすでに把握していた。とうとう来るものが来たな、と思った。

 建築パースという仕事は、景気の動向が真っ先に現れてしまう宿命にある。計画の初期の段階で必要とされる資料だから、必然的にそうなってしまうのだろう。だから、私の仕事が少なくなると、しばらくして必ず世間の景気が悪くなる。良くなるときはその反対である。良くも悪しくも、景気のバロメーターなのだ。



天国から地獄



 予測通り、その年の売上げは前年度を18%近く下回った結果となった。しかし、下がったとはいえ、まだまだ高い水準であることに変わりはない。当時の景気が、いかにすごいものだったかが想像出来るだろう。
 こうして運命の1991年が明けた。きっかけは何だったのか、実はあまり記憶にない。たぶん株が短い期間に暴落したのだと思う。景気が良くなるときに比べ、悪くなるときは実にはっきりしている。世界恐慌のときもそうだったが、やはり株価の急激な下降にその兆しがあらわれるようだ。
 数年来、年明け早々から仕事に追われていたはずが、その年は松が取れても一向に仕事が入らない。仕事らしい仕事が入ったのは、二月に入ってからという有様だった。景気の下降は決定的だった。それまで順調にさばけていた不動産が、全く動かなくなっているらしかった。
 それでも雪解け時期には、例年のようにそれなりの仕事はあった。マンションの仕事は激減していたが、戸建て住宅の需要自体には、まだそれほどの急変はなかったのである。一発勝負で儲けの多いマンションには極力手を広げず、利益は薄いが需要の手堅い戸建て住宅に比重を置いてきた、いや経営体質上置かざるを得なかったことがどうやら幸いしたらしい。

 だが、夏あたりから事態はさらに悪化した。新聞の経済欄を賑わすさまざまな景気動向指数はすべて大幅なマイナスを示し始め、それに合わせるかのように、八月には開業以来初めてといっていい売上げゼロを記録。頼みの戸建て住宅の仕事すらも途絶えた。
 同業者の傾向も似たようなものらしく、ついこの前までの活況が嘘のように、たちまち少ない仕事の奪い合いに陥った。
 人間とは実に勝手なもので、仕事が有り余っていたころは「仕事はもういいから、もっと休暇をくれ!」とわめき、仕事がぱったり途切れて暇を持て余す日々が数日でも続くと、「休みはいらないから、仕事をくれ」とうめくもの。私とてその例外ではなかった。
 秋になっても一向に回復の兆しは見えず、この頃になるとさすがにのんきな私も少々焦りだし、開業以来初めてといっていい営業回りやら、DM配りに精を出してみる。だが、景気失速の度合いは予想をはるかに越えていたようで、具体的な反応は全くなかった。
(あとで分かったことだが、まさに落ち込もうとしている時期に、いくら攻めの営業を試みても、ほとんど効果はない)



悪夢のツケ



 私の事業にとって大きな転換期といえた1991年の売上げは、過去最大の28%ダウンというさんたんたるもの。それでも私はまだましなほうで、50%近くも売上げが減少という話が世間ではザラだった。
 泡のように沸き上がり、はかなく過ぎ去ってみて初めて気づいた空前の好景気に、「バブル景気」という名がささやかれ始め、あっという間に定着したのもこの頃。留まるところを知らなかった土地やマンションの価格が暴落し、当然のように建築パースの価格も下がって、気がつけば数年前の相場に逆戻り。巷には一転して不況の嵐が吹き荒れた。
 夢がいつまでも続くと信じて疑わず、業務拡大を続けていた同業者も、ある者は人員削減、ある者は事業撤退へと相次いだ。何のことはない、わずか三年の夢から覚めてみれば、すべて元のもくあみだったわけである。

