第6話
  恐怖の飛び込み営業



前途多難



 1982年三月一日。それぞれの不安な思いを胸に抱き、津軽海峡を越えてきた私たちをまず迎えたのは、街角のあちこちに積み上げられた雪の山だった。その年は例年にない大雪で、十年ぶりに故郷に戻ってきた私でさえ戸惑ったくらいだから、一度も雪国での生活経験のない妻と三人の子供たちの驚きは、どれほどだったろう。

 到着の翌日は引っ越し荷物の搬入日である。予定時刻は午前十時だったが、待てど暮らせどコンテナトラックは現れない。そのうち来るだろう、とのんきに構えていた私もさすがにあわて、控え伝票を頼りにようやく業者と連絡がついたのは、昼を過ぎてからだった。
 伝票の住所欄に記載ミスがあって番地がひと桁違っていました、と業者は悪びれる様子もない。怒りをぐっとこらえ、搬入を急かした。

 すべての荷物を運び終えたのは結局、夕方だった。ともかくもやれやれだ。作業中は安全を考えてストーブには火をつけていなかったが、夜が迫ってあたりも冷え込んできたので、不動産業者に教えられた通り、備え付けの石油サーバー(外部にある大形石油タンクから電機モーターで石油を室内に送り込む機械)のスイッチを入れた。
 ところが今度は肝心の石油が流れてこない。作業に追われ、試し焚きをしてなかったことを悔やんだが、あと祭りである。三月とはいえ、北の寒気はまだ厳しく、とてもストーブなしで夜は過ごせない。荷物の山からとりあえずこたつを引っぱり出して子供たちを座らせ、石油サーバーの分解修理を試みるが、一向に治る気配はない。
 妻はさすがに泣き言は並べず、厚着をして黙々と夕食の準備に取りかかっているが、「父さん、寒いよ〜、おなかすいたよ〜」と、子供たちは遠慮なく寒さとひもじさを訴える。

「分かってるよ、もうすぐだからちょっと待てよ」

 子供たち以上に私もいらだっていた。機械での給油をあきらめ、タンクから直接抜き取った石油を反射式の小形ストーブに移し、火をつける。本当は大形ストーブを使いたいのだが、とにかく石油が流れてこない。しばらくして、部屋はようやく柔らかなぬくもりに包まれた。
 その夜の夕食のメニューが何だったのか、身も心も疲れ果てていたせいで、まるで記憶にない。引っ越し業者の住所記入ミスによる搬入の遅れ、そして石油サーバー故障による寒さ。どれもが予期せぬ出来事だった。「あの日のことはあまり思い出したくない」と妻も言う。これが前途多難を思わせた私たちの脱サラ第一日目だった。



仕事部屋を整える



 引っ越しの片付けと並行して、仕事部屋の整備にとりかかった。なんといっても近い将来にここからすべての収入を稼ぎ出す 「打出のこづち」になるはずの大切な部屋だから、出来るだけ働きやすい環境にしなくてはならない。
 部屋は居間の隣の四畳半大の洋室に決めた。来客を考え、玄関ホールから直接入れる部屋があればよかったが、短期間の部屋探しではそんな都合のよい間取りのアパートは見つからなかった。だが、この際ぜいたくは言っていられない。

 仕事机や本棚はすべて自分の手で作ると決めていたので、まず簡単なスケッチを描き、D.I.Yの店で材料を調達してきた。製図机や椅子、製図器械は退職前にあらかじめ顔見知りの業者から安く買い求めてあった。
 全部作り終えるのに、一週間くらいかかった。長い期間使うつもりだったから、実にていねいに仕上げた。たぶん市価の半分以下の値段で出来たと思う。これらの家具の一部は、開業二十数年を経たいまも立派に現役で役立っている。
 棚に本を並べ、机の上にペン立てやスタンドを置くとそこはたちまち立派な「デザイン事務所」に変身した。電話は居間と切り替え式の親子電話をつけ、大形の呼び出しベルを追加して、外にいても電話の音が聞こえるよう備えた。

 部屋の体裁をひとまず整えると、すぐに事業に必要な細々とした備品を買いそろえた。同時に、引っ越しに伴う種々の届け出、長女の幼稚園の入園手続き、子供たちの防寒衣料の購入など、さまざまな雑用もこなさなくてはならない。時間はいくらあっても足りなかった。地元のことは私が一番詳しかったこともあるが、妻や子供に余計な苦労をかけたくない、という強い思いが私を忙しくさせた。



職安は仕事を貰いにいく所



 このころの細々とした用事の項目別チェックリストがいまだに手元に残っている。気がつくたびにリストに加え、終わるとリストの横に「済」のマークをつけていたが、数えてみると全部で三十近くもある。
 こうしたリストの中のひとつにあったのが、「職安での仕事捜し」だった。失業保険の受給手続きと建築パースの仕事の情報集めを兼ね、私は初めて職業安定所なる場所におもむいた。