 落ち込みはどの業種でも激しかったが、とりわけ不動産業者に顕著だったのは当然といえば当然である。手堅い商売を続けていた者はなんとか生き残っていたが、時流に乗って無節操な拡大を続けていた者には、手ひどいしっぺ返しがきた。
 この時期の不動産業者の凋落ぶりには、枚挙にいとまがないほどだが、とりわけ印象的だったのは、全国ニュースにもなったこの事件である。
 あるとき、地元の大手不動産業者社長が手形偽造で逮捕されたと新聞やテレビが大騒ぎしている。ふと見ると、どこかで見た顔だった。バブル景気の走りのころ、深夜の大演説で私を憤慨させたあの大社長なのである。景気失速で隆盛を究めた事業にも大きな陰りがさし、メインバンクにも見放されてしまったのが事件の背景らしい。

 この事件がきっかけでこの社長は失脚し、会社は長期の公共工事指命停止処分。会社も社長も社会的な信用を失った。東証一部上場して一時は数万円の値をつけた株価は暴落を続け、取り引き停止の監理銘柄。果ては上場取り下げという哀れな身である。
 その後、この会社の融資に深く関わった某都市銀行も、ばく大な不良債権の焦げつきであえなく倒産。北海道、いや日本を揺るがす大事件に発展したのは記憶に新しい。いわばこの社長こそバブルの落とし子。その社長の本質を見抜けず、惑わされて百年以上も続いた老舗の大銀行をあっけなくつぶしてしまった頭取連中も間抜けだが、そのあおりを喰らった形の北海道経済は致命的な打撃を受けた。前年まで緩やかに上昇の兆しをみせていた景気も、これを機に再び底の見えない奈落へと急下降。出口を求めていまだに多くの人々がさまよっている。



家庭内リストラ



 甘い誘惑にも打ち勝ち、粛々と事業を進めていた私にとって、この不況によるダメージは比較的浅いものだった。以前にも書いたが、売上げが多いときは確かに儲けも多いものだ。しかし、同時に必要経費や税金も馬鹿にならない。個人事業の場合、ある限界を越えると、たとえば売上げが100万増えても、実際の実入りは半分以下ということも有り得るのだ。つまりは身を粉にして稼いでみても、それほど得にはならないというおかしな理論も成り立つ。
(収入をごまかせばそうはならないが、あいにく私にはそんな趣味はない)
 だが、逆に不況のときには強い体質ともいえる。不景気で売上げがピーク時から100万落ちたとしても、経費や税金などのからくりで、実際のダメージは50万以下となることもある。あまり自慢出来ることではないが、収入が少ないときには国民年金等の減免措置も受けやすくなる。すると、ダメージ幅はさらに小さくなるのだ。

 とはいえ、家族五人が食べてゆき、住宅ローンが焦げつかない程度の最低収入は確保する必要があった。住宅ローンに関しては好況のとき、すでに高率のものを全額返し終えていたから、かなり楽になっていた。もしも宴に浮かれてこの英断を仕損なっていたら…、と考えるだけでもぞっとする。
 だがこれだけでは長引きそうな不況を乗り切ることは難しい。いろいろな面で、さらなる生活の見直しを計る必要があった。この時期、「家庭内リストラ」と称し、様々な家計の合理化を試みた。

 まず最初に多くの保険の見直しを行った。あちこちに義理だててついつい入ってしまった保険が、結構な数になっていた。金額は少なくても、数が集まれば馬鹿にならない。マンション購入時にはローン保険にも強制加入させられていたこともあり、任意保険に関しては満期時の払戻金額の有利なふたつをのぞき、全て解約してしまった。
 次に住宅ローンの借換えを行った。先に書いたように、高額ローンはずでに全額返済していた。だが、まだ700万近くの公庫ローンが残っている。不況が進むにつれ、当然の論理として市場金利が下がる。安いと思って借りていた住宅金融公庫の金利も、いつしか割高に感じられてきた。「ステップ返還」という段階的に金利が上昇する返還方式を選んでいたのも、将来に対する不安材料だった。
 そんなとき、住宅ローンの借換えが出来ないか?と思いついた。全額返済は無理でも、借換えなら出来る。たとえ1%の金利の違いでも、20年、25年と積み重なれば、相当の差になるはずだ。勇んで銀行におもむくと、担当者は「商品としてはないが、一般的な融資として検討してみましょう」と言ってくれた。いまでこそどの銀行も「借換えローン」なるものを競って商品として売り出しているが、当時はどの銀行も不良債権の回収に大わらわで、まだ誰もそんなことを考えていなかったのだ。
 プロも考えてなかった借換えだったが、しばらくしてOKの返答がきた。高い高いとあきらめずに、駄目もとでやってみるものである。もろもろの手数料を差し引いても、年間20万円近くも節約になる当時としては画期的手段だった。