 当然のことだが、失業保険は本来、仕事を捜している人が次の仕事が見つかるまでの間に給付される救済保険である。私の場合は自己都合で辞めたので給付期間や給付率も低く抑えられていたが、それでも十年近く会社勤めを続けていたせいで、一月当たりの給付金はそれなりに生活費の足しになる額だった。
 必要書類を整えて提出し、説明会などがあって最後に個人面談がある。退職理由を聞いたあと、志望職種の欄の「建築パース」に目をとめた係官は、「こういう特殊な職種はほとんど求人がないんですよね。あなたも自分で一生懸命捜してみなくては」と厳しい口調で言った。
 以前にも書いたように、当時はいわゆる「第二次オイルショック」という名の不況のまっただ中で、私のような自ら望んで会社を辞めた「能動的失業者」ではなく、一方的に職を奪われた失業者が街には溢れていた。

 失業保険の給付を続けて受けるには、何らかの「就職活動」をし、毎月の書類の届け出に記入して承認を貰う必要がある。そして、もし職安から希望見合う職種の紹介が来た場合、拒むことは余程の理由(たとえば希望するより極端に給料が低いとか)がない限り出来ない。
 もし希望する条件で建築パースの仕事が見つかれば、本当に就職してもいいと私は思っていた。独立は何年か修業をやらせてもらったそのあとで考えればいい。建築パースの求人がもしあるとすれば、おそらく徒弟制度に近いものと踏んでいたので、以前のような宮仕えとはまるで違ったものになるはずだった。



恐怖の飛び込み営業



 北の街に、やがて待望の春が訪れた。幼稚園に通い始めた長女は、元来の物おじしない性格が幸いし、すぐに仲の良い友だちが出来た。暖かくなって外での公園遊びが始まると、活発な長男にも大勢の遊び仲間が出来た。子供を仲介として、母親同士の交流が広がり出す。妻もこうした新しい人間関係を楽しみ始めたように見え、慣れない土地での戸惑いと心の愁いを案じていた私を、少しばかりほっとさせた。
 私のほうは職安からの連絡待ちと自らの就職活動の両てんびんで、(もしかするといい条件の仕事が見つかるかもしれない)という微かな期待もあり、本格的な開業には踏み切れない中途半端な状態が続いていた。
 そこで一計を案じ、就職活動を兼ねて近くにあるいくつかの設計事務所、工務店などを直接回ってみることにした。独立すればいやでも必要に迫られる「飛び込み営業」をここで体験し、自分の度胸試しと建築パースの需要を直接探ってみようと思ったのだ。不景気な世情から考えて実際の就職は無理としても、まかり間違って単発の仕事でも貰えたら、その分は職安に申告すればいい。そんなふうに開き直って考えることにした。

 独立にあたって一切のコネを頼る気はなかった。当時私の父は同じ札幌で、ある工務店の積算課長として働いていたが、この工務店さえも紹介してもらおうとは考えなかった。ほとんどの脱サラ特集記事やノウハウ書には「コネは有効に使え」と必ず書いてある。私もそう思う。そうやって脱サラに成功した人もたくさん知っている。だが、私は相手から「…にぜひ行ってみてください。きっと仕事がありますよ」と申し出がない限り、そうしようとは考えなかった。
 スタートの時点でコネを頼ることにより、それから訪れるであろう様々な障害に対しても、すべて自分の力ではなく、何かに頼ろうと流されしまいそうになる自分がただ怖かったのである。失敗しても成功しても自分ひとりですべてを背負いきれる、そんな形で始めたかった。私はどこまでも頑なで臆病な男だった。

 書きためておいた建築パースのファイルを抱え、アパートの目と鼻の先にある工務店の前に立った。以前の会社で設計部門を任されていたとき、何の紹介もなしに突然現れ、装置の売り込みにやってくる業者の応対をしたことは何度かあったが、自分が全く逆の立場になるのはこれが初めてである。お笑いぐさだが、物々しい構えの玄関ドアに手をかけたとき、緊張のあまりがたがたと身体が震えた。
 ドアを開けたあと、どう挨拶し、何をお願いしたのかまるで記憶にない。「こちらで建築パースが必要なことはないでしょうか?」という主旨のことをたぶん口走ったはずだ。困惑気味に応対した事務員が首をかしげるのを見、「それでは何かご用がありましたらこちらに…」などと口走り、住所と名前を書いた見本のコピーを相手に渡すと、逃げるようにドアを閉めたのだった。
 外に出たあと、極度の緊張感からの解放でどっと冷や汗が噴き出し、思わずその場にへたへたと座り込みそうになった。就職活動も営業もあったものではない。これで仕事がくるとはとても思えなかった。
 家に戻ったあとも、(社長か悪くても設計担当者に会わせてもらい、ちゃんと話を聞いてもらうべきだった…)と後悔ばかりが押し寄せるが、すべて後の祭りである。

(俺はいままでいったい何をやってきたんだ…)

 会社時代はやり手の中堅社員を気取り、どこか自惚れていた私も、組織を離れてみればしょせんはただのちっぽけなヨチヨチ歩きの小僧に過ぎないのだ。そんな自嘲的な思いに私は打ちのめされていた。



開業準備本格化



 短い北の夏が訪れ、そしてあわただしく去ろうとしていた。初めての飛び込み営業で自分のふがいなさを思い知った私だったが、(ここでくじけてなるものか)と自分を叱咤し、こりずに就職活動を兼ねた飛び込み営業にいそしんだ。
 落ち着いて事情を話せば、相手もむげに門前払いすることはなく、それなりに話を聞いてくれることが分かり、私は次第に自信を取り戻して相手とも自然に話が出来るようになっていった。
「飛び込み営業の恐怖を乗り越えずに事業を始めてはならない」とあとで本で読んだが、けだし名言だと思う。飛び込み営業は単なるコネや紹介とはまるで異質の大切なものを自分に与えてくれるものだと、今になって私も強く感じる。

 だが、いくら話がスムーズになってきても、肝心の仕事のほうは就職はもちろん、単発の仕事さえ貰える気配はいつまでたってもなかった。そうこうするうち、失業保険の打ち切りの時期がいや応なく迫ってきた。職安からの仕事の紹介はもちろんない。私はいよいよ本格的な開業を決意せざるを得なかった。失業保険の打ち切りにあわせ、開業を九月上旬と決めた。
 まず名刺を作ることにした。飛び込み営業をするにも、名刺があったほうが当然格好がつく。開業案内のパンフレットとそれをダイレクトメールとして発送する封筒も必要になる。こちらのデザインにもとりかかった。
 事務所名は「アート建築工房」とかなり以前から決めていた。当時「アート引っ越しセンター」がテレビで華々しくCM活動を始めたころで、その知名度にあやかりたかったことも多少はある。芸術的な仕事をやるんだから「アート」なんだ、という気負いもあった。だが一番のねらいは、「あ」で始まる名前をつけ、目立つ名刺ケースの一番手前の場所に入れてもらうことだった。そういう話をいつか本で読んで知っていた。そんな淡い期待にすがりたかった。
「建築」は建築関係の仕事なんだよ、と相手に分からせたくて。「工房」はちんまりとした部屋の片隅でこつこつと仕事にいそしむ職人のイメージがあって好きな言葉の響きだった。総字画も41画で「男の最大幸運数」と占いの本にあり、まさにこの名前だった。



広告代理店に行きなさい



 名刺や開業案内のパンフレットのデザインはあまり古めかしくするとこちらのセンスを疑われそうだったし、かといって斬新すぎるとやや古い体質の残る地元建築業界から毛嫌いされそうなのが怖い。苦心して中間的なイメージのものを考えだし、発注することにした。
 街角の看板を頼りに、印刷関係の会社を訪問する。こうした機会も抜け目なく利用しようと考えていた私は、「こちらでこうしたものは使いませんか?」と建築パースの見本を打ち合わせの場でさり気なく取り出した。印刷会社なら、当然不動産会社からの仕事などを請け負っているはず、と考えた。
 見本をちらりと眺めた担当者は、「建築パースをウチで直接扱うことはほとんどないんですよね」と首をかしげる。

「そうなんですか?でも、こちらは印刷会社ですよね」

 相手の意外な言葉にとまどいながらも、私はあきらめなかった。度重なる飛び込み営業のせいで、私はすっかり押しが強くなっていた。
「あのですね」親切な担当者は、ある種哀れみを含んだ目で言った。
「この業界では、印刷の仕事が直接顧客からくることはまれで、ほとんどの仕事はまず顧客から広告代理店に出されるんです。次に広告プロダクションで実際の版下原稿などが作られて、最後に印刷会社にくるってのがひとつの流れですね。ウチみたいな末端の印刷会社をいくら攻めても無駄ですよ。まず広告代理店に行ってごらんなさい。元締めはそこなんですから」

 なるほど、攻め所は印刷会社ではなくて広告代理店か…。私は目からウロコの落ちる思いで話を聞いていた。開業を目前に控えていながら、恥ずかしいことに私は広告業界の仕事の流れすら把握していなかったのである。

 建築パースの仕事には大きく分けて建築ルートと広告ルートのふたつの流れがある。それくらいはさすがの私も知っていた。それまで私がねらいを絞っていたのは、もっぱら建築設計事務所か工務店、建設会社などのいわゆる「建築ルート」で、正直言って「広告ルート」は軽く考えていた。広告といっても結局仕事を出すのは建築会社なのだから、元を攻めればそれでいい、と思っていた。しかも広告ルートは、単純に印刷会社を回れば仕事にありつける、と見当違いの読みをしていたのだ。
 しかし、いったん独立となればどんなことでも無駄と考えず、まずやってみるものである。結果的に私は効率良く営業する術をここで教えられた。自分のわずかな印刷物の発注と引き換えに、ちゃっかり仕事をいただこうと思っていたこのときの少し強引で厚かましい経験が、あとで私を救うことになるのだ。