 そのほか、光熱費を始めとする生活費細目の全面的な見直しを行った。その後巷では「節約生活云々…」というハウツー物がベストセラーになったが、そんなブームが起きるずっと以前のことである。
 独立以来、家計はすべて私が担当しているので、無駄のあぶり出しと対策はすべて私の仕事だった。サラリーマン時代に六人の部下をたばね、効率よく仕事を取り仕切った経験が、この場面で活きた。



自由への果てなき道



 1993年、私は究極の家庭内リストラに着手した。長年妻を苦しめ、縛り続けた事業専従者の立場を正式に解除したのである。
 好況から不況という激しい時代の波にもまれながらも、夫婦の間には相変わらず目には見えない、よどんだ霞のようなものが立ち込めていた。それを取り払う有効な手立てを、いつまでも私は講じなかった。
 あるとき、妻は私に内緒でパートの面接を受け、それを私が強引にやめさせるという小さな事件が起きた。妻が無断で外に働きに出ようとしたのは、膠着している夫婦の関係を見切っての行動に他ならない。この時期から妻は子供たちを味方に引き込み、私に隠れて秘密裏に物事を進める傾向が出てきた。すべて納得づくで事を進めてきたはずの二人の信頼関係に対する、重大な裏切り行為である。
 夫婦はもはや空中分解寸前だった。泡のようにはかなく消え去るのは、景気だけで充分である。妻が外に働きに出るのを許すことが、行き詰まった夫婦関係を打破するための、残された唯一の手段だった。何より、妻から重しをとってやることで、私自身も長年の後ろめたさから解放される。

 吹き荒れる不景気風のせいで、助手としての妻の働きを以前ほどあてにせずとも、事業は私一人で充分にやっていけそうだった。末の息子も中学生になり、子育てにも目鼻がついていた。妻を家に縛る理由など、もう何一つない。

「もうどこに働きに出てもいいよ。君は自由だ」

 胸を張ってそう妻に告げた。妻はすぐに勤め先を見つけ、働きに出た。その表情はそれまでになく穏やかで晴れ渡っていた。どうやら妻は、ひとまずの安住の地を見つけたらしい。
 自立した女性の理想像を妻の上に思い描く身勝手な夢想は、この時点できっぱりと捨てた。妻には妻の世界があり、私には私の世界がある。互いが必要であり、欠かすことの出来ない存在であることはすでに明らかだったし、それぞれの世界を許し、認め合うことは二人にとって少しも障害にはならない。むしろそれこそが真に望ましい夫婦の形ではないかと考え直した。

 不況の到来により、仕事は最盛期の半分に減ったが、反対に私たちは冷静に夫婦の在り方を見つめ直す充分な時間を得た。人間本来の生き方に目覚めるきっかけをつかんだのだ。皮肉なことに、空前の好景気が私たち夫婦を破局寸前にまで追い込み、未曾有の大不況が傷ついた二人の関係を修復したのである。
 自分は「自由業」という肩書きのはずだったのに、なんて不自由に生きてきたんだろう、と思った。度を越えた仕事の量と、独りよがりの理念への執着がそうさせた。知らず知らずそんなふうな生き方を選んできた自分を恥じた。